夕暮れが、描けない───。
パレットの上でイエローライトとオレンジが少しずつ混ざっていく。私はふたつの色を混ぜる筆を止めて、遠くへと目をやった。八月の午後の凪いだ海が広がっている。水平線には崩れた入道雲。
もうすぐ夏が逝く──。
藤棚の下のベンチで、私はひまわりのスケッチに色を入れていた。
すぐそこに、大きなヒマワリが数本立っている。太陽に熱されてトロリと濃い空気の中で、重く種子を抱えて項垂れている。
だけど、夏休み前には眩しい黄色の花を大きく咲かせていた。夏空の下の元気な花が気に入って、私は、それをスケッチしたんだ。
スケッチは、空のブルーと花びらのイエローがメインの、明るくて爽やかな水彩画に仕上がる予定だ。
イエローライトとオレンジに、シルバーホワイトの絵の具をそっと加えて、私は花びらの色をつくっていく。そう、こんなふうに溌剌として新鮮なイエローだった。
できあがった色彩を筆にすくい、スケッチの花びらにそっとのせる。
十月のクラブ展には、もう出来上がっている海の絵と、このひまわりの絵を出すことになるだろう。
……夕暮れが、描けないから。
昨日まで、私は美術室で水彩用紙とにらめっこしていた……。
☆
「──進まないね」
イーゼルの向こう側から、佐倉先輩の顔がのぞいた。少し心配そうに眉を寄せて。
答える代わりに、私は曖昧に笑った。
水張りした水彩用紙の片隅に薄くオレンジを刷いたきり、私の筆は止まってしまった。
十月のクラブ展に、私はふたつの水彩画を出そうと思っていた。藤棚のベンチから見た海の絵と、記憶の中の春の夕暮れの絵。まずは海の絵を完成させてから、夕暮れを力を入れて描こうとしたのだったけれども。
描けなくなってしまっていた……私の夕暮れが。
「うーん、難しいよね、心象風景って」
佐倉先輩は私の後ろに回ってほとんど色のない私の絵を眺め、折り曲げた細い指をあごにあてる。
「……心象風景?」
「──でしょう? もとは現実の風景だったのかもしれないけど、それだけ強く心に残っているってことは、木暮さんにとって何か象徴的な意味があるってことじゃないかなあ。難しいと思う、そういう……心の原風景を表現するのって」
心の原風景……そうかもしれない。ずっと心の中にあって、思い出すとその金色の光に包まれているような特別な気持になるあの夕暮れ。
でも……。私はスカートの膝に視線を落とした。
夕暮れの絵は、今までもずっと描けなかった。何枚描いても、納得する絵は描けなかった。金の紗をフワリとかけたような夕空の色がうまくつくれないとか、五歳の私をくるんでいた、とても自由で安心できる不思議な空気感が、どうしても表現できないとか。
……でも、今回描けないのは、そういう技術的なことじゃない。
たとえ紙の上には描けなくても、心の中でなら、私はその夕暮れのすべてを鮮やかになぞることができたのに。
不意にピントがずれたように、私の夕暮れはぼやけてしまった。
「でも、焦ることはないよ。ううん、違うな。──焦る必要がない。ね?」
佐倉先輩のてのひらが私の肩に柔らかく置かれる。
「クラブ展に出すのは、他の作品でもいいんだから。……ほら、例えば、ひまわりの絵は? 美雨、夏休み前にスケッチしてたでしょ? あれ、おもしろい構図だったと思うよ?」
ひまわり? ──ああ、確かにスケッチをした。藤棚のベンチのそばで、あんまりキレイに元気よく咲いていたのに心を惹かれて。
頭に思い浮かべたスケッチに、色を入れてみる。空は透き通るようなブルー、葉っぱは落ち着いたグリーン、花びらは眩しいくらいのイエローライト。遠くに、真っ白な入道雲が見えて……。
イイかもしれない。
「……そうしようかな」
「その方がいいと思う。どっちにしても、思い入れのある大切な絵はじっくり描かなきゃだめだし、ウソだよ。クラブ展の〆切なんて関係なしでね」
私の肩を離れた佐倉先輩の指が、イーゼルの端に軽くかかる。
「その絵が描きたくて美術部に入ったって、木暮さん、前に話してくれたじゃない。そういうの、大事にしたいよね。探してる色とか、追いかけてる風景とか、きっと誰にでもあるんだよね……」
誰にでも? 私は佐倉先輩をふり仰いだ。佐倉先輩はどこか遠くを見るような目をしていたけれど。
「先輩も?」
尋ねた私の視線を、佐倉先輩は飾らない笑みで受け止めた。それから、窓の外へ、細めた優しい目を向けた。
「風景じゃないけど……ひと、だけど……」
ひと、と私は口の中で呟く。佐倉先輩はナイショ話のように静かに囁く。
「私、とても描きたいひとがいるの」
佐倉先輩が心に浮かべているのは、きっと──。
「あ、そうだ」
不意に佐倉先輩が私に目を戻した。──私、空の写真集を持っているの。夕暮れの空の写真もあったよ。参考になるかどうか、わからないけど、見てみる?
きっと参考にならない、と私は思った。でも、きっと素敵だろう、とも思った。だって、佐倉先輩が勧める空の写真集だ。
「貸してください」
すぐにそう答えていた。
☆
ひまわりの花びらをひと通り塗り終えて、私は海を見ていた。
昨日、美術室で佐倉先輩と話したことが、波に揺れるように心に浮かんでいる。佐倉先輩は、描きたいひとがいる、と言った。私はこどもの頃から風景ばかり描いてきた。中学校の美術部でも、ずっと。ひとなんて、人物なんて描きたいと思ったことはなかった。
けれど、夕暮れが描けない私は、『ひと』の絵なら描けそうな気がしていた。
描きたい……気がしていた。
……描いて、みようかな。
スケッチブックの頁を一枚破り、鉛筆を持つ。丸を書いて、目の位置を決めて……。
……すっきりとした輪郭をひく。額に落ちた長めの前髪。軽く結ばれた唇は少し強面な印象。でも、笑うと案外無邪気な感じになるんだ……。
私は目を閉じて顔を上向けた。瞼の裏に浮かぶのは、夜空に散ったスターマインの金と銀。その金と銀を背景にして私を見つめていた──澄んだ瞳。
微かに風が吹いていた。
風は海から来て藤棚を吹き抜けていく。葉ずれの音がため息のように瞼の上に落ちてくる。
まるで魔法のようだった。
ふじえだせんぱい──唇の動きだけで呟いて、上を向いていた顔を戻して目を開けると、呟いた名前のその人が、斜面の下の小径に立って私を見上げていた。