☆
藤枝さんに会いたい。
柊子は泣きやむと、ひとりで家に帰った。家まで送ろうかと言ったけれど、柊子はひとりで帰りたいと、私の申し出を断った。駐輪場まで一緒に歩いて、柊子が自転車に乗って校門を出ていくのを、見送った。
駐輪場にひとり残されたわたしは、藤枝さんに会いたいと、強く思った。
腕時計を見る。美術部の話し合いはもう終わっただろうか。愛ちゃんに確認しようとスマホをポケットから出したら、愛ちゃんのほうから連絡を入れてくれてあった。
──部活、終わったよ。みんな帰った。さっきの、二組の吉川さんだよね。何があったのかむっちゃ知りたいけど、別に話さなくていいからねー
ありがとう、とだけ返信して、私は駐輪場の中を移動する。一年生の駐輪スペースから、三年生の──三年五組のスペースへ。自転車はまだ何台か残っていた。全部男物だったけれど、藤枝さんのものかどうかはわからない。自転車には校名と出席番号を記したステッカーが貼ってあるけれど、私はあの人の出席番号を知らない。
……そういえば、下の名前もまだ知らないんだ、と今さら気づく。何回か話して、フリースローも教えてもらって、少しは親しくなったような気がしていたけれど、名字しか知らない人なんだ。
でも、会いたい。もし、まだ校内にいるとしたら、あの人はどこにいるだろう。
考えて、他に思いつく場所もなくて、私は丘の小道を上っている。
傾いた秋の日が、私の背中を押している。
会ってどうしようという考えはなかった。だって、会えるかどうかもわからない。偶然でしか会えない人だもの。会えたら嬉しくて、会えなかったらさみしい人。
でも、あの古いコートに行けば、あの人の気配は感じられるような気がした。私にフリースローを教えてくれたあの人を思い出すためじゃない。ひとりで、仲間たちと、バスケットボールで遊んでいるあの人を想像して、感じて、自分の気持ちの行き先を確かめたかった。
木立が開け、古いバスケットコートが近づく。
金網のフェンスの向こうのコートには、誰もいなかった。私はうつむいてため息を落とす。
うん、そんなものだよね。
それから、金木犀の匂いのする空気を胸に吸い込んだ。目を閉じて、コートを走るあの人を思い描く。仲間たちと楽しそうにバスケをしているところがいいな。声をかけあってパスを回して。シュートを打つまでは真剣な顔。ボールがバサッとネットを割ると、笑顔になって、仲間とハイタッチ。
現実のバスケットコートは、しん、と静かで……。
最初は、風が葉を揺らす音かと思った。それ程低い声だった。男の人の話し声だと気づいて、私はぱっと目を開く。
誰か、男の人の……少しかすれた低い声?
胸がきゅっと締めつけられた。もしかしたら……まさか……そんな言葉を心の中で呟きながら、その声の密やかな気配に自然と足音を忍ばせて、私はフェンスづたいに声のする方へと進んでいく。
木立ちの緑のすき間から藤枝さんの横顔が見えたとき、私はもう少しで声をかけるところだった。偶然会えたらとても嬉しい人がそこにいて。
けれども、藤枝さんは、ひとりではなかった。
向き合って立っている──川崎さん。
とっさに葉を繁らせた潅木の陰にしゃがみ込んでしまった。だって、さっきやっと泣き止んで帰った柊子は、私のために川崎さんと言い合いをしたのだ。見つかるのは気まずくて、少し怖い。写真のことも、あるし。
だけど、すぐに気づいた。──いけない、このままここにいたら盗み聞きになってしまう。
来たときよりも息をひそめ、そっと立ち去ろうとしたのだけれど。
「たかがフリースローを教えたくらいで、何をムキになってるんだ?」
藤枝さんの声に体がすくんだ。ううん、言葉に。──フリースロー。教えた。
えっ、それ、私のこと?
「だから、なんでわざわざおまえに頼むんだ? 女バスに友達がいるのに?」
「そんなの、たまたま俺が通りかかって、話したことあるし、佐倉と知り合いだし、気安かったんだろ」
「へえ」
「逆に俺だって、絵を描いているところにあの子が通りかかったら、アドバイスもらうぞ?」
川崎さんは鼻で笑ったようだった。
「実は、おまえも嬉しかった? 結構かわいい子で」
「正臣──」
「けど、あの一年、サッカー部の一年とできてんだ。抱き合ってたんだ、ホラ、ちょうどそこだよ。そのフェンスのところで……」
「よせよ」
「嘘じゃない」
「──らしくねえんだよ。サッカー部の一年って、浅羽ってやつだろ? つきあってるんだろ? いいじゃないか、そのくらい。それをわざわざそんなふうに言うな。おまえ、そんなやつじゃないだろう」
短くて、重い、間があった。
そして、トーンを弱めた川崎さんの声がした。
「……あの一年の女子が関係ないなら、なぜ佐倉とだめなんだ?」
「佐倉に対してそういう気持ちがないから。それだけだ。あの一年生は関係ない。当たるな。可哀相だ」
そう言ったあと、藤枝さんは淡々とした声でつけくわえる。
「おまえ、そんなつまらないことをするより、自分の気持ちを佐倉に言えよ」
川崎さんが応えるまで、少し間があった。
「……言ったら、佐倉が困るだろう……」
「なんでそう決めつけるんだ?」
今度はいつまでたっても川崎さんの返事はなかった。
やがて一人が、そしてもう一人が立ち去る足音が聞こえた。私は緑の陰で膝を抱えて体を丸め、すべてをただ聞いていた。
地面に落とした視線の先で、オレンジ色の金木犀の花が、二つ、三つ、土の上で甘い匂いを放っていた。
心に霞がかかっている。何も考えられないみたいな。そのくせ心のいちばん底は、とても静かに冷たく澄んでいるような。
藤棚のベンチに腰掛けて、私は空に広がる夕焼けを見ている。
空にはひとつの雲もない。真っ赤な空にあるのは、白い星がひとつ。
同じ場所なのに、春の柔らかな夕暮れとはまったく違う景色が目の前にある。すべてのものの輪郭をくっきりと照らし出す、峻烈な秋の夕日。
柊子に教えてもらった物語のあらすじは、とても単純ではっきりしていた。
川崎さんは佐倉先輩が好き。佐倉先輩の気持ちは藤枝さんに向いている。そうして、藤枝さんは──。
いろいろな事柄がひとつずつ、音もなく、心の底に沈んでいく。いろんな想いがごちゃまぜだった心が、透明になっていく。
川崎さんが私を嫌悪していたわけ。柊子にあんなことを言ったわけ。
泣いた柊子。川崎さんが好きだった柊子。今でも好きだと言った柊子。
藤枝さんにとても会いたかった私。あの春の夕暮れを思い出して、拓南を抱きしめた私。 傷ついた目をして私を抱いた拓南。
私を──好きだと言ってくれた、隅田くん。拓南を通して私の気持ちを聞いただろうに、何も変わらなかった隅田くん。
描きたいひとがいる、と言っていた佐倉先輩が描いた、深いグリーンの森。
夕焼けの赤が、目のふちで不意に滲んだ。風景は涙に滲んでぼやけていくけれど。
いろんなものが、初めてちゃんと見えた気がした。いろんな人の、いろんな気持ちが。
……自分の気持ちも。
そうして、そんな私を鏡のように冷たく見つめている、もうひとりの私がいる───。
☆
夕食のあと、しばらくして、私は拓南の部屋を訪ねた。ノックに返事はなかったけれど、部屋の鍵はいつも通りかかっていない。
「入るよ?」
声をかけて、拓南の部屋のドアを開ける。
壁にかけたサッカーワールドカップのカレンダーは、お気に入りの選手の写真が使われた月からめくられてなくて、七月のままだ。床にマンガとゲーム機。勉強机の上だけが妙に整然としている───あまり使われることがなくて。
拓南が来るまでガランとした納戸だったこの部屋は、本当は、私の弟のための部屋だったそうだ。この家を建てるとき、お母さんのお腹には私と、もうひとり赤ちゃんがいて。
お父さんとお母さんは、ふたりの子どものためにふたつの部屋を用意していた、ということ。
タイバンハクリ。お医者さんには、お母さんと私を助けるのが精いっぱいだったらしい。
お母さんとお父さんが拓南を可愛がるのは、そんなことも理由なんだろうか。本当はいたはずの、私と同い年の男の子。……わからない。
私はどうだろう。いたはずの弟と、拓南を重ねたことはあったかな。
──ない、と言い切れる。拓南が誰かの代わりだったことは一度もない。拓南は、私にとって、いつも拓南。拓南のことを人に説明するときに、きょうだいみたいな、という言葉を使っていたのは、それがいちばん私たちの関係を表すのに近くて、他人にわかってもらいやすい言葉だと思ったから。
だけど、私たちはきょうだいじゃない。
拓南はベッドに俯せになって眠っていた。──眠っているように見えた。
私はベッドに近づいて床に膝をつき、拓南の顔を眺めた。瞼を閉じた、無防備な顔を。
その顔のそばに、私はホトンと自分の顔を埋めた。少しシワのよったシーツの中へ。
目を閉じて考える。いつか柊子が言ったっけ。私と拓南はきょうだいだ、って。
あれは夏。七月の球技大会のときだった。柊子は言ったんだ──きょうだいと思ってるよ、今のところはね。
今のところは──柊子はあのとき、どんな気持ちでそうつけくわえたんだろう。
愛ちゃんのことも思い出す。愛ちゃんは、幼馴染みの私と拓南がカレカノになるのを楽しみに待っているんだ……。
ふと、視線を感じた。
目を開けると、拓南が私を見ていた。肘をついて少し体を起こし、
「どうした?」
とても自然に私に聞いてきた。
「起きてたの?」
「うん。急に起きてびっくりさせようかと思ったけど──どうした?」
私は、私を見る拓南の瞳を見つめ返す。
「何にも……ただね、拓南とホントのきょうだいならよかったのに、って考えてた」
拓南の目が少しだけ細くなった。鋭い痛みを感じたように。
それで、私、わかった。拓南も私たちのことを考えていたんだと。
「だけど、きょうだいじゃ、ない」
一拍おいた拓南の答えは、苦かったけれど、頑なにきっぱりとしていた。
私は微笑した。とても悲しかったのに。微笑むことでしか表せないような不思議な心の痛みだった。
そう、きょうだいじゃない、私たち。
きょうだいよりも近くにいたね。あの夕暮れの魔法の空気にくるまれて。
──奇蹟みたいな時間だった。
拓南がそっと手を伸ばした。指先がためらいながら私の頬に触れた。でも、それ以上何をすることもなく、拓南はその手を握り込んでコトバをつなぐ。
「隅田に、言われた。俺たち、ちかすぎた、って──いっぺん離れてみろ、って」
「離れるの、いや」
即座に言っていた。ずっと拓南のそばにいたかった。あの春の夕暮れの光の中にふたりでいたように。
男女が互いにそばにいるための、とても簡単な方法を私は知っている。きっと拓南も。──拓南はもう一度その手を伸ばして、私に触れればいい。私は目を閉じて、起きることを受け入れればいい。
けれど、そこに、あの五歳の春の私たちはもういない。
私たちは見つめ合っていた。
二度と会えない相手を見るように。
何かが壊れ、私たちの間をこぼれ落ちていく。決して取り戻せない、何かが。
そして、私は、もうひとつ、壊してしまわなければならないものがあると感じていた。私の初めての恋を、この手で壊そう。
私は、いつまでも、五歳の春の金色の空気の中で自分勝手にまどろんでいることはできないのだ。
夜のうちに雨が降って、金木犀の花は一斉に散ってしまったようだった。街でも、校内でも、あちこちに小さなオレンジの絨毯が敷かれていた。
昼休みに丘を上ると、藤枝さんは古いバスケットコートでひとりでシュートを打っていた。
「藤枝先輩」
呼ぶと、ふり向き、まっすぐに笑顔をくれた。
私は、まだ乾ききらないコートの外で足を止め、ぺこり、と頭を下げた。
「ありがとうございました。フリースローのテスト、合格しました」
「どういたしまして。よかったね」
事無げな答えに顔を上げると、屈託なく可笑しそうな目が私を見ている。
「それを言いに、わざわざ来てくれたの?」
昨日、フェンスの外のすぐそこで川崎さんと言い争っていたくせに。あの一年──私のことも話していたのに。
私と向かい合っても、何事もなかったような平気な顔。
つまりはその程度の私に対する関心──無関心。
何か、酷いことを言いたくなった。この人の心を私に向けるためなら。
「あの、ひとりですか?」
「そうだけど?」
藤枝さんは不思議そうに聞き返す。
「よく一緒にいる、友達は」
ああ、と先輩はあくまで屈託ない。
「川崎のこと? 昨日、ケンカした」
少しの間、私は藤枝さんを見つめた。まっすぐな瞳はゆるがない。無垢な笑みは綻びない。
「佐倉先輩のことで、ですか」
震える声でそう言ったとき、初めてその表情が陰る。下を向き、二度、三度、ボールを地面にバウンドさせ、言った。
「木暮さんには関係ない」
「あります」
ふりしぼった声はかすれていた。
「私、藤枝先輩が好きだから……!」
返ってきたのは、拒絶でもなければ、驚きですらなかった。ただ、ただ、怪訝な表情。
「だって、木暮さんはサッカー部の──」
戸惑うように言いさして、ハッと息を飲む。まるで何か大事なことに思い当たったように。そして、ゆっくりと浮かぶ理解の色。開いたその口から出た言葉は──。
「佐倉のため?」
「……は──?」
あまりの見当違いに、うまく反応できなかった。中途半端な声が開いた口から出ただけで。
違う。私があなたを好きなの。
伝えたい気持ちが声にならない。想いを込めて放ったはずの言葉の矢が、見事に彼の心を外れて。
「そうか。木暮さんは佐倉と仲がいいんだったな。佐倉のことが、心配になったんだ?」
藤枝さんはすっかり納得したように、私を『先輩思いの後輩』を見る目で見ている。
全身の力が脱けてしまった。
ふられる覚悟はしていたけれど。
まさか、真に受けてもらえないなんて。
「座って話そう」
うつむいた私を促して、藤枝さんはコートの脇のベンチに誘った。降りつもったオレンジの花を軽く手で払って地面に落とし、先に座る。
私はうつむいたまま、藤枝さんの手が花を掃いた場所に腰を下ろした。
ベンチは──昨夜の雨のせいだろう──少し湿っていた。座ったとたん、制服のスカートに、ひとつふたつと金木犀の花が落ちてきた。
柊子とこのベンチに座ったときのことがふっと心をかすめた。あれはまだ日差しが暑い九月だった。緑の葉を繁らせて色褪せた青いベンチに涼しい木陰をプレゼントしてくれた大きな木は、金木犀だったのだ。
ベンチの上も周囲の土の上も、散ったオレンジ色の花でいっぱいだった。枝に残った花もほろりほろりと落ちてくる。藤枝さんと私を包む雨上がりの空気はむせかえるように甘い。
藤枝さんは膝に置いたボールに両腕をのせて指を組んだ。少しの間、何か考えるように沈黙していたけれど、私を見て、穏やかに聞いてくる。
「俺たちのこと、誰かに聞いたの?」
「……女バスの友達に……あと、佐倉先輩と話してて、何となく……」
「そうかあ」
私は思い切って顔を上げた。
「あの、佐倉先輩とつきあえないのは、友達の好きな相手だからですか?」
ああ、こんなことを聞いたらますます先輩思いの後輩になっちゃう──と思ったけれど。
「はっきり聞くなあ」
先輩に苦笑され、私は赤くなる。こんな明け透けな質問をするなんて、生まれて初めての告白が空振りしたショックで、ちょっと突き抜けちゃったのかもしれない。
「──すみません」
「いや、いいよ。話しやすい。答えはノーだよ」
何のためらいもない、明快な口調だった。
「本気で好きだったら、そんなこと、関係ないんじゃないかな。友達に遠慮できるくらいの気持ちなら、所詮それだけの気持ち──って思うけど、どう?」
急にふられて、うっかりこくんと頷いてしまい、うろたえる。
「あ……でも、そういう経験ないので……よくわからないですけど……あの……」
経験がない? 友達の好きな人を好きになったことはない。でも、私、先輩の好きな人を好きになっていた。もしも、その人が私の気持ちに応えてくれていたら、私は先輩に遠慮しただろうか。
しない、気がした。
黙ってしまった私に、藤枝さんは笑う。
「そういえば、俺も経験ない。けど、そうなったら、好きになっちゃったんだからしょうがない、って開き直るな、きっと」
開き直る、って言葉がちょっと可笑しくて、私も少し笑ってしまった。
そういえば、拓南とのことで悪口を言われたとき、私は言い返したことがない。言い返してケンカになる勇気がなかったから、聞き流すようにしていた。でも、拓南と仲良くすることはやめなかったから、悪口を言う女の子たちは私のことを『開き直っている』とさらに責めたんだ。
ああ、そうか、私、開き直っていたんだ。拓南と私は仲がいいんだからしょうがないじゃない、って。私、自分では大人しいつもりだったけれど、実はふてぶてしかったんだ。ふてぶてしい、ぶりっこ。
そんなぶりっこなら悪くない気がした。これからも、ぶりっこ、貫いちゃおうかな。悪口を言われても言い返さないけれど、私は私で、開き直って変わらない。
ふと思いついたことを口にした。佐倉先輩とつきあえない理由が『友達の好きな人』じゃないなら──。
「もしかして、他に好きな人がいるんですか?」
あとで思い出したら、次々とよく聞けたなあ、なんて自分に呆れ果てたけど。
「いないなあ、今は」
これも即答。今はいない──前はいたのかなあ、と気になったけれど、でも、もし、今、好きな人がいないのなら。
「あの、だったら、とりあえず佐倉先輩とつきあってみよう、とかは、だめなんですか? 佐倉先輩とはずっと仲のいい友達で……だから、嫌いじゃないんですよね?」
だって、友達の話だと、そうやってつきあい始めるカップルも多いらしい。コクハクされて、とりあえずタイプだったから、一応つきあってみた、とか。それで、案外うまくいくこともあるらしい。
だけど。
「とりあえず、かあ」
そのとき彼が浮かべた笑みは、まったく無邪気に我が儘な少年のそれだった。とりあえず、一応──そんな言葉とは一切無縁な。
「できないなあ」
彼はボールを持って立ち上がると、軽くドリブルしながらコートに入った。遠い位置から、ゴール目がけてシュートを打った。
しなやかに伸びた腕から放たれたボールが、パサッ、とネットを割る。
ボールの軌跡を追った目に太陽の光が入って、私は固く瞼を閉じた。
閉じた瞳には、彼の笑顔が灼きついていた。
わかった、と思った。
よく、わかった。この人は自分の気持ちをたわめない。この人の気持ちは伸びたい方へ伸びていく。傷つくことからも傷つけることからも逃げないで。
そして、この人の心の先に私はいない。佐倉先輩も、いない。
ふられることはできなかったけれど、私の恋はきちんと砕けた。
落ちたボールを拾って、藤枝さんは私のところへ戻ってきた。我が儘な少年の笑みは消えて、十八歳の、少しだけ大人の顔をして。
「気を使わせて、悪かった」
真面目に私を見て、言った。
「そうだな。佐倉のことも川崎のことも、俺が悪かったかな……。けど、これは俺たちの問題だから」
私は頷いた。
まっすぐに澄んだ瞳を見返して。
この瞳が、好きだった。初めて見たときから──。
最後に尋ねてみた。──花火まつりのとき、どうして私の名前を知っていたんですか。
クラスメイトが騒いでいたから、と彼は笑った。今年の一年に髪の茶色い可愛い女子がいる。だけど、くそう、サッカー部のルーキーのカノジョらしい──名前は、木暮美雨。
私は微笑みを返した。コートを後にする彼を、ベンチに座ったまま見送った。
☆
「──ここにいたんだ、美雨」
柊子の声がして、ふり返る。いつの間にか、ベンチの後ろに柊子がいた。
「昼休みにいなくなったきり、五時限目が始まっても教室に戻って来ないから、焦ったよ。先生には、保健室、なんてベタな誤魔化し、しといたけどさ」
ベンチをぐるりと回って、私の隣にストンと腰をおとす。
昼休み、あの人が座っていた場所だ。
「あーあ、お花に埋もれちゃって」
そう言われて、スカートに金木犀の花がたくさん落ちているのにやっと気づいた。またひとつ、花が膝の上に落ちてきた。きっと、肩も髪もほろほろと散ってくるオレンジの小さな花だらけになっているんだろう。お花に埋もれちゃって、と言われてしまうくらいに。
花に埋もれた自分の姿を想像して私はくすっと笑ったが、私の顔をのぞき込んだ柊子はハッと声を低めた。
「……美雨、泣いてたの?」
ああ、拭かないで自然乾燥だったから、涙の跡が残っているかも。
「なんで……」
尋ねかけて、柊子は表情を強張らせた。
「あの、私が、昨日、泣いて、ヘンなことを言っちゃったから? そのこと、気にして?」
あわてて聞いてきた柊子に、ううん、と首を振る。
「私、失恋しちゃった」
「え、誰に」
失恋、が柊子には余程意外な答えだったんだろう。驚きのあまり聞いてしまった、という感じだった。
すぐに唇を指先でふさいだ柊子に、私は小さく笑って告白する。
「藤枝さん」
「藤枝さん? ……って、元男バスの藤枝さん? 三年の?」
柊子はまたびっくりする。でも、
「美雨、藤枝さんのことが、好きだったの?」
「うん」
頷くと、
「そうだったんだ……ああ、うん、でも、美雨は、藤枝さんだね」
妙な仕方で納得した。
「何? 私は藤枝さんって」
不思議に思って、聞いてみる。すると、
「あのふたりだったら、私は川崎さんだけど、美雨が好きになるのは藤枝さんだね、ってこと。藤枝さん、浅羽に似てるから」
今度は私がびっくりする番。
「拓南に?」
どこが、と聞きそうになった。高校生になっても子どもっぽいところのたくさんある拓南と、落ち着いた雰囲気の藤枝さんと。だけど。
……ああ、そうだ。あの人も、拓南も、我が儘にまっすぐな男の子。
柊子が金木犀を見上げ、うーん、と唸っていた。
「うーん、例えばね……友達と同じ相手を好きになったとしてね、浅羽や藤枝さんはきっと自分の気持ちに正直に動くの。でも、川崎さんは……相手の気持ちやら何やら考え過ぎて、煮詰まっちゃうタイプ」
私はまじまじと柊子を見た。
「──柊子、何か、すごい」
そお? と、柊子は笑う。
「ずっと見てたからねえ、川崎さんのこと」
見ているだけで終わりそうだけど──と、続きを空に向かって呟く。
私も視線を上へと向けた。
緑の葉の間から、オレンジの花はつぎからつぎへと降ってくる。ほろり、ほろり、と。
「……すごい匂いだね、これ」
私は呟いた。落ちてくる花の香りに埋もれながら。甘い香りに、髪も体も、心まで染まりそうだ。
柊子は、隣で、黙って空を見上げている。
「大人になっても、金木犀が咲くたびに、今日を思い出しちゃいそうな、匂いだね……」
☆
十月のクラブ展は、私が予想していたよりもずっとにぎわった。部員の家族や友達なんかの関係者だけじゃなくて、書店のお客さんの中にも、何かやっているの? と三階まで上がってギャラリーをのぞいてくれる人がたくさんいた。毎年楽しみにしているのよ、と言ってくださった年配の女性もいて、感激した。
でも、最終日平日の夕暮れともなると、訪れる人はほとんどいない。受付の佐倉先輩と私もおしゃべり以外にすることがない。
なのに、今日の佐倉先輩は会話が弾まない。まさか、藤枝さんが私の『告白』のことを佐倉先輩に話してしまって……とも心配したけれど、私に対してどうこうという雰囲気ではなかった。むしろ、私になんか全然関心がない感じがした。心ここにあらずで、質問にかみ合わない答えが返ってきたり、私が何を言ったのか聞いてなかったり、だんだん私も言葉少なになっていって……。
「私、飲み物、買ってきます。コーヒーか何か」
とうとう私はそう言った。書店を出てすぐのところに自販機があるのはもう知っていた。まったりコーヒーでも飲んでいれば、しばらく会話が途切れても気まずくない。
「佐倉先輩も何か飲みます? リクエストあれば、一緒に買ってきますけど」
「ありがとう。でも、私は要らない」
なので、私は、自分の分だけカフェオレを買った。やっぱり佐倉先輩の分も買った方がいいかなって、自販機の前で迷ったけれど、やめておいた。本当に要らなかったら、迷惑になる。後輩におごってもらうわけにはいかなくて、余計な出費をさせてしまうことになるだろう。
そうして、冷たいカフェオレを持って受付に戻った私は、そこに座っているはずの佐倉先輩の姿がないのに気づく。
パーティションの陰から展示場を覗いて、一枚の絵のそばに向かい合って立つふたりを見つけた。絵の横に立つ佐倉先輩と、後ろ姿を見せている学生服の男子。
後ろ姿を見ただけで、男子が誰かは、すぐにわかった。硬質なラインの、端正な長身。モノクロームの華やかさ。
男子の前には、緑のグラデーションがきれいな油絵がある。緑の片隅には男の子が笑っている──無邪気に、我が儘に。
佐倉先輩は絵の横で、さみしげな笑顔で彼を見上げていた。
私はふたりに背を向けた。そうか、佐倉先輩はあの人を待っていたのか。カフェオレを持って、そっと書店を出た。
ふたりの物語の結末は、ふたりのもの。
書店から少し離れた街灯にもたれて、私はカフェオレを少しずつ啜った。
温かい方にすればよかったな、と思う。もう、そんな季節だ。いつの間にか日暮れが早い。街を彩った赤や黄色の葉はとっくに落ちて、風がどこかに運んでしまった。
夕暮れの繁華街を歩く人たちはみなどこか忙しそうで、書店の自動ドアから出てきた彼の姿もすぐさま人の流れに紛れ込む。
ずっと見送ってきたな、と思い出す。初めて会ったときも、花火まつりの夜も、金木犀の花の散るバスケットコートでも。
でも、見送るのはこれが最後。
唇の動きだけで呟いた。さよなら、と。
春だった。
私は空が暮れていくのをぼんやりと眺めている。藤棚の下のベンチに座り、スケッチブックと画材を傍らに置いて。
今日から三年生になったというのが、とても不思議な気分だった。一年生のとき、見上げるような気持ちで憧れていたあの人たちと同じ学年になることが。
あれから──佐倉先輩は地元の専門学校に進んだ。介護士の資格が取れる学校だ。部の先輩後輩としてのつながりは、まだある。去年のクラブ展も見に来てくれた。
佐倉先輩がクラブ展に来てくれたとき、私は愛ちゃんとふたりで受付をしていた。黒のスキニーにゆったりしたニットを合わせて、長かった髪は肩で切り揃えられていた。高校生のときから落ち着いて大人っぽい雰囲気の人だったけれど、本当に大人になっている感じがした。そして、佐倉先輩の横には、私の知らない男の人がいた。静かな声で話す、メガネの似合う人だった。
専門学校の同級生なの──佐倉先輩は彼を私たちにそう紹介した。ふたりが受付を通り過ぎてから、愛ちゃんが、佐倉先輩らしいカレだね、と私の耳に囁いた。そのとき胸が痛かったのは、きっと、私の感傷なのだ。佐倉先輩がその人と話す声も、交わす笑みも、とても穏やかだったから。
藤枝さんと川崎さんの進路を、私は知らない。柊子は部の先輩に聞いて知っているみたいだけど、何も言わない。私も尋ねない。
柊子は、最近、男バスの一年後輩とつきあいはじめた。実は、入部してきたときから気になっていた後輩なんだそうだ。川崎さんに少し似ていたから。なので、その後輩くんに告白されたとき、柊子は悩んで、私に言った。彼のことは気になっている。でも、それは、川崎さんに似ているから。そんな気持ちで彼とつきあってもいいのかなあ。
私は、いいと思う、と答えた。柊子がその後輩くんを好きなら。
悩んだ柊子は、正直に後輩くんに告げた。──君のことは気になっている。でも、君が私の初恋の人に似ているからかもしれない。
すると、後輩くんはきょとんとして──そんなことを言うなら、先輩も俺の初恋の幼稚園の先生に似てるんだけど──と、返してきたそうだ。
──似てるから好きなんじゃなくて、単に好みのタイプが変わらないだけじゃないですか? ていうか、それってつまり、俺が先輩のストライクゾーンだってことでいい?
それで柊子は笑ってしまい、そのあと少しだけ泣いて、後輩くんとつきあうことを決めたそうだ。
一年生のとき拓南を通して私を好きだと言ってくれた隅田くんは、サッカー部のキャプテンになっている。優しくて面倒見がいいところが、ふたりの女マネの両方に好感度抜群で、難しい状況に置かれているらしい。
モテるのも大変なんだな、と拓南は気の毒そうに言っていた。自分にもファンがいることには相変わらず気づいていないようだ。バレンタインのチョコレートもハロウィンに配られるお菓子みたいな受け取り方をする。でも、ファンの子たちはそれでいいらしい。『カノジョ』のいる人に渡すんだから、そんな軽い感じでもらってくれるのがいいらしい。
幼馴染みがカレカノになるプロセスを拓南と私で楽しく観察しようとしていた愛ちゃんは、
『えっ、いつの間にそうなっちゃったの?』
と、驚きあわてていた。ふたりの間にドラマティックな事件が起こってからのー……いろいろあってカレカノになると、期待していたんだそうだ。肝心なところを見逃してしまったのね、ってがっかりしていた。
ドラマティックな事件は、見逃されたのではなく、起こらなかっただけなのだけど。
愛ちゃんの目を、おおっ、と丸くするような事件は、何も起こらなかった。夜から朝へ、昼から宵へ、時刻が進むと空の色が変わるように、拓南と私の間の空気が色彩を変えただけ。
私はベンチに座ったまま空を見上げた。空は、少しずつ、柔らかなオレンジに染まっていく。辺りの空気が金の紗をふわりと被く。ふもとの菜の花畑がセピアにかすむ。
あの人のことは、今もときどき思い出す。金木犀が香る季節には、特に。街や校舎を包む香りに、色褪せた青いベンチに散っていったオレンジの花の匂いが強く重なる。
藤枝……の下の名前は知らないままだ。恋をしていたときは、本人に直接尋ねるきっかけがうまくつかめないで終わったし、柊子に教えてもらうのにちょうどいい機会もなかった。恋が終わったあとは、柊子に改めて確かめようとは考えなかった。
しの、と呼ばれていたから、しのぶ、じゃないかな。漢字はわからない。──それでいい気がする。私にとってのあの人は、そういう人。
触媒のような人だった、と思う。私に出会ったことで、あの人自身は何も変わらなかった。言葉にした私の気持ちすら素通りして去っていった。十年後には私の名前も覚えていないかもしれない。もしも私を思い出すことがあっても、私は、あの人たちの物語の最終章だけを通り過ぎるエキストラ。
私だけが変わった。私はそれまで知らなかった感情を知って、いくつかのことに気がつくことができた。心の奥に眠っていた大切なものにも。
あの秋から、私は髪を伸ばし始めた。色素の薄い髪は、今では肩の下まで波打って、風に遊ばれる毛先はお日さまの下で鈍い金色に透ける。初めて会う人は、驚いたような、戸惑ったような顔をする。でも、染めているわけじゃないとわかると、きれいな色だね、と言ってくれて、私は微笑む。
軽く息をついて、私はオレンジピンクの空からベンチの下の坂道に視線を落とした。
もうすぐ、拓南がここに来る。今日のサッカー部の活動はミーティングだけなので、一緒に帰る約束をした。ミーティング終わった──と、さっきスマホにメッセージが入ったところだ。
──画材、すぐ片づけるね
──迎えに行くよ
二年の夏休みに両親が海外赴任から戻って、拓南は自分の家に帰った。でも、拓南が使っていた部屋はそのままになっている。勉強机もベッドも。壁のカレンダーもあの年の七月のまま。
自分の家に戻ったあとも、拓南はよく私の家に遊びに来る。『自分の』部屋に泊まっていくこともある。
この間、お父さんとお母さんがキッチンで──このまま拓南がうちのムコに来てくれないかな、でも拓南もひとりっ子だしねえ──なんて真面目半分、冗談半分に話し合っているのを立ち聞きして、こっそり笑ってしまった。
私が拓南の家に行くことも多い。泊まることはないけれど、お夕飯をごちそうになることはある。拓南の家は広い庭があって、夏の週末にはふた家族でバーベキューをする子どもの頃からの習慣も、拓南の両親が帰国して復活した。
もしかしたら、拓南のお父さんとお母さんもうちの親と似たようなことを話しているかもしれない──なんて想像して、拓南に話したら、笑っていた。
話しているそうだ。
どちらにしろ、家はすぐ近くなので、私たちは時間が合えば待ち合わせて一緒に登下校する。
拓南のカノジョ、と呼ばれることを、私は一年の秋から否定しなくなった。ほうら、やっぱり───という棘のある視線は、知らんふりした。ぶりっこ、の悪口は続いたけれど、何だか悔しそうな言い方になっていて、ちょっと可笑しかった。あんなぶりっこに騙されるんだから男ってバカだよね、なんて拓南まで悪く言われていた。
女子同士の水面下にびしばし飛び交う感情のあれこれに疎い拓南は、もちろん、何も気づいていない。一年の秋のケガは順調に治って、生活の真ん中は部活動で、部活やクラスの男子仲間と仲良くて、屈託なく私に話しかける。
しばらく熱心に『女を見る目がない』拓南の悪口を語り合っていた女の子たちは、いつの間にかまた拓南を応援していた。やっぱりかっこいいよね、って。私は嫌われたままだったけれど、陰口は平気になっていた。ぶりっこのヒールって、面白いかも。
でも、彼女たちの『一緒に暮らすうちにできちゃったんじゃない?』なんて勘ぐりは、外れ。私のうちに下宿していた間、拓南は私とキスもしていない。
初めてしたのは、つい先日。終わったばかりの春休み。
場所は、私の家の『拓南の部屋』だった。
部活がオフで、拓南がゲーム機を持って遊びに来たときのことだ。ベッドを背もたれにして床に並んで座り、ペアを組んでネット上の知らない誰かと対戦した。勝って、はしゃいで、ふと会話が途切れたとき、私は思い出す。──十六歳の秋に、ここで拓南と、私たちはきょうだいじゃない、という話をしたこと。そのとき私は、ずっと拓南のそばにいたい、と思ったのだ。
拓南もそのときのことを思い出したのかもしれない。壁にかかった二年前の七月のカレンダーにしばらく目をとめたあと、唐突に、そういえば、昔、美雨が言ってた好きな人ってどうなった? と聞いてきた。
とっくに失恋したよ? あのあとすぐ──と、笑ったら、黙って私を見つめ、あの日と同じように指先で私の頬に触れた。けれど、あの日のようにその手を握り込むのではなく、私の首の後ろに滑らせた。
そして、私は目を閉じた。互いにきゅっと結んだ唇を重ねるだけの、何かの儀式のようなキスだった。それで、目を開けた私たちは顔を見合わせて笑ってしまい、もう一度目を閉じて、もっと柔らかな二度目のキスをした。
私たちは、そうなることを、決めたのだ。五歳の春に別れを告げて。
「美雨」
拓南が私を呼ぶ声がした。藤棚の下の小道を上がってくる。私を見上げて、笑う。
少年、という言葉はもう彼の姿にそぐわない。五月には私より一足先に十八歳の誕生日を迎える彼の、顔つきも体の線も、男、という言葉の方がしっくりする。
けれど、私を見る瞳がまっすぐなのは、小さなときから今もそのまま変わらない。
藤棚のそばまで来た拓南は、
「何、描いてた?」
と、私に聞く。
「夕暮れ」
「なんか、いつも、夕暮れ描いてね?」
その通りで、苦笑する。
相変わらず、私の夕暮れの絵は完成しない。挑戦はするのだけれど、やはり途中で筆を止めてしまう。
それでも、今度こそ描けそうな気がしていた。心の中であの夕暮れを思い浮かべるとき、遠くから眺めるような気持ちになってきたから。それを静かに受け入れられるようになったから。
「覚えてるかなあ」
ふと、拓南に話したくなった。
「保育園の頃、ふたりで迷子になったこと、あったでしょ? そのときに見た夕暮れの景色が、ここから見る夕暮れに、すごく似てるんだよ」
え? ──と、拓南は尋ね返すような顔をした。
だからね……と私がもう一度詳しく説明するより早く、ほんの一瞬の考え込むような素振りのあとに、拓南は言った。
「だって、それ、ここだろ?」
「え?」
今度は私が聞き返す。
俺も覚えてなかったけど、と前置きして、拓南は語った。城東高校に進学が決まったとき、お母さんがしみじみと言った言葉を──迷子になったときに見つかった高校に、ふたりそろって行くなんて、縁があったってことかしらねえ。
「ここで見つかった? あのとき? 私たち?」
「──だってさ。俺も全然覚えてないけど」
さっきまでぼんやりと眺めていた風景を、私はふり返った。
空は柔らかなオレンジ。薄紫の細い雲の端もオレンジピンクに照り映える。ふもとにはセピアにかすんだ菜の花。大気は金の紗に透けて。
ここ、だった……?
「そんなにびっくりした?」
拓南がそんな私を見て笑う。
「俺も、それ聞いたときは、びっくりしたけどさ──帰ろう」
私は拓南に視線を戻した。差し出された拓南の手に、自分の手をのせて立ち上がる。
並んで小道を下りながら、他愛ないことを話して他愛なく笑う私たちを、春の夕暮れの空気が包んでいる。
五歳の春の魔法は解けてしまったけれど。
私は拓南と、幾つもの新しい夕暮れを、夜を、夜明けを見つけていけるだろう。思い出と呼ぶにはまだ痛い、十六歳の日を心に刻んで。