「赤い布が足りないわ‼ もっと持ってきてちょうだい‼」
「黄色の患者! こっちです! そっちはもっと重篤な患者用です!!」
狭い治療場の至る所で悲鳴に似た叫び声が飛び交う。
私は額に流れる汗を拭う暇すらなく、ひたすらに運ばれてくる兵士たちの治療に専念していた。
「いてぇ! いてぇよぉ‼」
「うわぁぁぁ!! こっちに来るなぁ!! あぁぁぁ!! ああああ!!」
目の間に運ばれてくるのは呪いを受けた兵士たち。
弱い【痛み】だけならまだデイジーも対応できるが、【恐怖】に侵されている者までいる。
隣では【痛み】の呪いを受けた兵士を何とか落ち着かせようと優しく声をかけるデイジーが、悪戦苦闘していた。
「大丈夫よ。落ち着いて。深呼吸を。動いていたらうまく治療できないわ」
「いやだぁあぁぁ! 痛いぃぃぃ!! 痛いんだよぉぉ!! 助けてくれ! 殺してくれー!!」
痛みのせいで、屈強な兵士すら、気が狂ったように叫び続けている。
今思えば、クロムが瀕死の状況で【痛み】に侵されていたのに、あれだけ自制心を保っていたのは凄いことだったのだろう。
呪いを受けた兵士たちの多くは泣き、叫び、そして暴れまわった。
なんとか数人がかりで押さえつけ、その隙に治療を施すのだが、これが一苦労だった。
「ロベリアが魔力枯渇です! 休ませます!!」
「分かったわ! 他の人も無理をしないで! 休むのも立派な仕事よ!」
同期の休憩を代わりに告げてきた衛生兵に私は視線を動かすことなく叫んで返す。
治療が忙しすぎて、横を振り向く暇すら惜しいのだ。
数週間前に戦闘の最前線に繰り出された私たち第二衛生兵部隊は、苦戦を強いられていた。
とにかく負傷兵が多すぎるのだ。
前線ではこれほどまでに負傷兵がいたのかと驚くほどの数が、休むことなく運ばれてくる。
その中には猛毒や呪いを受けた兵士も少なくない。
「きっと、前線から後衛の衛生兵部隊まで運ばれる間に、助からなかったのね……」
猛毒は速やかに全身の周り、患者を死に追いやる。
そして止むことのない痛みや恐怖は、受けた本人を自死へと誘っていたのだろう。
「もう少しだけ辛抱して! 今治すから‼︎」
「聖女様! 布なしです! 毒と呪いの複合です‼︎」
「すぐに運んで‼︎ 順番に並べるのよ‼︎ デイジー! 代わりにこっちをお願い‼︎」
「分かりました‼︎」
初期の解呪を覚えたデイジーがいてくれたおかげでなんとかなっている。
しかし、私たちも万能ではなく、すでに間に合わなかった犠牲者も出始めていた。
「人手が! 人手がまるで足りないわ‼︎」
「部隊長! 本部からの伝達ですがどうしますか⁉︎」
休む間もなく回復魔法を施していた私の元に、衛兵が一人駆け寄ってくる。
その表情はどうすればいいか分からず、オロオロとした様子だ。
「読んでる暇なんてないわ! あなた! そこで読み上げなさい‼︎ 私に聞こえるようはっきりと!」
「し、しかし……軍の重要機密の印が押されていますが……」
「構わないわ。この問答すら時間の無駄だと言うのが分からないの? 早く読みなさい!」
「わ、分かりましたァ‼︎」
私に促されて衛兵は手に持った伝達の封を切り、中から紙を取り出すとはっきりとした声で読み始めた。
「第二衛生兵部隊長フローラに告げる。本日より、衛生兵の増員を送ることとする。衛生兵部隊長官カルザー」
文章はたったそれだけだった。
しかし、その分の意味を私はしっかりと理解した。
「まさか! このタイミングで訓練兵を⁉︎」
元々は私の部隊、第二衛生兵部隊には回復魔法を使うことのできない衛生兵を、訓練兵として集める予定だった。
その訓練兵たちは表向きはみな、既に回復魔法を使える立派な衛生兵ということになっている。
モスアゲート伯爵にバレずに前線の戦力を増強するための、ベリル王子主導の戦略のはずだが、その訓練兵が今送られてきたと言うのだ。
足りない人員を補う戦力として。
これがもし、ベリル王子の名で出された伝達や、ダリアもしくはアンバーだったら話が違っていただろう。
しかし、書かれていたのは長官カルザー。
彼がモスアゲート伯爵の息がかかった人物だと言うことは間違いない。
その彼が増員という形で訓練兵を送ってきたということは……
私が、どうするか思案していたところに、窓から一匹の黒い鳥が飛び込んできた。
突然の闖入に驚きの声をあげる者もいる。
しかし私はこの鳥に見覚えがあったので、驚くことなく、私の肩にとまった黒い鳥に耳を傾ける。
すると黒い鳥の嘴から、聞き覚えのある男性の声、アンバーの声が聞こえてきた。
「大変だよ。聖女様。どうやら奴さんに計画がバレたらしい。僕やダリアのところは元々実戦で鍛える計画だったから問題ないけど、問題は聖女様のところだ」
私は治療を続けながら、黒い鳥を介して伝達されるアンバーの言葉に注意深く聞き入った。
「そっちも今最前線でてんやわんやだろ? そんなところにろくに使えない訓練兵さ。しかも名目上は増員って話でね。鍛える暇もなく、増員したのに成果は変わらず。奴ら聖女様を戦場から追い出すつもりだよ!」
予想通りの展開に、私は一度深い息を吐く。
確かに人手は足りず、増員が欲しいと願ったが、それは回復魔法が使える衛生兵、つまり使い物になる人物としてだ。
ここでの訓練兵は、足手まといとまでは言わないが、期待する援助にはならないだろう。
しかも名目上はきちんとした衛生兵を送ったというのに、状況が改善しないとなれば、部隊長である私に何らかの罰を与えることもできる。
流石に命に関わることはないだろうが、これ以上戦地に関わりの持てないような処遇を受けることだってできるかもしれない。
そこまで考えて、もう一度、息を強く吐き出した。
「思い通りにさせるもんですかっ! 訓練兵の訓練の時間が取れないなら、私たちも実地で訓練させてあげればいいのよ!」
私が意気込んでいる間に、件の訓練兵たちがぞろぞろと治療場へと訪れてきた。
みな、困ったような、不安そうな顔をしている。
彼女らは事情をほとんど知らないはずだ。
回復魔法の訓練を無償で行え、衛生兵として職を持つことができるとだけ聞き、この戦場に来たのだろう。
そんな彼女らが最初に訪れた場所が、最も危険で過酷な最前線の治療場だとは夢にも思わなかったに違いない。
しかし、私も彼女らも泣き言を漏らしても事態は一向に改善しないのだ。
いまだにオロオロと、どうすればいいのか分からないまま立ち尽くす白いリボンタイを付けた訓練兵たち。
彼女らに私は立ち上がり大声で今後のことを手短に伝えた。
「ようこそ! 第二衛生兵部隊へ! 部隊長のフローラよ! 見て分かる通り、一人でも手助けが必要な状態なの。ただし、手取り足取り教えている暇は残念ながら無いわ。一人ずつ、緑色のリボンタイをしている衛生兵の元に行き、実際に治療しながら、回復魔法を覚えなさい‼︎」
訓練兵が来てから一週間が経った。
初めは教える側も教えられる側も戸惑っていたものの、少しずつ慣れてきたようだ。
第二衛生兵部隊にいる緑色のリボンタイをしている衛生兵は、全員が私やデイジーから訓練を受けている。
どうすれば回復魔法を使えるようになれるか、一から知っているという訳だ。
何も知らない訓練兵に、一から教えるとしても、問題はないだろう。
逆に初めから回復魔法が使えた者だと、使えない者の感覚というの理解できず、そこでつまずく危険性があった。
また、緑色の負傷兵は時間的余裕もある。
中には早くしろと怒鳴り出す兵士もいたが、私が気に食わないなら治療しないと言うと、誰もが大人しくなった。
少し大人気ない言い方かもしれないが、いちいち時間をかける余裕もない。
前線に来てから、今までより精神的に強くなったようにも思う。
そうやって先輩の仕事を見ながら、都度練習し、訓練兵は実地で訓練を行っていく。
魔力操作をし、回復魔法を唱える様子を実際に見ていた方が、実感が湧きやすいのか、今までよりも習得が早いようにも見えた。
少しだけある休憩時間、隊長用の執務室で魔力を回復させるために休んでいると、サルビアが報告しにきた。
私が休んでいる間はデイジーが必ず治療場にいるので、訓練兵の伝言はサルビアに頼んでいる。
「回復魔法を使えるようになってきた者も増えてきたようです」
「思いつきの方法だったけれど、なかなかうまくいっているみたいね。これからは、上の方にも取り入れるわよ。まずはサルビア、あなたも紫色を付けれるようになりなさい」
既に毒の治癒を行える赤色のリボンタイを付けれられる衛生兵は、サルビアだけではなくなっていた。
しかし、初級の呪いを解呪できる者が付けることが許された紫色のリボンタイは、いまだにデイジーだけだった。
ちなみに、元々は紫は強い毒の解毒だけで、呪いの解呪は私だけしかできない布なしだった。
しかし、部隊の能力が向上するにつれ、黄色以上の要求はそれぞれ変わっていった。
初めは色を増やすことも検討したけれど、あまり増やすと負傷兵に布を巻く際に、煩雑だということで、色の数はそのままにすることにしたのだ。
「紫色のリボンタイですか……本心としてはすぐにでも付けられるようになりたいところですが……」
「あなたには付けられる才能があるわ。自信を持ちなさい。以前よりも扱える魔力は格段に増えているはずよ。あとはきっかけだけ」
「ありがとうございます。しかし……その……コツと言いますか。限られた時間ですが、暇がある時には訓練をしていますが一向に」
「ええ。分かっているわ。あなたは努力をしている。だから、今日から私と一緒に布なしの対処をしてもらうわ」
伝えた瞬間、サルビアの目が見開いた。
驚きと興奮の様子だ。
「本当ですか⁉︎ 聖女様の治癒を近くで見ることができるなんて! ありがとうございます‼︎」
「お礼を言っている場合じゃないのよ。サルビア。治療はできるだけあなたが担当するの。もちろんできないことをやらせるつもりはないけれど」
「どういうことですか?」
「訓練兵と一緒よ。治療場で治療を施しながら、あなたに解呪の魔法を教えるわ。つまり実地訓練ね」
「え⁉︎ でも、呪いを受けた兵士たちは、みんな気が狂いそうな状態ですよ? 私が失敗したら……」
「少なくとも呪いですぐに死ぬことはないわ。長期間放置されてしまえば精神が病んでしまうこともあるけれど。治療場で過ごす時間程度では、そんなことも起きないでしょうね」
私が今からやろうとしていることは、やられる負傷兵からみれば、たまったものではないことは十分理解している。
しかし、今のままではデイジーと私のどちらも手を空けることができない。
もしサルビアがデイジーの負担を減らすことができれば、少なくとも私かデイジーの手が空く時間を捻出することができるかもしれない。
訓練兵が白色から緑色になるための訓練ならば、今のやり方で問題がない。
しかし、黄色や赤色になるためには適さない。
時間経過の結果、出血や毒によって命を落とす危険が圧倒的に高くなるからだ。
どうしても次の段階に行くためには、実地ではない、これまで通りの訓練も必要だ。
つまり、逼迫していない状況での訓練だ。
それを実現しなければ、求めた増員にはなりえない。
もしここが以前のような後衛に設置された陣営だったのであれば、緑色でも十分戦力になっただろう。
しかし、前線は予想していた以上に、重篤な負傷兵が多い。
小さな傷を治すことしかできない衛生兵では不十分なのだ。
サルビアが解呪の魔法を習得するまで、負傷兵には今よりも多少の痛みが伴う。
それは必要な痛みだと思うしかない。
私は神ではないのだ。
今この瞬間、全ての衛生兵を私と同じ程度の回復魔法の使い手にする方法があるのなら、喜んでこの身すら投げ出そう。
しかしそれは起こり得ない。
ならば、着実に一歩一歩進んでいくしかない。
「あなたが解呪の魔法を習得することは、今後の第二衛生兵部隊全体にとって、とても重要なことなの。サルビア、やってくれるわね?」
「……分かりました! できるだけ早く習得するように、精一杯頑張らせていただきます‼︎」
次の日から、サルビアの実地訓練による私からの直接指導が始まった。
と言っても、すぐに解呪の魔法が使えるようになるわけではないので、最初は隣でやり方を見てもらっている。
「いい? 通常の怪我を治すための治癒の魔法と、毒を直す解毒の魔法の違いは感覚でわかっているわね?」
「はい。うまく言葉に表せられないですけど、治癒はほわーって感じで、解毒はじわーって感じですね。全然違います」
思わずサルビアの説明に小さな微笑みを抱いてしまう。
彼女の言う通り、魔法の感覚というのを口で説明するのは非常に難しい。
さらに、同じ魔法を唱える場合にも、使用者の感覚はそれぞれだ。
私の場合も、あえて擬音で感覚を表すとしたら、治癒魔法は同じほわーだが、解毒魔法はしゅって感じになる。
「そう。いいわね。その擬音で感覚を表すの。今度使わせてもらうわ」
「はい! 気に入ってもらえて恐縮です!」
こんな会話をしているところだが、目の前には【痛み】の呪いを受け、先ほどから痛みを訴えている紫色の布を巻いた負傷兵がいる。
呪いの範囲はまだ狭く、痛みも耐えられるようだが、これ以上放っておくのも可哀想だろう。
「それじゃあ、まずは見せるわね」
「うぅぅぅ‼︎」
痛みに耐えかねたのか、負傷兵から声が漏れる。
私はできるだけ素早く、かつ必要最低限の魔力を練って、解呪の魔法を唱えた。
以前より魔力の総量は格段に増えたものの、使用する魔力の量もこの前線では桁違いで、できるだけ節約する必要がある。
おかげで、魔力量を操る力も、以前とは比べ物にならないほど繊細な扱いが可能にになった。
両手に光が集まり、眩く輝く。
その光に負傷兵の体に刻まれた呪いの紋様が呼応し、墨が水に溶け流れるように、徐々に消えていった。
「やっぱり聖女様の魔法はすごいです! こんな近くで見られて、私、感激です‼︎」
「喜んでいる場合じゃないわよ? これをサルビアにはできるようになってもらわないければならないのだから」
痛みが消えたおかげで、顔の歪みが取れた負傷兵に、私は告げる。
「これで呪いは消えたわ。残りの怪我については、サルビアが看るわね。そして、治療に時間がかかってごめんなさいね。今彼女の訓練中なの」
「あぁ……そうでしたか。お気になさらないでください。あなた方はこうして私を救ってくださったのですから。それに、聖女様と兵士たちから呼ばれるあなたに治療されて、私は運が良かった。ありがとうございます」
「消失した大腿部、治癒完了しました!」
「あぁ……魔族の攻撃を受けた時はもうダメかと思いましたが、まさか再び五体満足に戻れるとは。本当にありがとうございます。ありがとうございます」
何度もお礼を言いながら、兵士は去っていった。
確かに彼の言う通り、前線では未だに死者が後を絶たない。
その多くは、治療場に運ばれてくる前に手遅れになっていた。
今は運ばれてくる負傷兵の治癒で手がいっぱいだが、いずれ訓練兵たちが成長し、他の衛生兵たちの能力の底上げも済めば、何か改善策を練りたいと思っているところだ。
そんなことを考えている間に呪いを受けた他の負傷兵が運ばれてくる。
「それじゃあ早速。サルビアに解呪の魔法を使ってもらうわね」
「え⁉︎ そんな! 無理ですよ! いきなりなんて‼︎」
サルビアの叫び声に、負傷兵は不安そうな顔をこちらに向ける。
私は大丈夫だと諭すように、微笑みを負傷兵に向けて、説明を始めた。
「ごめんなさいね。辛いのはよく分かっているの。でも、少しだけこの子の成長の手伝いをしてちょうだい。大丈夫。必ず良くなるから。そこは安心して」
そう言った後、サルビアへの説明を続ける。
「いきなりできるようになるだなんて、私も思っていないわ。でも、やらなければ、いつまで経ってもいきなりから卒業できないわよ?」
「そ、そうですね。分かりました。やります! やらせてください!」
既にサルビアは知識としての解呪の魔法については習得済みだ。
必要なのは感覚。
しかし、その感覚は自分だけのもの。
さらに、攻撃魔法と違い、回復魔法は実際の怪我や毒、呪いを受けた人に使ってみないと、その効果が出ているのか判断が難しい。
同じ系統の上位の魔法を使う分には、同じ感覚を利用できるため、わざわざ実際の怪我などに唱える必要がない。
しかし、新しい感覚を身に付ける時は、確認として必須だった。
今回の場合で言えば、サルビアが解呪の魔法を使えるようになったかどうか確認するためには、実際に呪いを受けた人物への治療が必要だ。
まずはダメもとでやらせてみる。
「いきます!」
サルビアが目を瞑り、解呪の魔法を唱え始める。
差し出した両手に私の時と同じように光が集まり始めた。
サルビアは瞑っていた目を開き、両手の光で呪いの紋様を照らすように近づける。
しばしの沈黙。サルビアの表情は真剣そのものだ。
「うまく……いっていないようね」
私の声にサルビアは明らかな落胆の表情を見せる。
サルビアが光を呪いの紋様に当ててからしばらく経っても、紋様の色は一向に薄まったり消えたりすることはなかった。
つまり――失敗だ。
急いで私は解呪の魔法を唱え始めた。
私の挙動に気づいたサルビアは、かざした手を引っ込める。
先ほどサルビアの手がかざされていた場所に、私の手をかざす。
今度は、ほとんど時間を置くことなく、呪いの紋様は溶けて消えていった。
「すいません……やっぱりうまくいかなかったみたいです……」
サルビアは申し訳なさそうに謝ってきた。
私は首を横に振り、問題ないことを告げる。
「大丈夫よ。言ったでしょう? これは訓練だって。初めからできるのなら、訓練は必要ないのよ。できないからこその訓練なの。さぁ、いちいち失敗に落ち込んでる暇はないわよ! 負傷兵はどんどん運ばれてくるのだから!」
「そうですね……はい!」
サルビアは元来の明るさを取り戻し、再び呪いを解くために、新たな負傷兵に向かって、解呪の魔法を唱え始めた。
「すいません! 今回もダメです‼︎」
「大丈夫! そろそろ魔力が消えかかっているようね。少し休みなさい。でも、私の治療を見ているのよ」
かなりの時間、互いに試行錯誤をしながらサルビアの訓練を続けていたものの、結果は芳しくはなかった。
その主な理由は感覚の違い。
デイジーに解呪の魔法を指導する際には、私の感覚とデイジーの感覚がたまたま似通っていたおかげか、時間はかかったものの、何とか習得してもらうことができた。
しかし、先ほどの解毒の魔法の感覚が大きく違ったように、私とサルビアの感覚には大きな隔たりがあるようだ。
「ごめんなさい。何かいい方法があればいいのだけれど……」
「そんな! 聖女様は一つも悪くありません! こんなに時間を割いて指導いただいているのに、できない私が悪いんです‼︎」
その場に座り込みながら、消耗した魔力を回復させるサルビアがそう言う。
私は首を横に振り、どうにかならないかと思案していた。
やはり一番重要なのは、感覚だ。
デイジーが解呪の魔法を覚えた時も、口頭でだが私が解呪の魔法を使う時の感覚を伝えたことがきっかけだった。
それまで何度やっても失敗していたデイジーだったが、感覚を伝えた途端、何か気づきがあったようで、数日間独自に訓練をしていた。
その後、再び解呪に挑戦し、完全に解呪するまではいかなかったものの、使う際に必要な感覚が掴めたと、喜んでいた。
悩みで気が疎かになっていた矢先、聞き覚えのある声同士の会話がふと耳に入った。
声のする方を見ると、ロベリアが負傷兵として運ばれてきたアイオラと話している。
「兄さん! また怪我をしたの?」
「あはは。そりゃあ、戦闘をしているんだから怪我はいつだってするさ。それに今回は前回みたいな酷いものじゃない。大丈夫だよ」
「そうよね……安心して! 兄さんや他の兵士さんがいくら傷ついたって、聖女様のいるこの部隊がたちまち綺麗さっぱり治しちゃうんだから!」
「そりゃあ頼もしいなぁ。ロベリアも頑張っているみたいだね。さぁさ、仕事中だろう? いつまでも油を売ってないで持ち場に戻るんだよ」
「残念でした! 今は休憩時間ですー。あ、でも他の人に邪魔になるから、そろそろいくわね。兄さんも無茶しないでね」
「ああ。今回の怪我はアンバー部隊長を庇って受けた傷でね。僕としては敬愛する部隊長を守れて、誇りに思っているんだけど、案の定、本人にこってり怒られたよ」
珍しく明るい雰囲気に私はついつい聴き入ってしまっていた。
そこで、あることを思い出す。
「ちょっと、一瞬だけ外すわね」
そう言って、私はアイオラの方へと向かい、声をかけた。
「久しぶりね。アイオラ。ロベリアはその後しっかりやってくれているわ。ところで、あなたに少しだけ教えて欲しいことがあるの」
「これは聖女様。あの節は本当にありがとうございました。おかげでこうしてあなたやロベリアの顔を見ることもできますし、未だに生きています」
「時間があまりないから単刀直入に言うわね。前に私に魔力の練り方を教えてくれたでしょう? あれは、どうやってやるの?」
「え? ああ、あの方法ですか……すいません。まさか聖女様だとはあの時は分からず、生意気を言ってしまって」
アイオラは一瞬驚いた顔をして、それから頭を下げた。
あの時は目が見えなかったし、そもそもアイオラが攻撃魔法用の魔力の練る場所を教えてくれたおかげで、彼を助けることができたのだから、感謝しかない。
「いいのよ。それで、あれは誰でもできるのかしら?」
「ええ。魔力をすでに練ることができる人なら誰でも。練った魔力を、繋いだ手を通して相手に送るんです。相手が力を抜いていれば、その魔力は最も通りやすい場所を通ってから、反対の手に流れます。昔、ロベリアと遊んでいる時に気づいたんですが……」
「ありがとう! 分かったわ。ちょっとやってみるわね。手を貸してくれるかしら?」
「え? ええ。でも、私はもう既に魔力の練り方を知っていますから、今さら……ああ、通すことができるかの確認ですね。それなら知っている相手にやってみた方が間違いが少ない」
そう言いながら、アイオラは私の差し出した両手を握り返した。
さっそく回復魔法を使うための魔力を練り、右手からアイオラの手に通すようイメージする。
すると、確かに手を通してアイオラの身体に私の魔力が流れていく。
よく考えれば、私自身も、魔力を右手から左手へとアイオラの頭の中を通したことがある。
あれは意識的に魔力の流れを制御して、まっすぐ手の間を流していたけれど、今回は送った後のことは、分からない。
少しの時間の差があってから、右手に送った魔力と同じものが、アイオラの手から私の左手へと流れ込んできた。
「どう? できているかしら?」
「え、ええ……できている、と思うんですが。何故か経路も、熱を帯びる場所も違うように思います。普通だとへその下辺りが暖かくなるんですが、今は胸の辺りが暖かくなりました」
「本当? それでいいの。成功よ。ありがとう!」
「え? そうなんですか? なんだか分かりませんが、お役に立てて良かったです。それでは、僕もいつまでもここで休んでいるわけにはいかないので失礼しますね。部隊長を心配させるといけませんから」
そう言うとアイオラは軍式の敬礼をしてから、治療場を後にした。
私は、すぐに戻り治療を再開する。
それを見ていたサルビアが不思議そうな顔を私に向け、質問を投げかけてきた。
「聖女様。あの人ってロベリアのお兄さんですよね? いきなり手を握りしめたりして、どうしたんですか? まさか、聖女様のいい人ですか⁉︎」
「何を馬鹿なこと言っているの。違うわよ。それはそうと、サルビア。魔力が回復したら、ちょっと試したいことがあるの」
不思議そうな顔のままのサルビアに向かって、私は笑みを送った。
しばらくしてから、床に座りながら私の治療を眺めていたサルビアが、立ち上がり、休憩終了を告げる。
「すいません、聖女様。お待たせしました。それにしても……あんなに治療をしたのに、まだ魔力が尽きないなんて。聖女様の魔力の総量は恐ろしいですね……」
「そうかしら? でも、魔力って使っていると自然と増えるでしょう? だから、ここの部隊のみんなだって、前よりもずっと増えているはずよ」
「それでもいつまで経っても聖女様に及ぶ未来が見えません。私が少し増えている間に、聖女はずっと増えてそうな気がして」
「魔力の総量を簡便に測る方法があればいいのだけれど。そうすれば、衛生兵の配備だってもう少し効率よくできる気がするの」
「聖女様は本当にいつも、より良くすることを考えてらっしゃるんですね。頭が下がります。それで、魔力が回復したらやることとはなんでしょうか?」
「ああ! そうだったわ。ごめんなさい。また、少し治療を止めるわね」
私はサルビアの方を向き、先ほどと同じように両手を差し出す。
サルビアはなんだかよく分からないといった顔を見せたが、私が伝えるより前に私の手を握り返してきた。
「さっきと同じことやるんですね? 握りましたが、何をするんです?」
「ええ。そうなの。解呪の魔法の感覚がどうしても口で伝えられないでしょう? だったら、直接身体に教えたらどうかと思って」
「え? 直接身体にですか? どういうことです?」
「今から私が練った解呪の魔法用の魔力をサルビアの身体に送るわ。全身の力を抜いて、楽にしてちょうだい。呼吸を深く。きっと魔力が、胸の辺りを通るはず。その時の感覚を掴んでちょうだい」
私は先ほどのアイオラの時とは違い、解呪の魔法に適した魔力を練り始める。
その魔力を先ほどと同じように右手からサルビアの繋いだ手へと流し込んだ。
少し緊張しているのか、若干抵抗を感じながら、私の魔力がサルビアに流れていくの感じていた。
その瞬間、サルビアの表情が驚いた顔になった。
「わ、わ! なんですか、これ? なんだか、すごく……え、え⁉︎」
私からは分からないけれど、サルビアの身体の中を、私の魔力が流れているのだろう。
左手に魔力が流れてくるの感じ、私は繋いだ手を解いた。
「もういいわ。どう? 何か感じたかしら?」
「え? え、ええ! え……と、ちょっと恥ずかしいんですけど……その……」
「どう感じたかはあなたしか分からないでしょうから無理に説明しなくていいわ。とにかく、それが解呪の魔法のあなたの感覚よ。それを自分でもできるようになれば、解呪の魔法が使えるようになるはず」
「え⁉︎ そうなんですね! 分かりました! 忘れないようにしないと!」
「それじゃあ、後は自主訓練でいいわ。同じ感覚で魔力が練れるようになったら、戻ってきなさい。その時、試すわね」
「分かりました! 失礼します‼︎」
サルビアも軍式の敬礼をすると、駆け足で訓練場へと駆けていった。
それを見送る暇もなく、私は再び治療を開始する。
「待たせたわね。今から治療を開始するわ」
「あ? ああ……お願いします」
【痛み】の呪いを受けて、痛みに苛まれているはずの若い兵士の顔は、何故だか少し紅潮していたように見えた。
☆
「戻りました! 多分……できます‼︎」
しばらくして、再びサルビアが治療場に姿を現した。
満足に満ちた笑顔を見せるサルビアに、私は期待を寄せる。
「それじゃあ、次に来た呪いを受けた負傷兵に、もう一度治療を行ってちょうだい」
「分かりました!」
ほどなくして、【痛み】の呪いを受けた負傷兵が運ばれてきた。
「痛い、痛い痛い痛い‼︎」
「もう少しの辛抱よ。さぁ、サルビア。やってみせて!」
「はい! 分かりました‼︎」
横になる兵士に向かって、サルビアはこれまでと同じように魔力を練り上げ、手に灯った光で呪いの紋様を照らす。
すると、完全にではないが、徐々に呪いの紋様が薄くなっていった。
「痛……けど、そんなに痛くなくなった?」
「よくやったわ! サルビア! これであなたも解呪の魔法を習得したのよ! 後はその感覚を忘れずに、徐々に慣れていくだけだわ!」
「やったぁ! よかったぁ……私、本当にもう無理だと……聖女様にこんなに見てもらってるのに、全然できなくて。才能ないんだって……」
サルビアは目に涙を溜めて、今にも泣き出しそうだ。
今にも抱きしめてあげたいけれど、それは後に取っておくことにした。
「さぁ! まだ完全に治ってないわよ。もう一度」
「はい! 分かりました‼︎」
袖で涙を拭った後、サルビアは再び魔力を練り、呪いの紋様に光を当てる。
二度目の魔法に晒された呪いは、今度こそ跡形もなく消え失せた。
「痛みが……消えた! ありがとう! ありがとうございます‼︎」
「こちらこそ、ありがとう‼︎ 聖女様! 私……私……」
再び目に涙を溜めるサルビアを、今度こそ私は両腕でしっかりと包み込み抱きしめた。
魔力を練ったわけでもないのに、私の胸のあたりに熱を感じた。
サルビアが解呪の魔法を使えるようになり、デイジーと同じ紫色のリボンタイを付けるようになってから、数日経った。
様子を見るための数日だったけれど、どうやら少しくらいなら私の身体も自由になりそうだ。
そこで、計画していた訓練兵たちをさらに鍛え上げる訓練を開始することにした。
ただ、今回は以前よりも上手く、そして早く習得が達成できる確信がある。
アイオラに習い、サルビアで実践した感覚の共有。
これができれば、最も困難な種々の回復魔法の感覚を正確に伝えることができる。
ただ、デイジーやサルビアに試してもらったところ、上手くいかなかった。
どうやら私は苦労なくできたが、人によっては他人に自分の魔力を通すということが極めて困難らしい。
これも練習を繰り返せばそのうち徐々にできるようになると思うが、二人ができるのを悠長に待っている時間の余裕もない。
唯一私以外にできるのはロベリアだったが、彼女は最近回復魔法を使えるようになったばかりで、自身もまだ緑色のリボン帯を巻いている。
「つまり……私がやるのが一番手っ取り早いということね」
私は独り言を呟きながら、訓練兵の待つ訓練場へと向かった。
訓練場には、今回新しく配属された訓練兵の他に、緑色のリボンタイを巻いている衛生兵たちも参加してもらっている。
一列に並んだ彼女たちに、私は一人ずつ目を合わせながら話し始めた。
「今日からあなたたちにはより上位の治癒の魔法、それに解毒の魔法を習得していってもらうわ。ここにいる全員が黄色のリボンタイを付けられるよう、期待しているから頑張ってちょうだい!」
「はい‼︎」
一斉に元気な返事が返ってくる。
私はそれに一度頷き、訓練の具体的な方法を伝える。
「これから一人一人、私と手を握ってもらうわ。私がそれぞれの回復魔法に必要な魔力の感覚を直接身体に伝えていくの。口で説明するより実際にやってみた方が分かるわね。ロベリア。こっちにいらっしゃい」
「はい!」
私に名を呼ばれたロベリアは、少し嬉しそうな顔をして、前に出てきた。
すでに兄のアイオラと魔力循環を遊びとして繰り返し行なっていたロベリアは、十分に慣れている。
受け取る側がどういうふうにすれば良いのか、説明をしなくてもよく分かっているだろうから、見本としては一番適しているだろう。
既に私の前に差し出されている両手を握り返し、説明を続ける。
「あなたたちは、ロベリアと同じように、両手を差し出して、身体の力はできるだけ抜いて。そしてこうやって私があなたたちの両手を握るわ。それじゃあ、ロベリア。今から流すわね。これが、解毒の魔法を扱うときに練る魔力の感覚よ」
「はい……あ、感じます。確かに治癒の魔法とは全然違いますね……それに、さすが聖女様です。私は、こんな大きな魔力、自分では練られせん」
「魔力の総量と同じで、一度に練られる魔力の量も、訓練していけば徐々にだけど増えていくから心配しないで。今は、感覚を覚えることだけに専念してちょうだい」
「はい! 分かりました‼︎」
魔力循環が終わり、私は手を離してから再び訓練兵たちの方を向く。
全員、よく分からないといった顔だが、何をすれば良いのかは伝わっただろう。
「実際に経験しないとこれ以上は上手く伝えることができないけれど、やることはわかったでしょう? ただ私と手を握って身体の力を抜くだけ。さぁ、一人ずついらっしゃい」
「はい!」
向かって右の方から、一人の衛生兵が前に出てくる。
先ほどと同じように、手を差し出させ、それを握りかえす。
「良いかしら? 今から魔力を送るわ。普段魔力を練る感覚と、何が違うのか、しっかり感じてね」
「分かりました。あの、このまま黙っていれば良いんですか? 何もせずに」
「ええ。むしろ何もしないのが最良よ。緊張したりすると上手くいきにくくなるの。一度深呼吸をしましょうか」
「す、すいません! 部隊長と手を握るだなんて! 光栄で緊張しています‼︎」
彼女は結局何度も深呼吸を繰り返し、なんとか自分を落ち着かせようとしていた。
なんだかその仕草がおかしかったが、いつまで経っても緊張は解れないようなので、諦めてこのまま開始する。
「もういいわ。このまま始めましょう」
「す、すいません! わぁ! 私ったら!」
「良いのよ。今回一度きりで全てが分からなくても、できるまで続けましょう。それじゃあ、今度こそ行くわね」
「はい!」
私はロベリアにしたのと同じように解毒の魔法に必要な魔力を練り、彼女の手へと流し込む。
やはり相手が緊張していればしているほど、魔力を流し込むのに抵抗が生じるようだ。
「わ! え⁉︎ なんですかこれ⁉︎ すごっ! うわ?」
「落ち着いて。今あなたの手を通して、私の練った魔力をあなたの身体に流しているの。胸の辺りに熱を帯びるでしょう? それ以外にも、全身で感じる感覚を覚えて」
慣れているロベリアとは違い、初めて人に魔力を流されると、彼女のように驚くのは仕方がないことだと思う。
私も初めて経験した時は、表には出さなかったけれど、奇妙さに驚いたものだ。
少し長めに流した後、私は魔力の循環を止めた。
私が手を離そうとしても、いつまでも手を離さない彼女に、私は優しい口調で言う。
「もう手は離していいのよ」
「え? あ、す、すいません‼︎」
「うふふ。それで、感覚は掴めたかしら?」
「はい! と言いたいところですが、普段自分が練っている魔力とは違うのは分かったんですが、これを自分ですぐ練ろって言われると、できないと思います……」
彼女は少し申し訳なさそうに、答えた。
「大丈夫よ。感覚さえ掴められれば、後は練習でなんとかなるわ。誰もすぐにできるだなんて思ってもいないのよ。さぁ、次に行くわね。代わりなさい」
「はい! ありがとうございました」
こうして、私は一人一人に魔力循環を実施していった。
しばらくは忙しくも落ち着いた日々が続いた。
緑色から黄色に変わっていく衛生兵もちらほら出始めた、そんなある日。
「部隊長! 大変です‼︎ カルザー長官が査察にお越しです!」
「なんですって⁉︎ すぐにこちらへお通ししなさい」
衛生兵部隊をまとめる、カルザー長官ではあるが、今まで部隊の陣営に自ら顔を表したことがあるなど、聞いたことがなかった。
少なくとも私が配属されてからは初だ。
「お邪魔するよ。やぁ、急拵えの治療場だったが、どうして、なかなか上手くいってるみたいじゃないか」
「恐れ入ります」
以前と同じように柔らかい笑みを顔に湛えるカルザーだが、その内心は読み取りようがない。
私に案内されながら、陣営の中を睨め回すように、私はカルザーの目的を探る。
「そういえば、長官がお越しになるなど、存じ上げていませんでしたので、驚いています。事前に知らしていただければ、それなりの用意もしましたのに」
「いやぁ。事前に知らせてしまったら査察にならないじゃないか。都合の悪い物でも隠されてしまったら、たまったもんじゃないからね」
カルザーは表情は変えないものの、含みのあるような言い方をしてきた。
未だに彼の目的が読めない。
「実はね。このところの、この部隊からの報告がすこぶるいい結果でね。まぁ、フローラ君も頑張ってくれているんだろうけど、ちょっとだけ、気になってね」
「どういうことですか?」
自慢ではないが、忙しさの対価として、兵士たちの治療は以前とは比べ物にならないほど改善しているはずだ。
カルザーの意図がどうであれ、こうやって最前線に治療場を設置した意義は大きい。
前は移送中に亡くなってしまったような兵士たちも、助けることが可能になったのだから。
それでも、今はまだ助けられない兵士たちも少なくない。
なんとか衛生兵たちの能力を底上げして、更なる改善を模索しようとしているところだ。
何はともあれ、まずは衛生兵たちにどんどん頑張ってもらうしかない。
私一人の力では限界がある。
ここの衛生兵全員で第二衛生兵部隊なのだ。
「まぁ、端的にいうとね。報告が本当か、ってことでね。ああ。まぁ君も若いんだし。立場ってのがあるのは分かるんだけどね? ただ、僕も嘘を上に上げるわけにはいかない。他の部隊にも示しがつかない。というわけなんだ」
「私が虚偽の報告を上げていると?」
「もしかして、の話さ。もちろんはなっから疑っているわけじゃない。もし本当なら凄いことだ。それなら、どうやって達成しているのか、この目でしっかりと見ておかないとね」
「……分かりました。長官のお気の召すまでご確認ください」
「もとよりそのつもりだよ」という返事と共に、帯同させていた何人かの者に指示を出しす。
指示を聞き終えた後、全員がそれぞれの方向へと散っていった。
「というわけで、少し調べさせてもらうよ。構わないね?」
「ええ。もし何か不備がありましたら、その時は私が責任を取ります」
私の言葉に、カルザーの笑みが増したような気がした。
☆
それからしばらく、取り止めもない話が続いたが、いつまでもカルザーだけに構っているわけにはいかないので、私は治療場へ戻ることにした。
カルザーには私の隊長室を使ってもらい、そこで上がってきた報告を確認してもらう。
元々の私の担当の時間を終え、カルザーがどうしているか気になった私は、休憩と合わせて隊長室へと戻った。
入室の際に扉を叩こうと近付いた際に、中からカルザーの独り言が聞こえ、少しの間だけ耳をすます。
「どういうことだ? 上がってきた報告通りだと? ありえん。あの無能どもはどうなった? 次々と運ばれてくる負傷兵を治療しながら、訓練などできぬはずだぞ?」
どうやら報告内容に納得がいっていないようだ。
私は顔を扉から離し、姿勢を正してから扉を叩き、返事を待った。
「誰だ⁉︎ 今部隊長のフローラなら不在だ!」
「私です。長官。フローラです。入ってもよろしいでしょうか」
「ああ。フローラ君。君か。入りたまえ。何、元々君の部屋なんだ。わざわざ入室の許可などいらんよ」
「分かりました。失礼します」
私の机の上には、所狭しと資料が並べられていた。
かなり入念に調べていたようだ。
「すまんね。散らかして。それで? 治療の方がもういいのかね? ああ、僕のことなら気にしなくて構わないよ。勝手にやっているから」
「いえ。ちょうど休憩に入りましたので。それで、満足のいく調査結果は得られましたでしょうか?」
「ああ。まったく、感心するよ。ところで、ちょっと前に増員が入隊したと思うんだが、彼女らは今、どうしているかね?」
「新しい衛生兵たちですか? 彼女たちなら、他の衛生兵たちと同様、時間を区切って、それぞれ治療場での治療に当たってもらっています」
「そうか。そういえば、治療場をまだ見せてもらっていなかったな。どれ、案内してもらうか」
「分かりました。騒がしいところですが、ご了承ください」
私はカルザーを連れて治療場へと向かった。
治療場への途中、私の横を歩くカルザーはごくわずかだが、苛立ちを感じているようにも見えた。
「こちらです」
「ああ」
治療場では、今もなお様々なところで、傷ついた負傷兵たちが衛生兵たちによって治療を受けていた。
カルザーは周囲を一瞥した後、何かに気が付いたような素振りを見せる。
「そういえばフローラ君。君の部隊は色々と面白い運用をしているらしいね。なんでも、衛生兵の使える回復魔法の種類や熟練度に応じて身に付けるリボンの色を変えているとか」
「ええ。そうすれば、できるだけ必要な治療を受けられますから」
「うん。それで、さっきの新しい増員の話なんだけど、ここにいるって言ってたけど、彼女らは何処にいるんだい?」
「ですから、目の前に。彼女なんかもそうですね」
そう言って私は近くにいる緑色のリボンタイを付けた衛生兵を指さした。
私の指の示す先を見た瞬間、カルザーの顔から一瞬だけ笑みが消えた。
「あはは。フローラ君。何か間違っていないかい? だって彼女は緑色のリボンを付けているじゃないか」
「はい、それが何か? 増員は全員、回復魔法を使える者を送ってくれたと。私はそう認識していますが」
第二衛生兵部隊に回復魔法の使えない訓練兵が送られていると知っているのは、本来私の部隊やベリル王子、ダリアそしてアンバーのごく限られた者だけなはずだ。
カルザーも表向きは回復魔法を使える者を増員したと言っていたはずだ。
前にアンバーの使い魔から聞いた話は間違いじゃなかったようだ。
カルザーは終戦を好ましくなく思っているモスアゲート伯爵の手先として動いている。
私は、決して彼らの思い通りにはさせないと、再度強く心に誓った。
「あ、ああ。そうだったね。すまない、すまない。ちょっと別の件と、勘違いをしていたようだ」
カルザーはそう言いながら、目線を私が示した元第二期訓練兵として配属されてきた女性の手元に注ぐ。
彼女が担当の負傷兵の怪我を回復魔法で治療したことを確認すると、他の衛生兵たちにも目を配り始めた。
一通り見た後に、カルザーはこちらを振り返り、いつも通りの笑みのまま口を開く。
「うん。どうやら上手くいっているみたいだね。安心したよ。こんな優秀な部下を持って、上官として鼻が高い。ところで、今休憩中の衛生兵たちもいるんだろう? その子たちにも会っておきたいな。何処にいるんだい?」
「非番の者は、ある程度行動の自由を許していますが、多くの者は休憩室にいるかと。案内します」
そう言って、カルザーの前を歩こうとした瞬間、カルザーに呼び止められた。
「ああ。いやいや。君も忙しい身だ。今でだって、十分案内してもらったんだし、残りはこっちで勝手にやるよ。構わないね? ああ、君きみ。休憩室とやらへ、僕を案内してくれ」
「は? ……はっ! かしこまりました‼︎」
カルザーは何故か私の案内を断り、近くにいた衛兵に声をかけ、案内するよう命令する。
なんの意図があってそんなとこをするのか分からないが、今の状況で無理に私が同行するのもおかしな話だ。
それに、確かにカルザーの言う通り、私も忙しい。
治療以外にも部隊長としてやらなくていけないこともあるため、もうこれ以上カルザーに構うことをしなくていいと言うのは、正直なところ助かった。
「それじゃあ、フローラ君。君の部隊のますますの活躍、期待しているよ。ああ、それと、君の机の資料は、申し訳ないけど、片付けておいてくれないか。僕は休憩室のみんなに激励を送ったら、そのまま帰ることにするよ」
「はい。分かりました。本日は、ありがとうございました」
指名された衛兵に連れられて、カルザーとその同行者たちは治療場から去っていく。
私は一度だけ息を吐き出し、気持ちを入れ替えて、従来の任務に戻ることにした。
☆
カルザーが訪れてから数日間。
私は何かはっきりとしたことは分からないが、奇妙な違和感を得ていた。
それがはっきりと数字となって出てきたのは、今日の夜の報告書に目を通した時だった。
「あら? ここ数日の各衛生兵の治療の割合に偏りがあるわね」
それは、誰がどのくらいの治療を行ったか、まとめた資料だった。
そんな細かいものは、上層部に送る必要はなく、あくまで部隊内の管理のために、日々付けることを義務付けているものだ。
「この子とこの子と……何人かが随分と減っている。逆に、その減った分を他の子たちが補っていたのね」
私が数日間持っていた違和感はおそらくこれだったのだろう。
思えば、これまでより、赤色や紫色の
リボンを付けた負傷兵を治療することが多かった気がする。
布なしが少なかったのかと聞かれれば、そんなことはなく、結果的に治療している人数が多くなっていたのだろう。
「どうしたのかしら……前までの報告書を見る限りは彼女たちも今よりもっと治療をこなせていたはずなのに……」
不思議に思った私は、デイジーとサルビアに何かおかしなことが起こっていないか、内密に調べるように指示を出すことを決めた。
呼び出した二人も、私と同じく違和感を抱いていたようで、各々に口を開く。
最初に話したのはデイジーだ。
「聖女様も思ってらっしゃんですね! 私も、最近妙に忙しいなぁって。それに他の兵の手が回らずに、そちらの応援にいく頻度も増えた気がしてました」
「私もです。多分、デイジーさんと私が手が回らなくなったせいで、部隊長にもそのしわ寄せがいったのではないかと……すいません」
サルビアが申し訳なさそうにしたので、私は首を横に振り、それを否定する。
「いいのよ。何もあなたの問題じゃないもの。でも、このままこの状態が続けば良くないことなのは間違いないわ。今はまだ多少の負担増で済んでいるけれど、彼女たちみたいなのがこれからどんどん増えてしまったら、いつか瓦解するわ。それまでに、原因を突き止めましょう」
「はい! 分かりました」
こうして、デイジーとサルビア、そして私も、何故一部の衛生兵たちの能率が下がってしまったのかを確認することにした。
しかし、その調査は思うように成果が得られなかった。
デイジーやサルビアが能率の下がった本人たちにそれとなく聞いてみたり、他の衛生兵を通じて何か変わったことがないか確認してみたものの、明確な原因は今のところみつかっていない。
それどころか、日に日に、以前に比べて能率を下げてしまった衛生兵が増えていく。
私は能率の下がってしまった衛生兵たちを、普段より多めに休憩を取らせたりするよう指示を出したが、それでも能率が元に戻ることはなかった。
「どうしてなの? 何かはっきりとした原因があるはずよ……一人や二人じゃないもの。こんなに……」
「聖女様!」
日々増えていく能率の下がった衛生兵たちの存在に頭を抱えていた矢先、部屋にデイジーが入ってきた。
何かこれ以上の問題でも発生したのだろうか。
「どうしたの? デイジー。何か問題?」
「いえ! 私、ふと気が付いたんですが。例のやる気がなくなってしまった、衛生兵たち、ある共通点があったんです!」
「デイジー。言い方は気を付けなさいね。やる気がないだなんて、彼女たちが聞いたら気を悪くするわよ。それで、その共通点って、なんなの?」
「はい! この前、カルザー長官がお見えになったと思うんですが、あの日です。あの日の非番の時間帯が同じだった者の能率が下がっています‼︎」
デイジーの言葉を受け、私はもう一度報告書を確認する。
能率の下がった衛生兵の多くは第二期訓練兵。
そちらにばっかり気が取られていたが、デイジーの言うように、全員ではないものの、第二期衛生兵でない者も含め、そのほとんどがカルザーが査察にきた際に休憩を取っていた者だった。
私は一度ため息を吐いてからデイジーの方に目線を上げる。
「それにしても、衛生兵の休憩時間なんて、毎日それぞれ違うのに、よく気付いたわね」
「えへへ……穴が開くほど資料を眺めましたから」
そういうデイジーの目の下には薄くない隈ができていた。
恐らく治療の合間、わずかな休憩時間を使って、調べてくれたのだろう。
「ありがとう。デイジー。これがどういう意味を持つのかはまだ分からないけれど、糸口は掴めたわ。カルザーがあの日、私を伴わずに休憩室に行っているはずなの。その時に何があったのかもしれないわね」
「うーん。でも、何があったか知らないですけど、該当する衛生兵たちには既に聴き込み済みですよ? 今さら聞いたって、新しい情報が出てくるとは思えませんが……」
デイジーは顎に右手の指を当て、思案するような素振りを見せる。
それに向かって、私は笑顔で答えた。
「本人に聞いても無駄でしょうね。明らかにカルザーに何か吹き込まれ、それを実践している。当然、口止めもそれとなく言われているはずよ。でも……」
「でも……?」
「その日休憩室にいたはずなのに、能率が落ちてない訓練兵もいるでしょう? 彼女たちに聞けば、何かが分かるかもしれないわね」
「あ! なるほど‼︎ さっそく、確認してみます!」
デイジーは華やかに目を輝かせ、私が指令を出すより先に、隊長室を飛び出していった。
私は苦笑しながらその後ろ姿を扉が閉まるまで眺める。
「ふふ……デイジーの元気さには、いつもこちらが元気づけられるわね。それにしてもカルザー長官。衛生兵たちに何を吹き込んだのかしら……」
その真相が判明するのは、その日の夜のことだった。
☆
「デイジー。分かったことがあるって、随分と早いわね?」
「ええ! 聖女様。早速見つけましたよ! カルザー長官があの日、何を言ったのか知っていて、教えてくれる人物を」
デイジーは一人の衛生兵を伴って隊長室に入ってきた。
明らかに緊張している素振りを見せる衛生兵に、私は優しく声を変えた。
「そんなに緊張しないでちょうだい。あなたが、これから何を言ったとしても、この部隊で罰せられることはないわ。安心して。確か……エリカだったわね?」
「は、はい! 私なんかの名前を覚えてくださっていたんですね! 光栄です!」
両手を自分の腰の前でぎゅっと握りしめ、腕だけじゃなく肩にまで力が入っていそうなエリカに、デイジーが優しく肩に手を乗せる。
そして、とびっきりの笑顔を作って、エリカに声をかけた。
「聖女様の言っていることは本当よ。聖女様は今までに一度だって嘘や偽り言ったことがないのよ? 聖女様が大丈夫って言ったら、絶対大丈夫なんだから」
「は、はい……分かりました。すいません……」
デイジーの笑顔は見る者に安らぎを与える効果があると私は前々から思っていたが、果たしてその効果は絶大のようだ。
固まって仮面のような顔をしていたエリカの顔に、ようやく表情らしい表情が生まれた。
「ありがとうデイジー。それで。何を知っているのか、説明してちょうだい」
「はい……あの日、私たちが休憩室で休憩していたところ、ご存知のようにカルザー長官がお見えになりました――」
☆☆☆
――あの日のこと。エリカの追憶――
エリカはその日、いつものように休憩室で同僚たちと、普段のキツい任務のストレスを少しでも和らげようと、故郷や家族、そしてまだ見ぬ恋の話などに花を咲かせていた。
すると突然、衛生兵部隊を統括する長官の立場の老人が、休憩室に訪れた。
カルザーと名乗ったその老人が胸に付けた勲章や徽章、そして後に控える数名の兵士たち。
それらのことから、休憩室にいた者で、カルザーの立場を疑う者など一人もいなかった。
「やぁ。休憩中に失礼するよ。ああ、そんなに畏まらなくていい」
柔和な笑みを浮かべるカルザーの言葉は、どこか薄ら寒く、誰もするはずもないが、言葉通りに受け取って少しでも無礼を働けば、命に危険が及ぶとエリカは感じていた。
それほどまでに、自分と同じくらいの小柄な体躯を持ち、白髪の老人は、見えない奇妙な威圧感に満ち溢れていた。
「僕はね。感心しているんだ。君たちにね。僕が言うのもなんだけれど、ここは酷い所だ。魔族や魔獣との戦争の最前線。多くの兵士が戦い、そして命を落としていく」
突然語り始めたカルザーにエリカは、目を、耳を、そらすことができずにいた。
人に自分の言葉を傾聴させる、そんな不思議な力をこの小さな老人が持っているのではないかとまで、エリカは思った。
「君たちも善戦してくれているおかげで、前よりもずっと死者は減った。これについては僕から心から礼を言おう。ありがとう」
カルザーの言葉一つ一つが、エリカの心に侵食してくる。
「ありがとう」という言葉さえ、言われたこちらが、言ってもらって感謝の念を持たないといけないような錯覚まで感じた。
「本当に君たちには頭が下がる。君たちはすでに十分な回復魔法を使える。それなのに! さらに高等な魔法を習得しようと、日々訓練に明け暮れているようだね。その上、毎日の任務にも勤勉だ」
ここまで来て、エリカは周囲に目を配った。
カルザーの言葉に何か裏がありそうだと、初めから警戒して聞いていたエリカに比べ、他の衛生兵は恍惚の表情をしていた。
それはまるで、天上の神から、自分自身の行いの正しさを褒められているような者の表情だった。
確かに一般兵から見れば、部隊長のさらに上、長官など、こうやって近くに寄ることもできない存在だ。
その天上の存在が、自分を、自分自身の行いを称賛している。
エリカは、自分がむしろひねくれた考えに囚われているのではないかと、反省しそうになった。
しかし、その次の瞬間。
エリカは自分の直感が間違っていなかったことを確信した。
「そんな滅私の精神を持つ君たちは、この戦争のさぞ尊い犠牲になってくれることだろう」
カルザーがそう言った後、一瞬の間があった。
まるで、衛生兵たちがカルザーの言った言葉をきちんと理解する時間を作るために、わざと空けられた時間にも思えた。
「本来の衛生兵ってのは後衛に控えるもんなんだけど? そりゃそうだ。なんの戦闘能力も持たない衛生兵が危険な前線なんかに来たら危険だからね」
ここからはカルザーの言葉は矢継ぎ早に放たれた。
まるで思考を持つことを許さないように。
「この部隊は特殊なんだよ。しかし優秀な衛生兵ならその困難にも打ち勝てるはずだ。多くの犠牲は伴うだろうけどね。任務の手際が悪く、訓練も疎かにするような衛生兵なら、すぐに別部隊に移されたり、除名されたりするだろう」
そこでカルザーは人差し指を顔の前に立て、少し顔を傾けた。
「君たちは知っているかい? 初級の治癒の魔法でも使えれば、貴族たちから引く手数多だ。一生安泰が保証されるだろう。それなのに国のため、軍のため、自分の身を危険な戦地に置くことを選択してくれたんだ。涙が出るよ」
カルザーはわざとらしく立てた指で濡れてなどいない、右目を拭く素振りを見せた。
「さて……それじゃあ、僕はそろそろ行くよ。ああそれと……今度、君たちには攻撃部隊に同行して現場に向かってもらうことになると思う。きっと優秀な者から選ばれていくことだろう。よろしく頼むよ」
カルザーは最後に含みを持たせた言葉を残し、休憩室から立ち去っていった。
後に残された衛生兵たちは、みな、動揺の色を隠せずに、互いの顔色を窺っていた。