車は間もうすぐ由利のタワーマンションに着く。

「私が孝謙天皇と弓削道鏡を論文のテーマにする事にしたきっかけは吉備由利ですけど、モデルとなる人物像は知っての通り先生と弥生さんです。友人同士なのに仲の良い恋人か夫婦以上に見えました。そこまで突っ込んでもいいですか。」
「構わないよ。弥生は最後まで立派な妻を演じたんだから。孝謙天皇の虚像を少しでも実像に近づける参考にすれば弥生も喜ぶだろうね。」
「でもなんだかおかしいですね。古代の天皇の実像を確立するのに庶民の恋愛を参考にするなんて、宮内庁から怒られそうです。」
「その時は由利ちゃんが責任取りなさい。」
「先生、ひどい。擁護してくれないんですか。弥生さんとはずいぶん扱い方が違いますよね。」
「そうだよ。由利ちゃんは宗久君に守ってもらえばいい。」
「 まぁそうですけど。先生、今日はズバリ聞きたかった事を聞きます。弥生さんの幽霊が二回も現れたんですから。どうして先生は弥生さんと男女の関係にならなかったんですか。知りたいです。」
「普通はならないだろう。だから不倫が起きると愛憎劇がドラマになる。週刊誌なんかのアンケートじゃ〈結構不倫は密やかに行われている。〉みたいな記事は多いけどね。」
「そうじゃなくて、もっと先生の心理状態を聞きたいです。弥生さんに魅力がないはずはないし。」
「不倫は裏切りであり犯罪だろ。僕は人を裏切る人間は好きじゃない。弥生とそうなったら自分が一番好きな女に自分が一番嫌な行為をさせて犯罪者にしてしまう訳だ。男の子としては辛いものがあったよ。」
 修一郎は淡々としゃべり〈男の子〉と聞いた由利はクスッと笑う。しばらく間を置いて由利は言った。
「そうだったんですか。それで弥生さんにこのことを言ったことありますか。その時に弥生がどんな反応を取ったのか知りたい。」
 由利は矢継ぎ早に修一郎に質問した。
「言ったよ。」
 修一郎はあっさりと答える。由利は即座に突っ込んだ。
「その時の弥生さんの反応はどうだったんです 。」
「ぽかぁんとしてたよ。それで〈好きだからしてくれないんだ、ガァ~ン。〉だって。」
「弥生さん複雑だったでしょうね。そこまで自分のことを考えてくれてるのと魅力がない訳でもないって。先生、やっぱり思い切って尋ねてよかったです。そんな男女関係もあるんだなって。でもギュッぐらいはしてあげても良かったんじゃないです。」
「強くギュッとしたことはないけど、軽くギュッはしたよ。」
「そうなんだ。その時先生はどんな気持ちで、弥生さんはどんな反応したんですか。」
「二人とも膠着状態だね。」
「弥生さんからの強いギュッもなかったんですか。」
「それはないな。お互い意識しちゃってた。」
「どんなふうに。」
 由利は勢いに任せて質問を続ける。
「元禄文化風川柳の通りだよ。〈道鏡、膝三つ〉て言うやつ。」
「それを聞いて安心しました。先生もそういう気持ちだったんですね。」
「それで余談だけど孝謙天皇と道鏡が風刺の対象になったのは鎌倉あたりからだな。要する政事(まつりごと)が天皇家から武家に移ったあたりから。ところで由利ちゃん、弥生のことを忘れないと〈内広さんが心を開きませんよ。〉とは言わないの。」
 今度は修一郎が問い返す。
「私、そっちの方が不思議です。それだけ先生の心にいる弥生さんを内広さんは簡単に押し出してしまう。」
「僕も不思議だ。あとは神様に尋ねるしかないね。」
 修一郎は既に車をタワーマンションの近くに停めていた。由利は質問に夢中になっていて気づいていなかった。