☆
夕食のあと、しばらくして、私は拓南の部屋を訪ねた。ノックに返事はなかったけれど、部屋の鍵はいつも通りかかっていない。
「入るよ?」
声をかけて、拓南の部屋のドアを開ける。
壁にかけたサッカーワールドカップのカレンダーは、お気に入りの選手の写真が使われた月からめくられてなくて、七月のままだ。床にマンガとゲーム機。勉強机の上だけが妙に整然としている───あまり使われることがなくて。
拓南が来るまでガランとした納戸だったこの部屋は、本当は、私の弟のための部屋だったそうだ。この家を建てるとき、お母さんのお腹には私と、もうひとり赤ちゃんがいて。
お父さんとお母さんは、ふたりの子どものためにふたつの部屋を用意していた、ということ。
タイバンハクリ。お医者さんには、お母さんと私を助けるのが精いっぱいだったらしい。
お母さんとお父さんが拓南を可愛がるのは、そんなことも理由なんだろうか。本当はいたはずの、私と同い年の男の子。……わからない。
私はどうだろう。いたはずの弟と、拓南を重ねたことはあったかな。
──ない、と言い切れる。拓南が誰かの代わりだったことは一度もない。拓南は、私にとって、いつも拓南。拓南のことを人に説明するときに、きょうだいみたいな、という言葉を使っていたのは、それがいちばん私たちの関係を表すのに近くて、他人にわかってもらいやすい言葉だと思ったから。
だけど、私たちはきょうだいじゃない。
拓南はベッドに俯せになって眠っていた。──眠っているように見えた。
私はベッドに近づいて床に膝をつき、拓南の顔を眺めた。瞼を閉じた、無防備な顔を。
その顔のそばに、私はホトンと自分の顔を埋めた。少しシワのよったシーツの中へ。
目を閉じて考える。いつか柊子が言ったっけ。私と拓南はきょうだいだ、って。
あれは夏。七月の球技大会のときだった。柊子は言ったんだ──きょうだいと思ってるよ、今のところはね。
今のところは──柊子はあのとき、どんな気持ちでそうつけくわえたんだろう。
愛ちゃんのことも思い出す。愛ちゃんは、幼馴染みの私と拓南がカレカノになるのを楽しみに待っているんだ……。
ふと、視線を感じた。
目を開けると、拓南が私を見ていた。肘をついて少し体を起こし、
「どうした?」
とても自然に私に聞いてきた。
「起きてたの?」
「うん。急に起きてびっくりさせようかと思ったけど──どうした?」
私は、私を見る拓南の瞳を見つめ返す。
「何にも……ただね、拓南とホントのきょうだいならよかったのに、って考えてた」
拓南の目が少しだけ細くなった。鋭い痛みを感じたように。
それで、私、わかった。拓南も私たちのことを考えていたんだと。
「だけど、きょうだいじゃ、ない」
一拍おいた拓南の答えは、苦かったけれど、頑なにきっぱりとしていた。
私は微笑した。とても悲しかったのに。微笑むことでしか表せないような不思議な心の痛みだった。
そう、きょうだいじゃない、私たち。
きょうだいよりも近くにいたね。あの夕暮れの魔法の空気にくるまれて。
──奇蹟みたいな時間だった。
拓南がそっと手を伸ばした。指先がためらいながら私の頬に触れた。でも、それ以上何をすることもなく、拓南はその手を握り込んでコトバをつなぐ。
「隅田に、言われた。俺たち、ちかすぎた、って──いっぺん離れてみろ、って」
「離れるの、いや」
即座に言っていた。ずっと拓南のそばにいたかった。あの春の夕暮れの光の中にふたりでいたように。
男女が互いにそばにいるための、とても簡単な方法を私は知っている。きっと拓南も。──拓南はもう一度その手を伸ばして、私に触れればいい。私は目を閉じて、起きることを受け入れればいい。
けれど、そこに、あの五歳の春の私たちはもういない。
私たちは見つめ合っていた。
二度と会えない相手を見るように。
何かが壊れ、私たちの間をこぼれ落ちていく。決して取り戻せない、何かが。
そして、私は、もうひとつ、壊してしまわなければならないものがあると感じていた。私の初めての恋を、この手で壊そう。
私は、いつまでも、五歳の春の金色の空気の中で自分勝手にまどろんでいることはできないのだ。
夕食のあと、しばらくして、私は拓南の部屋を訪ねた。ノックに返事はなかったけれど、部屋の鍵はいつも通りかかっていない。
「入るよ?」
声をかけて、拓南の部屋のドアを開ける。
壁にかけたサッカーワールドカップのカレンダーは、お気に入りの選手の写真が使われた月からめくられてなくて、七月のままだ。床にマンガとゲーム機。勉強机の上だけが妙に整然としている───あまり使われることがなくて。
拓南が来るまでガランとした納戸だったこの部屋は、本当は、私の弟のための部屋だったそうだ。この家を建てるとき、お母さんのお腹には私と、もうひとり赤ちゃんがいて。
お父さんとお母さんは、ふたりの子どものためにふたつの部屋を用意していた、ということ。
タイバンハクリ。お医者さんには、お母さんと私を助けるのが精いっぱいだったらしい。
お母さんとお父さんが拓南を可愛がるのは、そんなことも理由なんだろうか。本当はいたはずの、私と同い年の男の子。……わからない。
私はどうだろう。いたはずの弟と、拓南を重ねたことはあったかな。
──ない、と言い切れる。拓南が誰かの代わりだったことは一度もない。拓南は、私にとって、いつも拓南。拓南のことを人に説明するときに、きょうだいみたいな、という言葉を使っていたのは、それがいちばん私たちの関係を表すのに近くて、他人にわかってもらいやすい言葉だと思ったから。
だけど、私たちはきょうだいじゃない。
拓南はベッドに俯せになって眠っていた。──眠っているように見えた。
私はベッドに近づいて床に膝をつき、拓南の顔を眺めた。瞼を閉じた、無防備な顔を。
その顔のそばに、私はホトンと自分の顔を埋めた。少しシワのよったシーツの中へ。
目を閉じて考える。いつか柊子が言ったっけ。私と拓南はきょうだいだ、って。
あれは夏。七月の球技大会のときだった。柊子は言ったんだ──きょうだいと思ってるよ、今のところはね。
今のところは──柊子はあのとき、どんな気持ちでそうつけくわえたんだろう。
愛ちゃんのことも思い出す。愛ちゃんは、幼馴染みの私と拓南がカレカノになるのを楽しみに待っているんだ……。
ふと、視線を感じた。
目を開けると、拓南が私を見ていた。肘をついて少し体を起こし、
「どうした?」
とても自然に私に聞いてきた。
「起きてたの?」
「うん。急に起きてびっくりさせようかと思ったけど──どうした?」
私は、私を見る拓南の瞳を見つめ返す。
「何にも……ただね、拓南とホントのきょうだいならよかったのに、って考えてた」
拓南の目が少しだけ細くなった。鋭い痛みを感じたように。
それで、私、わかった。拓南も私たちのことを考えていたんだと。
「だけど、きょうだいじゃ、ない」
一拍おいた拓南の答えは、苦かったけれど、頑なにきっぱりとしていた。
私は微笑した。とても悲しかったのに。微笑むことでしか表せないような不思議な心の痛みだった。
そう、きょうだいじゃない、私たち。
きょうだいよりも近くにいたね。あの夕暮れの魔法の空気にくるまれて。
──奇蹟みたいな時間だった。
拓南がそっと手を伸ばした。指先がためらいながら私の頬に触れた。でも、それ以上何をすることもなく、拓南はその手を握り込んでコトバをつなぐ。
「隅田に、言われた。俺たち、ちかすぎた、って──いっぺん離れてみろ、って」
「離れるの、いや」
即座に言っていた。ずっと拓南のそばにいたかった。あの春の夕暮れの光の中にふたりでいたように。
男女が互いにそばにいるための、とても簡単な方法を私は知っている。きっと拓南も。──拓南はもう一度その手を伸ばして、私に触れればいい。私は目を閉じて、起きることを受け入れればいい。
けれど、そこに、あの五歳の春の私たちはもういない。
私たちは見つめ合っていた。
二度と会えない相手を見るように。
何かが壊れ、私たちの間をこぼれ落ちていく。決して取り戻せない、何かが。
そして、私は、もうひとつ、壊してしまわなければならないものがあると感じていた。私の初めての恋を、この手で壊そう。
私は、いつまでも、五歳の春の金色の空気の中で自分勝手にまどろんでいることはできないのだ。