Aブラスを前に、俺は少々、いや大分悩んだ。
「転校か、留学した方がいい…」
真里先輩に言われた一言は、その場で思っていたよりもずっと、俺の心に響き続けていた。
留学か…確かに環境を変えたいと思ったことはある。
俺は、元々は教師になりたかったのでこの大学を選んだ。
けど、今は変わってきている。
やっぱり、演奏がしたいのだ。この気持ちは、どんどん大きくなってきている。
けど俺の気持ちはどうあれ、周りにはどのように説明すべきか…
学費は交通費、生活の全てを親に頼って生きている。学生なんだからこれには甘えてもいいかもしれない。
が、転校というのは…倍率も決して低くはないこの大学にせっかく受かったというのに…
わざわざそれを捨てて学費が高く、また自宅からも遠い私立の、しかも音楽大学に…
場合によっては一人暮らしだって必要になるんだ。
さすがにここまでのわがままを言うには相当な覚悟がいる。
そう…覚悟が。
するとこんな考えも出てくる。
演奏を仕事にしていく覚悟があるのなら、どこにいても同じかもしれない。と
今俺が大学で師事している人は、オーケストラの楽団員だ。学べることはたくさんある。
ならば、結局どこにいても同じかもしれない。全ては俺次第、か。
と、まとまったようでまとまっていない堂々巡りを、無理やり終わらせてきた訳だ。
しかし、ここに憧れの先輩からの一言が加わると、また堂々巡りが始まる。
留学…転校…
こんな言葉を頭の中で反芻していてもなにも始まらない。
まとまらない考えなら、誰かに相談してみるか…
いや、結局俺の意志がはっきりしてないとだめか。
こう言う時は自問自答だな。
まず第一に、演奏を仕事として行くのに、留学や転校は必要か?
YESだな。少なくとも俺にとっては、周りも演奏家を目指している環境は必要だ。
それに、留学すればもっと深く音楽を追求できると思う。
その為に親を納得させられるだけの意思はあるか?
少なくとも、演奏家を目指したいという話はできる。本気だから。
留学や転校については、相談は必要だが、奨学金制度なども調べた上で話をすれば、きっとわかってもらえると思う。
日本においていく物に未練はないか?
結。離れる=別れるではない。だが、貴重な学生時代を、離れている相手と過ごすと言うのは…そんなことに結を巻き込んでいいのか?
俺は、別れたくはない。結は、生涯一緒にいたいと思える女性だ。
例え離れていても、別れたくない。
…こればっかりは、結に正直に話すしかないな。
結…。
留学か転校か、という自問自答はしなかった。
これは、答えがはっきりわかっていたからだ。
演奏家になりたい。その為ならどんなことでもしたいと、今は思っている。
そこで、まずは1週間後に控えているAブラスの本番に全力を注ぐことにした。
留学するにしても、試験があるのは6月〜8月頃。
実際に向こうに行くのは9月からだ。
時間はある。
結には、Aブラスを終えて年が明けたら、ちゃんと時間を取って話そう。
すでに出演が決まっている演奏もしっかりこなせないで留学なんてありえない。
本格的に準備を始めよう。
結もきっと、本気で挑むはずだ。
増田先輩も、藤原先輩も、そして真里先輩も。
学年や楽器の違いは関係ない。自分の役割を、今できる最高のクオリティで。
よし。やるぞ。
やると決めたら動き出しは早い方がいい。
スコアを用意し、パート譜も改めて見直す。
リハーサルでのことも思い返しながら、スコアと照らし合わせていく。
こうすることで、頭の中が整理されていく。
パート譜だけで音楽の全貌を知ることはできないので、なにか注意を受けたりアドバイスをもらえた箇所や、自分で気になったところその前後だけでも必ずスコアを読むことにしている。
すると、そこで初めて気づくことも多く、それが良いヒントになる。
なるほど。ここは、打楽器のダイナミクスはmfなのに金管楽器はfなのか。
これは確かに、作曲者が狙って書いているならこちらがそれを汲み取ってバランスを取らないといけないな。
金管の音量に釣られてこちら大きくなってしまうと、意図に反していることになる。
これは勉強不足だったな。と、ここまでわかったところで、パート譜にそれがわかるような書き込みをする。
という作業は1曲あたり1時間もやると大分整理できてくる。
これができたら今度はもう一度最初からスコアを見直す。
問題になった箇所の前がどのようになっているのか、他にどのような仕掛けがなされているのか。
これを丁寧にやっていくと2、3時間はあっという間に過ぎる。
今回も、気付けば夜中になっていた。
さすがにそろそろ寝た方がいいな。
楽譜を全てカバンにしまって、布団に入った。
また留学のことを考えそうになったが、意識的に遠ざけた。
とにかく、今はAブラスに集中しよう。
そうして迎えたAブラス当日。
当日のゲネプロを終えた俺は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
楽屋を出て、舞台袖に続く扉をくぐる。
なんとなく、そこにいけば結に会える気がした。
予感的中。1人佇む結の姿があった。
俺の気配に気付いたのか、少し離れたところで既に俺の方を向いていた。
「早いわね。」
落ち着いた様子だった。
『うん、なんとなく、結がいる気がしたから。』
結にはいつでも本音を言える。
「ほんと?私、ちょうど会いたいと思ってたの」
そうか。
『うん。俺もだ。』
結は、付き合い始めた日に俺が上げた髪飾りをつけていた。
「いいね、衣装。似合ってる。」
『ありがとう。結も、良く似合っている。それにいいね、髪。』
付けてくれてありがとう。
「ありがとう。」
一息おいて、結が続ける。
「いよいよね。」
黙って頷いた。
「長かったけど、本当に充実していたわ。今日の為に一緒に頑張って、一緒に合格できること、誇りに思うわ。」
まるで最後みたいに言う。
『俺も同じ気持ちだよ。でも、本番はこれからだぞ?』
そうじゃないだろ?
「そうね。なんだかもう終わっちゃうみたいな言い方になってたわ」
そう言って2人で笑った。
『結、俺は昔、こんな話を聞いたことがあるんだ。』
確かめたかった。
「うん」
『大事な、ものすごく大事なステージに立つ時、その人の気持ちは大きく分けて2通りしかないんだ。』
「うん」
結はきっと…
『これが最後だと思うか、これから何度でもこういうステージに立つと思うか。』
そのまま続ける。
『優れた演奏家は、まず間違いなく後者だ。』
「そうね。」
俺の気持ちをしっかり伝えておきたい。
『確かに俺達は今日の為に頑張ってきた。それは、メンバー皆一緒だ。』
『でも俺は、これから何度だって、一緒にステージに立ちたい。大きければ大きいだけ良い!』
結は、どうだ?
「そうね。私も!」
よかった。そう言ってくれると思ってたよ。
『うん。だから、その為にも、今日の本番を一緒に頑張ろう。まずは、目の前の本番に集中だな!』
「うん!」
ありがとう。結。
「転校か、留学した方がいい…」
真里先輩に言われた一言は、その場で思っていたよりもずっと、俺の心に響き続けていた。
留学か…確かに環境を変えたいと思ったことはある。
俺は、元々は教師になりたかったのでこの大学を選んだ。
けど、今は変わってきている。
やっぱり、演奏がしたいのだ。この気持ちは、どんどん大きくなってきている。
けど俺の気持ちはどうあれ、周りにはどのように説明すべきか…
学費は交通費、生活の全てを親に頼って生きている。学生なんだからこれには甘えてもいいかもしれない。
が、転校というのは…倍率も決して低くはないこの大学にせっかく受かったというのに…
わざわざそれを捨てて学費が高く、また自宅からも遠い私立の、しかも音楽大学に…
場合によっては一人暮らしだって必要になるんだ。
さすがにここまでのわがままを言うには相当な覚悟がいる。
そう…覚悟が。
するとこんな考えも出てくる。
演奏を仕事にしていく覚悟があるのなら、どこにいても同じかもしれない。と
今俺が大学で師事している人は、オーケストラの楽団員だ。学べることはたくさんある。
ならば、結局どこにいても同じかもしれない。全ては俺次第、か。
と、まとまったようでまとまっていない堂々巡りを、無理やり終わらせてきた訳だ。
しかし、ここに憧れの先輩からの一言が加わると、また堂々巡りが始まる。
留学…転校…
こんな言葉を頭の中で反芻していてもなにも始まらない。
まとまらない考えなら、誰かに相談してみるか…
いや、結局俺の意志がはっきりしてないとだめか。
こう言う時は自問自答だな。
まず第一に、演奏を仕事として行くのに、留学や転校は必要か?
YESだな。少なくとも俺にとっては、周りも演奏家を目指している環境は必要だ。
それに、留学すればもっと深く音楽を追求できると思う。
その為に親を納得させられるだけの意思はあるか?
少なくとも、演奏家を目指したいという話はできる。本気だから。
留学や転校については、相談は必要だが、奨学金制度なども調べた上で話をすれば、きっとわかってもらえると思う。
日本においていく物に未練はないか?
結。離れる=別れるではない。だが、貴重な学生時代を、離れている相手と過ごすと言うのは…そんなことに結を巻き込んでいいのか?
俺は、別れたくはない。結は、生涯一緒にいたいと思える女性だ。
例え離れていても、別れたくない。
…こればっかりは、結に正直に話すしかないな。
結…。
留学か転校か、という自問自答はしなかった。
これは、答えがはっきりわかっていたからだ。
演奏家になりたい。その為ならどんなことでもしたいと、今は思っている。
そこで、まずは1週間後に控えているAブラスの本番に全力を注ぐことにした。
留学するにしても、試験があるのは6月〜8月頃。
実際に向こうに行くのは9月からだ。
時間はある。
結には、Aブラスを終えて年が明けたら、ちゃんと時間を取って話そう。
すでに出演が決まっている演奏もしっかりこなせないで留学なんてありえない。
本格的に準備を始めよう。
結もきっと、本気で挑むはずだ。
増田先輩も、藤原先輩も、そして真里先輩も。
学年や楽器の違いは関係ない。自分の役割を、今できる最高のクオリティで。
よし。やるぞ。
やると決めたら動き出しは早い方がいい。
スコアを用意し、パート譜も改めて見直す。
リハーサルでのことも思い返しながら、スコアと照らし合わせていく。
こうすることで、頭の中が整理されていく。
パート譜だけで音楽の全貌を知ることはできないので、なにか注意を受けたりアドバイスをもらえた箇所や、自分で気になったところその前後だけでも必ずスコアを読むことにしている。
すると、そこで初めて気づくことも多く、それが良いヒントになる。
なるほど。ここは、打楽器のダイナミクスはmfなのに金管楽器はfなのか。
これは確かに、作曲者が狙って書いているならこちらがそれを汲み取ってバランスを取らないといけないな。
金管の音量に釣られてこちら大きくなってしまうと、意図に反していることになる。
これは勉強不足だったな。と、ここまでわかったところで、パート譜にそれがわかるような書き込みをする。
という作業は1曲あたり1時間もやると大分整理できてくる。
これができたら今度はもう一度最初からスコアを見直す。
問題になった箇所の前がどのようになっているのか、他にどのような仕掛けがなされているのか。
これを丁寧にやっていくと2、3時間はあっという間に過ぎる。
今回も、気付けば夜中になっていた。
さすがにそろそろ寝た方がいいな。
楽譜を全てカバンにしまって、布団に入った。
また留学のことを考えそうになったが、意識的に遠ざけた。
とにかく、今はAブラスに集中しよう。
そうして迎えたAブラス当日。
当日のゲネプロを終えた俺は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
楽屋を出て、舞台袖に続く扉をくぐる。
なんとなく、そこにいけば結に会える気がした。
予感的中。1人佇む結の姿があった。
俺の気配に気付いたのか、少し離れたところで既に俺の方を向いていた。
「早いわね。」
落ち着いた様子だった。
『うん、なんとなく、結がいる気がしたから。』
結にはいつでも本音を言える。
「ほんと?私、ちょうど会いたいと思ってたの」
そうか。
『うん。俺もだ。』
結は、付き合い始めた日に俺が上げた髪飾りをつけていた。
「いいね、衣装。似合ってる。」
『ありがとう。結も、良く似合っている。それにいいね、髪。』
付けてくれてありがとう。
「ありがとう。」
一息おいて、結が続ける。
「いよいよね。」
黙って頷いた。
「長かったけど、本当に充実していたわ。今日の為に一緒に頑張って、一緒に合格できること、誇りに思うわ。」
まるで最後みたいに言う。
『俺も同じ気持ちだよ。でも、本番はこれからだぞ?』
そうじゃないだろ?
「そうね。なんだかもう終わっちゃうみたいな言い方になってたわ」
そう言って2人で笑った。
『結、俺は昔、こんな話を聞いたことがあるんだ。』
確かめたかった。
「うん」
『大事な、ものすごく大事なステージに立つ時、その人の気持ちは大きく分けて2通りしかないんだ。』
「うん」
結はきっと…
『これが最後だと思うか、これから何度でもこういうステージに立つと思うか。』
そのまま続ける。
『優れた演奏家は、まず間違いなく後者だ。』
「そうね。」
俺の気持ちをしっかり伝えておきたい。
『確かに俺達は今日の為に頑張ってきた。それは、メンバー皆一緒だ。』
『でも俺は、これから何度だって、一緒にステージに立ちたい。大きければ大きいだけ良い!』
結は、どうだ?
「そうね。私も!」
よかった。そう言ってくれると思ってたよ。
『うん。だから、その為にも、今日の本番を一緒に頑張ろう。まずは、目の前の本番に集中だな!』
「うん!」
ありがとう。結。