急に足を止めた私の体を、誰かが邪魔そうに押しのけて行った。中学生ぐらいの女の子たちのグループだった。押された勢いで、私はふたたび歩き出す。人混みを縫って歩いてくる、その人に向かって。
何かを探すように揺れていたその人の視線が、ふと、私の視線に重なった。うん? というように視線が止まる。
心臓が跳ねた。学年は違うけれど、同じ高校に通っている。スケッチを拾ってもらったことがある。藤棚のベンチとその下の坂道という近い距離にいたことが何度かある。私が誰かは知らなくても、見覚えくらいはあるかもしれない。
初めて見るその人の私服は黒のスキニーと白いTシャツ。ブルーグレーの半袖パーカーを無造作にはおって。
視線を合わせたまま、私たちは近づいて……。
私が頭を下げると、その人は軽く会釈を返してきた。そのまま私の横を行き過ぎようとした。
すれ違う──その瞬間、わたしは足を止めていた。
ふり返った。ブルーグレーのパーカーの裾が私のすぐそばをひらりと過ぎていく。その裾をつかみたいような気持ちにかられて……私は呼びかけていた。
「藤枝先輩──」
ドン、と誰かに肩がぶつかった。
「気をつけろ、おい」
男の人の声がした。お酒臭い息といっしょに。
ふたり連れの中年の男の人だった。
謝らなきゃ、と思った。
でも、声が出ない。
びっくりしたのは、いきなり目の前全部がブルーグレーになってしまったからだ。
「すみません」
低い、少しかすれた声が、私の代わりにおじさんたちに謝った。淡々と、落ち着いて。
ブルーグレーの向こう側で、笑い声がした。
「兄ちゃん、カノジョ、可愛いねえ」
「ガンバレよっ」
赤いてらてらした顔にいっぱいの笑いを浮かべて酔っ払いさんたちが行ってしまってから、藤枝さんは私に向き直った。
「大丈夫?」
私は黙って頷いた。声が出ない。さっきより、もっと出ない。
「ひとり?」
「……友達と、はぐれて……」
何とか、声を絞り出す。ふうん、と応じる藤枝さんの後ろの空で、金と銀のスターマインが打ち上っていた。キラキラと散っていく光が、とてもきれいだ。
「はぐれたときの待ち合わせ場所は、決めてある?」
尋ねられて、こくり、と頷いた。待ち合わせ場所じゃないけど、いつもみんなで花火を見る場所がある。そこに行けば大丈夫──そう説明しようと、私は大きく息を吸った。とにかく、まず、落ち着かなきゃいけない。
でも、そのとき。
「しの!」
鋭い声がまっすぐに飛んで来た。声をふり向く藤枝さんの視線を追って、私は小さく、あ、と声をたてる。
人波に見え隠れしてこちらに手を振ったのは、柊子の好きな川崎さんだった。元男バスの三年生。それから──川崎さんのすぐ横に、浴衣姿の佐倉先輩がいる。
浴衣はかすれたような渋い青地。裾と袖にえんじの蝶。長い髪をゆるい三つ編みにまとめて小さな花を飾った佐倉先輩は、学校で制服を着ているときより大人びて、もっとハカナゲでキレイに見えた。雰囲気があって、すごく素敵だ。
「ちょっと待ってて」
私にそう言って、藤枝さんはひらりと人波に分け入った。川崎さんと佐倉先輩のところへ行って、何か話して──。
佐倉先輩と川崎さんがそろってこちらを見たので、私はとっさにふたりに向かってぺこりとお辞儀をした。顔を上げると、佐倉先輩がいつも通り優しく笑っている。けれど、川崎さんは表情を崩さずに、強い視線で私を見た。
にらまれたような気がした。そんなはずないのに。だって、にらまれる理由がない。話したこともない人だ。柊子の好きな人、でも、私には知らない人。
最後のスターマインが華やかに空を焦がし、プラチナの光の糸が夜空を流れて消え去った。たくさんの破裂音が重なり合って響いたあと、辺りは一瞬しんとしてから拍手と感嘆の声に包まれる。
藤枝さんが私のところへ戻ってきた。
「行こう」
驚いた。
どこへ? ──尋ね顔で藤枝さんを見上げると。
「待ち合わせ場所。送るよ」
「え、でも……」
私は佐倉先輩たちにちらりと目をやる。藤枝さんは小さく笑った。
「佐倉に頼まれた。可愛い後輩をよろしく、ってさ。行こう。どこ?」
「……神社の裏の……」
……小さな公園。いつも花火を見る場所を、私は伝える。
了解、と藤枝さんが歩き出し、私はあわててその後を追った。佐倉先輩たちに、もう一度素早く頭を下げて、失礼します、の挨拶をして。
ブルーグレーのパーカーが私のすぐそばにある。ちょっと手を伸ばせばその裾を握れそう。藤枝さん側にある私の腕は棒みたいに固くなって、手は、ぎゅっ、と拳に握られているけれど。
藤枝さんが気さくな調子で話しかけてくる。
「よく来るの? ここの花火」
私が緊張しているのがわかって、先輩としてそれをほぐそうとしてくれている感じだ。
そんなふうに気を遣ってもらっては、声が出ないなんて言ってはいられない。精いっぱい明るい声を心がけて、答えを返した。
「は、はい。近所なので、毎年」
「俺は高校に入ってからかな。さっきのふたりの──あ、ふたりともクラスメイトなんだけど──男の方に誘われて」
川崎さんが藤枝さんを花火に誘って……?
じゃあ、佐倉先輩は誰が誘ったのかな……? ちょっと聞きたくなった。藤枝さんが誘ったのかな。ひょっとして、藤枝さんと佐倉先輩、つきあってるのかなあ。でも、つきあっているのなら、三人じゃなくて、佐倉先輩とふたりで花火を見に来るよね?
三人、って、何だろう。
「男の方は、川崎っていうんだけど……」
「あ、知ってます。女バスに友達がいて……」
藤枝さんは、軽く目を開いた。ああ、と何かを納得したように。
「それで、俺の名前も知ってたんだ?」
頬に血がのぼった。たぶん、私、真っ赤だ。私、同じ高校と言うだけで何のつながりもない上級生に、藤枝先輩、なんて親し気に呼びかけてしまったんだ。でも、
「俺も、君の名前、知ってるよ」
私の恥ずかしさには気づかないように藤枝さんが続けて、私はいったん伏せてしまった顔を上げる。私の視線を受けて、藤枝さんが私に笑いかける。
「木暮美雨さん──だろ?」
神社の裏の公園の入り口で、私はお礼を言って藤枝さんと別れた。
名前を知っていてくれたなんて、びっくりした。嬉しかった。──だけど、きっと、『後輩をよろしく』のついでに佐倉先輩が教えた、なんてオチなんだろうな。
がっかりするオチだから、なぜ私の名前を知っているんですか、とは聞かなかった。オチが確定しなければ、なぜ私の名前を知っていたんだろうって、いろいろ空想して楽しめる。
……佐倉先輩たちのところに引き返していく藤枝さんを、公園の入り口に立ったまま見送っているときに、ふと気がついた。藤枝さんの下の名前が何か、聞けばよかった。せっかく名前のことが話題になったのに。先輩の口から自分の名前が出たことにびっくりしすぎて、タイミングを逃してしまった……。
私の名前を知っていてくれたことのどきどきと、『しの』の謎が解けなかった残念さをゆらゆらと心に浮かべながら、私は先輩を人混みの中に見えなくなっても見送っていた。
何かを探すように揺れていたその人の視線が、ふと、私の視線に重なった。うん? というように視線が止まる。
心臓が跳ねた。学年は違うけれど、同じ高校に通っている。スケッチを拾ってもらったことがある。藤棚のベンチとその下の坂道という近い距離にいたことが何度かある。私が誰かは知らなくても、見覚えくらいはあるかもしれない。
初めて見るその人の私服は黒のスキニーと白いTシャツ。ブルーグレーの半袖パーカーを無造作にはおって。
視線を合わせたまま、私たちは近づいて……。
私が頭を下げると、その人は軽く会釈を返してきた。そのまま私の横を行き過ぎようとした。
すれ違う──その瞬間、わたしは足を止めていた。
ふり返った。ブルーグレーのパーカーの裾が私のすぐそばをひらりと過ぎていく。その裾をつかみたいような気持ちにかられて……私は呼びかけていた。
「藤枝先輩──」
ドン、と誰かに肩がぶつかった。
「気をつけろ、おい」
男の人の声がした。お酒臭い息といっしょに。
ふたり連れの中年の男の人だった。
謝らなきゃ、と思った。
でも、声が出ない。
びっくりしたのは、いきなり目の前全部がブルーグレーになってしまったからだ。
「すみません」
低い、少しかすれた声が、私の代わりにおじさんたちに謝った。淡々と、落ち着いて。
ブルーグレーの向こう側で、笑い声がした。
「兄ちゃん、カノジョ、可愛いねえ」
「ガンバレよっ」
赤いてらてらした顔にいっぱいの笑いを浮かべて酔っ払いさんたちが行ってしまってから、藤枝さんは私に向き直った。
「大丈夫?」
私は黙って頷いた。声が出ない。さっきより、もっと出ない。
「ひとり?」
「……友達と、はぐれて……」
何とか、声を絞り出す。ふうん、と応じる藤枝さんの後ろの空で、金と銀のスターマインが打ち上っていた。キラキラと散っていく光が、とてもきれいだ。
「はぐれたときの待ち合わせ場所は、決めてある?」
尋ねられて、こくり、と頷いた。待ち合わせ場所じゃないけど、いつもみんなで花火を見る場所がある。そこに行けば大丈夫──そう説明しようと、私は大きく息を吸った。とにかく、まず、落ち着かなきゃいけない。
でも、そのとき。
「しの!」
鋭い声がまっすぐに飛んで来た。声をふり向く藤枝さんの視線を追って、私は小さく、あ、と声をたてる。
人波に見え隠れしてこちらに手を振ったのは、柊子の好きな川崎さんだった。元男バスの三年生。それから──川崎さんのすぐ横に、浴衣姿の佐倉先輩がいる。
浴衣はかすれたような渋い青地。裾と袖にえんじの蝶。長い髪をゆるい三つ編みにまとめて小さな花を飾った佐倉先輩は、学校で制服を着ているときより大人びて、もっとハカナゲでキレイに見えた。雰囲気があって、すごく素敵だ。
「ちょっと待ってて」
私にそう言って、藤枝さんはひらりと人波に分け入った。川崎さんと佐倉先輩のところへ行って、何か話して──。
佐倉先輩と川崎さんがそろってこちらを見たので、私はとっさにふたりに向かってぺこりとお辞儀をした。顔を上げると、佐倉先輩がいつも通り優しく笑っている。けれど、川崎さんは表情を崩さずに、強い視線で私を見た。
にらまれたような気がした。そんなはずないのに。だって、にらまれる理由がない。話したこともない人だ。柊子の好きな人、でも、私には知らない人。
最後のスターマインが華やかに空を焦がし、プラチナの光の糸が夜空を流れて消え去った。たくさんの破裂音が重なり合って響いたあと、辺りは一瞬しんとしてから拍手と感嘆の声に包まれる。
藤枝さんが私のところへ戻ってきた。
「行こう」
驚いた。
どこへ? ──尋ね顔で藤枝さんを見上げると。
「待ち合わせ場所。送るよ」
「え、でも……」
私は佐倉先輩たちにちらりと目をやる。藤枝さんは小さく笑った。
「佐倉に頼まれた。可愛い後輩をよろしく、ってさ。行こう。どこ?」
「……神社の裏の……」
……小さな公園。いつも花火を見る場所を、私は伝える。
了解、と藤枝さんが歩き出し、私はあわててその後を追った。佐倉先輩たちに、もう一度素早く頭を下げて、失礼します、の挨拶をして。
ブルーグレーのパーカーが私のすぐそばにある。ちょっと手を伸ばせばその裾を握れそう。藤枝さん側にある私の腕は棒みたいに固くなって、手は、ぎゅっ、と拳に握られているけれど。
藤枝さんが気さくな調子で話しかけてくる。
「よく来るの? ここの花火」
私が緊張しているのがわかって、先輩としてそれをほぐそうとしてくれている感じだ。
そんなふうに気を遣ってもらっては、声が出ないなんて言ってはいられない。精いっぱい明るい声を心がけて、答えを返した。
「は、はい。近所なので、毎年」
「俺は高校に入ってからかな。さっきのふたりの──あ、ふたりともクラスメイトなんだけど──男の方に誘われて」
川崎さんが藤枝さんを花火に誘って……?
じゃあ、佐倉先輩は誰が誘ったのかな……? ちょっと聞きたくなった。藤枝さんが誘ったのかな。ひょっとして、藤枝さんと佐倉先輩、つきあってるのかなあ。でも、つきあっているのなら、三人じゃなくて、佐倉先輩とふたりで花火を見に来るよね?
三人、って、何だろう。
「男の方は、川崎っていうんだけど……」
「あ、知ってます。女バスに友達がいて……」
藤枝さんは、軽く目を開いた。ああ、と何かを納得したように。
「それで、俺の名前も知ってたんだ?」
頬に血がのぼった。たぶん、私、真っ赤だ。私、同じ高校と言うだけで何のつながりもない上級生に、藤枝先輩、なんて親し気に呼びかけてしまったんだ。でも、
「俺も、君の名前、知ってるよ」
私の恥ずかしさには気づかないように藤枝さんが続けて、私はいったん伏せてしまった顔を上げる。私の視線を受けて、藤枝さんが私に笑いかける。
「木暮美雨さん──だろ?」
神社の裏の公園の入り口で、私はお礼を言って藤枝さんと別れた。
名前を知っていてくれたなんて、びっくりした。嬉しかった。──だけど、きっと、『後輩をよろしく』のついでに佐倉先輩が教えた、なんてオチなんだろうな。
がっかりするオチだから、なぜ私の名前を知っているんですか、とは聞かなかった。オチが確定しなければ、なぜ私の名前を知っていたんだろうって、いろいろ空想して楽しめる。
……佐倉先輩たちのところに引き返していく藤枝さんを、公園の入り口に立ったまま見送っているときに、ふと気がついた。藤枝さんの下の名前が何か、聞けばよかった。せっかく名前のことが話題になったのに。先輩の口から自分の名前が出たことにびっくりしすぎて、タイミングを逃してしまった……。
私の名前を知っていてくれたことのどきどきと、『しの』の謎が解けなかった残念さをゆらゆらと心に浮かべながら、私は先輩を人混みの中に見えなくなっても見送っていた。