――――――…その頃、イーニシュフェルト魔導学院では。
「は…へ、くちゅんっ、くちゅんっ」
続けざまに、くしゃみが出た。
ズズッ、と鼻を啜る。
「何です。良い歳したおっさんが、無駄に可愛いくしゃみをするんじゃないですよ、気色悪い」
イレースちゃんが、物凄く辛辣。
酷くない?今の聞いた?ねぇ。酷くない?私くしゃみしただけなのに。
「誰か、私の噂してるのかなぁ…?あっ。二回だったから、誰かが私の悪口言ってる?」
嫌なんだけど。
「馬鹿馬鹿しい。そんなジンクス、嘘っぱちです。くしゃみはくしゃみです」
イレースちゃんは、バッサリと切り捨てた。
…夢がない…。
「くしゃみが二回…誰かが自分のことを呪ってるんだっけ?」
「それは三回でしょ。二回は、寿命が二年縮んだんだよ」
「あ、そうだった」
と、恐らくジャマ王国の「くしゃみジンクス」を話している、令月君とすぐり君。
…知りたくなかったなぁ、そんなジンクス…。
くしゃみ二回で、寿命が二年縮み。
くしゃみ三回で、誰かに呪いをかけられている。
「…すぐり君。くしゃみが四回出たら、どんな意味があるの?」
知りたくないけど、何となく気になったら、聞かずにいられなかった。
が、
「四は『死』だからね〜。もうすぐ死ぬって意味」
やっぱり、聞かなければ良かった。
くしゃみが四回出たら、身の回りに気をつけよう…。
って言うか、ジャマ王国の「くしゃみジンクス」、怖過ぎない…?
私、ルーデュニア人で良かった…。
――――――…話を戻して。
南方都市シャネオンにある、オーネラント家にて。
俺とナジュは、ようやくこの家のリビングに入れてもらえた。
前回、話も聞いてもらえず、門前払いを食らったことを思えば。
マジで凄い進歩だと思うよ。
やべぇな、マジでもう。
ナジュの手口が、詐欺師過ぎて。
皆、訪問販売や宗教勧誘には気をつけろよ。ナジュみたいな、顔だけは良い訪問員には、特に要注意だ。
良い顔して良いこと言ってるように見えても、中身、腹黒どころじゃないから。
漆黒の腹だよ。
「本当に済みませんね、いきなり訪ねてきてしまって。ご迷惑だったでしょう?」
「…いえ…」
昨日とは打って変わって、静かなエヴェリナ母。
ナジュの、無駄に人の良い笑顔と、終始低姿勢のせいで…怒るに怒れないのだろう。
「ところで奥さん、今日は、ご主人はご在宅ですか?」
と、ナジュは笑顔のまま尋ねた。
「主人ですか?…書斎にいますけど…」
「あぁ、それは良かった。宜しければ、ご主人も同席の上で、お話させて頂けませんか?」
ピンと来た。
さっきナジュは、俺の心を読み、この家は母親より、父親の方が気性が穏やかだと知り。
その上で、あわよくば父親を味方につけようと、この場に呼ぼうとしているのだ。
「やはり、大事なお嬢さんの将来に関わることですから。ご主人も同席された方が良いかと…」
なんて、もっともらしいこと言って。
単に、味方増やしたいだけだからな。詐欺師舐めたらいかん。
そして、エヴェリナ母は、その詐欺師の罠にハマる。
「…分かりました。呼んできます」
そう言って、エヴェリナ母は席を立ち、書斎に向かった。
…リビングに、俺とナジュの二人きりになった瞬間。
「…さっきから、僕に対して失礼過ぎません?誰のお陰で、ここまでこぎ着けたと思ってるんですか」
「仕方ないだろ。お前が詐欺師なのが悪い」
「僕の何処が詐欺師ですか。こんなにイケメンで、人の良い善良な人間はいませんよ」
「その笑顔で人を騙し、読心魔法で相手の心境を伺いながら、シルナを悪者にして人の家に上がり込む奴が、何だって?」
「しっ…っつれいな…」
「ほら、もう戻ってきたぞ」
ナジュとの、僅かなお喋りの後。
エヴェリナ母が、夫であるエヴェリナ父を連れて、リビングに戻ってきた。
途端、ナジュの詐欺師モードが再発動。
「これはこれは、旦那さんまで呼びつけてしまって、大変申し訳ない。お忙しいところを…」
「あ、いえとんでもないです。娘の為に、わざわざ足を運んで頂いて…」
やはり、エヴェリナ父は、エヴェリナ母よりずっと話が分かる人のようで。
ナジュと違って演技ではなく、本当に申し訳なさそうな顔で、頭を下げた。
良かった。
エヴェリナ父がいてくれれば、もしエヴェリナ母がヒートアップしても。
何とか、緩衝材の役目を果たしてくれそうだ。
「それで、今日はお嬢さん…エヴェリナさんのお話をしに来たんですが…」
ナジュは、相変わらず微笑みを絶やさずに言った。
「聞いたところによると、エヴェリナさんを学院から退学させたいとか?」
「えぇ。そのつもりです」
エヴェリナ母は、先程とは打って変わって、きっぱりと答えた。
その話ならもう議論の余地なし、と言わんばかりの強硬な態度である。
この鉄壁を崩すのは、容易ではないぞ。
「それはまた、急なお話ですね。どうなさったんですか?」
分かってる癖に、とぼけた聞き方しやがって。
白々しいったらない。
「大体、私は娘を魔導学院なんかに入れるのは反対だったんです」
魔導学院「なんか」とまで言われてしまった。
悪かったな。魔導学院「なんか」で。
「魔導師を育てる学校だなんて…。詐欺師を育てる学校の間違いだわ」
「こ、こらお前…。やめないか…」
吐き捨てるように言ったエヴェリナ母を、エヴェリナ父が諌めようとしたが。
エヴェリナ母は、今度はキッ、と夫を睨んだ。
「あなたがそんな態度だから、あの子が我儘になってしまったんじゃないの。私は反対してたのに、イーニシュフェルトなんか受験させて、なまじ受かったものだから、良い気になって…」
「そ、それは、でもエヴェリナ自身もそう望んでたし…」
「あの子は、ただあのシルナ・エインリーに騙されてるだけなのよ。あの白々しい能天気な顔ったらないわ。あの顔で、人を騙すのよ。信じられないわ」
いや、どっちかと言うと。
今あなたを騙してるのは、白々しい笑顔を浮かべている、目の前の読心魔法教師なんだが?
そっちは疑わないのか?
「それから、今回のシャネオン駅の事件で確信したわ。あの事件は、魔導師排斥論者が起こした事件だそうね」
「えぇ、そう報道されてますね」
と、ナジュが答えた。
ちなみにあの事件の犯人は、無事捕まった。
エリュティアの努力の賜物である。
しかし。
「やっぱりね。魔導師なんて所詮インチキ呪い師だって、皆分かってるのよ。だからあんな事件が起きたんだわ」
そう捉えるのか、あんたは。
あの事件を聞いて、「魔導師排斥論者怖い」と思うのではなく。
「やっぱり魔導師排斥論者は正しいんだわ!」と思ったのか。
「私と同じ意見の人がいる!やっぱり私は間違ってない!」という、確信を得てしまった。
だから、エヴェリナを学院に返すことを拒んだのか。
「だから娘は絶対、イーニシュフェルト魔導学院になんか返しませんよ」
固い決意を感じる。
この難攻不落の要塞を相手に、どう立ち回れば良いのか…。
ナジュは、しばしエヴェリナ母に好きに言わせ、その様子を観察していたが。
「…でも、奥さん。イーニシュフェルトを退学させて、それからどうするんです?」
「そんなの決まってるわ。地元の中学校に転校させます」
本人の意志に関係なく、かよ。
「成程。でもそれって、学歴から見たら、凄く不利になると思いません?」
「…何ですって?」
お、ナジュの奴。
攻め込む隙を見つけたな?
「だってお嬢さん、一度はイーニシュフェルト魔導学院に入学してますから。一学期だけいて、そこから退学して、地元の中学校に転校…なんて、他人が見たら、何かあったのかと余計な勘繰りを入れらますよ、きっと」
「…」
そこまでは、考えが及んでいなかったのか。
エヴェリナ母は、一瞬返す言葉もなく口を噤んだ。
「良くも悪くも、我が校はエリート校と言われてますからね。そのエリート校をたった一学期でやめて、地元に帰る…なんて、やっぱり良い目では見てもらえませんよ」
こいつ、言い方は丁寧なように見えるが。
要するに、脅してるだけだからな。
「お宅の娘さん、学歴に傷がつくけど良いの?一生『あそこの娘さんって…』みたいにひそひそ言われるけど良いの?」って。
性悪な奴だよ。
「折角国内最難関と言われてる学校に合格して、しかもお嬢さん、成績も良いですからね。授業についていけてないのならともかく、今やめるのは勿体無くないですか?」
笑顔で追い詰めていくスタイル。
やっぱり詐欺師だわ。
「お嬢さんの学歴の為にも、ここは一旦六年間、お嬢さんをイーニシュフェルトで預からせてもらえませんか?」
「…」
口を噤み、こちらを睨むエヴェリナ母。
イレース並みの敵意を放ってるぞ。
あの目を前に、よくもまぁ笑顔で、つらつらと白々しいことばっか言えるもんだ。
「それにほら、イーニシュフェルト魔導学院を卒業したからって、必ず魔導師にならなきゃいけない訳じゃありません。学歴はあくまで、お嬢さんの経歴に箔が付いたということにして、別の道を進むという手段もありますよ」
まぁ、確かにそうなんだけど。
過去にそういう生徒も、全くいなかった訳じゃないんだけど。
国内最難関の魔導学院を、まるまる六年通って卒業しておきながら。
魔導師とは一切関係のない、普通の職につく生徒は、非常に稀だ。
しかもその頃には、エヴェリナもほとんど大人になっている。
自分の人生を、自分で決める権利を持てる年頃だ。
親の制止なんて、あってないようなもの。
六年後に従順になることを期待するのは、あまりにも無謀…だが。
ナジュが、あまりにももっともな顔して、もっともなことを言うので。
成程確かにそうだな、と思わせてくる。
本当に詐欺師だ。
相手にそう思い込ませる、その技術が凄い。
やっぱり詐欺師だわ。
敵に回したくない。もとは敵だったけれども。
「どうでしょう?ねぇ、お父さん」
ナジュは、敢えてエヴェリナ父の方に同意を求めた。
まずは、父親の方を味方につけようと思ったのだろう。
そして、実際。
「う、うん…。確かにそうだな。ともあれ、エヴェリナの望むように…」
と、味方になってくれそうな雰囲気を出したが。
エヴェリナ母は、夫が敵に回ろうとしているのを察知し。
伝家の宝刀、逆ギレを始めてしまった。
「何よ、あなたまで言いくるめられて!」
自分も言いくるめられている自覚、あったのか?
「さっきから聞いてれば、自分達に色の良いことばかり言って。そうやって、結局なぁなぁに済ませようとしてるんでしょ!?」
おっ、よく気づいた。
良いぞお母さん。詐欺師の手口にハマるな。
「私は騙されないわよ!御託は良いから、さっさと退学届を出しなさい!」
交渉は決裂、と言ったところか。
しかし。
「でもですね、奥さん。お嬢さんの人生は長いんです。一度傷ついてしまった学歴は、取り戻せませんよ?ましてやこの思春期の時期に…」
余程、このエヴェリナ母の中では、先程ナジュが言った「学歴に傷がつくこと」を気にしているらしく。
なおも、そこを起点にナジュが攻め込もうとするも。
「余計なお世話よ!うちの問題に、教師ごときが首を突っ込まないで!」
そんな自分の迷いを晴らすように、怒鳴り散らすエヴェリナ母。
駄目っぽいぞ、これ。
すると。
「お、お前やめないか。折角先生方が来てくださったのに…」
「あなた、そんな弱気でどうするのよ!エヴェリナが、詐欺師に育てられようとしてるのよ?それを止めないなんて、あなた父親なの!?」
「で、でもな…エヴェリナの将来なんだから、エヴェリナ本人が…」
「あの子はまだ子供なんだから、親が軌道修正するのは当然でしょ!」
「そんな。エヴェリナだって、小さい子供じゃないんだから…」
「あなたもエヴェリナも騙されてるのよ!今何とかしないで、エヴェリナの将来が台無しになったらどうするの!?」
夫婦喧嘩、勃発。
「…親のエゴですよねー」
「…全くだな…」
を、傍目に俺達教師陣もひそひそ話。
すると、そのときだった。
「お母さん!お父さんも、やめて!」
恐らく、上で聞いていたのだろう。
耐えきれなくなったエヴェリナ本人が、現場に駆けつけてきた。
こんな醜い大人同士の争い、絶対に子供には見せたくなかったのに。
来てしまったか。まぁそうなるよな。
学校の先生が二人も家にやって来て、リビングから母親の怒鳴り声が聞こえたら。
自分のせいで、こんなにも言い争っていると思えば…割り込まずにはいられまい。
「も、もう良いから…!私、イーニシュフェルト魔導学院をやめるから。それで良いでしょ?」
おい、ちょっと。
なんてことを。
「私、もう我儘言わないから。だから喧嘩しないで。もう良い、もう良いから…」
何がもう良い、だ。
「エヴェリナ…!お前、本気で言ってるのか?今ここで諦めたら、一生後悔するかもしれないんだぞ」
俺は、思わず口を挟まずにはいられなかった。
こんなこと言ったら、余計エヴェリナ母の怒りの炎に、油を注ぐようなものだが。
しかし、言わずにはいられなかった。
「う、うん…。良い、良いです」
エヴェリナは、涙目で頷いた。
本気かよ。
「私はもう、学院をやめます。魔導師にもなりません。それで良いでしょ?」
何が良いんだよ。
何も良くないだろうが。そんな泣きそうな顔して。
「だから、先生。退学届をください」
「…」
ナジュは、そう頼み込むエヴェリナを、しばしじっと見つめ。
そして。
「…分かりました。あなたがそうしたいのなら、そうすれば良いでしょう」
あろうことか、ナジュは退学届の記入用紙を、エヴェリナに渡した。
ちょ、何やってんだナジュ。
「ただし、よく考えて。冷静になって、よくよく考えて。イーニシュフェルト魔導学院に入学するまでのことを、入学式を迎えた日のことを、よく考えて。家族ではなく自分の為に、どうしたいのかちゃんと考えてください」
「…」
「本当に覚悟が決まったら、これを送ってください。そうでないなら、受け取りませんから。良いですね?」
エヴェリナは、ぶるぶると退学届を受け取り。
ぎゅっと目を瞑って、頷いた。
「宜しい。…では、我々は帰りましょうか羽久さん」
「は!?いや待てよ、まだ話は…」
全然終わってないし、何ならこのまま、エヴェリナは退学届に記入してしまいそうだ。
それだけは止めなくては。
しかし。
「ここまで拗れたら、何言っても通じないでしょ。僕ら、邪魔なんですよ」
ナジュは小声でそう言って、くるりと踵を返した。
そんな…。
「では、お邪魔しましたー」
俺は、半ばナジュに首根っこを掴まれるような形で。
なんとも混沌とした空気の中、オーネラント家を後にした。
オーネラント家を出てから。
「お前馬鹿かよ!?あんな状況で退学届なんか渡したら、速攻で書いて送ってくるに決まってるだろ!」
俺は、待ってましたとばかりにナジュを詰問した。
あれじゃあ、「もうさっさと退学してくれ」と言ってるようなものだ。
今頃エヴェリナは、母親のもとで、退学届に記入してるぞ。
父親は反対してたっぽいが、母親には頭が上がらないみたいだったし。
多分エヴェリナを止めもせず、おろおろ見てるだけだぞ。
エヴェリナを止める者が、誰もいなくなってしまった。
それなのに。
「えぇ。記入してるかもしれませんね」
この詐欺師、飄々として。
「さっきからあなた、僕を詐欺師詐欺師って…。失礼じゃありません?」
「詐欺師だからな!ってか、涼しい顔して言うなよ、お前はエヴェリナを退学させたいのか?」
お前も、イレースと同じ意見か。
するとナジュは、はぁ、と溜め息をついて言った。
「あのですねぇ、皆して頭に血が上っちゃって。少しは落ち着いてくださいよ。あの場にいた、ひ弱な父親と僕以外の全員、頭に血が上ってたんですよ。あれ以上僕達が首突っ込んでヒートアップして、冷静な判断が出来る訳ないでしょう?」
「うっ…」
「おまけに、本人まで出てきちゃって。あんな修羅場に発展したら、もう僕達の声なんか届きませんし、届いたとしても冷静に受け止めることなんて出来ません。余計判断を誤るだけです」
それは…。
…そうかもしれない。
魔導師排斥論者のエヴェリナ母なんか、余計に。
エヴェリナ本人だって、諍いを何とか収めたい一心で、半泣きで出てきたんだし…。
皆して、冷静さを欠いていた。
俺もだけど。
「あの状態で、どうやって説得するんです。無理ですよ。だったら一旦、望むように退学届を渡して、距離を取るしかない。今頃、少しは頭クールになってるでしょ」
ナジュの言い分は、もっともだ。
あんな修羅場状態じゃ、考えるものも考えられない。
「…でも…クールにならずに、勢いのままに、退学届に記入してるかもしれないんだぞ」
「してるかもしれませんね」
「出されたら終わりじゃないか」
「絶対とは言い切れませんが、きっとすぐには出しませんよ」
あ?
「何でそう言えるんだ?」
「彼女が、本当は退学なんかしたくないと思ってたからです」
「…」
…それって…。
「僕達に退学すると言ってたときも、『お母さんの怒りを鎮めるには、こうするしかない』という一心。退学届を受け取ったときなんて、心の中、『嫌だ』でいっぱいでしたから」
…そうか。
そうだよな。ナジュは、読心魔法が使えるから…。
あの修羅場の中で、ナジュはそれぞれの心の中を順繰りに覗きながら。
誰に何を言って何をすれば良いのか、的確に考えながら行動していたのだ。
…俺も、ちょっと冷静になった。
「…悪かったよ、責めるようなこと言って…」
ナジュには、ナジュなりの考えがあったんだ。
その上で、最善と思われる行動をしたのだ。
それを責めたのは、俺が悪かった。
「別に良いですよ。大体、あれだけ『退学届寄越せ!』って言ってた母親だって、僕が本当に退学届渡したとき、内心ちょっとびっくりしてましたし」
マジで?
あれだけ退学退学言っといて?
まさか、そんなにあっさり退学届をもらえるとは、思ってなかったのか。
「本物の退学届を見て、自分がやろうとしていることの現実が分かったんでしょう」
「そ、そうか…」
「本人は内心『退学したくない』の一点張り、父親は日和見、何なら母親もちょっと動揺してる。こんな状況じゃ、勢いに任せて退学届に記入したとしても、それを投函するまでには、何処かで踏み留まるでしょう」
…ナジュが心を読んで判断した読みだから、当たっているとは思うが。
切実に、そうであって欲しい。
「まぁ最悪投函されたとしても、一、二回くらいは『書類に不備あり』で送り返せば良いんですよ。そうこうしてるうちに、冷静にもなるでしょ」
…お前って奴は。
思慮深いんだか、楽観的なんだか、どっちだよ。
「強いて言うなら、どっちもですね」
心を読むな。
「それに、退学届を渡すとき、ちゃんと彼女の痛いところに、釘を差しておきましたし。余計、退学届には手を出しにくいんじゃないですか?」
「…釘…?」
って、お前何処に差したの?
そういや、退学届を手渡すとき、随分意味深なこと言ってたけど…。
あれと何か関係が?
「あー、あれですね。彼女の中で、走馬灯みたいなものが流れてたんですよ」
いち早く俺の心を読んだナジュが、そう説明した。
何だ?エヴェリナの走馬灯って。
「どうも彼女、幼い頃から魔導師に憧れていたそうですね。母親が魔導師排斥論者なのは知っていたものの、彼女の伯母…父親の姉が、魔導師だったそうで」
あ、そうなの?
成程、父親が妙に日和見だったのは、自分の姉が他ならぬ、魔導師だったからか。
となると、エヴェリナの魔導適性は、父方の家系から引き継いだのかもな。
「その伯母に憧れて、魔導師を目指し…。で、彼女が小学校高学年のとき、どうもイーニシュフェルト魔導学院のオープンスクールに参加したそうです」
「オープンスクールに…」
大抵何処の魔導師養成校でも、毎年行われているものだが。
当然、我がイーニシュフェルト魔導学院でも開催している。
今年も、丁度近々行われる予定だ。
「そのとき、僕はまだいなかったから、よく知りませんが…体験授業?みたいなのを、行ったそうですね」
「あぁ…。うちでは、毎年やってるよ」
「それに参加して、感動したみたいですよ」
そうなのか。
「授業を担当したのは、学院長だったそうですね」
「そうだな。大抵シルナがやってるよ」
書類仕事は、面倒臭がるシルナだが。
オープンスクールの体験授業なんて、シルナにとっては大好物だ。
まずは手始めとばかりに、参加者全員にチョコレートを配り。
未来の自分の生徒〜♪とばかりに、毎年うっきうきで授業を行っている。
想像つくだろ?
「その授業の内容が、難しいのに分かりやすくて、これまでにない授業だと、感銘を受けたらしいです」
…そうかもな。
あれでシルナ、分身で教師作りまくってる辺り。
人に教えるのは上手いんだよ。
こればかりは、イレースも認めざるを得ない。
普段は、菓子ばっか食ってる、通称パンダ学院長だが。
そこらの学院の教師よりは、遥かに教えるのが上手い。
「それから、訓練場で見せてもらった、最新の魔導訓練設備。あれにも感動してたそうです」
「あぁ…。うちは、一応設備だけは、いつも最新式だからな…」
教師の数は、圧倒的に少ないが(ほぼシルナ分身)。
設備だけは、いつでも最新のものを揃えている。
これでも、国内最高峰の魔導学院を自称しているのだから。
お古を使ってます、じゃ格好がつかん。
「で、そのオープンスクールを経験して、是非ともイーニシュフェルト魔導学院に入学したい、その為ならどんな努力でもする、と決意を固めて、それはそれは熱心に勉強し…」
「…」
「難色を示す母親を、父親と一緒にどうにかこうにか納得させて、まさかのイーニシュフェルト一点狙いで受験して…ようやく合格したんですよ」
「…そこまでして…」
そこまでして…イーニシュフェルト魔導学院に入りたかったのか。
「この夏休みも、母親に少しでも認めてもらいたくて、一学期しこたま勉強頑張って、かなり良い成績を取ったらしいですね。立派な成績表を持って帰省して、ちょっとは認めてくれたかな、と思ってたところに…」
「…あの、シャネオン駅の爆破事件が起きた、ってことか」
「そういうことですね」
俄然、あの爆破犯が許せなくなってきた。
一人の少女が、何とか自分の夢を母親に認めてもらおうと、努力に努力を重ねてきたのに。
あの爆破犯は、線路と一緒に、エヴェリナのささやかな願いさえ爆破しやがったのだ。
あんな事件が起きなければ、エヴェリナ母も、ここまで魔導師排斥論を拗らせたりしなかっただろうに…。
「まぁ、学院に残るとしても、仮に退学するにしても…。このままだと、母親との意見の対立が、あの親子に延々と付きまとうでしょうね」
「そうだな…」
母親は魔導師は大嫌いで、でも娘は魔導師になりたくて。
その間には、大きな溝がある。
学院に戻るとしても、戻らないとしても。
多分一生遺恨が残るだろう。
最悪、エリュティアと同じく、家族と絶縁することにもなりかねない…。
と、俺はかなり深刻に悩んでいたのだが。
「あぁ、面倒なことになってきたなぁ。早く精神世界に行って、リリスに良い子良い子して欲しいなー」
「…」
この同僚詐欺師は、何処までも呑気だった。
悩んでるこっちがアホらしくなる。