神殺しのクロノスタシスⅣ

――――――…その頃、イーニシュフェルト魔導学院では。

「は…へ、くちゅんっ、くちゅんっ」

続けざまに、くしゃみが出た。

ズズッ、と鼻を啜る。

「何です。良い歳したおっさんが、無駄に可愛いくしゃみをするんじゃないですよ、気色悪い」

イレースちゃんが、物凄く辛辣。

酷くない?今の聞いた?ねぇ。酷くない?私くしゃみしただけなのに。

「誰か、私の噂してるのかなぁ…?あっ。二回だったから、誰かが私の悪口言ってる?」

嫌なんだけど。

「馬鹿馬鹿しい。そんなジンクス、嘘っぱちです。くしゃみはくしゃみです」

イレースちゃんは、バッサリと切り捨てた。

…夢がない…。

「くしゃみが二回…誰かが自分のことを呪ってるんだっけ?」

「それは三回でしょ。二回は、寿命が二年縮んだんだよ」

「あ、そうだった」

と、恐らくジャマ王国の「くしゃみジンクス」を話している、令月君とすぐり君。

…知りたくなかったなぁ、そんなジンクス…。

くしゃみ二回で、寿命が二年縮み。

くしゃみ三回で、誰かに呪いをかけられている。

「…すぐり君。くしゃみが四回出たら、どんな意味があるの?」

知りたくないけど、何となく気になったら、聞かずにいられなかった。

が、

「四は『死』だからね〜。もうすぐ死ぬって意味」

やっぱり、聞かなければ良かった。

くしゃみが四回出たら、身の回りに気をつけよう…。

って言うか、ジャマ王国の「くしゃみジンクス」、怖過ぎない…?

私、ルーデュニア人で良かった…。
――――――…話を戻して。

南方都市シャネオンにある、オーネラント家にて。

俺とナジュは、ようやくこの家のリビングに入れてもらえた。

前回、話も聞いてもらえず、門前払いを食らったことを思えば。

マジで凄い進歩だと思うよ。

やべぇな、マジでもう。

ナジュの手口が、詐欺師過ぎて。

皆、訪問販売や宗教勧誘には気をつけろよ。ナジュみたいな、顔だけは良い訪問員には、特に要注意だ。

良い顔して良いこと言ってるように見えても、中身、腹黒どころじゃないから。

漆黒の腹だよ。

「本当に済みませんね、いきなり訪ねてきてしまって。ご迷惑だったでしょう?」

「…いえ…」

昨日とは打って変わって、静かなエヴェリナ母。

ナジュの、無駄に人の良い笑顔と、終始低姿勢のせいで…怒るに怒れないのだろう。

「ところで奥さん、今日は、ご主人はご在宅ですか?」

と、ナジュは笑顔のまま尋ねた。

「主人ですか?…書斎にいますけど…」

「あぁ、それは良かった。宜しければ、ご主人も同席の上で、お話させて頂けませんか?」

ピンと来た。

さっきナジュは、俺の心を読み、この家は母親より、父親の方が気性が穏やかだと知り。

その上で、あわよくば父親を味方につけようと、この場に呼ぼうとしているのだ。

「やはり、大事なお嬢さんの将来に関わることですから。ご主人も同席された方が良いかと…」

なんて、もっともらしいこと言って。

単に、味方増やしたいだけだからな。詐欺師舐めたらいかん。

そして、エヴェリナ母は、その詐欺師の罠にハマる。

「…分かりました。呼んできます」

そう言って、エヴェリナ母は席を立ち、書斎に向かった。

…リビングに、俺とナジュの二人きりになった瞬間。

「…さっきから、僕に対して失礼過ぎません?誰のお陰で、ここまでこぎ着けたと思ってるんですか」

「仕方ないだろ。お前が詐欺師なのが悪い」

「僕の何処が詐欺師ですか。こんなにイケメンで、人の良い善良な人間はいませんよ」

「その笑顔で人を騙し、読心魔法で相手の心境を伺いながら、シルナを悪者にして人の家に上がり込む奴が、何だって?」

「しっ…っつれいな…」

「ほら、もう戻ってきたぞ」

ナジュとの、僅かなお喋りの後。

エヴェリナ母が、夫であるエヴェリナ父を連れて、リビングに戻ってきた。
途端、ナジュの詐欺師モードが再発動。

「これはこれは、旦那さんまで呼びつけてしまって、大変申し訳ない。お忙しいところを…」

「あ、いえとんでもないです。娘の為に、わざわざ足を運んで頂いて…」

やはり、エヴェリナ父は、エヴェリナ母よりずっと話が分かる人のようで。

ナジュと違って演技ではなく、本当に申し訳なさそうな顔で、頭を下げた。

良かった。

エヴェリナ父がいてくれれば、もしエヴェリナ母がヒートアップしても。

何とか、緩衝材の役目を果たしてくれそうだ。

「それで、今日はお嬢さん…エヴェリナさんのお話をしに来たんですが…」

ナジュは、相変わらず微笑みを絶やさずに言った。

「聞いたところによると、エヴェリナさんを学院から退学させたいとか?」

「えぇ。そのつもりです」

エヴェリナ母は、先程とは打って変わって、きっぱりと答えた。

その話ならもう議論の余地なし、と言わんばかりの強硬な態度である。

この鉄壁を崩すのは、容易ではないぞ。

「それはまた、急なお話ですね。どうなさったんですか?」

分かってる癖に、とぼけた聞き方しやがって。

白々しいったらない。

「大体、私は娘を魔導学院なんかに入れるのは反対だったんです」

魔導学院「なんか」とまで言われてしまった。

悪かったな。魔導学院「なんか」で。

「魔導師を育てる学校だなんて…。詐欺師を育てる学校の間違いだわ」

「こ、こらお前…。やめないか…」

吐き捨てるように言ったエヴェリナ母を、エヴェリナ父が諌めようとしたが。

エヴェリナ母は、今度はキッ、と夫を睨んだ。

「あなたがそんな態度だから、あの子が我儘になってしまったんじゃないの。私は反対してたのに、イーニシュフェルトなんか受験させて、なまじ受かったものだから、良い気になって…」

「そ、それは、でもエヴェリナ自身もそう望んでたし…」

「あの子は、ただあのシルナ・エインリーに騙されてるだけなのよ。あの白々しい能天気な顔ったらないわ。あの顔で、人を騙すのよ。信じられないわ」

いや、どっちかと言うと。

今あなたを騙してるのは、白々しい笑顔を浮かべている、目の前の読心魔法教師なんだが?

そっちは疑わないのか?

「それから、今回のシャネオン駅の事件で確信したわ。あの事件は、魔導師排斥論者が起こした事件だそうね」

「えぇ、そう報道されてますね」

と、ナジュが答えた。

ちなみにあの事件の犯人は、無事捕まった。

エリュティアの努力の賜物である。

しかし。

「やっぱりね。魔導師なんて所詮インチキ呪い師だって、皆分かってるのよ。だからあんな事件が起きたんだわ」

そう捉えるのか、あんたは。

あの事件を聞いて、「魔導師排斥論者怖い」と思うのではなく。

「やっぱり魔導師排斥論者は正しいんだわ!」と思ったのか。

「私と同じ意見の人がいる!やっぱり私は間違ってない!」という、確信を得てしまった。

だから、エヴェリナを学院に返すことを拒んだのか。
「だから娘は絶対、イーニシュフェルト魔導学院になんか返しませんよ」

固い決意を感じる。

この難攻不落の要塞を相手に、どう立ち回れば良いのか…。

ナジュは、しばしエヴェリナ母に好きに言わせ、その様子を観察していたが。

「…でも、奥さん。イーニシュフェルトを退学させて、それからどうするんです?」

「そんなの決まってるわ。地元の中学校に転校させます」

本人の意志に関係なく、かよ。

「成程。でもそれって、学歴から見たら、凄く不利になると思いません?」

「…何ですって?」

お、ナジュの奴。

攻め込む隙を見つけたな?

「だってお嬢さん、一度はイーニシュフェルト魔導学院に入学してますから。一学期だけいて、そこから退学して、地元の中学校に転校…なんて、他人が見たら、何かあったのかと余計な勘繰りを入れらますよ、きっと」

「…」

そこまでは、考えが及んでいなかったのか。

エヴェリナ母は、一瞬返す言葉もなく口を噤んだ。

「良くも悪くも、我が校はエリート校と言われてますからね。そのエリート校をたった一学期でやめて、地元に帰る…なんて、やっぱり良い目では見てもらえませんよ」

こいつ、言い方は丁寧なように見えるが。

要するに、脅してるだけだからな。

「お宅の娘さん、学歴に傷がつくけど良いの?一生『あそこの娘さんって…』みたいにひそひそ言われるけど良いの?」って。

性悪な奴だよ。

「折角国内最難関と言われてる学校に合格して、しかもお嬢さん、成績も良いですからね。授業についていけてないのならともかく、今やめるのは勿体無くないですか?」

笑顔で追い詰めていくスタイル。

やっぱり詐欺師だわ。

「お嬢さんの学歴の為にも、ここは一旦六年間、お嬢さんをイーニシュフェルトで預からせてもらえませんか?」

「…」

口を噤み、こちらを睨むエヴェリナ母。

イレース並みの敵意を放ってるぞ。

あの目を前に、よくもまぁ笑顔で、つらつらと白々しいことばっか言えるもんだ。

「それにほら、イーニシュフェルト魔導学院を卒業したからって、必ず魔導師にならなきゃいけない訳じゃありません。学歴はあくまで、お嬢さんの経歴に箔が付いたということにして、別の道を進むという手段もありますよ」

まぁ、確かにそうなんだけど。

過去にそういう生徒も、全くいなかった訳じゃないんだけど。

国内最難関の魔導学院を、まるまる六年通って卒業しておきながら。

魔導師とは一切関係のない、普通の職につく生徒は、非常に稀だ。

しかもその頃には、エヴェリナもほとんど大人になっている。

自分の人生を、自分で決める権利を持てる年頃だ。

親の制止なんて、あってないようなもの。

六年後に従順になることを期待するのは、あまりにも無謀…だが。

ナジュが、あまりにももっともな顔して、もっともなことを言うので。

成程確かにそうだな、と思わせてくる。

本当に詐欺師だ。

相手にそう思い込ませる、その技術が凄い。

やっぱり詐欺師だわ。

敵に回したくない。もとは敵だったけれども。

「どうでしょう?ねぇ、お父さん」

ナジュは、敢えてエヴェリナ父の方に同意を求めた。

まずは、父親の方を味方につけようと思ったのだろう。

そして、実際。

「う、うん…。確かにそうだな。ともあれ、エヴェリナの望むように…」

と、味方になってくれそうな雰囲気を出したが。

エヴェリナ母は、夫が敵に回ろうとしているのを察知し。

伝家の宝刀、逆ギレを始めてしまった。
「何よ、あなたまで言いくるめられて!」

自分も言いくるめられている自覚、あったのか?

「さっきから聞いてれば、自分達に色の良いことばかり言って。そうやって、結局なぁなぁに済ませようとしてるんでしょ!?」

おっ、よく気づいた。

良いぞお母さん。詐欺師の手口にハマるな。

「私は騙されないわよ!御託は良いから、さっさと退学届を出しなさい!」

交渉は決裂、と言ったところか。

しかし。

「でもですね、奥さん。お嬢さんの人生は長いんです。一度傷ついてしまった学歴は、取り戻せませんよ?ましてやこの思春期の時期に…」

余程、このエヴェリナ母の中では、先程ナジュが言った「学歴に傷がつくこと」を気にしているらしく。

なおも、そこを起点にナジュが攻め込もうとするも。

「余計なお世話よ!うちの問題に、教師ごときが首を突っ込まないで!」

そんな自分の迷いを晴らすように、怒鳴り散らすエヴェリナ母。

駄目っぽいぞ、これ。

すると。

「お、お前やめないか。折角先生方が来てくださったのに…」

「あなた、そんな弱気でどうするのよ!エヴェリナが、詐欺師に育てられようとしてるのよ?それを止めないなんて、あなた父親なの!?」

「で、でもな…エヴェリナの将来なんだから、エヴェリナ本人が…」

「あの子はまだ子供なんだから、親が軌道修正するのは当然でしょ!」

「そんな。エヴェリナだって、小さい子供じゃないんだから…」

「あなたもエヴェリナも騙されてるのよ!今何とかしないで、エヴェリナの将来が台無しになったらどうするの!?」

夫婦喧嘩、勃発。

「…親のエゴですよねー」

「…全くだな…」

を、傍目に俺達教師陣もひそひそ話。

すると、そのときだった。

「お母さん!お父さんも、やめて!」

恐らく、上で聞いていたのだろう。

耐えきれなくなったエヴェリナ本人が、現場に駆けつけてきた。
こんな醜い大人同士の争い、絶対に子供には見せたくなかったのに。

来てしまったか。まぁそうなるよな。

学校の先生が二人も家にやって来て、リビングから母親の怒鳴り声が聞こえたら。

自分のせいで、こんなにも言い争っていると思えば…割り込まずにはいられまい。

「も、もう良いから…!私、イーニシュフェルト魔導学院をやめるから。それで良いでしょ?」

おい、ちょっと。

なんてことを。

「私、もう我儘言わないから。だから喧嘩しないで。もう良い、もう良いから…」

何がもう良い、だ。

「エヴェリナ…!お前、本気で言ってるのか?今ここで諦めたら、一生後悔するかもしれないんだぞ」

俺は、思わず口を挟まずにはいられなかった。

こんなこと言ったら、余計エヴェリナ母の怒りの炎に、油を注ぐようなものだが。

しかし、言わずにはいられなかった。

「う、うん…。良い、良いです」

エヴェリナは、涙目で頷いた。

本気かよ。

「私はもう、学院をやめます。魔導師にもなりません。それで良いでしょ?」

何が良いんだよ。

何も良くないだろうが。そんな泣きそうな顔して。

「だから、先生。退学届をください」

「…」

ナジュは、そう頼み込むエヴェリナを、しばしじっと見つめ。

そして。

「…分かりました。あなたがそうしたいのなら、そうすれば良いでしょう」

あろうことか、ナジュは退学届の記入用紙を、エヴェリナに渡した。

ちょ、何やってんだナジュ。

「ただし、よく考えて。冷静になって、よくよく考えて。イーニシュフェルト魔導学院に入学するまでのことを、入学式を迎えた日のことを、よく考えて。家族ではなく自分の為に、どうしたいのかちゃんと考えてください」

「…」

「本当に覚悟が決まったら、これを送ってください。そうでないなら、受け取りませんから。良いですね?」

エヴェリナは、ぶるぶると退学届を受け取り。

ぎゅっと目を瞑って、頷いた。

「宜しい。…では、我々は帰りましょうか羽久さん」

「は!?いや待てよ、まだ話は…」

全然終わってないし、何ならこのまま、エヴェリナは退学届に記入してしまいそうだ。

それだけは止めなくては。

しかし。

「ここまで拗れたら、何言っても通じないでしょ。僕ら、邪魔なんですよ」

ナジュは小声でそう言って、くるりと踵を返した。

そんな…。

「では、お邪魔しましたー」

俺は、半ばナジュに首根っこを掴まれるような形で。

なんとも混沌とした空気の中、オーネラント家を後にした。
オーネラント家を出てから。

「お前馬鹿かよ!?あんな状況で退学届なんか渡したら、速攻で書いて送ってくるに決まってるだろ!」

俺は、待ってましたとばかりにナジュを詰問した。

あれじゃあ、「もうさっさと退学してくれ」と言ってるようなものだ。

今頃エヴェリナは、母親のもとで、退学届に記入してるぞ。

父親は反対してたっぽいが、母親には頭が上がらないみたいだったし。

多分エヴェリナを止めもせず、おろおろ見てるだけだぞ。

エヴェリナを止める者が、誰もいなくなってしまった。

それなのに。

「えぇ。記入してるかもしれませんね」

この詐欺師、飄々として。

「さっきからあなた、僕を詐欺師詐欺師って…。失礼じゃありません?」

「詐欺師だからな!ってか、涼しい顔して言うなよ、お前はエヴェリナを退学させたいのか?」

お前も、イレースと同じ意見か。

するとナジュは、はぁ、と溜め息をついて言った。

「あのですねぇ、皆して頭に血が上っちゃって。少しは落ち着いてくださいよ。あの場にいた、ひ弱な父親と僕以外の全員、頭に血が上ってたんですよ。あれ以上僕達が首突っ込んでヒートアップして、冷静な判断が出来る訳ないでしょう?」

「うっ…」

「おまけに、本人まで出てきちゃって。あんな修羅場に発展したら、もう僕達の声なんか届きませんし、届いたとしても冷静に受け止めることなんて出来ません。余計判断を誤るだけです」

それは…。

…そうかもしれない。

魔導師排斥論者のエヴェリナ母なんか、余計に。

エヴェリナ本人だって、諍いを何とか収めたい一心で、半泣きで出てきたんだし…。

皆して、冷静さを欠いていた。

俺もだけど。

「あの状態で、どうやって説得するんです。無理ですよ。だったら一旦、望むように退学届を渡して、距離を取るしかない。今頃、少しは頭クールになってるでしょ」

ナジュの言い分は、もっともだ。

あんな修羅場状態じゃ、考えるものも考えられない。

「…でも…クールにならずに、勢いのままに、退学届に記入してるかもしれないんだぞ」

「してるかもしれませんね」

「出されたら終わりじゃないか」

「絶対とは言い切れませんが、きっとすぐには出しませんよ」

あ?

「何でそう言えるんだ?」

「彼女が、本当は退学なんかしたくないと思ってたからです」

「…」

…それって…。

「僕達に退学すると言ってたときも、『お母さんの怒りを鎮めるには、こうするしかない』という一心。退学届を受け取ったときなんて、心の中、『嫌だ』でいっぱいでしたから」

…そうか。

そうだよな。ナジュは、読心魔法が使えるから…。

あの修羅場の中で、ナジュはそれぞれの心の中を順繰りに覗きながら。

誰に何を言って何をすれば良いのか、的確に考えながら行動していたのだ。
…俺も、ちょっと冷静になった。

「…悪かったよ、責めるようなこと言って…」

ナジュには、ナジュなりの考えがあったんだ。

その上で、最善と思われる行動をしたのだ。

それを責めたのは、俺が悪かった。

「別に良いですよ。大体、あれだけ『退学届寄越せ!』って言ってた母親だって、僕が本当に退学届渡したとき、内心ちょっとびっくりしてましたし」

マジで?

あれだけ退学退学言っといて?

まさか、そんなにあっさり退学届をもらえるとは、思ってなかったのか。

「本物の退学届を見て、自分がやろうとしていることの現実が分かったんでしょう」

「そ、そうか…」

「本人は内心『退学したくない』の一点張り、父親は日和見、何なら母親もちょっと動揺してる。こんな状況じゃ、勢いに任せて退学届に記入したとしても、それを投函するまでには、何処かで踏み留まるでしょう」

…ナジュが心を読んで判断した読みだから、当たっているとは思うが。

切実に、そうであって欲しい。

「まぁ最悪投函されたとしても、一、二回くらいは『書類に不備あり』で送り返せば良いんですよ。そうこうしてるうちに、冷静にもなるでしょ」

…お前って奴は。

思慮深いんだか、楽観的なんだか、どっちだよ。

「強いて言うなら、どっちもですね」

心を読むな。

「それに、退学届を渡すとき、ちゃんと彼女の痛いところに、釘を差しておきましたし。余計、退学届には手を出しにくいんじゃないですか?」

「…釘…?」

って、お前何処に差したの?

そういや、退学届を手渡すとき、随分意味深なこと言ってたけど…。

あれと何か関係が?

「あー、あれですね。彼女の中で、走馬灯みたいなものが流れてたんですよ」

いち早く俺の心を読んだナジュが、そう説明した。

何だ?エヴェリナの走馬灯って。

「どうも彼女、幼い頃から魔導師に憧れていたそうですね。母親が魔導師排斥論者なのは知っていたものの、彼女の伯母…父親の姉が、魔導師だったそうで」

あ、そうなの?

成程、父親が妙に日和見だったのは、自分の姉が他ならぬ、魔導師だったからか。

となると、エヴェリナの魔導適性は、父方の家系から引き継いだのかもな。

「その伯母に憧れて、魔導師を目指し…。で、彼女が小学校高学年のとき、どうもイーニシュフェルト魔導学院のオープンスクールに参加したそうです」

「オープンスクールに…」

大抵何処の魔導師養成校でも、毎年行われているものだが。

当然、我がイーニシュフェルト魔導学院でも開催している。

今年も、丁度近々行われる予定だ。

「そのとき、僕はまだいなかったから、よく知りませんが…体験授業?みたいなのを、行ったそうですね」

「あぁ…。うちでは、毎年やってるよ」

「それに参加して、感動したみたいですよ」

そうなのか。

「授業を担当したのは、学院長だったそうですね」

「そうだな。大抵シルナがやってるよ」

書類仕事は、面倒臭がるシルナだが。

オープンスクールの体験授業なんて、シルナにとっては大好物だ。

まずは手始めとばかりに、参加者全員にチョコレートを配り。

未来の自分の生徒〜♪とばかりに、毎年うっきうきで授業を行っている。

想像つくだろ?
「その授業の内容が、難しいのに分かりやすくて、これまでにない授業だと、感銘を受けたらしいです」

…そうかもな。

あれでシルナ、分身で教師作りまくってる辺り。

人に教えるのは上手いんだよ。

こればかりは、イレースも認めざるを得ない。

普段は、菓子ばっか食ってる、通称パンダ学院長だが。

そこらの学院の教師よりは、遥かに教えるのが上手い。

「それから、訓練場で見せてもらった、最新の魔導訓練設備。あれにも感動してたそうです」

「あぁ…。うちは、一応設備だけは、いつも最新式だからな…」

教師の数は、圧倒的に少ないが(ほぼシルナ分身)。

設備だけは、いつでも最新のものを揃えている。

これでも、国内最高峰の魔導学院を自称しているのだから。

お古を使ってます、じゃ格好がつかん。

「で、そのオープンスクールを経験して、是非ともイーニシュフェルト魔導学院に入学したい、その為ならどんな努力でもする、と決意を固めて、それはそれは熱心に勉強し…」

「…」

「難色を示す母親を、父親と一緒にどうにかこうにか納得させて、まさかのイーニシュフェルト一点狙いで受験して…ようやく合格したんですよ」

「…そこまでして…」

そこまでして…イーニシュフェルト魔導学院に入りたかったのか。

「この夏休みも、母親に少しでも認めてもらいたくて、一学期しこたま勉強頑張って、かなり良い成績を取ったらしいですね。立派な成績表を持って帰省して、ちょっとは認めてくれたかな、と思ってたところに…」

「…あの、シャネオン駅の爆破事件が起きた、ってことか」

「そういうことですね」

俄然、あの爆破犯が許せなくなってきた。

一人の少女が、何とか自分の夢を母親に認めてもらおうと、努力に努力を重ねてきたのに。

あの爆破犯は、線路と一緒に、エヴェリナのささやかな願いさえ爆破しやがったのだ。

あんな事件が起きなければ、エヴェリナ母も、ここまで魔導師排斥論を拗らせたりしなかっただろうに…。

「まぁ、学院に残るとしても、仮に退学するにしても…。このままだと、母親との意見の対立が、あの親子に延々と付きまとうでしょうね」

「そうだな…」

母親は魔導師は大嫌いで、でも娘は魔導師になりたくて。

その間には、大きな溝がある。

学院に戻るとしても、戻らないとしても。

多分一生遺恨が残るだろう。

最悪、エリュティアと同じく、家族と絶縁することにもなりかねない…。

と、俺はかなり深刻に悩んでいたのだが。

「あぁ、面倒なことになってきたなぁ。早く精神世界に行って、リリスに良い子良い子して欲しいなー」

「…」

この同僚詐欺師は、何処までも呑気だった。

悩んでるこっちがアホらしくなる。