君との恋の物語-mutual affection-

シルバーウィークも終わり、世の中は「演奏会シーズン」呼ばれる時期に入った。

とは言っても、俺のような大学生は演奏の仕事がもらえる望みは薄いので、あまり気にしていない。

焦る気持ちが全くないと言えば嘘になるが、飽くまでも俺は「音楽教育科」の学生であり、1年生なんだ。

同じ1年生であっても「音楽大学」の1年生とはやっぱり違うし、「音楽教育科」のくくりで見ても、学年の差はどうしても出るものだ。

その点、ある意味励みになっているのは増田先輩の存在だ。

先輩は「音楽教育科」の学生でありながら、1年生の頃に既に安藤先生から演奏の仕事を貰っている。

プロの団体での演奏は今もそんなに頻繁にはないようだが、アマチュア団体からの指導の依頼や演奏の依頼も数多くこなしていて、3年生にして既にアルバイトの必要がないほど稼いでいるらしい。

だから、俺も頑張ってさえいれば…と希望を持つと同時に、「増田先輩を越えなければプロになれない」というプレッシャーの中にいる。

アマチュア団体でも、指導でも…「1年生のうちに一つは仕事をいただけるように頑張る」

と言うのが、俺が大学に入った直後に建てた目標だった。

その最初の一年も、もう半部終わってしまったと考えると、焦る気持ちはどうしても拭えない。

まぁでも、来ないものを悩み続けても来ないものは来ない。

悩んでる暇があったら上手くなろう。

こうして俺は、今日も打楽器室に籠って練習している。

Aブラスはまだ曲目も確定していない。

直近の学内行事で言えば文化祭があるのだが、そこでの演奏については、まだ何も考えていなかった。

文化祭での演奏は、いくつかにエリアが別れており、ホール、小ホール、リハーサル室、校舎エントランス、それから、音楽教育科の為に割り振られた教室が2箇所だ。

学生は、演奏申請書という用紙に希望のエリアや曲目、編成などを記入し、提出をする。

希望者が多い場合や曲目が被っている場合は学友会の調整が入るが、演奏希望自体が通らないということはほぼないようだ。

この際なのでソロの曲でもいいから何か申請しようかなどと考えてはいるのだが、どうにもこれが最善だと踏み切ることができなかった。

まずいな…オーディションに合格して、気が抜けている。

しっかり目標を立て直してそこに向かっていかないと。

そのための息抜きだったはずだし、十分息抜きできたじゃないか。


…。




……。





………。


だめだ、このままでは集中できない。

帰ろう。

近々、結をお茶に誘って相談するか…?いや、相談してどうこうなるものでもない…。

結局、いつ来るかわからない仕事に備えて頑張って練習するしかないよな…。


俺は、こういうことはなるべくシビアに考えることにしている。

例えば、今は大学生なので演奏や指導の仕事がなくても学校行事での演奏や、演奏試験がある。

もっと簡単に言えば、いつでも予定がある。

でも、これは学校から与えてもらっている予定であって、仕事ではない。

ということは、このまま卒業したら明日から全く予定がないということになる。

つまり、このままでは演奏家としてやっていけないということだ…





なんだか…大学に入ってから、俺は変わったなと思う。

そもそも大学に入ったときには演奏家を目指してなかったのに。

やっぱり簡単には諦めきれないか…。

それなら、それ相応に仕事を取っていかないとだよな。

じゃないと俺も納得できないと思うし、俺の周りにいる家族も納得してくれないだろうからな。

諦めることよりも目指すことの方が難しい世界だ。

パッと決められるものでもないな。

やめよう。今日はもう帰ると決めたんだ。

まだ時間も早いし、たまには1人で散歩するのもいいか。





その日は珍しく考えがまとまらず、どうしようもなかったので、結局散歩にもいかずに帰宅し、早々に寝ることにした。

きっと、音楽大学に限らず真面目に取り組んでいる学生は、皆こうして悩んでいるんだろうと思うことした。

考え始めては、キリがないからと打ち消し、練習に励む。

こんなことをいつまでも続けるわけにもいかないなと思っていた矢先に、意外な人物から話しかけられた。

俺がいつものように教室を借りて練習している時だった。

「樋口君、ちょっといいかな?」

4年生の鈴木真里先輩だった。

『あ、はい。』

「いきなりだけど、樋口君て、ドラムはできる?」

ん?ドラム?まぁ、できなくはないけど

『ヘビメタとかでなければ、ある程度いけますね。打楽器を始めたきっかけもドラムでしたし、中高と吹奏楽部で、ポップスやるときは大体いつも叩いてました、』

すると、パッと明るい笑顔が咲いた。もしかして…?

「1件、仕事お願いできるかな?アマチュアの吹奏楽団で、団体のレベルは全然高くないんだけ…」

『やります!ぜひ、やらせてください。』

しまった…。食いついてしまった…。

『すみません…。』

先輩は、笑顔のまま続けてくれた。

「全然!アマチュアとはいえ、仕事もらったら嬉しいもんね!そしたら、まず詳細を伝えるから、読んでみてくれる?」

ありがたい。仕事を下さったこともそうだけど、こちらの気持ちまで理解して下さって。

さすが、4年生ともなると大学に入りたての俺たちとは全然違うな。

その場で送って下さったメールを見る。

水戸市吹奏楽団という団体で、本番の日程、練習の曜日、曲目、パート、そして謝礼が書かれていた。

練習は毎週土日に行なっているようだけど、賛助出演者は三回練習に参加すればいいようだ。

そして、謝礼は1万円。初仕事としては高い方なんじゃないか?ましてアマチュア団体なら。

『ありがとうございます。是非やらせてください。』

ちょっと涙が出そうなくらい嬉しかった。仕事がもらえたのもそうだけど、先輩が俺を選んでくれたことも本当に嬉しかった。

「こちらこそありがとう!今回、2人で頼まれてるから、私と一緒に行ってもらうんだけど、練習に参加する日も合わせていこう。」

なるほど、先輩と一緒なのか。それなら安心だ。それと

『はい、もちろんです。本当、ありがとうございます。』

「何ちょっと泣きそうになってんの?」

先輩は、嫌味のない笑顔で聞いてくれた。

『いや、仕事もらえたの初めてなんですよ。オーディション終わったあたりから、仕事がないことにちょっと焦ったりもしてたんで…。ほんと、嬉しんですよ。』

「大袈裟だなぁ!それに、まだ一年生でしょ?焦ることないって!まぁ、気持ちはわかるけどさ。私なんかもう4年だけど、全然食べていける見込みはないし、皆結構同じように悩んでるよ?そんな時は、吐き出した方がいいよ。今度、飲み会やるときは呼んであげるからおいでよ!打楽器だけじゃなくて、いろんな楽器の人と繋がれるし、ね!」

いい先輩だなぁ。ありがたい。

『ありがとうございます。』

「うん!今回の仕事のことで、何か質問はある?」

『えっと、練習に参加する回数は、少し増やしても大丈夫ですか?先輩と一緒に行くのは三回でいいのですが、ドラムなので、僕も合奏で叩く感覚を取り戻したいんですよね。』

「真面目だねぇ!大丈夫だと思うけど、出演料は変わらないよ?」

それはもちろん。

『ええ、それは、もちろん』

「OK!そしたら、先方には私が伝えておくよ。一緒に行く日をなるべく早くにして、以降は先方に直接連絡して日程を決めてね。」

『承知しました。ありがとうございます!』

「よろしくね!じゃ、これ楽譜ね!初日は、2週後くらいかな。この週の土日のどちらか開けられる?」

『ありがとうございます。はい、この時間ならどちらでも大丈夫ですよ。』

「よかった!じゃぁ先方から返事が来たらまた伝えるね!」

荷物をまとめて、部屋を出ようとする先輩。

俺も立ち上がって見送る。

「あ、そうだ、樋口君。さっきの話だけど」

仕事の悩みについて…かな?

「皆、今回のオーディションでしっかり結果を残した樋口君を評価してるよ!合格したこと自体もすごいけど、その後も謙虚であることも、努力を続けてることも。」

先輩は続ける。

「だから、補償はできないけど、皆多かれ少なかれ君に仕事をお願いすると思う。樋口君は信用できるし、一緒に演奏してみたいって、皆思ってるから。だから、頑張ろうね!」

またしても涙ぐんだが、悟られないように頑張った。

「じゃぁ、またね!」

そう言ってストレートの長い髪を翻し、先輩は部屋を出て行った。

もっと素直に誰かに相談すべきだったか?

なんにせよ、俺は思った以上に人との繋がりがあると思っていいみたいだ。

だったら尚のこと、ひたすら頑張ろう。そうだ、まだ学校生活は始まったばかりなんだから。



その夜、俺は久しぶりに結と電話した。

この気持ちを、いち早く結に伝えたかった。

結は、俺以上に喜んでくれて、演奏会を聴きに行くとまで行ってくれた。

俺は本当に恵まれている。

聴きに来てくれる人がいるのだから、もっともっと頑張れる。

よし、明日からは久々にドラムの練習だ!









おかしい…。

どう考えてもおかしい…。

ここ数日の結の様子だ。何か、深い訳がありそうな気がする。

最初に気付いたのは、俺が初仕事をもらった話をした時だ。

確かに、いつものように結も喜んでくれたのだが、何というか、少し元気がなさそうだった。

いや、実は理由には心当たりがある…。

もし、俺が結だったら、きっとあのタイミングでの「初仕事」の話は、聞いていて悔しかったんじゃないかと思う。

俺は、自分が仕事をもらった側だから今は何とも思わないが、あの日、もし鈴木先輩が俺に仕事の話を持ってきて下さらなかったら…。

俺はあのままずっと悩んでいただろう。

でも、考えてみたら俺がもらった仕事は一つだけ。それも、額の大きな物ではない。

だから、ひとつもらえたからと言って、これで全てが解決する訳じゃないんだ。

でも、多分、この「一つ」があるのとないのとでは大きな差があるんだ。

きっと、俺が結の立場ならそう考えていると思う…。

こう言う話は、俺達がお互いにいくつも仕事をもらえるようになったら何も気にしなくなるんだと思う。だから、2人でそれを目指せばいい。

そう思うんだけど、それを俺が結に言っても…。俺が結の立場だったら、素直に頷けないかもしれない。

誰が悪いという話じゃないこともわかっているんだが、それでも悔しい。割り切れない。

頑張りきれない。そう言う沼にハマってしまう気がする。

何か俺がしてあげられることはないんだろうか?

もし結が、あまり努力をしていない人なら俺もこんなことは考えないだろう。

でも、結がどれだけ努力をしてきたかを一番よく知っているのは俺だ。

夏休みの間、ずっと学校に籠って練習してきた。

結がいたから俺も同じように頑張れたし、同じように頑張っていたからお互いに惹かれ合ったんだ。

あんなに頼りになるパートナーは他にいない。

2人とも音楽が好きでこの大学に入り、お互いを好きになれたと言うのに、その音楽がきっかけでギクシャクしてしまうと言うのは嫌な話だ。

結…ごめんな。何も出来なくて。

でも、2人がずっと一緒にいるためには、こういうことも一緒に乗り越えて行く必要があると思うんだ。

だから、今はまだ、話し合うことはできないけど、いつかはちゃんと話さなきゃいけないと思っている。

問題は、どうやってきっかけを作るかだ。今、仕事をもらった側の俺が持ちかけても良くないと思う…。かといって、結からも持ちかけにくいだろうと思う。

そもそもどう話すのが正解なのかわからない…。

【今回はたまたま俺が仕事を貰えたけど、結にだってきっとチャンスはあるよ!だから一緒に頑張ろう!】

とでも言うのか?

いやいやいやいや…俺が結の立場だったら【気持ちは嬉しいけど…】ってなるだろ…。


…今は、何もしない方がいいのかもしれない…。考えるのはやめないけど。

変に触れるよりはそっとしておく方が正解かもしれない。

それに、結のことも気になるけど、俺が今一番に優先しなきゃいけないのは自分のことだ。

アマチュア団体とはいえ、お金をもらって演奏するんだ。自分で言ったことだろう。

お金が発生する以上は仕事だ。自分の仕事に責任を持たなければ。

気にはなるけど、練習の時は切り替えていかないとだ。

もし俺が結のことを気にしていたせいで仕事でミスをしたらどうなる?

自分のことでもないのに結が気に病むことになる…。

それに、当然の報いとして俺も仕事を失うだろう。

今は、ちゃんと切り替えて練習しよう。




そうして結とはなんとなく距離が空いたまま2週間が経過した。

もちろん一緒に帰る日はあるし、休みの日に会うこともあったが、どうにも会話が弾まない…。

このままではまずいと流石に焦り始めた頃、結からメールがあった。

【今週の木曜日、ブラスの後、会えないかな?久しぶりに散歩しない?】

もちろん断る理由はないのだが、ただでさえ文字だけで味気ないメールが、いつもよりも味気なく感じて少し焦った。

なんだろう…?

【わかった。授業が終わったら、校舎の前で待ち合わせしよう】

そう言いながら、自分も味気ない文章を送ってしまったことに後悔しかけたが、深く考えるのはやめた。

結が散歩をしたいという以上、話したいことがあるんだろう。

それに、結はうまくいかないからと言っていきなり別れを切り出したりはしないだろう。

そんなに軽い人ではないし、俺への気持ちだって決して小さくはないはずだ。

これは、自惚ではない。信用だ。

俺は、結のことを信じているし、気持ちもちゃんとわかっている。

だから、この日はちゃんと、結の話を聞きに行こう。

その日も校舎が閉まるギリギリまで練習していた。

他にも何人か残っていたようだ。俺は楽器を片付けて帰ろうと打楽器部屋を出た。

エレベーターで地上に上がると、エレベーターホールに誰かが立っていた。

トランペットの高橋だった。

「お疲れ、今、帰りか?」

なんだ?待っていたのか?

『お疲れ。うん、そうだよ』

高橋は、何か言いたそうな顔をしていた。俺は、なるべく言いやすい雰囲気を出すようにしていた。

「よかったら、駅まで一緒にどうだ?」

やっぱり。待ってたんだなw

『OK!』




「樋口、お陰で助かったよ」

校舎を出ると、高橋は唐突に切り出した。

『ん?何が?』

ニヤニヤを隠せないが、外は暗いので大丈夫だろうw

「いや、めぐ、あぁ、橋本さんのことだ」

ほぅ?と言うことは?

『橋本さん?サックスの?』

やばい、ニヤケが止まらない。

「いや、もうニヤニヤしてんじゃん。わかってるんだろ?」

まぁな。

『うまく行ったのか?』

高橋は、照れながら頷いた。

「お陰様で。今月の初めから付き合い始めた。」

お!思ったより早かったな。

『そうか!やったな!』

「ありがとう。樋口のおかげだ。俺から相談したわけでもないのに、誘ってくれてよかったよ。」

『いやいや、高橋が橋本さんと仲良さそうなのは皆わかってただろう?何かのきっかけになればとは思ったけど、そんなに深くは考えてなかったよ。』

うまく行ってよかったと心から思う。高橋は本当に幸せそうだった。

『それで、報告のためにわざわざ待ってたのか?』

すると、高橋の表情が少し落ち着きを取り戻した。

「うん、それもあるけど、ちょっと話したいことがあってさ。」

ん?

『うん。どうした?』

高橋の表情からは、若干深刻そうな雰囲気を感じる。

「樋口は、将来どうするんだ?やっぱり、教員か?」

『うん。大学に入った時はそのつもりだった。』

すると、高橋は意外そうに目を丸くした。

「だった?」

『うん。今は、正直迷っている。』

「それはつまり、プロになりたいってことか?」

まぁ、そうなるな。

『そう言うこと。でも、』

「俺たちは飽くまでも教育大なんだよな。」

それもあるな。

『高橋も悩んでるのか?』

高橋は、前を向いたまま答える。

「うん。俺も入った時は教員になるつもりだったんだけど、やっぱり吹いてて楽しいんだよ。もちろん、楽しいだけでやっていける程甘くないのはわかってる。むしろ、辛いことの方が多いと思う。だけど、」

『だけど?』

「俺はさ、やっぱり教えるよりも、聴いてもらいたいんだよな。自分の演奏を」

わかるよ、その気持ち。

「演奏で食べていくって、覚悟がいることだよな。もしかしたら、音楽を嫌いになるくらい辛いこともあるんじゃないかって」

『そうだな。』

高橋の顔を覗き込むと、微笑んでいた。幸せそうな顔をしていた。

「けどさ、めぐに言われたんだよ。ラッパ吹いてる俺が、一番いいって。」

そうか。いい彼女だな。

「そしたらさ、やっぱり吹いていたいなって思うようになったんだよな。」

『なるほど。でもそれって、橋本さんに言われたことは、単なるきっかけだろう?』

「ん?」

『高橋が吹いていたいと思ったのは、元々の気持ちなんじゃないかと思うぞ。だからって、よし!じゃ一緒にプロになろうぜ!とは簡単にいえないけどな。』

「そうかな?」

『うん。俺だってまだ迷ってるし、偉そうなことは言えないけど、オーディションのために必死に練習して、プレッシャーもあったし、しんどかったけど、例えオーディションであっても演奏はやっぱり楽しいし、楽しんでいたいと思っているんだ。この気持ちって、誰かに教わって身につく物じゃないと思うんだよな。』

高橋は大きく頷いた。

「わかる。音楽を教わることはできても、音楽が楽しいと言うことは、教えてもらえることじゃないもんな。」

!!なんだ。なんか…

「俺も、そんなに才能があるわけじゃないし、受験の時も結構きつかったけど、ラッパ吹いてて辛いことがあっても、やっぱり好きなんだよな。楽器も音楽も。」

!!これかもしれない。俺が結と話すべきことは。

「音楽を通じて知り合った友達だって大事だし、もちろん、めぐだって、大事だ。音楽を仕事にしようと思ったら、色んな人と争わなくちゃいけなくなるんだろうけど、例え誰かが受かって自分が落ちても、その人を恨むんじゃなくてさ、悔しいけど、次は頑張るぞって、思える人になりたいよな。なんていうか、音楽そのものを大きくやっていくっていうか…うまく言えないけど。」

『高橋。』

思わず呼びかけていた。

「ん?」

『お前、すごいな。そんな風に大きな考え、中々持てないぞ。』

結にも聞いてもらいたかった。こんなに大きなやつがいるんだな。

「そうか?俺からしたら、今の時点で実力が認められている樋口の方がずっとすごいけどな!」

いや、技術なんて後からいくらでもついてくるものだ。でもこう言う考え方は、

『いや、本当にそう思うぞ。何も悩む必要なんてないんじゃないか?高橋の中でなりたい自分がそこまで決まっているなら、目指してるべきだろう。技術は、後から勝手について来ると思う。』

「そうかな?まぁでも、なれるかどうかなんてやってみないとわからないしな!なんか、こう言うこと真面目に聞いて答えくれそうなの、樋口しか思いつかなくてさ!ありがとな!やってみるよ。」

そうだ。それがいいと思う。

『いや、むしろお礼を言いたいのは俺の方だよ。』

「ん?なんで?」

『俺は、最近、目先の結果に囚われすぎていた。高橋と話して、それを実感したよ。俺も、音楽を大きくやっていきたい。そう思った。だから、ありがとな。』

「そ、そうか、俺でも何かの役に立ててよかった。」

素直なやつだ。高橋は、本当にまっすぐなんだな。

電車が反対方向の俺たちは、そのまま駅で別れた。

しかし、まさか高橋があんなにすごいやつだとは思わなかった。

少し考えをまとめる必要はあるが、俺が結と話すべきことが少し見えた気がした。
「お待たせ」

そう言って待ち合わせ場所に現れた結は、この間までと違って明るい表情だった。

これは、何かあったな。

『ん、俺も今着いたところだよ。』

つられて俺も、少し表情が緩んだ。

よかった。結の、いつもの笑顔だ。

「今日は、一緒に行きたいところがあるんだけど、いいかな?」

照れているのか?なんか、懐かしいな、その表情。

『うん、かまわないよ。どこに行きたいんだ?』

すると結は、一瞬ホッとしたような表情をした。

「大したところじゃないんだけどね。じゃ、まず電車に乗りましょ。」

促されるがままに電車に乗った。

今日の待ち合わせは小山駅。で、大学に向かうのと同じ方面の電車に向かう、ということは。

大学か、出会った頃からよく一緒に散歩している河原か?



「恒星はさ、打楽器を始めたきっかけって何かあったの?」

電車に乗って並んで座ると、 結が唐突に聞いた。

『ん?うん、まぁ、親父の影響かな、ある意味。』

「そうなの!?お父さんも、音楽やる人なの?」

結が目を丸くする。

かわいいな…

『うん、って言っても、趣味でベースを弾いてるだけなんだけどな。』

「そうなんだ!それで、どうして打楽器なの?」

興味津々と言った感じだ。まぁ、電車も長いし、ゆっくり話そうか。

『本当のきっかけはすごく小さなことなんだけど、親父が、会社の人達とバンドを組んでて、一回その練習を見に行ったことがあったんだよ。』

「うんうん。」

『で、なぜか急に、ドラム叩かせてもらったらどうだ?って言われて』

「叩いたの?」

『いや、当時小学生の俺に葉そんな度胸はなかったw』

『でも、興味はあった。なんであの時親父がそんなこと言ったのかはわからなかったけど。』

それも、今なら少しわかる。

『で、多分俺がドラムに興味を持ったことに気づいていたのか、ある日突然、練習パッドのドラムセットが家に届いた。』

「すごっ!買っちゃったんだ!」

結は本気で驚いているみたいだった。

多分、親父が俺にドラムを薦めたのは、一緒にリズム隊を組みたかったんだろう。

未だセッションなんてしたことないけどw

『うん、それが小学5年生の時なんだけど、それから中学に入るまではずっと自己流で叩いてた。好きなJーPOPとか耳コピしてたな。』

「そうなんだ!あ、それで、吹奏楽部入ったの?」

『まぁ、そうなんだけど、実は第一希望はクラだったんだ。』

するとさらに目を丸くした結が一気に距離を詰めて聞いてきた。

「え?なんで?クラだったの!?それは、何かきっかけあったの?」

近い近いw

『えっと、順を追って説明すると、自己流でドラムを叩いてた俺を見て、知り合いが吹奏楽部を薦めてくれたんだ。ドラムもあるよって。で、それを親父に話したら、即賛成してくれて、さらに頑張って練習してたら、しばらく経って親父が俺に言ったわけ。』

「うんうん、なんて?」

近いってw目のやり場に困るw

『ドラムは、自己流であれだけ叩けるんだし、吹奏楽部ではせっかくだから管楽器をやってみたらどうだ?って。いきなり何を言うんだって思ったけど、まぁ確かにそれも悪くないかなと。』

「うん、ん?でも、なんでクラだったの?」

『それは、芸術鑑賞会ってあるでしょ?あの、小学校とかにオーケストラとか吹奏楽とかを呼んで演奏してもらう。あれ、俺が小6の時は地元の名門高校の吹奏楽部が来てくれたんだ。その時、楽器紹介でいっぱい楽器を見せられたんだけど、クラリネットが一番印象的で、親父に管楽器を薦められた時に真っ先に思い出したんだ。実は、それだけw』

ここで一旦区切った。

『それで、中学に入って吹奏楽部に入部したんだけど、うちの顧問は向き不向きで楽器の割り当てを決める先生でね。俺は最後の最後までクラか打楽器かで先輩たちの取りあいになってたらしいんだけど、最終的には、打楽器になったってわけ。』

「そうなんだ!取りあいになるなんてすごいね!」

結が目を輝かせて言う。ほんと、吹っ切れたみたいだな。

『まぁ、先輩達は、ただ男子が入ってきたことが珍しいから取りあってたんだと思うけど、顧問は最初から俺を打楽器にしたかったみたいだね。』

結は、何度も頷きながら、そっかぁ、すごいなぁと言っていた。

『まぁ、そんな感じ。第一希望の楽器にはなれなかったけど、今ではそれでよかったと思ってるよ。』

「そっか。そうだよね。そこで打楽器にならなかったら、私とも出逢えてないかもだもんね。ま、クラになってたらライバルになってたかも知れないしね!」

『そうかもな。』

そう言って少し笑った。

電車が目的地に到着したようで、結が降りるように促した。

やっぱりな。

大学の最寄駅だった。

そのまま大学へ向かい、通り過ぎて、土手の方まで歩いてく。

いつもの散歩コースだ。

そろそろ、頃合いかな。

結が自分で話し始めたらそれで良いと思っていたけど、電車を降りてからはあまり話さなくなった。

話したいことは決まっているんだろうけど、どこから始めたらいいか迷っている。

そんな感じだった。

『結は、クラを始めるのにどんなきっかけがあったんだ?』

唐突に聞いてみた。

「え?うん、私も、おんなじような感じ。でも、私の場合は、強く薦めてくれたのは先生なんだ」

ほう。

『そうなんだ。それは、顧問の先生?』

「うん、須藤先生っていうの。女の先生でね、明るくて優しくて、どんな生徒にも平等に接してくれる、とっても良い先生よ!私の、憧れでもあるの。」

『そうか。結がそこまで言うんなら、すごく良い先生なんだろうな。俺もいつかお会いしてみたいな』

すると、結はちょっと困ったような顔をした。

「実はね、私、昨日先生に会ってきたの。」

なるほど…少し話が見えてきた。

『そうなんだ。』

言葉に詰まってしまった。

「うん、実はね、私、最近、ちょっと思い悩んじゃって。恒星は気付いてたでしょう?」

まぁ、な。俺もそのことについては話したいと思っていた。

『うん、結の気持ちも、なんとなくだけどわかっているつもりだった。だからこそ、なんて声をかけたらいいかわからなかったんだ。ごめん。』

もう、正直に言うしかなかった。

「んん、それは、いいの!私も、なんて話したらいいかわからなくて…。恒星を応援したい気持ちは変わらないし、お互い支え合えたらって思ってるのに、なんか、焦っちゃって。でも、こんなこと言ったら、せっかくお仕事をもらえて頑張ろうとしてる気持ちに水を差すことになっちゃいそうで…。そしたら、なんか怖くなっちゃって。」

俺は、ただ黙って頷いていた。

「私って、一回ネガティブな思考に入っちゃうと、どんどんドツボにハマっちゃうタイプで、なんか色々考えてたら、クラ吹いてても楽しくなくなってきちゃって、ほんと、大袈裟だと思うんだけど、なんか止められなくて…。演奏で仕事をしていくって大変なことだと思うから。まだ大学入ったばっかりの私がこんなことで悩むのも生意気だと思うんだけど…先生になりたい気持ちと、演奏していたい気持ちもごちゃごちゃになっちゃって。そもそも私、なんでクラ吹いてるんだろうみたいになっちゃって…それで、先生に相談しに行ったの。もう、洗いざらい全部吐き出して、整理したくて。」

そうか。でも、今日の様子からすると、結は何か立ち直るきっかけをもらってきたはずだ。

『そうか。先生は、なんて?』

結の表情に、いつもの微笑みが戻ってくる。

「辛いのは、好きなことを仕事にしようとしてるからだと思うって。しかも、その好きなことで、恒星とも争わなきゃいけないと思ってるから辛いんじゃないかって。」

『そうだな。そうかもしれないな。』

「でも、私は私。ちゃんと結果を出せてるんだから、人と比べなくていい、焦らなくていいって、言ってくれたの。」

なるほど。それは確かに結が一番欲しい言葉だったはず。それは俺が結の立場でも、同じだったと思う。しかもそれを、憧れの先生からいただけたなら、すごく結の支えになっただろう。

悔しいけど、これは俺が同じこと言ってもダメだっただろうな。

「確かに好きなことを仕事にするって、すごく大変なことだと思う。だけど、私はやっぱり、音楽もクラも、好き。それに、恒星とずっと一緒にいたい。争うんじゃなくて、お互いに高め合って、私にしかできない演奏をしたい。今回みたいに、私にだけ結果が出なかったとしても、楽器とか音楽のことが原因で別れるなんて、絶対に嫌なの。だって私、打楽器をやってる恒星が一番好きだから!」

嬉しい。ありがとう、結。よかった。

『うん、俺も同じ気持ちだよ。俺も、結の気持ちには気付いていたけど、このタイミングで俺から声を掛けても、上から物を言うようになる気がして言えなかった。辛そうだと思っていたのに、何もできなくてごめんな。』

ほんと、ごめん。

「いいの、待っていてくれたから。ちゃんと立ち直れたし。」

『ありがとう。そういえば、この間高橋がこんなことを言ってたんだ。』

「高橋君って、トランペットの?」

『うん。音楽を教えてもらうことはできても、音楽が楽しいと言うことは教えてもらえないって。だから、例え音楽で辛い思いをしても音楽を好きでいられる俺達は、本当に幸せなんだと思う。』

「そっか。そうね。」

『俺も、結とこのまま距離が空いてしまって、別れるなんて絶対に嫌だった。だから、戻ってきてくれてありがとう。』

別れ話をしたわけでもないのに、こんな言葉が出てきた。

「んん、私こそ、待っててくれてありがとう。これからも、一緒に音楽やって、遊んで、お互いにいっぱい演奏できるように頑張ろうね!」

俺は、“いっぱい演奏ができるように“と言われてすごく嬉しかった。

“いっぱい仕事ができるように“とは言わなかったから。

『うん、あ、えっと、俺からも一つ、話していいか?』

「うん?いいよ?」

『結が悩んでいるところを見て、俺に何かできることはないか考えた結果なんだ。来週金曜日は空いてるかい?』

そう言ってカバンから封筒を取り出した。

「え?空いてるけど。」

『じゃぁ、3限が終わったら学校を抜け出さないか?この演奏会に一緒に行きたいんだ』

受け取ったチケットを見て、結が今日一番、いや、出会ってから一番驚いた顔をした。

「え!?これって!?」

ドイツ国立フィルハーモニー管弦楽団の東京公演のチケットだ。

『今回の結の悩みは、俺にだって当てはまることだ。タイミングによっては立場が逆になっていたかもしれない。だから、俺が何か言葉をかけるよりも、もっと強烈で、次元の違う演奏を2人で聴きに行こうと思った。そうすることで、自分達がどれほど小さい存在なのかを思い知りたかった。俺だって、たった一つ演奏させてもらえる機会を与えられただけだ。俺と結に差なんてないし、優劣もない。でも、このオケの人たちは次元が違う。俺たちが目指すべきレベルは、ここなんだと思うんだ。だから、一緒に聴きに行こう。』

結が俺の目をじっと見つめる。

「ありがとう恒星。」

泣き笑いの表情で言った。

『泣くことないだろ!さ、しんみりするのはやめて、この演奏会を楽しみに頑張ろう!』

「うん!」





次の週、予定通りドイツフィルの公演を聴きに行った俺達は、いい意味で打ちのめされて自分達の小ささを思い知った。

これが…世界レベルのプロか…。

ステージにいるオーケストラと自分達の差がどれほどのものかは別として、目指すべきレベルはわかった。

これでまた明日から頑張れる。

その日は結と東京に泊まり、一晩中語り明かした。

「あぁ、樋口君、今日も練習かい?」

ある日の放課後、打楽器室に入ると唐突に話しかけられた。

声だけで誰かわかったが、一応は振り返ってから返事をする。

『はい。先輩もですか?』

先輩は、いつもの落ち着いた表情でいるのかと思っていたが、実際は違っていた。

いつもより、少し神経質な印象を受ける。

いつも余裕の笑みを浮かべている口元は真一文字に結ばれていて、どこか俯き加減に見える。

『…どうか、しましたか?』

思わず聞いてしまった。

「あ、いや、大したことではないんだけど、今日は、練習の後はなにか用事はあるかい?」

??なんだろう?

『いえ、今日はなにも。練習だけです。』

すると、先輩の表情が少しだけ緩んだような気がした。

「そうか、なら、練習の後少し付き合ってもらえないか?」

なんと…今日は珍しい日だ。

『えぇ、もちろん。込み入った話なら、学校を出てしますか?』

先輩の表情がさらに緩んだ。なるほど。そういうタイプの相談か…?

「あぁ、では、ご飯でも行こうか。僕がご馳走するよ。僕は、302の教室で練習をしているので、樋口君の都合がついたら呼びにきてくれるか?」

まぁ、それは構いませんが、そんなご馳走なんて…と言おうしたが、先輩は言うだけで言って足早に打楽器室を去って行った。

珍しい、あの増田があんなにも狼狽えるなんて。

先輩はパーマのかかった髪と縁の太いおしゃれな眼鏡が特徴で、いつでも冷静な尊敬できる3年生の先輩だ。
楽器にもよるが、4年生よりも上手いとすら感じる時もある。
音楽の知識や演奏の経験も豊富で、既に安藤先生(俺達の打楽器の先生)からも演奏の仕事をもらっている数少ない門下生の1人だ。

俺もいつか、学校意外で増田先輩と一緒に演奏したいと思っている。
その先輩から、話したいなんて、本当に珍しいと思う。
だけど、内容のおおよその検討はついた。

相手まではわからないけど笑




結局、あまり待たせても申し訳ないので1時間程で先輩のいる教室を訪ねた。

ちょうど演奏が途切れたところでドアを開けて室内に声を掛ける。

『お疲れ様です。大丈夫ですか?』

振り返った先輩は、いつもの余裕の表情だった。

「ん。僕は構わないけど、もういいのかい?」

えぇ、気になって仕方ないのでw

『はい、先輩さえ良ければ。』

すると先輩は、少し笑って言う。

「ありがとう。では、片付けたらすぐに行くので、打楽器室の前で待っていてくれるかい?」





言われた通り打楽器室の前で待っていると、5分もしないうちに先輩が降りてきた。

促されるままに学校を出て、なんとなくついていく。

「樋口君、君は、モテそうだね。」

何を言い出すのかと思ったらw

『いえ、そんなことは、モテそうなのは、むしろ先輩の方ですよ』

これは本心だ。オシャレに気を遣いながらもあのレベルで演奏できて、その上頭も良さそうだ。

こう言う人こそ、俺の中では【モテそうな人】なんだが。

「お世辞でも、嬉しいけど、僕はそんなにはモテないよ。」

はぁ、そうなんですか。

なんと答えていいかわからないままいると、目的地についたようだ。

「変わったところは何もない洋食屋だけど、いいかい?味は、保証する」

『えぇ、もちろん。』

増田先輩は、そもそもあまり口数が多い人ではないが、今回は先輩が話し始めるまで待っているのが正解だと思っていたので、世間話には適当に相槌を打ちながら本題を待っていた。

お互いのメインの料理が運ばれてきた。

先輩は【ペスカトーレ】俺は【カルボナーラ】それに、2人ともこのお店の定番だというフォカッチャを注文した。

飲み物は2人ともコーヒーだ。

食べ始めたところで唐突に切り出された。

「樋口君、君は、あのクラの1年生と付き合っているのか?」

やっぱり。そうきたか。

『ご存知でしたか。えぇ、お付き合いさせていただいてます。』

本当にその通り。見た目も中身もドストライクな自慢の彼女です。

「そうか、変なことを聞くが、それは、君から切り出したのか?」

本当に変なことだな。w

『んー、微妙なところです。(詳しくはBlue Ribbon第6話参照)』

こう言うことは2人の間だけに留めておきたいので、突っ込まれてもかわすつもりでいたのだが…

「そうか。では質問を返させてくれ。そう言うことは、やはり男から言い出すべきか?」

いや状況次第でしょうけど…。

『まぁ、そうですかね。でも、言い方は悪いですが、行けそうならって言うのが前提かと。』

全くの脈なしの相手に告白したって迷惑だろうし…。もちろん見極めるのは難しいけど。

もう少しだな。まだここで聞き返すべきじゃないな。

「なるほど。行けそうなら、か。それは、どう判断したらいいんだろうか?」

もしかして、先輩は…?

『必ずしも全部がってことはないですけど、2人きりで会う誘いに乗ってくれたら、ある程度は脈はあるんじゃないですか?1、2回じゃ判断できないですけど、でも、例え一回だって、相手に気がある場合もあるとは思いますよ。』

思案の表情に変わる先輩。真剣だ。

「そうか、ではやっぱり、誘ってみないことには何もわからないよな。」

えぇ。

『それは、そうだと思います。』

するとパッと顔を上げて俺の目をまっすぐに見る。

「実は、気になっている人がいてね。」

でしょうねw

「君の彼女と同じ、クラの人なんだ。」

なるほど。

『そうなんですか。』

「うん、藤原先輩ってわかるかい?」

えぇ、もちろん。

『わかります。4年生の先輩ですよね。』

ん?どうやって知り合ったんだろう?

「うん。Aブラスのオーディションの後、飲み会になっただろう?あの時、彼女は1年生の君たちだけを先に帰しただろう?それを見て、なんて気の利く人なんだと思ってね。話しかけに行ったんだ。知り合いではなかったけど、藤原先輩の演奏は他の学生とは別格だから、僕の方は知っていたしね。それに、どうやら先輩も僕のことを演奏で覚えてくれていたみたいなんだ。」

なるほど。

演奏でお互いのことを覚えてるって言うのがすごいな。羨ましい。

「それからと言うもの、どうにも先輩のことが気になってね。そしたらこの間、たまたま帰りが一緒になってご飯に行ったんだ。それで、連絡先を交換したんだけど、それからどうしたらいいか迷っていてね。」

迷う必要などないような気がするが…。w

『せっかく連絡先を交換したのであれば、もう一度ご飯に誘ってみたらどうです?今お話を伺っている感じだと、来てくれると思いますよ?』

「そうかな?」

『はい、だって、一度はご飯に行ってる訳ですから。仮に断られてしまったとしても、今が忙しいだけかもしれませんし。』

「確かに。でも、もし断られてしまった場合は、嫌なのか、それともただ忙しいだけなのか、わかるもんだろうか?」

あぁ、やっぱり。

『ですから、それを確かめるためにも誘ってみればいいんですよ。もしただ忙しいだけなら、いつなら行けるとか、そう言うことを言ってくれるかもしれないですよ?』

先輩は…天然なんだなw

「なるほど。とにもかくにも、自分で動いてみないと始まらないと言うことか。」

そうです。そう言うことです。

『はい、それこそ、男の役目かもしれませんよ。』

そもそも一回自分から話しかけに行ってる訳だし、メールでご飯に誘うのなんてそこまでハードル高くもないような気がするが…w

「そうか。ありがとう。やっぱり君はモテるだろう?君の言葉には説得力があるよ。まぁ、僕が経験不足なだけかもしれないけど。」

その後の話で、増田先輩は恋愛経験が全くないと言うことがわかった。

ただ、あの見た目、あの実力だ。もしかしたら女性からのアタックに気付いてなかったんじゃないかと思うw

今日はもう遅いから明日にでもメールをしてみると嬉しそうに話していた。

後輩の俺が言うのも変な話だけど、なんというか…純粋な人だ。

うまく行くといいな。

もし、藤原先輩も増田先輩に対して興味があるなら、結が何か聞いているかもしれない。

今度、聞いてみようかな。


少し肌寒い秋風の中、暖かい心で帰り道を歩いた。
「樋口さん、Dの頭のシンバルはもう少し大きくいただいてもいいですか?皆の目印になるので。」

『はい。」

確かに、D前にちょっと演奏が崩れかけていた。それなら、Dの頭でしっかり修正できたほうがいいだろう。

「ありがとうございます。では、全員でCからお願いいたします。」

3、4の合図で全員Cから演奏する。

曲目は、J-POPのメドレーで、曲から曲にだんだん移り変わっていく大事な場面だ。

アマチュアの団体で、しかもそこまでレベルの高いバンドではないようなので、こう言う場面を完璧には作れないようだ。

それでも、指導者として指揮台にいる人も団員一人一人も持っている技術をフルに使って少しでもいい演奏をしようとしている。そんな印象を受けた。

演奏のレベルは決して高くはないが、その姿勢には共感できる。

いい団体だと思う。

団員の方も、初めて賛助出演する俺にも感じよく接してくれた。

ドラムセットは真ん中に配置する団体のようで、真里先輩は俺から見て右の方で、鍵盤類が配置されているあたりにいた。

鍵盤打楽器は太鼓類よりも客席側に置かれているので、先輩とのコンタクトは取りやすかった。

今日も、前回の合奏も、概ねいい反応を見せてくださった。

「いいですね、樋口さん、ありがとうございます!皆さん、Dの頭で戻ってきやすくなったかと思いますが、ここは全員技術的に難しい箇所なので、樋口さんに頼り過ぎずに、しっかり練習していきましょう。」

よし、いい手応えだ。

「では、次の曲行きましょう」

ポップスの練習は終わりのようだ。

次は、コンクールの課題曲にもなったマーチを練習するようだ。

この曲は、俺の出番はない。

同じく降り番の真里先輩と一緒に合奏場を出た。

「お疲れ!バランス的にもかなり良くなったね!」

出て早々、テンション高めに言われた。

どうやら本当によかったみたいだ。

『ありがとうございます!そう言っていただけて安心しました。』

なんとなく、2人で自販機の方に向かって歩いていた。

「んん、本当、樋口くんにお願いしてよかったよ!好きなの選んで!」

『あ、ありがとうございます!』

そう言ってコーラを選んだ。

先輩はミルクティを飲むらしい。

「樋口君さ、またここの団体一緒に乗らない?まぁ、私のところに依頼があればだけど」

ありがたい。本当に。

『もちろんです。クビになってなければですけど。』

俺的には笑いを取りにいったのだが、先輩はやけに真剣だった。

「よかった。」

よかった?まだ依頼も来てないのに…?

何が…

「あのさ、樋口君は、やっぱり演奏家になりたいの?」

『そう、ですね。なれるかどうかはわかりませんけど。』

「そっか。彼女さんも、同じように演奏家を目指しているのかな?」

やけに真剣な表情だった。一体何が言いたいんだ…?

『そうですね。将来のことは、まだちゃんと話したことないですけど。』

…少し張り詰めた空気。なんだ?

「いいね!2人とも同じ方向を見ていられるって、実はすごいことだよ!」

やけに明るく言う。

「でも、将来のことは、ちゃんと話したほうがいいよ?すれ違いになる前にね」

そうか…先輩、何かあったんだな。

『何か、あったんですか?』

少し迷ったが、聞いてみることにした。

「うん、彼と、ちょっとね。」

これ以上聞くのはやめよう。話すようなら聞くけど、後輩の俺がどうこう言えることではない。

『そう、ですか。』

これでお互いに黙った。なんとも居心地が悪い空気だけが流れていく。

「樋口君は、大人だね。」

なぜ?w

『そんなことないです。本当に大人なら、もっと気の利いたことを言えてるはずですから』

先輩はクスッと笑って立ち上がった。

「今日、この後は?」



『帰るだけです。』

「じゃ、お茶しよ!練習に出てくれたお礼にごちそうするから!」

『ありがとうございます。』

ちょうど練習が休憩に入ったようで、合奏場のドアが開いた。

指導者の竹島さんが出て来て、俺たちの前まで歩いてきた。

「今日もありがとうございました。2部の曲は、今日はもうやらないので、お二人は上がってしまって大丈夫ですよ」

2人でありがとうございましたと言って合奏場に入った。

「ありがとうございました!来週はいよいよ本番です。よろしくお願い致します」

団長や、打楽器の方々が揃って挨拶にきてくださった。

いい人達だな。本当に。おかげで気持ちよく帰れそうだ。



挨拶も一通り済んだので、先輩と一緒に合奏を行なっていた市民会館を出た。

「この辺だと、楽団の人に会いそうだから、駅の方まで行こう。」

そう言って先輩はスタスタと歩いていく。

まるで、俺に反対させないように。もっと言えば、断るタイミングをなくすために。

『先輩』

呼び止めた。先輩の焦り方が異常だったから。

「ん?」

振り返る。俺が歩くのをやめたのは、1秒にも満たないくらいなのに、先輩は少し離れていた。

数歩、こちらに戻ってくる。

『どうしたんですか?そんなに慌てて』

すると、びっくりしたように、目を大きくする。

ただでさえ二重でぱっちりとした目が、すごく大きくなる。

「え?ごめん、そんなに慌ててるつもりはなかったんだけど」

いやいや、めっちゃ慌てたじゃないですかw

『何か、急ぐ理由があるんですか?お忙しいなら、別日に改めても僕は大丈夫ですよ?』

すると、先輩は困ったような、少し照れたような顔をした。

そうですよ、落ち着きましょうよ。

「ごめん、急ぐ理由はなかった。ゆっくり行こう。」

ええ、そうしましょう。





結果、駅前にあった、大手チェーンの喫茶店に入った。

「樋口君ってさ、大人っぽいって、よく言われない?」

先輩はさっきまでの延長で話をしているようだった。

『まぁ、言われなくはないですけど、本質は子供ですよ。』

これは本心だった。俺のことを大人っぽいと思う人は、俺の表面しか見ていない。

「そうなの?でも、落ち着いてるよね。少なくとも、落ち着いてるように見える。」

返答に困ったので、少し黙っていた。

「まぁ、それはいいんだけどさ。」

一瞬また気まずい空気になりかけたが、今度は先輩が話しを続けた。

「私も、もう4年生だし、大人にならなきゃなって思うんだけどさ…。」

「演奏活動をフリーランスで続けるって、やっぱり世間一般見たらただのフリーターになっちゃうんだよね」

あぁ、そういう話か。これは他人事じゃない。俺達も、いずれ悩む日が来る。

「彼氏は、全然違う大学で、音楽もやってなくてさ。同い年だから、もう就職も決まってるんだ。」

あぁ、少し話の道筋が見えてきた…?

「でね、この間、なんか言いにくそうに話し始めたから、しばらく黙って聞いてたんだけど…」

「結論から言えば、私は卒業後どうするつもりなんだって言われてね…」

「私は、まだ音楽続けたいし、すこしずつ演奏も指導もお仕事もらえてるから、このまま続けたいって言ったの。」

うん。なるほど。

「そしたら、彼氏が、言い方悪いけどそれはフリーターだろっていうの。」

「それに、卒業して数年経って、仕事が落ち着いたら結婚したいって。その時まだフリーターだったら困るなんて言われてさ。なんか、何て答えたらいいのかわからなくてさ。」

なるほど…。難しい問題だけど、避けては通れないよな。

卒業、就職、結婚…。これは、おおよそ誰もが通る道で、避けては通れないと思う。

特に、家庭を持ちたいと思っている人は…。

そこには、“音楽をやっているから”なんてなんの言い訳にもならない。

なにをやっていようが、どんな生き方をしていようが、年齢は変えられない。

だからこそ、結婚したいから音楽をやめても、決して間違いじゃない。

大事なのは…

『大事なのは、先輩の意思だと思います。』

真っ直ぐに目を見ていった。真剣に、言ってるんです。悩んでいる先輩に、小手先だけの言葉なんて言えない。

「樋口君…」

『すみません、僕も、何が正解かはわかりません。確かに、彼の言うことも間違いではないと思います。でも、それだけが正解じゃないとも思います。例えオケや吹奏楽団に所属していなくても、音楽で生計を立てている人は沢山いますし、結婚している人だっています。きっとそこに至るまでに、当人同士で話し合って結論を出したんだと思うんですよね。だから、先輩も、彼のことが本気で好きなら、ご自身の意思は曲げずに話された方がいいと思います。』

「結果…別れることになったとしても…?」

『お互い譲らずに、どうしても辞めるか別れるかになった時に、また考えてみてはどうですか?先輩が、どこまで本気で演奏したいのかが伝わったら、彼の考えもかわるかもしれないですよ。』

無責任なことを言ってるのはわかっている。でも、こう言うことは、当人同士で直接話すしかないと思う。

結果、別れることになったとしても。

そんなこと、言えないけど。

ここでちゃんと話さなかったら、どう転んでも後悔することになると思う。

だから、はっきりと自分の意思を伝えた方がいい。

そうじゃないと…俺とさぎりのようになる。

そうは、なってほしくなかった。

『すみません、偉そうなことばかり言ってしまって。』

「んん、ありがと。」

先輩はそう言ったまましばらく黙っていた。




「樋口君」

ん?

『はい』

「よかったら、また付き合ってよ。」

まぁ、お茶くらいならいいか。

『はい。いつでも。』

そう言って笑いかけた。

先輩も、少し表情が緩んだようだ。

「正直、こんなにストレートに自分の考えを話してくれると思わなかった。でも、おかげ私も、真剣に向き合えそうだよ」

表情は暗いままだったが、その目には確かに力があった。

『そうですか。本当、偉そうにすみません。』

「だから、それはいいって!今度はご飯奢るから!ちゃんと答えが出たら連絡するよ!」

普段のさっぱりとして明るい先輩が戻ってきた。

カラ元気かもしれないが、暗く落ち込んでいるよりはいいだろうと思った。

先輩、ありがとうございます。

俺も、1年だからなんて言ってられない。ちゃんと、将来のこと考えてみますね。
夏休み明けに行われたオーディションに合格した俺は、晴れて【成績優秀者による小編成吹奏楽】通称Aブラスのメンバーになった。

光栄なことに、打楽器の中で2位で合格し、担当教諭による楽器の振り分けで小太鼓を担当することになった。

難しいが、かなりやりがいのあるパートだ。

演奏曲目は、吹奏楽の中ではかなり古典的な位置付けの曲で、技術的にはそこまで難しくはないが、聴かせ方を考えさせられる曲だ。

ちなみに俺以外の打楽器の割り振りは、

ティンパニ
増田俊之先輩

大太鼓
加藤沙織先輩
シンバル
横山希美先輩
鍵盤打楽器全般
鈴木真里先輩

先輩方はもちろん全員上手なのだが、中でも増田先輩と真里先輩は本当に上手い。

今回の曲は特に、ティンパニの音替えが難しい箇所があるのだが、初回のリハから増田先輩はほとんど完璧だった。

俺も、指揮者の先生から好評は頂けたものの、まだまだ増田先輩には遠く及ばないと思っている。

もっともっと、頑張っていこう。

と思って打楽器室で練習していると、結から電話あった。

『もしもし』

「あ、もしもし、ちょっとティンパニのことで聞きたいことがあるんだけど」

ティンパニのことで?

『うん、どんな?』

話を聞いてみると、ティンパニの音替えについてらしい。

と言うことで、ちょうど打楽器室には誰もいないので来てもらうことにした。




「これこれ、この部分なんだけど、こんなに音があって、どうやって演奏するんだろって思って!」

やっぱりここか。しかしよく気付いたな。

こんなの、打楽器以外の人はまず気にしないだろうに。

結はすごいな。

『ん?あぁ、この場合は叩きながら音替えするんだよ』

と言ってティンパニに向かう。

この部分はいい勉強になるので、実は俺も練習していた。

「へー!どうやって?」

『まず、前の小節の4音を作って、下2音はそのまま。』

結は、興味津々と言って感じでよく聴いていた。


『で、上はDとEにしておいて、Dを叩いたらペダルで半音上げてEsを叩いて、E』

半音の感覚は、ティンパニによって少し違うので、結構難しい。

そして

『この時に大事なのは、叩く瞬間にペダルを踏むこと。ペダルの方が早ければ叩く前にグリスタンドになるし、遅ければ叩いた後にグリスタンドになっちゃうからね。』

これは安藤先生に教えてもらったことだ。

どうにか上手く行った。

「すごい!神業ね!」

神業ってほどでもないよ…w

『まぁ、神業ってほどじゃないけど、合奏中、ここ演奏してて違和感なかっただろ?ってことは、増田先輩が上手いってことだね。』

これは本心だ。初回のリハで、あれだけの演奏は、まだ俺にはできない。

「そっか!増田先輩すごいね!ありがとう!邪魔してごめんね」

そう言って打楽器室を出ようとする結が、誰かとぶつかりそうになっていた。

真里先輩だった。

「すみません!失礼しました!」

結は慌てて謝ったが、対する真里先輩は

「こちらこそ、大丈夫?」

落ち着いた様子だった。

「大丈夫です。すみません。お邪魔しました!」

そんなに慌てて出て行かなくてもいいのにw



「あの子、樋口君の彼女よね?」

打楽器室に残された俺は、何故かちょっと気まずくなった。

『えぇ、そうです。』

真里先輩は、何故か楽しそうに微笑んでいた。

「そう、あれがAブラスに受かったっていう、峰岸結ちゃんか。」

えぇ、まぁ、その通りですが。

「君達は結構有名なカップルになってるよ!」

『そう、なんですか』

「うん。だから、これからも良い意味で競い合って、励まし合って頑張るんだよ!」

ん?この感じ、どこかで…?

『はい、ありがとうございます』

さて、練習に戻るか。

「あ、樋口君。」



『はい』

「今度の楽団の練習の後、ご飯でもどう?」

今度の練習というと、週末か。

『はい、行きましょう。』

「ありがと。この間の話、ちょっと進展がありそうだから!」

そうなのか。今の様子を見る限り、悪い方向には行ってなさそうだな。

よかった。



そこからは短時間だったがかなり集中して練習できた。

もう学校も閉まる時間なので、ほとんど学生は残ってない。

Aブラスは、オーディションをしただけあって、本当にレベルの高いチームだ。

せっかく合格したのだから、良い演奏を残したい。

打楽器にも他の楽器にも、尊敬できるメンバーが沢山いる中で演奏できるんだ。

きっと貴重な経験になる。

よし、明日も頑張ろう!

そう思って歩いていると、少し先の方に、高橋が立っているのが見えた。

『お疲れ。どうした?こんなところで。』

高橋は、少し疲れたような顔をしていた。

「おう。駅まで、一緒にどうだ?」

『うん。なんだ、待ってたのか?』

「実を言うと、そうだ。めぐの事で、ちょっと相談があってな。」

なるほど。

『どうした?』

「いや、何が悪かったのかよくわからなくてさ。」

ふむ。ここは黙って先を促そう。

「この間、2人で出掛けた帰りに、めぐの部屋に行ってみたいって言ったんだ。」

部屋?あぁ、橋本さんは、一人暮らしか。

『うん』

「そしたら、なんかめぐが急に焦り出して、絶対ダメ!みたいに言われてさ。」

なるほど。それはショックだな。

「で、なんか喧嘩みたいになってさ。その日は早々に解散したんだけど、なんか学校で顔合わせるのも気まずくてな。そもそもなにがそんなにいけなかったんだろうと思ってさ。」

なるほど。高橋に下心はなかったみたいだな。

『橋本さんも、来てほしくなかったわけじゃないと思うよ。多分。』

すると高橋は目を見開いて言う。

「そうなのか?」

身に覚えがないんじゃしょうがないか。

『多分、来た後のことを心配したんだろう。』

高橋は、今度は怪訝そうに眉をひそめた。

『高橋には下心はなかったと思うけど、俺達も良い年頃なんだ。』

すると、ハッとしたような顔をする。察しがついたか。

「それって…。そうか、まぁそれならわからんでもないけど。俺は全然、そんなつもりはなかったんだけどな」

『だろうな。それに、橋本さんだって、別にそういう事を拒否しているのとも違うと思うぞ』

「ん?どういうことだ?」

『急過ぎてびっくりしたんじゃないか?本当のところはわからないけど。なんにせよ、ちゃんと話し合えば大丈夫だろう。実際、下心はなかったわけだし。』

「そうかな…?結構厳しく拒絶されたように見えたんだけど。」

『本当のところは、俺にはわからないよ。だけど、すごくデリケートな問題だろう?』

「うん。そうだな」

『だから、急に驚かせたことはちゃんと謝って、下心はなかったって説明したら大丈夫だよ。』

それでもだめだったら…と言うのは、言わないでおいた。

こればっかりは本人にしかわからないからな。

「そうだな。ありがとう。樋口は本当、大人だよな。」

なんだよ急にw

『いや、そんなことはないけどw』

「ちゃんと話し合ってみるよ。ありがとな。上手くいったら飯でも奢らせてくれ。」

『気にするなよ。上手くいくといいな。』

高橋とは駅で解散し、電車に乗った。






Aブラスまで、後2週間。

しっかり準備していこう。
「って言うわけ。だから、もう無理かなって。」

喫茶店で向かいに座っている真里先輩はサラッと言った。

『先輩は、それでいいんですか?』

先日聞いた、彼氏との話の続きだ。進展があったと言うのだが…

「うん。しょうがないかなって。彼氏の言い分も、わからなくはないし」

卒業後の就職先が決まっている彼氏の言い分は

【卒業後、音楽家として頑張るというの、悪い言い方をすればフリータと同じだ。数年後、結婚を考えているので、その数年後にもフリーターのようなことをしているようでは困る】

と言うものだ。

飽くまでも要約しているので冷たく感じるが、彼氏の方にも真里先輩を想う気持ちは充分にあるようだ。

だからこそ中々切り出せなかったのだろうし、話す時にもかなり言葉を選んでいるようだったと聞いている。

まぁ、俺がその顔も知らない彼氏のことを庇う理由もないけど。

つまり、気持ちはあるけど、立場もある。

先輩達は、大人になると言うことがどう言うことなのか、真剣に考えて話し合っていると言うことだ。

そして、今日聞いた、真里先輩の結論は、【別れて演奏を続ける】

ということだった。

演奏を続ける=別れるになってしまうのか、俺はそこがひっかかっている。

『彼の言い分は、僕にも理解はできますが、先輩が演奏を続ける=別れるになってしまうんですか?』

先輩は、少し悲しそうな顔になった。

困らせてしまった…まずい。

「うーん。どうだろ?私は、そう思ったけど。」

と言うことは、彼とは話していないのか…?

「それを聞くのって、かなり勇気がいるんだよね」

そうか、それもそうか。

『そうですね。すみません。』

「いやいや、樋口君が悪い訳じゃないよ!言うとおりだし。」

いや、突っ込み過ぎた。今回は、間違い無く俺が悪い。

俺も同じ立場だったとして、結に同じことが聞けるか?

【演奏を続ける=別れると言うことなら、付き合っていくには就職するしかないってことか?】

みたいなことだよな…。

かなり勇気がいる…。でも、俺は、それを聞かずに別れる方が嫌だと思う。

そもそも、結はそんなことは言わないと思うが、それは、俺達がまだ“大学1年“

だからだ。これが卒業が迫って、実際卒業して、何年も大して仕事をもらえないままバイト生活を続けて、30歳なんてことになったら…

おそろしい…なによりも、そんなことを結の口から言わせてしまうかも知れないと思うと…

先輩も、同じようなことを考えているのだろうか…思案顔になっている。

真里先輩は、男なら誰でも惹かれる美人だ。

目はぱっちりとした二重、鼻筋は綺麗に通り、小顔で、スタイルもいい。

芸能人かと思うくらいのオーラを持ち、音楽の才能にも恵まれていると思う。

なぜ、音楽大学に行かなかったのかと思うくらいだ。

こんなに素敵な人だ、彼氏だって別れたくはないだろうと思う。

『先輩…』

これは、賭けだ。

「ん?」

『もう少し、余計なことを言ってもいいですか?』

「うん、いいよ」

ふっと笑って答える。

『期限や、条件をつけて話してみたらどうです?』

「ん?どういうこと?」

『卒業後、何年以内に食べていけなかったら、諦めて就職する。みたいな話です。』

先輩は無言で先を促す。

『僕が話を聞いている限り、先輩も、彼氏も、お互いを想う気持ちは充分にあると思うんです。だから、お互いの考えの、間を取れないか考えてみたんです。』

『何年か後に、お互いの気持ちや立場、考えがどうなっているかだって、もちろんわかりません。でも、今、先輩達が別れたくないと思っているのは、事実だと思うんです』

『だから、結論を、一旦先延ばしにしてもいいと思います。』

「樋口君…」

『今の気持ちのまま、別れてしまったら、お互い引きずってしまうと思います。』

それは、悲しいだけの結末だ。絶対に避けた方がいい。

「ありがとう。確かに、そうかも」

『すみません、また、出過ぎたことを』

「もう、それはやめよ。私は、ありがたいって思ってる。本当だよ。」

それなら、いいですが…

「なんか、私達以上に私達のこと考えてくれてるよね。確かに、私達、ちょっと結論を焦っていたかも。」

「お互いに、気持ちがあるうちは、無理に結論を出さなくたっていいのかも。まぁ、彼が何て言うかはわからないけど。」

そう、だからこそ、俺もあまり大きなことは言えないのだ。

「でも、…」

「話し合ってみる価値はある」
『話し合ってみる価値はある』

先輩は、一瞬驚いた顔になって、その後、笑った。

「そうね、もう一度、話してみるよ。私がどれだけ本気で音楽をやっているかもわかってもらいたいし」

『そうですね。それがいいと思います。』

よかった。先輩に笑顔が戻っている。

「ありがとう、樋口君。」


今日はこれで解散になったが、来週はいよいよ例の楽団の本番だ。

心してかからないと。





週明け早々、結と久々に会う約束をしていた。

待ち合わせはいつも通り、学校の正門。

「お待たせ」

そう言って現れた結は、いつも通り綺麗だった。

『ん。行こうか。いつものお店でいいか?』


そう言って2人で歩き出した。

駅とは反対方向だが、実はいいお店はいくつかある。

この店も、もう何度目になるかな?

などと考えていると。

「なにかいいことでもあったの?」

俺の顔を覗き込んだ結が言った。

かわいい…

『いや、幸せだなぁと思って。』

本心だ。

「なにそれ!」

と言って笑った。



店に着くと、お互いいつものカフェモカを注文し、近況報告的にそれぞれのことを話した。

「ねぇ、今週末だよね?例の本番」

『うん。一昨日、最後のリハだったよ』

自然と話の流れは楽団のことと、真里先輩の話題になった。

隠し事をしているみたいになるのが嫌なので、相談を受けた話も俺から切り出した。

「そうなんだ、4年生にもなると、そう言う話にもなるか…」

『うん。俺も結も、将来のことは真剣に考えている方だと思うけど、実際4年生にならないとわからないこともあると思う。だけど』

「だけど?」

『俺は、結とは別れたくはないし、結にそう言う話をさせたくもない。』

返事がすぐになかったので、改めて結の顔みてみると、

ん?目が潤んでいる?

「うん」

いつだって真剣に考えてるよ。

結と、俺のことは、特に。

『だから、その時のことはその時にならないとわからないけど、不安にさせないためにも、頑張るよ。一緒に、演奏し続けるために。』

「うん、ありがと。私も頑張るよ。」

『たまには、散歩しようか。』

「うん、そうね!」


いつもの道を、手を繋いで歩く。

「そうそう、泊まりで遊びに行くの、どこにしよっか?」

『うん、色々考えたけど、イルミネーションが綺麗なところなんかどうだろう?都内か、横浜か』

「うん!いいかも!それなら都内のスポットで探してみよ!」

こういう時が、特に幸せを感じる。

ありがとう。結。

『結』

隣の結が俺の顔を覗き込む

「ん?」

『好きだ。すごく。これからも、ずっと一緒にいてほしい。』

あんまりかしこまらずに言ったつもりだったが、結は俺の顔をじっとみつめた。

その場に立ち止まる。

重なる目線と唇。

「どうしたの?今日は、いつになく気持ちを言葉にしてくれるね」

いつでもしっかりと伝えているつもりだ。でも、今日は特に、

『伝えたいんだ。なぜか、今日は特に。』

「大歓迎よ。いつでも。ありがとね。」

そう言ってもう一度唇を重ねる。

結。

『結、これからも、2人のことは2人で話し合っていこう。』

「うん、そうね。2人のことだもんね」



幸せだ。

結と一緒にいたい。

だからこそ、誰に聞かれても、プロですと名乗れるように、今からしっかり努力したい。

この時の決意は、俺達の人生に大きく影響を与えることになる。

本ベルが鳴ると同時に、客席の明かりが落ちる。

ホール内は静けさに包まれ、団員が入場を開始する。

客席からは拍手が起こる。

入場と同時に拍手が起こるのは、俺の知る限りではアマチュア団体だけだ。

プロの団体の場合、コンサートマスターの入場までは、拍手は起きない。

何故かは知らないが、考えられる理由のひとつとしては、アマチュアの吹奏楽愛好家があまりプロの団体を聴きに行かないから、と言うのがある。

飽くまで俺の勝手なイメージだけど、吹奏楽に於いては、あまりプロとアマチュアの交流がない。

むしろアマチュア同士の方が交流があるイメージだ。

まぁ、この話は、またの機会にすることにしよう。

今じゃない。今は、とにかく目の前の演奏に集中しないと。

「樋口君、緊張してる?」

真里先輩が、俺の顔を覗き込みながら聞く。

『大丈夫です。多少は緊張してますけど。』

…どうしてこう、美人というのは皆人の顔を覗き込むんだ?w

いや、これは、俺がこの仕草に弱いだけかw

真里先輩は、とんでもなく美人だ。(こんなことを言ったら結に怒られそうだけどw)

もはやモデルでも食べていけそうなレベルである。

けど、それ以上に、打楽器が上手い。鍵盤だけでいうなら、間違いなく学校1だ。

だから、先輩卒業後のことに悩んでいたというのは、実は意外だった。

このレベルの人なら、何も迷う必要なんてないと思っていた。

逆に、このレベルの人でも悩むのかと思った。

だとしたら、俺は卒業するまでに今の先輩を超えていなければいけないことになる。

それはかなり難しい。

もちろん、人と比べてどうなのかを基準にはしないし、俺は俺だと割り切って頑張るしかないんだけど。

あぁ、また話が逸れている。

どうやら俺は、自分で思っている以上に緊張しているようだった。

一度深呼吸する。



…さて、やるか。

打楽器の団員に続いて入場する。

楽器の間を通ってドラムセットに向かった。

スティックは、楽器と一緒に置いていた。

ステージへの照明が一気に明るくなる。

そして、指揮者が入場し、団員全員を立たせる。

いいね。この緊張感。やっぱり、演奏会はこうじゃないと。

全員が再び座ったところで、指揮棒が上がる。

ロングトーンと共に曲のイントロが始まった。

いいテンションだ。団員のサウンドから、意識が集中していることがわかる。

今までで1番いいサウンドだ。

ハイハットのカウントで、ガラッとテンポを変えて曲が始まった。

いい。今日は1番ついてきてくれている。

あっという間に2コーラス目に入った。

さて、俺の仕事は、ここからだ。

2コーラス目からは、Aメロが変わり、吹いている楽器も変化する。

練習でもここが1番崩れやすかった。

俺は、楽譜から目を離し、指揮者だけに集中する。

この指揮者、というか指導者の方は本当に優秀で、本番で崩れてしまうことも多い

アマチュア団体の演奏を、何度も指揮で救っているらしい。

俺も、この竹島さんの指揮は、初対面から「見やすいな」という印象を持っていた。

できるなら、こういう人とこれからも一緒に仕事をしたいと思う。

俺は、指揮者と団員のテンポ感を上手く繋げられるよいうな位置で演奏を続けた。

すると、メロディを吹いている木管楽器が俺につけ始めた。

よし。ここで少しだけ音量を上げる。

皆、ここが正解だ。今だけは俺についてきてくれ。

素晴らしい。指揮者も俺に付けてくれた。

よし!ここだ!

全員のテンポ感が一致したところで、2コーラス目のサビに入った。

俺は、曲中1番の音量で頭にシンバルを入れた!

これだ!と思った。

バンド全体の意識が一点に集中し、客席の空気感も飲み込んで曲中最大の山場を作った。

アマチュアの団体でも、ここまでの演奏ができるものなんだと感心した。

いや、感動した。

ありがとうございます。いい経験をさせていただきました。

吹奏楽の中でドラムを叩く機会はそんなに多くはないが、だからこそ貴重な経験だし、もしかしたら、そこに自分にしかできないことがあるかもしれない。

まだまだ未知な世界だけど、努力し続ける価値のある世界だと思った。




着替えを終えて、楽屋を出た。

そのまま搬入口の方へ向かった。

団員の方を中心に、楽器の解体が始まっていた。

俺もそこに加わって、解体と梱包を始める。

「あぁ、樋口さん、ありがとうございます!」

団員の1人が、満面の笑みで挨拶をしてくださった。

つられて俺も笑顔になる。

『いえいえ、打楽器は大変ですよね。』

真里先輩もあとから合流して、あっという間に積込みまで終えた。

団員を含めて全員が、空になったステージに改めて集合した。

団長の挨拶だ。

「えぇ、皆さんお疲れ様でした!今回は、特にいい演奏だったんじゃないでしょうか?私もお客さんから直接聴きましたが、2部が素晴らしかったと言う声が多かったようです。」

「これは、今回初めてご参加いただいた樋口さん、それからいつも来てくださっている鈴木さん、竹島先生のおかげかと思います。皆さん、改めてお礼を言ってくださいね。」

「お客さんからのお声はアンケートがありますので、後ほど打ち上げの時に読んでください。」

かなりいい手応えだったようだ。団長が目に涙を浮かべている。

「エキストラの方々のお力に感謝しつつも、自分達がもっといい演奏ができるように頑張っていきましょう!お疲れ様でした!」

全員同時に「おつかれさまでした!」と返して一旦解散になった。

「あ!エキストラの方は打ち上げ無料ですので、是非いらしてくださいね!」

その後は、団員の方々から沢山感謝のお言葉をいただいた。

本当、参加できてよかったと思っている。

さぁ、打ち上げまで少し時間があるし、結に連絡してみよう。

きっとどこかで待っていてくれているはずだ!




結とは、ホールの建物に入っている喫茶店で待ち合わせた。

『おまたせ』

結は、窓際のテーブル席にいた。

「んん、お疲れ様!演奏すごかったよ!さすが!」

声と表情から、結も少し興奮気味であることがわかった。

『ありがとう。今回は、俺もいい手応えを感じたよ。参加してよかった』

「うんうん!指揮者の方も、すごくいい仕事をされてたね!」

さすが結。よく見ているし、よく聴いている。

「私も吹奏楽指導法を勉強しようかと思ったわ!」

いいね!

『いいと思う!結に合ってるかも!』

俺は、素直な気持ちを伝えた。

「ありがと!あ、恒星時間は大丈夫なの?」

『うん、打ち上げまで、まだ少し時間があるから!』

「よかった!じゃぁ、もう少しお話しましょ!今日は、伝えたいことがいっぱいあるの!」

実は、ここで2人で話した内容が、俺達の将来に大きく影響を与えることになる!

そう言う意味でも、俺は、今日のことは一生忘れないだろう。
駅の前で結と別れて、俺は打ち上げの会場へ向かった。

まっすぐ向かえば5分も掛からずに着く距離だが、少しだけ遠回りをする。

考えたいことがあったからだ。と言っても、悪いことではない。

むしろ、良いことだからこそ、噛み締めて考えたかった。




【恒星は、演奏家になるべきよ。】

結はさっき、俺にこう言った。

無論、今日の俺の演奏を聞いた上でそう言ったのだ。

これは予想外に嬉しい言葉だった。

結さらに、俺の演奏に【プロとしてあるべき姿を見出した】と言っていた。

お金をもらっている以上、しっかり仕事をする義務があるとは思っていたが、結からこんな言葉をもらえるとは思っていなかった。

この言葉だけでも、1年頑張ってきた甲斐があったと思えるくらいだった。

それは、俺が結の頑張りや出してきた結果を知っているからだ。

結は、この1年で誰よりも努力し、Aブラスに合格するという結果を出したのだ。

一時期悩んだこともあったようだが、俺に言わせればそんな必要は全くなく、むしろ結こそプロを目指すに相応しい人だと思っている。

そんな結に認められたのだ、嬉しくないわけがない。

しかし、考えたいこととは、結がその後に言ったことについてだった。

【恒星は、とにかく自分が演奏することだけを考えた方がいいと思う】

【確かに収入のことを考えたら、指導って大事だと思うけど…】

【でも、今こんなに実力が伸びていて、しかも演奏してる姿が、あんなに楽しそうなんだもん】

【きっと、誰かが見ていてくれると思う。これからも、いっぱい演奏できるよ!】

言っている結の方が輝いて見えるくらい、明るく話していた。

根拠はないけど、確信している。そんな感じだった。

しかしまぁ、俺の人生である。収入のために音楽とはまるで関係ない仕事をするよりは、
指導をしていた方がいいと思う一方で、学生の間は収入が少なくてもいいから練習に1番時間を費やしていたいとも思う。

この悩みは、正直今に始まった事ではないが、考えても意味がないのでスルーしてきた。

学生だからと言って、全くお金が必要ないわけではないし、かと言って遊ぶ金欲しさにバイトを最優先にいれることもない。つまり、今のところ、時間的な問題にはなっていないのだ。

では、結が言ったことはどういう意味だったのか…?

多分、【焦らず頑張って】ってことなんだろうなぁ。簡単に言えば。

指導の仕事を取れば確かに音楽に関わる時間が増えるし、音楽でお金をもらえている感覚になる。

でもそれは、【演奏でお金をもらっている】訳じゃない。

例え依頼が少なかったとしても、今は自分の演奏を買ってもらえるように磨き続けてほしいと、そういうことだろう。

そう簡単に仕事が来るようになったら誰も苦労しないよなと思うが、結があそこまで言うのだ、きっと今日の演奏が本当に良かったんだろう。

今日のところは、それでいいかなと思った。

さて、そろそろ打ち上げ会場に向かおう。

皆待っているはずだ。




打ち上げ会場は、駅の近くにあった中華料理屋を貸切にして行われていた。

2階の広間にテーブルで島をいくつか作り、料理が大皿で盛られている。

椅子は広間の端に並べられており、多くの人が立ったまま談笑している。

「あ、樋口君!お疲れ様!」

ちょうど入り口付近にいた真里先輩が声をかけてくれた。

『お疲れ様です。すみません、遅くなりました。』

「んん、大丈夫!それより、皆樋口君の話で持ち切りだよ!」

『えっ?そうなんですか?』

「うん!演奏、すっごくよかったって!」

そうなのか?そんなによかったのか?

「ほら、指揮者に挨拶にいこう!」

そう言って俺の手を取り、ドリンクカウンターに引っ張って行く先輩。

ちょっ!先輩?

『ちょっ!先輩!』

構わずぐいぐい引っ張っていく。

なんだってこんなはしゃいでるんだ!?

転びそうになり、周りの人の注目を集めながらドリンクカウンターにたどり着いた。

『烏龍茶をおねがいします。』

息を切らしながらなんとか注文して振り返ると、今度は落ち着いた表情で真里先輩が待っていた。

『お待たせしました。』

真里先輩は、静かに微笑んだままゆっくりと首を振る。

綺麗すぎる。そんな言葉が浮かんだ。

先輩は、セミロングのストレートヘアで、髪は年齢にしては暗めのダークブラウン。

背は俺と同じくらいなので、女性にしては高い。170cmくらいか。

モデル体型でスタイルもよく、さらに芸能人顔負けの美人。

もはや、欠点なんて一つもないと言っても過言ではない。

見た目のみならず、打楽器も上手い。その上頭も良い。

人生楽しいだろうなと思う。でも、羨ましいとは、あんまり思わない。

きっと本人にしかわからない苦労もあるはずだから。

それに、俺は俺だ。結局は、それに尽きる。

呆然とそんなことを考えていたら当の本人と目が合ってしまった。

「樋口君、今私に見惚れてたでしょ?」

なっ

『え?いや…』

よくもまぁ、そんなことをさらっと…

「うそうそ!いこっか!」

…美人とは恐ろしい。

『はい』




今日の指揮者でもあり、バンドの指導者でもある竹島さんのいるところへ2人で並んで向かう。

俺達が到着するくらいのタイミングで、ちょうど話していた団員数名が挨拶をして去っていくところだった。

「お疲れ様です。」

先輩が一歩前に出て挨拶する。俺も続いた。

『お世話になりました。』

「あぁ!お疲れ様です!こちらこそお世話になりました。」

竹島さんは、笑顔で対応してくれた。さらに続ける。

「2人とも素晴らしいです!こちらが何度も助けられました。どうもありがとうございます。」

そう言って頭を下げられた。先輩が答える。

「いえいえ、恐縮です。ありがとうございます。」

『ありがとうございます。』

その後は先輩主導で話をしていった。

もちろん俺のことも改めて紹介をしてくださったし、俺が名刺を持ってないとわかると、なんと直接連絡先の交換もしてくださった。

ありがたい。

後に挨拶を控えた団員が少し列になってしまったので、上手く話にオチがついたところでその場から離れた。

今度は打楽器の団員のところへ。

そこでは挨拶もそこそこに、その場を離れ、最終的に会場の端に並べられた椅子に座った。

料理を適当に取ってきて、食べながら先輩と話をする。

「樋口君さ、この依頼受けてからも本当に上手くなったよね。」

本心からの言葉であれば、大変ありがたい言葉だ。

今日の本番の為にできるようになったこともある。

それを他人に認められたらそれは嬉しいことだ。

『ありがとうございます。まだまだ、精進します。』

改めて先輩の顔を見ると、やけに真剣な表情だった。

「樋口君は、迷わず演奏家を目指した方がいい。」

真剣な表情のまま、結と同じことを言った。

『そう、でしょうか?』

「うん。」

即答だった。というか、真剣すぎてちょっと怖い…

「今日の演奏は、多分自分で思っている以上に良かったよ。団員も、指揮者も、お客さんも、樋口君の凄さは、わかってるよ。」

そこまで言い切るのか…4年生の首席にして、Aブラス合格者の真里先輩が。

Aブラスのオーディションでは確かに俺の方が点数は上だったが、奏者としての総合的なレベルは先輩の方が全然上なんだ。

でも、なんの根拠が…

「根拠はない。理屈じゃないのよ、こういうのは」

俺の心が読めているのか?w

それにしても理屈じゃないと言うのはどういうことなんだ?

「打ち上げ、もう直ぐ終わるから、ちょっと話そっか。」

『え?あ、はい』

「おつかれさまでーす!」

俺は気付いていなかったが、俺達に挨拶をしようと来てくれた団員だった。

これにも先輩主導で答えてくれた。

もちろん俺も話はしたが、この時は、先輩がこれからどんな話をするつもりなのかが気になって仕方がなかった。