吉野由利は運転中の興梠修一郎に話しかけた。
「先生、私今まで先生と弥生さんのことに触れるのちょっと躊躇っていました。けど、突っ込んで聞いても構わないですか。」
「別にいいよ。」
「ありがとうございます。」
 修一郎は簡単に答える。由利は修一郎の心の中が気になる。修一郎は今でも弥生が生きているように喋るのだ。由利は修一郎が弥生を忘れていないのが嬉しい。だがそこに内広舞が現れた。今の修一郎の心理状態では舞が修一郎に心を開くことはないだろう。由利はそれが気になる。

 由利は今も大学の研究室に籍を置いて孝謙天皇と弓削道鏡をテーマにした論文を定期的に提出している。
 きっかけは修一郎の言葉だ。その頃、修一郎は課長で弥生は主任だった。
「由利ちゃんの〈由利〉は吉備由利(きびのゆり)と同じ字を書くんだね。」
「吉備由利って誰なんですか。有名な女優さんですか。」
「僕の中では超有名だな。」
 その時、修一郎と由利のやり取りを聴いていた弥生がくすっと笑った。
「課長、きちんと説明しないと吉野さんは芸能人か誰かを想像してますよ。」
「えっ、そうじゃないんですか。」
 由利は修一郎が若い頃の頃に少し有名だった女優かアイドルを想像していた。
「吉備由利は吉備真備の妹だと言われている。」
 文学部史学科の由利にそれ以上の説明は必要なかった。この日、由利は自分の卒論のテーマがおぼろげながら見えてきた。
 それまで、由利は卒論のテーマを故郷の宮崎にやって来た那須大八郎にしようかと迷っていた。只、那須大八郎に関する資料は極端に少ない。吉備由利の資料も少ないのだがひとつだけ気になることがあった。吉備由利は孝謙天皇の崩御をたった一人で看取ったと言う記述だった。