春だった。
私は空が暮れていくのをぼんやりと眺めている。藤棚の下のベンチに座り、スケッチブックと画材を傍らに置いて。
今日から三年生になったというのが、とても不思議な気分だった。一年生のとき、見上げるような気持ちで憧れていたあの人たちと同じ学年になることが。
あれから──佐倉先輩は地元の専門学校に進んだ。介護士の資格が取れる学校だ。部の先輩後輩としてのつながりは、まだある。去年のクラブ展も見に来てくれた。
佐倉先輩がクラブ展に来てくれたとき、私は愛ちゃんとふたりで受付をしていた。黒のスキニーにゆったりしたニットを合わせて、長かった髪は肩で切り揃えられていた。高校生のときから落ち着いて大人っぽい雰囲気の人だったけれど、本当に大人になっている感じがした。そして、佐倉先輩の横には、私の知らない男の人がいた。静かな声で話す、メガネの似合う人だった。
専門学校の同級生なの──佐倉先輩は彼を私たちにそう紹介した。ふたりが受付を通り過ぎてから、愛ちゃんが、佐倉先輩らしいカレだね、と私の耳に囁いた。そのとき胸が痛かったのは、きっと、私の感傷なのだ。佐倉先輩がその人と話す声も、交わす笑みも、とても穏やかだったから。
藤枝さんと川崎さんの進路を、私は知らない。柊子は部の先輩に聞いて知っているみたいだけど、何も言わない。私も尋ねない。
柊子は、最近、男バスの一年後輩とつきあいはじめた。実は、入部してきたときから気になっていた後輩なんだそうだ。川崎さんに少し似ていたから。なので、その後輩くんに告白されたとき、柊子は悩んで、私に言った。彼のことは気になっている。でも、それは、川崎さんに似ているから。そんな気持ちで彼とつきあってもいいのかなあ。
私は、いいと思う、と答えた。柊子がその後輩くんを好きなら。
悩んだ柊子は、正直に後輩くんに告げた。──君のことは気になっている。でも、君が私の初恋の人に似ているからかもしれない。
すると、後輩くんはきょとんとして──そんなことを言うなら、先輩も俺の初恋の幼稚園の先生に似てるんだけど──と、返してきたそうだ。
──似てるから好きなんじゃなくて、単に好みのタイプが変わらないだけじゃないですか? ていうか、それってつまり、俺が先輩のストライクゾーンだってことでいい?
それで柊子は笑ってしまい、そのあと少しだけ泣いて、後輩くんとつきあうことを決めたそうだ。
一年生のとき拓南を通して私を好きだと言ってくれた隅田くんは、サッカー部のキャプテンになっている。優しくて面倒見がいいところが、ふたりの女マネの両方に好感度抜群で、難しい状況に置かれているらしい。
モテるのも大変なんだな、と拓南は気の毒そうに言っていた。自分にもファンがいることには相変わらず気づいていないようだ。バレンタインのチョコレートもハロウィンに配られるお菓子みたいな受け取り方をする。でも、ファンの子たちはそれでいいらしい。『カノジョ』のいる人に渡すんだから、そんな軽い感じでもらってくれるのがいいらしい。
幼馴染みがカレカノになるプロセスを拓南と私で楽しく観察しようとしていた愛ちゃんは、
『えっ、いつの間にそうなっちゃったの?』
と、驚きあわてていた。ふたりの間にドラマティックな事件が起こってからのー……いろいろあってカレカノになると、期待していたんだそうだ。肝心なところを見逃してしまったのね、ってがっかりしていた。
ドラマティックな事件は、見逃されたのではなく、起こらなかっただけなのだけど。
愛ちゃんの目を、おおっ、と丸くするような事件は、何も起こらなかった。夜から朝へ、昼から宵へ、時刻が進むと空の色が変わるように、拓南と私の間の空気が色彩を変えただけ。
私はベンチに座ったまま空を見上げた。空は、少しずつ、柔らかなオレンジに染まっていく。辺りの空気が金の紗をふわりと被く。ふもとの菜の花畑がセピアにかすむ。
あの人のことは、今もときどき思い出す。金木犀が香る季節には、特に。街や校舎を包む香りに、色褪せた青いベンチに散っていったオレンジの花の匂いが強く重なる。
藤枝……の下の名前は知らないままだ。恋をしていたときは、本人に直接尋ねるきっかけがうまくつかめないで終わったし、柊子に教えてもらうのにちょうどいい機会もなかった。恋が終わったあとは、柊子に改めて確かめようとは考えなかった。
しの、と呼ばれていたから、しのぶ、じゃないかな。漢字はわからない。──それでいい気がする。私にとってのあの人は、そういう人。
触媒のような人だった、と思う。私に出会ったことで、あの人自身は何も変わらなかった。言葉にした私の気持ちすら素通りして去っていった。十年後には私の名前も覚えていないかもしれない。もしも私を思い出すことがあっても、私は、あの人たちの物語の最終章だけを通り過ぎるエキストラ。
私だけが変わった。私はそれまで知らなかった感情を知って、いくつかのことに気がつくことができた。心の奥に眠っていた大切なものにも。
あの秋から、私は髪を伸ばし始めた。色素の薄い髪は、今では肩の下まで波打って、風に遊ばれる毛先はお日さまの下で鈍い金色に透ける。初めて会う人は、驚いたような、戸惑ったような顔をする。でも、染めているわけじゃないとわかると、きれいな色だね、と言ってくれて、私は微笑む。
軽く息をついて、私はオレンジピンクの空からベンチの下の坂道に視線を落とした。
もうすぐ、拓南がここに来る。今日のサッカー部の活動はミーティングだけなので、一緒に帰る約束をした。ミーティング終わった──と、さっきスマホにメッセージが入ったところだ。
──画材、すぐ片づけるね
──迎えに行くよ
二年の夏休みに両親が海外赴任から戻って、拓南は自分の家に帰った。でも、拓南が使っていた部屋はそのままになっている。勉強机もベッドも。壁のカレンダーもあの年の七月のまま。
自分の家に戻ったあとも、拓南はよく私の家に遊びに来る。『自分の』部屋に泊まっていくこともある。
この間、お父さんとお母さんがキッチンで──このまま拓南がうちのムコに来てくれないかな、でも拓南もひとりっ子だしねえ──なんて真面目半分、冗談半分に話し合っているのを立ち聞きして、こっそり笑ってしまった。
私が拓南の家に行くことも多い。泊まることはないけれど、お夕飯をごちそうになることはある。拓南の家は広い庭があって、夏の週末にはふた家族でバーベキューをする子どもの頃からの習慣も、拓南の両親が帰国して復活した。
もしかしたら、拓南のお父さんとお母さんもうちの親と似たようなことを話しているかもしれない──なんて想像して、拓南に話したら、笑っていた。
話しているそうだ。
どちらにしろ、家はすぐ近くなので、私たちは時間が合えば待ち合わせて一緒に登下校する。
拓南のカノジョ、と呼ばれることを、私は一年の秋から否定しなくなった。ほうら、やっぱり───という棘のある視線は、知らんふりした。ぶりっこ、の悪口は続いたけれど、何だか悔しそうな言い方になっていて、ちょっと可笑しかった。あんなぶりっこに騙されるんだから男ってバカだよね、なんて拓南まで悪く言われていた。
女子同士の水面下にびしばし飛び交う感情のあれこれに疎い拓南は、もちろん、何も気づいていない。一年の秋のケガは順調に治って、生活の真ん中は部活動で、部活やクラスの男子仲間と仲良くて、屈託なく私に話しかける。
しばらく熱心に『女を見る目がない』拓南の悪口を語り合っていた女の子たちは、いつの間にかまた拓南を応援していた。やっぱりかっこいいよね、って。私は嫌われたままだったけれど、陰口は平気になっていた。ぶりっこのヒールって、面白いかも。
でも、彼女たちの『一緒に暮らすうちにできちゃったんじゃない?』なんて勘ぐりは、外れ。私のうちに下宿していた間、拓南は私とキスもしていない。
初めてしたのは、つい先日。終わったばかりの春休み。
場所は、私の家の『拓南の部屋』だった。
部活がオフで、拓南がゲーム機を持って遊びに来たときのことだ。ベッドを背もたれにして床に並んで座り、ペアを組んでネット上の知らない誰かと対戦した。勝って、はしゃいで、ふと会話が途切れたとき、私は思い出す。──十六歳の秋に、ここで拓南と、私たちはきょうだいじゃない、という話をしたこと。そのとき私は、ずっと拓南のそばにいたい、と思ったのだ。
拓南もそのときのことを思い出したのかもしれない。壁にかかった二年前の七月のカレンダーにしばらく目をとめたあと、唐突に、そういえば、昔、美雨が言ってた好きな人ってどうなった? と聞いてきた。
とっくに失恋したよ? あのあとすぐ──と、笑ったら、黙って私を見つめ、あの日と同じように指先で私の頬に触れた。けれど、あの日のようにその手を握り込むのではなく、私の首の後ろに滑らせた。
そして、私は目を閉じた。互いにきゅっと結んだ唇を重ねるだけの、何かの儀式のようなキスだった。それで、目を開けた私たちは顔を見合わせて笑ってしまい、もう一度目を閉じて、もっと柔らかな二度目のキスをした。
私たちは、そうなることを、決めたのだ。五歳の春に別れを告げて。
「美雨」
拓南が私を呼ぶ声がした。藤棚の下の小道を上がってくる。私を見上げて、笑う。
少年、という言葉はもう彼の姿にそぐわない。五月には私より一足先に十八歳の誕生日を迎える彼の、顔つきも体の線も、男、という言葉の方がしっくりする。
けれど、私を見る瞳がまっすぐなのは、小さなときから今もそのまま変わらない。
藤棚のそばまで来た拓南は、
「何、描いてた?」
と、私に聞く。
「夕暮れ」
「なんか、いつも、夕暮れ描いてね?」
その通りで、苦笑する。
相変わらず、私の夕暮れの絵は完成しない。挑戦はするのだけれど、やはり途中で筆を止めてしまう。
それでも、今度こそ描けそうな気がしていた。心の中であの夕暮れを思い浮かべるとき、遠くから眺めるような気持ちになってきたから。それを静かに受け入れられるようになったから。
「覚えてるかなあ」
ふと、拓南に話したくなった。
「保育園の頃、ふたりで迷子になったこと、あったでしょ? そのときに見た夕暮れの景色が、ここから見る夕暮れに、すごく似てるんだよ」
え? ──と、拓南は尋ね返すような顔をした。
だからね……と私がもう一度詳しく説明するより早く、ほんの一瞬の考え込むような素振りのあとに、拓南は言った。
「だって、それ、ここだろ?」
「え?」
今度は私が聞き返す。
俺も覚えてなかったけど、と前置きして、拓南は語った。城東高校に進学が決まったとき、お母さんがしみじみと言った言葉を──迷子になったときに見つかった高校に、ふたりそろって行くなんて、縁があったってことかしらねえ。
「ここで見つかった? あのとき? 私たち?」
「──だってさ。俺も全然覚えてないけど」
さっきまでぼんやりと眺めていた風景を、私はふり返った。
空は柔らかなオレンジ。薄紫の細い雲の端もオレンジピンクに照り映える。ふもとにはセピアにかすんだ菜の花。大気は金の紗に透けて。
ここ、だった……?
「そんなにびっくりした?」
拓南がそんな私を見て笑う。
「俺も、それ聞いたときは、びっくりしたけどさ──帰ろう」
私は拓南に視線を戻した。差し出された拓南の手に、自分の手をのせて立ち上がる。
並んで小道を下りながら、他愛ないことを話して他愛なく笑う私たちを、春の夕暮れの空気が包んでいる。
五歳の春の魔法は解けてしまったけれど。
私は拓南と、幾つもの新しい夕暮れを、夜を、夜明けを見つけていけるだろう。思い出と呼ぶにはまだ痛い、十六歳の日を心に刻んで。
私は空が暮れていくのをぼんやりと眺めている。藤棚の下のベンチに座り、スケッチブックと画材を傍らに置いて。
今日から三年生になったというのが、とても不思議な気分だった。一年生のとき、見上げるような気持ちで憧れていたあの人たちと同じ学年になることが。
あれから──佐倉先輩は地元の専門学校に進んだ。介護士の資格が取れる学校だ。部の先輩後輩としてのつながりは、まだある。去年のクラブ展も見に来てくれた。
佐倉先輩がクラブ展に来てくれたとき、私は愛ちゃんとふたりで受付をしていた。黒のスキニーにゆったりしたニットを合わせて、長かった髪は肩で切り揃えられていた。高校生のときから落ち着いて大人っぽい雰囲気の人だったけれど、本当に大人になっている感じがした。そして、佐倉先輩の横には、私の知らない男の人がいた。静かな声で話す、メガネの似合う人だった。
専門学校の同級生なの──佐倉先輩は彼を私たちにそう紹介した。ふたりが受付を通り過ぎてから、愛ちゃんが、佐倉先輩らしいカレだね、と私の耳に囁いた。そのとき胸が痛かったのは、きっと、私の感傷なのだ。佐倉先輩がその人と話す声も、交わす笑みも、とても穏やかだったから。
藤枝さんと川崎さんの進路を、私は知らない。柊子は部の先輩に聞いて知っているみたいだけど、何も言わない。私も尋ねない。
柊子は、最近、男バスの一年後輩とつきあいはじめた。実は、入部してきたときから気になっていた後輩なんだそうだ。川崎さんに少し似ていたから。なので、その後輩くんに告白されたとき、柊子は悩んで、私に言った。彼のことは気になっている。でも、それは、川崎さんに似ているから。そんな気持ちで彼とつきあってもいいのかなあ。
私は、いいと思う、と答えた。柊子がその後輩くんを好きなら。
悩んだ柊子は、正直に後輩くんに告げた。──君のことは気になっている。でも、君が私の初恋の人に似ているからかもしれない。
すると、後輩くんはきょとんとして──そんなことを言うなら、先輩も俺の初恋の幼稚園の先生に似てるんだけど──と、返してきたそうだ。
──似てるから好きなんじゃなくて、単に好みのタイプが変わらないだけじゃないですか? ていうか、それってつまり、俺が先輩のストライクゾーンだってことでいい?
それで柊子は笑ってしまい、そのあと少しだけ泣いて、後輩くんとつきあうことを決めたそうだ。
一年生のとき拓南を通して私を好きだと言ってくれた隅田くんは、サッカー部のキャプテンになっている。優しくて面倒見がいいところが、ふたりの女マネの両方に好感度抜群で、難しい状況に置かれているらしい。
モテるのも大変なんだな、と拓南は気の毒そうに言っていた。自分にもファンがいることには相変わらず気づいていないようだ。バレンタインのチョコレートもハロウィンに配られるお菓子みたいな受け取り方をする。でも、ファンの子たちはそれでいいらしい。『カノジョ』のいる人に渡すんだから、そんな軽い感じでもらってくれるのがいいらしい。
幼馴染みがカレカノになるプロセスを拓南と私で楽しく観察しようとしていた愛ちゃんは、
『えっ、いつの間にそうなっちゃったの?』
と、驚きあわてていた。ふたりの間にドラマティックな事件が起こってからのー……いろいろあってカレカノになると、期待していたんだそうだ。肝心なところを見逃してしまったのね、ってがっかりしていた。
ドラマティックな事件は、見逃されたのではなく、起こらなかっただけなのだけど。
愛ちゃんの目を、おおっ、と丸くするような事件は、何も起こらなかった。夜から朝へ、昼から宵へ、時刻が進むと空の色が変わるように、拓南と私の間の空気が色彩を変えただけ。
私はベンチに座ったまま空を見上げた。空は、少しずつ、柔らかなオレンジに染まっていく。辺りの空気が金の紗をふわりと被く。ふもとの菜の花畑がセピアにかすむ。
あの人のことは、今もときどき思い出す。金木犀が香る季節には、特に。街や校舎を包む香りに、色褪せた青いベンチに散っていったオレンジの花の匂いが強く重なる。
藤枝……の下の名前は知らないままだ。恋をしていたときは、本人に直接尋ねるきっかけがうまくつかめないで終わったし、柊子に教えてもらうのにちょうどいい機会もなかった。恋が終わったあとは、柊子に改めて確かめようとは考えなかった。
しの、と呼ばれていたから、しのぶ、じゃないかな。漢字はわからない。──それでいい気がする。私にとってのあの人は、そういう人。
触媒のような人だった、と思う。私に出会ったことで、あの人自身は何も変わらなかった。言葉にした私の気持ちすら素通りして去っていった。十年後には私の名前も覚えていないかもしれない。もしも私を思い出すことがあっても、私は、あの人たちの物語の最終章だけを通り過ぎるエキストラ。
私だけが変わった。私はそれまで知らなかった感情を知って、いくつかのことに気がつくことができた。心の奥に眠っていた大切なものにも。
あの秋から、私は髪を伸ばし始めた。色素の薄い髪は、今では肩の下まで波打って、風に遊ばれる毛先はお日さまの下で鈍い金色に透ける。初めて会う人は、驚いたような、戸惑ったような顔をする。でも、染めているわけじゃないとわかると、きれいな色だね、と言ってくれて、私は微笑む。
軽く息をついて、私はオレンジピンクの空からベンチの下の坂道に視線を落とした。
もうすぐ、拓南がここに来る。今日のサッカー部の活動はミーティングだけなので、一緒に帰る約束をした。ミーティング終わった──と、さっきスマホにメッセージが入ったところだ。
──画材、すぐ片づけるね
──迎えに行くよ
二年の夏休みに両親が海外赴任から戻って、拓南は自分の家に帰った。でも、拓南が使っていた部屋はそのままになっている。勉強机もベッドも。壁のカレンダーもあの年の七月のまま。
自分の家に戻ったあとも、拓南はよく私の家に遊びに来る。『自分の』部屋に泊まっていくこともある。
この間、お父さんとお母さんがキッチンで──このまま拓南がうちのムコに来てくれないかな、でも拓南もひとりっ子だしねえ──なんて真面目半分、冗談半分に話し合っているのを立ち聞きして、こっそり笑ってしまった。
私が拓南の家に行くことも多い。泊まることはないけれど、お夕飯をごちそうになることはある。拓南の家は広い庭があって、夏の週末にはふた家族でバーベキューをする子どもの頃からの習慣も、拓南の両親が帰国して復活した。
もしかしたら、拓南のお父さんとお母さんもうちの親と似たようなことを話しているかもしれない──なんて想像して、拓南に話したら、笑っていた。
話しているそうだ。
どちらにしろ、家はすぐ近くなので、私たちは時間が合えば待ち合わせて一緒に登下校する。
拓南のカノジョ、と呼ばれることを、私は一年の秋から否定しなくなった。ほうら、やっぱり───という棘のある視線は、知らんふりした。ぶりっこ、の悪口は続いたけれど、何だか悔しそうな言い方になっていて、ちょっと可笑しかった。あんなぶりっこに騙されるんだから男ってバカだよね、なんて拓南まで悪く言われていた。
女子同士の水面下にびしばし飛び交う感情のあれこれに疎い拓南は、もちろん、何も気づいていない。一年の秋のケガは順調に治って、生活の真ん中は部活動で、部活やクラスの男子仲間と仲良くて、屈託なく私に話しかける。
しばらく熱心に『女を見る目がない』拓南の悪口を語り合っていた女の子たちは、いつの間にかまた拓南を応援していた。やっぱりかっこいいよね、って。私は嫌われたままだったけれど、陰口は平気になっていた。ぶりっこのヒールって、面白いかも。
でも、彼女たちの『一緒に暮らすうちにできちゃったんじゃない?』なんて勘ぐりは、外れ。私のうちに下宿していた間、拓南は私とキスもしていない。
初めてしたのは、つい先日。終わったばかりの春休み。
場所は、私の家の『拓南の部屋』だった。
部活がオフで、拓南がゲーム機を持って遊びに来たときのことだ。ベッドを背もたれにして床に並んで座り、ペアを組んでネット上の知らない誰かと対戦した。勝って、はしゃいで、ふと会話が途切れたとき、私は思い出す。──十六歳の秋に、ここで拓南と、私たちはきょうだいじゃない、という話をしたこと。そのとき私は、ずっと拓南のそばにいたい、と思ったのだ。
拓南もそのときのことを思い出したのかもしれない。壁にかかった二年前の七月のカレンダーにしばらく目をとめたあと、唐突に、そういえば、昔、美雨が言ってた好きな人ってどうなった? と聞いてきた。
とっくに失恋したよ? あのあとすぐ──と、笑ったら、黙って私を見つめ、あの日と同じように指先で私の頬に触れた。けれど、あの日のようにその手を握り込むのではなく、私の首の後ろに滑らせた。
そして、私は目を閉じた。互いにきゅっと結んだ唇を重ねるだけの、何かの儀式のようなキスだった。それで、目を開けた私たちは顔を見合わせて笑ってしまい、もう一度目を閉じて、もっと柔らかな二度目のキスをした。
私たちは、そうなることを、決めたのだ。五歳の春に別れを告げて。
「美雨」
拓南が私を呼ぶ声がした。藤棚の下の小道を上がってくる。私を見上げて、笑う。
少年、という言葉はもう彼の姿にそぐわない。五月には私より一足先に十八歳の誕生日を迎える彼の、顔つきも体の線も、男、という言葉の方がしっくりする。
けれど、私を見る瞳がまっすぐなのは、小さなときから今もそのまま変わらない。
藤棚のそばまで来た拓南は、
「何、描いてた?」
と、私に聞く。
「夕暮れ」
「なんか、いつも、夕暮れ描いてね?」
その通りで、苦笑する。
相変わらず、私の夕暮れの絵は完成しない。挑戦はするのだけれど、やはり途中で筆を止めてしまう。
それでも、今度こそ描けそうな気がしていた。心の中であの夕暮れを思い浮かべるとき、遠くから眺めるような気持ちになってきたから。それを静かに受け入れられるようになったから。
「覚えてるかなあ」
ふと、拓南に話したくなった。
「保育園の頃、ふたりで迷子になったこと、あったでしょ? そのときに見た夕暮れの景色が、ここから見る夕暮れに、すごく似てるんだよ」
え? ──と、拓南は尋ね返すような顔をした。
だからね……と私がもう一度詳しく説明するより早く、ほんの一瞬の考え込むような素振りのあとに、拓南は言った。
「だって、それ、ここだろ?」
「え?」
今度は私が聞き返す。
俺も覚えてなかったけど、と前置きして、拓南は語った。城東高校に進学が決まったとき、お母さんがしみじみと言った言葉を──迷子になったときに見つかった高校に、ふたりそろって行くなんて、縁があったってことかしらねえ。
「ここで見つかった? あのとき? 私たち?」
「──だってさ。俺も全然覚えてないけど」
さっきまでぼんやりと眺めていた風景を、私はふり返った。
空は柔らかなオレンジ。薄紫の細い雲の端もオレンジピンクに照り映える。ふもとにはセピアにかすんだ菜の花。大気は金の紗に透けて。
ここ、だった……?
「そんなにびっくりした?」
拓南がそんな私を見て笑う。
「俺も、それ聞いたときは、びっくりしたけどさ──帰ろう」
私は拓南に視線を戻した。差し出された拓南の手に、自分の手をのせて立ち上がる。
並んで小道を下りながら、他愛ないことを話して他愛なく笑う私たちを、春の夕暮れの空気が包んでいる。
五歳の春の魔法は解けてしまったけれど。
私は拓南と、幾つもの新しい夕暮れを、夜を、夜明けを見つけていけるだろう。思い出と呼ぶにはまだ痛い、十六歳の日を心に刻んで。