☆
「美雨」
雨音の中、拓南のよく通る声が、投げられた小石みたいに背中に当たった。校門まであと少し、駐輪場の横を通りかかったときだった。
拓南と帰りが同じ時刻になることは、珍しい。美術部は部員ひとりひとりが作品の進み具合やそのときの気分で活動を終わりにすることが多いけれど、サッカー部はいつも学校が決めた部活終了時刻ぎりぎりまで活動しているから。
私は、きりのいいところで彩色を切り上げて、先輩たちより一足先に美術室を出たのだったけれど、今日は雨だから、サッカー部の練習も早めに終わったのかな。
私は傘を傾けて私を呼んだ声をふり返った。拓南がスポーツバッグを肩に引っ掛け、雨の中、パシャパシャと飛沫を跳ねて走ってくる。
傘は……差していない。
「入れて」
拓南は体を斜めにして、ひょい、と私の傘に潜り込み、私の手から傘を取った。あわてて見上げると、ぽたっ──雨の滴が私の頬に落ちる。拓南の短い髪はしっとりと雨に濡れていて、そこから落ちた滴だった。
「拓南、自分の傘はどうしたの?」
朝、家を出るとき、折り畳み傘を持ったはずだ。天気予報が午後から雨だから、とお母さんに渡されているのを、私、見た。
「貸した。岡野に」
岡野、というのは拓南と同じサッカー部の一年生だ。友達に親切なのはいいことだけれど。
「自分はどうするつもりだったの?」
「だって、美雨が歩いてるの、見えたもん。入れてもらえばいいと思って」
ゼンゼン悪びれない笑みを向けられて、しょうがないなあ、って感じになる私。
拓南をひと言で表現するなら、少年、だと思う。ちょっとつり気味で大きな目や、くだらない悪戯を考えているように笑う口もとなんかの見た目も……それから、中身も。
サッカーうまいし、顔立ちも悪くない。だから、小学生のときから、カッコイイとかカワイイとか、女の子たちに騒がれていた。誕生日やバレンタインのイベントに、小さなプレゼントをもらうこともよくあった。
だけど、拓南本人はそういうことに、興味なさそう。むしろ、苦手そう。中一のバレンタインによその学校の女の子からプレゼントをもらったときは、なんで他中の女子が俺にモノをくれるんだ、ドッキリか罰ゲーム的なやつじゃないか……と不安がっていた。
拓南の頭には、自分が他中の女子にまで人気がある、という考えはまったく浮かばないらしかった。知らない人に物をもらっちゃだめだよな? なんて小学校低学年みたいなことを言っていた。
女の子の気持ちなんて理解不能で、気の合う男の子同士でワイワイやることが大好きで……。
あれ? これじゃあ、少年、っていうより──ただの、ガキ? でも、私もどちらかとうと男子は苦手な方なので、拓南のことは言えないかな。お互いに男子とか女子とか気にしないでいられるところが、私たちが仲良くいられる理由のひとつかもしれない。
「自転車は?」
ちょうど駐輪場の横だったので、聞いてみた。今日の朝、拓南は自転車で家を出たのだ。
「置いてく。この雨じゃ明日は朝練ねーし、ふつーに歩いて学校に行っても授業にはよゆーで間に合うし」
ちりん──自転車のベルの音がして、
「あ、すみません」
拓南が私の肩を傘を持った手で軽く押した。
駐輪場から一台の自転車が滑り出る。私たち、駐輪場の出入り口付近に立ち止まってしまっていたのだ。ひとつの傘に入って数歩移動した私たちの横を、レインコートを着て自転車に乗った男子生徒が会釈しながら通り過ぎていく。すみません、と会釈を返そうとして──私の体が固くなった。
レインコートのフードの下からこちらを見た、鮮やかに澄んだ眼差し。
「合羽、って手もあるかあ」
通り過ぎた自転車を見送って、拓南がため息をつくように言っている。
「けど、合羽って、蒸れて暑いんだよな。どうせ、家、近いしさー……美雨?」
呼ばれて、はっとした。いつの間にかもう歩き始めていた、拓南。拓南と一緒に傘も動いて、私はひとり雨に濡れて。
「どうした?」
拓南はあわてて大きく二歩戻って、私に傘を差しかける。
私は黙って、かぶりを振った。
「何でもない」
だって、何て言っていいか、わからない。あの人とすれ違って、目が合った。向こうは私を覚えていないだろう。駐輪場を出ようとしたら邪魔になっただけの生徒。だけど、嬉しい。さっき美術室で会って、また会えた。それだけのことがどきどきするほど嬉しい。
拓南は不思議そうに私を眺め、何か思いついたように、小さく笑った。
わずかに腰を折り、私の耳に言葉を落とす。
「美雨、誕生日、おめでとう──」
私も思わず笑みをこぼしていた。拓南の無邪気な笑顔につられて。
「プレゼント、家に帰ったら渡す」
「ありがとう」
傘の中で顔を寄せ合って囁く。朝会ったとき何も言わないから、忘れていると思っていた。美術室であの人に会ったあとは、私もすっかり忘れていた。
今日は、私の、十六歳の誕生日。
「美雨」
雨音の中、拓南のよく通る声が、投げられた小石みたいに背中に当たった。校門まであと少し、駐輪場の横を通りかかったときだった。
拓南と帰りが同じ時刻になることは、珍しい。美術部は部員ひとりひとりが作品の進み具合やそのときの気分で活動を終わりにすることが多いけれど、サッカー部はいつも学校が決めた部活終了時刻ぎりぎりまで活動しているから。
私は、きりのいいところで彩色を切り上げて、先輩たちより一足先に美術室を出たのだったけれど、今日は雨だから、サッカー部の練習も早めに終わったのかな。
私は傘を傾けて私を呼んだ声をふり返った。拓南がスポーツバッグを肩に引っ掛け、雨の中、パシャパシャと飛沫を跳ねて走ってくる。
傘は……差していない。
「入れて」
拓南は体を斜めにして、ひょい、と私の傘に潜り込み、私の手から傘を取った。あわてて見上げると、ぽたっ──雨の滴が私の頬に落ちる。拓南の短い髪はしっとりと雨に濡れていて、そこから落ちた滴だった。
「拓南、自分の傘はどうしたの?」
朝、家を出るとき、折り畳み傘を持ったはずだ。天気予報が午後から雨だから、とお母さんに渡されているのを、私、見た。
「貸した。岡野に」
岡野、というのは拓南と同じサッカー部の一年生だ。友達に親切なのはいいことだけれど。
「自分はどうするつもりだったの?」
「だって、美雨が歩いてるの、見えたもん。入れてもらえばいいと思って」
ゼンゼン悪びれない笑みを向けられて、しょうがないなあ、って感じになる私。
拓南をひと言で表現するなら、少年、だと思う。ちょっとつり気味で大きな目や、くだらない悪戯を考えているように笑う口もとなんかの見た目も……それから、中身も。
サッカーうまいし、顔立ちも悪くない。だから、小学生のときから、カッコイイとかカワイイとか、女の子たちに騒がれていた。誕生日やバレンタインのイベントに、小さなプレゼントをもらうこともよくあった。
だけど、拓南本人はそういうことに、興味なさそう。むしろ、苦手そう。中一のバレンタインによその学校の女の子からプレゼントをもらったときは、なんで他中の女子が俺にモノをくれるんだ、ドッキリか罰ゲーム的なやつじゃないか……と不安がっていた。
拓南の頭には、自分が他中の女子にまで人気がある、という考えはまったく浮かばないらしかった。知らない人に物をもらっちゃだめだよな? なんて小学校低学年みたいなことを言っていた。
女の子の気持ちなんて理解不能で、気の合う男の子同士でワイワイやることが大好きで……。
あれ? これじゃあ、少年、っていうより──ただの、ガキ? でも、私もどちらかとうと男子は苦手な方なので、拓南のことは言えないかな。お互いに男子とか女子とか気にしないでいられるところが、私たちが仲良くいられる理由のひとつかもしれない。
「自転車は?」
ちょうど駐輪場の横だったので、聞いてみた。今日の朝、拓南は自転車で家を出たのだ。
「置いてく。この雨じゃ明日は朝練ねーし、ふつーに歩いて学校に行っても授業にはよゆーで間に合うし」
ちりん──自転車のベルの音がして、
「あ、すみません」
拓南が私の肩を傘を持った手で軽く押した。
駐輪場から一台の自転車が滑り出る。私たち、駐輪場の出入り口付近に立ち止まってしまっていたのだ。ひとつの傘に入って数歩移動した私たちの横を、レインコートを着て自転車に乗った男子生徒が会釈しながら通り過ぎていく。すみません、と会釈を返そうとして──私の体が固くなった。
レインコートのフードの下からこちらを見た、鮮やかに澄んだ眼差し。
「合羽、って手もあるかあ」
通り過ぎた自転車を見送って、拓南がため息をつくように言っている。
「けど、合羽って、蒸れて暑いんだよな。どうせ、家、近いしさー……美雨?」
呼ばれて、はっとした。いつの間にかもう歩き始めていた、拓南。拓南と一緒に傘も動いて、私はひとり雨に濡れて。
「どうした?」
拓南はあわてて大きく二歩戻って、私に傘を差しかける。
私は黙って、かぶりを振った。
「何でもない」
だって、何て言っていいか、わからない。あの人とすれ違って、目が合った。向こうは私を覚えていないだろう。駐輪場を出ようとしたら邪魔になっただけの生徒。だけど、嬉しい。さっき美術室で会って、また会えた。それだけのことがどきどきするほど嬉しい。
拓南は不思議そうに私を眺め、何か思いついたように、小さく笑った。
わずかに腰を折り、私の耳に言葉を落とす。
「美雨、誕生日、おめでとう──」
私も思わず笑みをこぼしていた。拓南の無邪気な笑顔につられて。
「プレゼント、家に帰ったら渡す」
「ありがとう」
傘の中で顔を寄せ合って囁く。朝会ったとき何も言わないから、忘れていると思っていた。美術室であの人に会ったあとは、私もすっかり忘れていた。
今日は、私の、十六歳の誕生日。