その人はバスケットボールを脇に抱え、立ち止まって私を見ていた。つい今しがた私が藤棚の下にいることに気づいて足を止めた、そんなふうだった。
あんまり思いがけなくて、私は弾かれるように立ち上がっていた。その拍子に膝からスケッチブックがすべり落ち、鉛筆で描いたばかりのスケッチがひらりと舞った。
あっ、と伸ばした私の手の先をかすめて、スケッチはひらひらと舞い落ち、その人が立つ坂道へと下る斜面の草にひっかかる。
どうしよう──追いかけようとして、私は斜面の手前で立ち止まった。スケッチが落ちた場所は斜面の途中。滑り降りれば、すぐそこ。でも、そこは、私にとっては滑り降りるには勇気の要る急斜面。
「取るよ。そこで待ってて」
ほとんど同時に、下から藤枝さんが声をかけてきた。ボールを地面に置いて、斜面を上り始める。
ほっとしそうになって……ハッとした。その画用紙に描いた、その絵は──。
私は斜面に飛び降りた。着地した靴の下から、小石や土塊がザザッと転げ落ちる。構わずに一気に滑り降りて、草にひっかかった画用紙に手を伸ばし──花火まつりのその人の絵を片手でつかんで、安心した途端。
踏みしめた土がズルッと崩れ、腰をかがめていた私はバランスを失った。体がフワッと浮き上がった気がした。───落ちる。
私はぎゅっと目を閉じた。斜面を転がり、地面に打ちつけられる痛みを覚悟して。
けれど、私の体が打ち当たったのは、地面じゃなかった。
固く閉じた目をそろそろと開けると、澄んだ眼差しにぶつかった。私の手は、私を抱きとめたその人の腕にしっかりとしがみついていて。
「大丈夫?」
ぱっと手を離して顔を伏せた私に、藤枝さんは心配そうに聞いた。藤枝さんの両手は私の腕をつかんで支えたままだ。
体が震えていたけれど、私は頷いた。
「大丈夫……立てます」
藤枝さんの手がゆっくりと私の腕から離れた。
でも、固くて大きな手の感触が重く肌に残った。震えたのは、斜面を落ちそうになって怖かったからじゃなかった。落ちる前に私を助けてくれたその手の力強さに、震えてしまった。
私の知らない男の人の手だった。少し怖くて、なのに、とてもひかれてしまって。
いったん私の腕を離れた大きな手の、右手だけが改めて私の左手を取った。私の立ち具合が不安定で心配だったんだろう。
恥ずかしかったけれど、私はその手にしっかりとつかまった。そうしなければ、震える足が動かせなかった。
藤枝さんの右手を借りて、斜面をゆっくりと降りる。平らな地面に私が足をつけると、藤枝さんは右手もそうっと離したのだけれど、そのとき、ふと可笑しそうに唇の端を上げた。
視線をたどって笑われた理由がわかった。私の右手には画用紙が、ぎゅっ、と握られたままになっていて。
「何の絵──?」
答えを要求しない問いなのは、笑い含みのあっさりした口調でわかった。私は急いで絵を後ろに回し、両手でくしゃくしゃと丸めてしまう。
「秘密、です」
見上げると、藤枝さんは柔らかく笑っていた。球技大会のとき、フェンス越しに憧れた笑顔が、まっすぐに私を向いている。何だか嬉しくて、震えたりあわてたり、忙しかった心がふわっと温かいものに包まれる。この人の視線に、ずっと包まれていたくなる。
「ケガ、ない?」
「平気です。……あの、先輩は?」
「俺?」
藤枝さんは、笑ったまま聞き返し、転がしてあったボールを拾う。地面に一度弾ませてから、ボールをもと通りに抱えて歩き出した。私は急いで彼を追って、横に並ぶ。当然言うべき言葉を唇にのせて。
「あの、すみません、アリガトウゴザイマシタ──それと、あの、この前も……」
「この前?」
「花火まつりの」
ああ、と納得する。反応は、それだけ。この人にとってはそれだけのことなんだな、と思うとちょっとさみしい。
初めて会ったときも、ここでスケッチを拾ってもらったんだ……そのことのお礼も言いたかったけれど、そんなずっと前のことをあえて口にするのは恥ずかしかった。藤枝さんにはとっくに忘れていることかもしれない。わざわざ言ってもう一度怪訝な顔をされるのもさみしすぎる気がして、私は別の話題を口にする。
「先輩、今日はなぜ学校に?」
藤枝さんは歩きながら『?』と私を見る。
「あ、だから、夏休みだし、三年生は部活も引退してるし……」
冬の選手権を目指しているサッカー部員とか、一部を除いて、運動部の三年生はインターハイ後に退くのが普通だ。
「ああ、そういう意味。──補習があったんだ」
行く先に視線を戻して、藤枝さんは屈託なく言った。
「センター試験対策の補習。さっき補習が終わって、気分転換にシュートでも打ってから帰ろうと思って。──知ってるかな。この道をずっと上っていくと古いバスケットコートがあるんだけど、ほとんど使われてなくてさ。引退した年寄りの暇つぶしにはちょうど良い場所なんだ」
小道がU字のカーブを描き、そこを上るとすぐに藤棚が見えた。ベンチのそばに行くと、スケッチブックや絵の具箱がひっくり返っていたけれど、ヒマワリのスケッチは無事でほっとする。
「これって、普通の絵の具?」
一緒に絵の具を拾ってくれながら、藤枝さんが不思議そうに私に聞いた。
「普通の水彩絵の具ですけど」
私はきょとんとして聞き返す。普通じゃない絵の具って何だろう?
藤枝さんは照れたように鼻の頭を拳で軽くこすった。
「美術部って、油絵を描くんだと思ってた」
ああ、そうか。美術の授業でしか絵を描かない人には、水彩絵の具はいつも自分も使っている普通の絵の具で、油絵の具が絵描きさんの使う絵の具なんだ。
「あ、そうです。デジタルで描いている人もいるけど、絵の具を使う人はほとんど油絵かも。佐倉先輩も、そうですよね……。私は水彩が好きだから……」
サクラセンパイ、と口にしながら藤枝さんの表情を伺った。けれど、屈託ない顔にはほんの少しの変化もなくて、私は何も読み取れない。──佐倉先輩がこの人の心のどこにいるのか。
散らかっていた絵の具が箱にきちんと全色並ぶと、藤枝さんは、じゃあ、と軽く言って、坂道をひとりで上って行った。私はベンチの横に立ち、その背の高い後ろ姿を見送りながら、佐倉先輩の言葉を思い出す。
親切な人──優しいんじゃなくて、親切──子どもみたいに。
あんまり思いがけなくて、私は弾かれるように立ち上がっていた。その拍子に膝からスケッチブックがすべり落ち、鉛筆で描いたばかりのスケッチがひらりと舞った。
あっ、と伸ばした私の手の先をかすめて、スケッチはひらひらと舞い落ち、その人が立つ坂道へと下る斜面の草にひっかかる。
どうしよう──追いかけようとして、私は斜面の手前で立ち止まった。スケッチが落ちた場所は斜面の途中。滑り降りれば、すぐそこ。でも、そこは、私にとっては滑り降りるには勇気の要る急斜面。
「取るよ。そこで待ってて」
ほとんど同時に、下から藤枝さんが声をかけてきた。ボールを地面に置いて、斜面を上り始める。
ほっとしそうになって……ハッとした。その画用紙に描いた、その絵は──。
私は斜面に飛び降りた。着地した靴の下から、小石や土塊がザザッと転げ落ちる。構わずに一気に滑り降りて、草にひっかかった画用紙に手を伸ばし──花火まつりのその人の絵を片手でつかんで、安心した途端。
踏みしめた土がズルッと崩れ、腰をかがめていた私はバランスを失った。体がフワッと浮き上がった気がした。───落ちる。
私はぎゅっと目を閉じた。斜面を転がり、地面に打ちつけられる痛みを覚悟して。
けれど、私の体が打ち当たったのは、地面じゃなかった。
固く閉じた目をそろそろと開けると、澄んだ眼差しにぶつかった。私の手は、私を抱きとめたその人の腕にしっかりとしがみついていて。
「大丈夫?」
ぱっと手を離して顔を伏せた私に、藤枝さんは心配そうに聞いた。藤枝さんの両手は私の腕をつかんで支えたままだ。
体が震えていたけれど、私は頷いた。
「大丈夫……立てます」
藤枝さんの手がゆっくりと私の腕から離れた。
でも、固くて大きな手の感触が重く肌に残った。震えたのは、斜面を落ちそうになって怖かったからじゃなかった。落ちる前に私を助けてくれたその手の力強さに、震えてしまった。
私の知らない男の人の手だった。少し怖くて、なのに、とてもひかれてしまって。
いったん私の腕を離れた大きな手の、右手だけが改めて私の左手を取った。私の立ち具合が不安定で心配だったんだろう。
恥ずかしかったけれど、私はその手にしっかりとつかまった。そうしなければ、震える足が動かせなかった。
藤枝さんの右手を借りて、斜面をゆっくりと降りる。平らな地面に私が足をつけると、藤枝さんは右手もそうっと離したのだけれど、そのとき、ふと可笑しそうに唇の端を上げた。
視線をたどって笑われた理由がわかった。私の右手には画用紙が、ぎゅっ、と握られたままになっていて。
「何の絵──?」
答えを要求しない問いなのは、笑い含みのあっさりした口調でわかった。私は急いで絵を後ろに回し、両手でくしゃくしゃと丸めてしまう。
「秘密、です」
見上げると、藤枝さんは柔らかく笑っていた。球技大会のとき、フェンス越しに憧れた笑顔が、まっすぐに私を向いている。何だか嬉しくて、震えたりあわてたり、忙しかった心がふわっと温かいものに包まれる。この人の視線に、ずっと包まれていたくなる。
「ケガ、ない?」
「平気です。……あの、先輩は?」
「俺?」
藤枝さんは、笑ったまま聞き返し、転がしてあったボールを拾う。地面に一度弾ませてから、ボールをもと通りに抱えて歩き出した。私は急いで彼を追って、横に並ぶ。当然言うべき言葉を唇にのせて。
「あの、すみません、アリガトウゴザイマシタ──それと、あの、この前も……」
「この前?」
「花火まつりの」
ああ、と納得する。反応は、それだけ。この人にとってはそれだけのことなんだな、と思うとちょっとさみしい。
初めて会ったときも、ここでスケッチを拾ってもらったんだ……そのことのお礼も言いたかったけれど、そんなずっと前のことをあえて口にするのは恥ずかしかった。藤枝さんにはとっくに忘れていることかもしれない。わざわざ言ってもう一度怪訝な顔をされるのもさみしすぎる気がして、私は別の話題を口にする。
「先輩、今日はなぜ学校に?」
藤枝さんは歩きながら『?』と私を見る。
「あ、だから、夏休みだし、三年生は部活も引退してるし……」
冬の選手権を目指しているサッカー部員とか、一部を除いて、運動部の三年生はインターハイ後に退くのが普通だ。
「ああ、そういう意味。──補習があったんだ」
行く先に視線を戻して、藤枝さんは屈託なく言った。
「センター試験対策の補習。さっき補習が終わって、気分転換にシュートでも打ってから帰ろうと思って。──知ってるかな。この道をずっと上っていくと古いバスケットコートがあるんだけど、ほとんど使われてなくてさ。引退した年寄りの暇つぶしにはちょうど良い場所なんだ」
小道がU字のカーブを描き、そこを上るとすぐに藤棚が見えた。ベンチのそばに行くと、スケッチブックや絵の具箱がひっくり返っていたけれど、ヒマワリのスケッチは無事でほっとする。
「これって、普通の絵の具?」
一緒に絵の具を拾ってくれながら、藤枝さんが不思議そうに私に聞いた。
「普通の水彩絵の具ですけど」
私はきょとんとして聞き返す。普通じゃない絵の具って何だろう?
藤枝さんは照れたように鼻の頭を拳で軽くこすった。
「美術部って、油絵を描くんだと思ってた」
ああ、そうか。美術の授業でしか絵を描かない人には、水彩絵の具はいつも自分も使っている普通の絵の具で、油絵の具が絵描きさんの使う絵の具なんだ。
「あ、そうです。デジタルで描いている人もいるけど、絵の具を使う人はほとんど油絵かも。佐倉先輩も、そうですよね……。私は水彩が好きだから……」
サクラセンパイ、と口にしながら藤枝さんの表情を伺った。けれど、屈託ない顔にはほんの少しの変化もなくて、私は何も読み取れない。──佐倉先輩がこの人の心のどこにいるのか。
散らかっていた絵の具が箱にきちんと全色並ぶと、藤枝さんは、じゃあ、と軽く言って、坂道をひとりで上って行った。私はベンチの横に立ち、その背の高い後ろ姿を見送りながら、佐倉先輩の言葉を思い出す。
親切な人──優しいんじゃなくて、親切──子どもみたいに。