「先生?あのっ、もう大丈夫なので……腕、
離してもらえませんか?」

 これはいったい、どういう状況なのだろう?
 満留は鼓動が早なるのを感じながら、必死
に考えを巡らせる。もしかして、自分が落ち
ないようにと力を込めてくれたのだろうか?
それとも、背中を打った痛みで悶絶してい
るのだろうか?

 どちらにしても、早くこの腕を解かないと。
 そう思った時だった。

 「……離したないなぁ」

 ふいに、低くかすれた声が耳に聞こえて、
満留は息を止めた。どきんどきん、と心臓が
早鐘を打って、瞬時に頬が上気する。

 どうして、そんなことを言うのだろう?
 訳がわからないまま身体を硬くしていると、
再び同じ声音が鼓膜を震わせた。

 「……離したないわ」

 そう言って、妹崎が満留の肩に顔を埋める。
 ざりり、と、無精ヒゲがこめかみに触れる。
 満留は逃げることも、委ねることも出来な
いまま、ただ、次第に大きくなる自分の鼓動
を耳の奥で聞いていた。

 「なぁんてな」

 数秒ののち、拍子抜けするような声が聞こ
えたかと思うと、するりと満留を縛っていた
力が解かれる。そしてゆっくりと、落ちない
ように満留を階段の途中に立たせると、妹崎
は左腕を擦りながら、にぃ、と笑った。

 「冗談や。吊り橋効果試すなら、いまや思
うてな。どうやった?どきどきしとる?」

 悪戯っ子のような笑みを向けながらそんな
ことを言うので、満留は思わず口を尖らせる。

 どきどきしたままの胸と熱い頬は、吊り橋
効果が絶大であることを物語っていた。

 「もう、ふざけないでください。こんなと
ころ、誰かに見られたらどうするんですか!」

 そんなことよりも他に言うべき言葉がある
はずなのに、満留は羞恥心が先に立ってつい、
可愛げのないことを言ってしまう。けれど、
そんなことなどまったく意に介さない様子で
くつくつと笑うと、妹崎は小さく頷いた。

 「その様子なら、どこも痛ないな。まあ、
落っこちたら怪我だけじゃ済まへんから、
はよその靴は替えた方がええな」

 その言葉に、ようやく彼が自分を心配して
くれていることに気付き、満留はいまさらな
がら頭を下げる。もし、二人で階段を転げ落
ちていたらと思うと、ぞっとした。

 「あの、お礼が遅くなって、すみません。
危ないところを助けてくださって、本当にあ
りがとうございました。その……先生はどこ
も痛くないですか?」

 さっき擦っていた左腕が気になって目をや
れば、妹崎は「ああ」と肩を竦める。

 「これはアレや。肘がびりりっときただけ
やから、気にせんでええわ。それより、はよ
靴履き。肩貸したるから」

 そう言って、転がっていたパンプスを取り
に階段を下りると、すぐに戻って来て満留の
足元に置く。その様は、シンデレラに手を差
し伸べる王子様には程遠かったけれど……。
 
 見ていてなんだか胸の奥がほっこりした。