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 教室での球技大会の打ち上げを終えて校舎を出ると、外はもう真っ暗だった。空を見上げると、織姫星が宝石みたいに光っている。
「じゃあねー」
「またね」
 校門を出て、クラスメイトに手を振って、ふわふわした気分で歩いていく。アクエリアスで酔うはずないけど、そんな気分。
 藤枝さんがなぜしのと呼ばれていたのか、柊子に聞くことはできなかった。ちょうどいいきっかけがなくて、きっかけがないのに聞いてしまう勇気はなくて。
 想像だけした。──名字の藤枝に『しの』の要素はないから、下の名前が……しのぶ、とか、かな? それとも、知らない人にはわからない理由のニックネームかな。
 角を曲がって少し行くと、後ろから来た自転車が私を追い抜いた。が、追い抜いたところで自転車にブレーキをかけて、サドルに跨った男子が私をふり向く。
 拓南だった。
「乗る?」
 私の家は高校にとても近い。自転車通学の許可が出る距離じゃない。拓南も同じ家から通っている。なのに、朝練のある運動部の拓南は自転車オッケーなんて、ずるいよね──って、私、入学したての頃、拓南に文句を言ったっけ。
「うん、乗る」
 ホントは自転車ふたり乗りしちゃいけないけど。夜になると車も人もほとんど通らない道だから。
 私を荷台に乗せて、拓南の自転車が夜の道を走り出す。私の頬を滑って夜の空気が流れだす。
 楽々とペダルを踏みながら、拓南は明るい声でよくしゃべる。球技大会の男バレで学年優勝したこと、球技大会中に返ってきたテストの残念な結果のこと……。私は笑い、頷き、言葉を返す。女子バレーでの柊子の活躍、テストの点数、あさってから始まる夏休みのこと……。
「何か飲む?」
 聞かれて私は拓南の背中越しに前を見た。住宅が並ぶだけの静かな夜の道に、自販機の照明が、それだけポツンと、けれど、皓々と灯っている。
「うん、飲む」
 この前は私がおごったから、今度は拓南がおごる番だ。
 自販機の前で自転車を降りる。拓南が選んだのは微炭酸の清涼飲料水で、私はアイスミルクティー。
 プルリングを引き抜くと、拓南はごくごくと微炭酸を飲み干した。私は冷たいミルクティーをゆっくりと味わう。夜空に知っている星座を探しながら。
「美雨」
 しばらく黙っていた拓南が私を呼んだ。私は、十字に並んだ星を白鳥のかたちに結んだところだった。
「男とつきあう気、ない?」
 言葉が意味を持つまで、少しかかった。
「隅田って奴。俺と同じクラスの、サッカー部の、隅田誠。知ってるだろ?」
「知らない」
 反射的に、そう答えていた。
「俺の部屋に遊びに来たこと、あるじゃん?」
 私は手にした缶に目を落とす。『俺の部屋』って、私の家の、階段をはさんで私の部屋と向かい合わせの、拓南が使っている二階の部屋のことだけど……。
「好きなんだってさ、美雨のこと。球技大会のとき、バレーやってる美雨のこと、カワイイって、応援してた」
「……知らない」
 声が喉にからみそうになった。そんなこと、知らない。今までにも、男子に好意を示されたことはあったけれど、自分をそんなふうに見る男子の視線は苦手だった。子どもの頃、男の子たちがこっちの気持ちはお構いなしで髪をつかんできたことを思い出す感じで。
「悪いヤツじゃない。つーか、いいヤツだぞ、マジで。気が向いたら、つきあってみれば」
 そう言って、拓南は私に背を向けた。とっくに空になっていたアルミ缶をゴミかごに放り込む。
 空き缶同士のぶつかる音が、人気のない夜道に高く響いて消えた。
 私はミルクティーの残りを喉に流し込んだ。
 隅田誠くん。拓南と同じ四組の、サッカー部。───本当は、知っていた。拓南のにぎやかなサッカー仲間には珍しく、はにかむような笑い方する大人しめの男の子だ。拓南のところに遊びに来たのも、覚えている。階段ですれ違ったとき、ちょっと赤くなってペコッと頭を下げてきた。
 感じ、悪くなんかなかった。全然、悪くない。ふざけて髪をつかむ男子とは違う感じ。でも、隅田くんのことは考えられない。他のどんな男子のことも。だって、私──。
「拓南」
 アスファルトに視線を落として、囁き声で呼んだ。あの人に会ってからずっと続いている知らない気持ちが何なのか、やっと少しわかった。男子の視線は苦手。でも、球技大会のとき、私を向きそうになったあの人の視線がクラスメイトの人垣に遮られたとき、私はさみしかった。あの人の視線がほしかった。
「私、好きな人がいる」

 拓南は何も言わなかった。黙って、自転車を動かし、私の前に荷台がくるように止めた。私が荷台に座ると、拓南がぐっとペダルを踏む。
 七月の夜の空気が、昼間のほてりをとどめたまま、ふたたび私の頬を流れ出す。
 拓南は何も言わない。私も黙っている。黙って、耳の奥で自分のセリフがリフレインしているのを聞いている。

 私、好きな人がいる。私、好きな人がいる……。

 あさってから、夏休みが始まる。
 休みの間、私はあの人に会わないだろう。
 会わない人のことを考えて、私は夏を過ごすんだろう、
 ──十六歳の夏は、知らない夏。