私の名前、「律子(りつこ)」は、母が付けた。旋律(せんりつ)の律。
 私の母・(れい)の実家は田舎の名家で、母はいわゆるお嬢様だった。才色兼備な上にピアノの才もあり、音大のピアノ科を優秀な成績で卒業した。結婚相手など引く手数多だったろうに、他所の大学で教鞭を取っていた少し歳の離れた男で、私の父である葉山(はやま)慎一(しんいち)と結婚した。
 
 父は寡黙な人で、家の中はいつも母を中心に回っているようだった。母の言うことにも、やることにも、文句一つ言わない父。そんな父を、母はよく「つまらない人」だと言っていた。「律子はお父さんみたいなつまらない人と結婚したら駄目よ」と散々言われたものの、私は父をつまらない人だと思ったことは一度もない。私にとっては、優しくて暖かい、大好きな父だった。
 
 母の言葉は呪いのようだと思う。
 実際、私は父とは全く似ても似つかないような夏芽と結婚したのに、彼のことを恐らく「つまらない」と思っている。つまらないから、ときめかないのだ。つまらないから、胸が高鳴らないのだ。そして彼がつまらないのは、私が愛するピアノに一切興味を示してくれないからなのだ。
 一度でいいから、一緒にピアノを聴いて、ああ、いい曲だね、だなんて言い合いたかっただけなのに。夏芽の世界では、ピアノや音楽こそが「つまらない」存在なのだという。
 
 
 母の呪いの言葉はそれだけではない。
 もう一つ、今でも私の心を刺すような言葉がある。
 
「律子なんて、いなければ良かったのに」
 
 泣きながら母にそう言われた日のことは、今でも鮮明に覚えている。秋くんがピアノのレッスンを辞めた日だった。
 どうして? と私は母に(すが)った。どうして秋くんは辞めちゃうの? どうしてもう会えないの? ねえお母さん、どうして?
 
 律子のせいよ、と母は言った。涙で真っ赤になった目で私を睨みつけ、瞬きする度にその目からはボロボロと水が溢れていた。私は、わけがわからなかった。秋くんがレッスンを辞めたのがどうして私のせいなのか、さっぱり繋がらなかったからだ。
 半狂乱になった母から私を庇い、私にわかる言葉で事情を説明してくれたのは父だった。要約すると、母と秋くんはお互いに好き合っていて、でも母には家庭があり、そういう恋はいけない恋だから、二人は別れたのだということだった。
 
「律子のせいじゃない」
 
 父はそう言って抱きしめてくれたけれど、私の頭はショート寸前だった。
 憧れの秋くんが、大好きな秋くんが、お母さんと恋人?
 お母さんはお父さんと結婚しているのに?
 私のせいで二人は幸せになれないの?
 
 どうして私はいつも、お母さんには敵わないの?
 
 あの時の父の温もりと、胸の痛み。
 忘れもしない、十歳の秋の出来事だった。