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 窓の外は銀色の糸のような細い雨。
 私は筆先にプルシアンブルーの水彩絵の具をたっぷりと含ませて、海のスケッチに重ねていく。海の青は深い色に、空の青は軽い色に。
 今日の放課後の美術室は、とても静かだ。ミーティングのある木曜日以外はだいたい静かなのだけど、今日は特に静か。美術室で描いているのが、三人だけだからかな。ふたりの先輩──三年の女子と二年の男子──と私だけ。
「木暮さんのカレ、なかなかヤルじゃん?」
 不意に言ったのは二年の男子の、高品先輩だった。
 カレ? 木暮って、私の? びっくりして高品先輩を見た私の胸に、なぜだか、あの人の姿が浮かんでいた。藤棚のそばで、風に飛ばされたスケッチを拾ってくれた──名前も知らないあの人。
「──この間の体力テストの高得点者、職員室前に張り出されていただろ?」
 ペィンティングオイルに溶いた油絵の具の色を矯めつ眇めつ、高品先輩が続ける。
「すごいよなー。満点だもんな。さすがサッカー部の期待のルーキーだけあるよな。中学のとき、県選抜のエースストライカーだったんだって?」
 サッカー部の期待のルーキー。県中学選抜のエースストライカー。
 ……なあんだ、と思った。私が髪の色以外でムダに目立ってしまう、もうひとつのことだ。
 ほら、あの子が浅羽拓南のカノジョだよ、って。
「浅羽拓南(たくみ)のことですか?」
 一応、確認した。高品先輩が頷くのはわかっていたけれど。
 でも、浅羽拓南は私のカレじゃない。拓南は私の……なんて言うのだろう? 義理の従兄弟? 私のお母さんのお兄さんの奥さんの妹が、拓南のお母さんで。
 血はつながっていないけれど、親戚。そして、家が近所で、保育園に入る前からの幼馴染み。さらに、お母さん同士が高校の部活の先輩後輩になるとかで、たぶんそれがいちばんの理由で、家族ぐるみで仲がいい。春はお弁当を持ってお花見、夏は拓南の家の広い庭でバーベキュー。冬は一緒にクリスマスイルミネーションを見に出かけて、年が明けたら初詣。
 ふたつの家族の仲の良いおつきあいは、拓南と私がもの心つくずっと前から始まっていて、私たちが中学生になっても変わらなかった。拓南と私は、お父さんとお母さんがふたりずついるふたごのきょうだいみたいに育ったのだ。
 今年の三月、浅羽夫妻が仕事で台北に赴任した。城東高校に進学が決まっていた拓南は日本に残ることになって、当然のように私のうちの二階に下宿することになった。親戚とはいえ、血のつながっていない十代の男女がひとつ屋根の下に暮らすことになることに、何かヘンなこと心配するヒトもいたみたいだけど。
 拓南と私は何も心配していなかった。そして、どちらの親も、『まあ拓南なら』『美雨ちゃんなら』『心配ないと思うし』『ていうか、むしろ何かあってもオッケーかな』『うちもふたりの結婚には大賛成よ』なんて冗談を言い合って笑っていた。
 実際、拓南が同居を始めて三ヶ月以上が過ぎたけれど、『おはなし』のようなことは何も起こっていない。
 同居する以前から、遊びに来た拓南が夕飯も食べていくことはよくあった。次の日が休みのときは、夜遅くまで一緒に宿題やゲームをやって、そのまま泊まっていくこともあった。
 それが毎日なんとなく続いている感じだ。
「拓南はカレじゃないです」
 私が高品先輩にそう言うと、
「でも、美雨と浅羽くんって、仲良しだよね」
 三年の佐倉先輩が、下塗り中のカンバスから、くるり、と体ごとこちらを向いて、おしゃべりに加わった。
 六月の学校祭が終わると文化部の三年生は部活を引退するのが一般的なのだけど、美術部には毎年秋まで残る三年生がいる。理由は、十月の後半に市内の書店のギャラリーで開かれるクラブ展だ。引退しないで残った三年生たちは、受験勉強の妨げにならないくらいのペースで作品を描いて出展し、クラブ展が終わってから、引退する。
 佐倉先輩はその何人か残った三年生の中のひとりだ。ぱっと人目を引く派手な美人ではないけれど、ちょっとハカナゲに微笑むきれいな人だ。佐倉花織──サクラ、カオリ、という名前の響きが先輩の雰囲気にとても合っている。すべすべの長い黒髪を、今は作業の邪魔にならないようにきちんとひとつに束ねていた。
「実はね、私のクラスに、美雨ファンの男子がいるんだよ? 今年の新入生に可愛いコがいる! って。でも、美雨には浅羽くんがいて、がっかりしてた」
 微笑む佐倉先輩の口から出たのは、悪意のカケラもない、温かく見守ってくれているって感じのからかいだから。
「拓南とは、全然、そんなんじゃないんですよ?」
 私も笑って答えを返す。──仲良しなのは本当だ。拓南が朝練のないときは一緒に学校に行くし、教科書を忘れると私のところに借りに来る。たまには映画を観に行ったりもする。──映画のタイトルはゴジラとかだけど。
「拓南は、親戚だし、保育園に入る前からいつも一緒に遊んでいたし、お互いにひとりっ子だから、ほんとに、きょうだいと同じで……」
 唇はしゃべり馴れた言葉を滑らかに紡いでいる。けれど──。
 心のどこかがぎこちなく揺れていた。カレ、という言葉に反応して鮮やかに思い浮かんでしまった、あの人の姿が心の中からまだ消えない。額に落ちた髪は黒くて、さらさらと風に揺れていた。硬質なラインの後ろ姿が、とても端正な感じがした。私を見た瞳は鮮やかに澄んでいて……。
 美術室の古いドアがきしむ音がした。開いたドアに何気なく目をやって、私は息が止まりそうになる。
「佐倉」
 低い、少しかすれた声が呼ぶか呼ばないか、佐倉先輩が椅子から立ち上がっていた。燕が飛び立つような動作だった。開いたドアの方へと、きゃしゃな体をきゅっとひねったとき、束ねた長い髪が私の顔のすぐそばでしなやかに揺れた。
 そばに来た佐倉先輩とふたこと、みこと、何か話して、その人はすぐにドアを閉めた。私の頭には廊下を去っていくその人の後ろ姿が浮かんでいて。
 カンバスの前に戻った佐倉先輩は、私と視線が合うと、可笑しそうな顔をした。私、きっとポカンとしていたんだと思う。
「同じクラスのひと」
 小さく言って、佐倉先輩はふうわりと笑った。輝く何かが内側からこぼれるような笑みだった。

 そうなんだ、と思った。
 ひとつわかった、あの人のこと。
 あの人は、佐倉先輩と同じクラスの人。
 たったそれだけのことを、そっと、心に折りたたむ。