細くひらいた視界のなかに、低く見慣れない天井がうつった。ぼんやりとした意識で、ここがどこなのかを把握しようとするが、うまくいかない。

 石造りの壁に板張りの床と天井。室内であることは分かる。

 部屋の四隅には蝋燭(ろうそく)を立てた燭台(しょくだい)があり、部屋は明るい。しかしながら、明かり取りの窓がない。

 体を起こそうとしてすぐに異変に気がついた。

 両手の自由が利かない。後ろ手にされた両腕は手首のあたりで固定され、両足も同じように縛られている。つまりは拘束されている。

「なに……?」

 さいわい猿ぐつわをされた様子はなく、ぽつりと疑問がこぼれた。

 ギシ、とどこかで板がきしむような乾いた音が鳴る。誰かが立ちあがる気配とこちらへの足音。

 私は寝具らしき場所に横たわったまま、その人物を静かに見上げ、大きく目を開いた。

「お目覚めかな。マリーン・ラ・ミューレン嬢」

 ひっ、と短い悲鳴が口からこぼれた。

 ひとことで言って異常者。子供のころに読んだ絵本に出てくる悪魔みたいだ。その最たる理由が、彼のつけている仮面と黒いフードの組み合わせにあった。
 いたってシンプルで無表情の白い仮面をつけている。出で立ちは平民のようだが、フードつきの真っ黒いポンチョとその仮面のせいで、不気味さが際立っている。

「これは。どういうこと?」

 慎重に言葉をえらんで話しかけた。さっき聞いた声から察するに、相手は男だ。

「覚えていないのか?」

 仮面のせいで声はくぐもって聞こえた。

 じゃっかん気だるさの残る頭を少しだけ浮かしながら、私は仮面にあいた男の目を見つめた。

 深く青みがかった瞳は暗い深海を思わせた。仮面の男は私を横たえたベッドわきに腰をおろした。

「誘拐、されたの? 私?」

「そうだ」

 声は無機質に響いた。

 どうして、こんなことになったの……?

 何がどうなって今に至るのか、私は眉間にシワを寄せ、懸命に思い出そうとする。

 仮面の男は何も言わず、私が次に発する言葉を待っているかのようだ。少しのあいだ静寂に包まれる。

 私はたしか……。マーサと一緒にいて、花壇の花を眺めていたはず。屋敷の裏庭でお茶をしていた。

 そこにこの男が現れた……?

 仮面の男を見つめ、背中に嫌な汗をかいた。男はさっきから同じ体勢で座ったまま、ピクリとも動かない。
 この男に首の後ろ辺りを殴られて、連れ去られたということだろうか。でも、そんなのあり得ない。

 私が生まれ育った家は大きく、防犯体制もきちんとしている。

 三階建ての屋敷は、芝生の綺麗な庭と花壇を併せもち、その周囲を樹木でできた高い生け垣でぐるりと囲われている。

 中央に柵状の門扉があり、門番がひとりあてがわれているため、客人は彼を通さなければ入ることは許されないはずだ。

 外側から生垣を切る、という"心当たり"が、一瞬、頭に浮かぶが。"あのころの少年"ならまだしも、大人がやるとあまりにも目立つ。

「どうやってうちに忍び込んだの?」

「そんなもの、どうとでもやり方はある」

 しだいに頭が働き、まだ記憶に懐かしい日常とともに、私は連れ去られるに至った経緯(いきさつ)を思い出していた。

 ***

 不気味な男に囚われた前日の朝へと、私の記憶は巻き戻る。

 その日は起きて早々、不定期で見る夢に悩まされていた。

 怖くて辛い内容の悪夢に、正直うんざりする思いだった。目尻からこぼれた涙の跡を拭いもせず、ベッドから起きだし、窓辺に立った。

 サイドテーブルに置いておいた紫水晶のブローチを持ち上げる。少しだけカーテンを開いて陽にかざすと、白い壁に光の粒が舞った。

 淡く耀く紫色を見つめて、そのときは平静さを取りもどしたつもりだった。

 *

「マリーン! またなの? これで何度目のミスかしら。あなたといったら変な癖がついてしまったせいで、ミスタッチが多すぎるわ。それに十二小節目を飛ばして弾いたでしょう? もう少し気を引き締めてちょうだい!」

「……はい。すみません、ローランド先生」

「だいたい姿勢がよくないもの。……そうね。頭にこの分厚い本を載せて立つことからはじめなさい」

 今日はもう弾かなくていいから、と続け、私はピアノの前から遠ざけられる。手には厚さ七センチほどもある古い教本が一冊。

 肺にたまった重苦しい息を吐きだしたとき、ポロンと軽快な音色が五線譜をなぞるように流れてきた。
 さっきまで私が弾いていた曲と同じものだが、調子はまるで違っている。はじけるような音を奏でるスタッカートも、そのあとにつづく音符をつなぐスラーも完璧だ。ちゃんと楽譜通りに弾いた上で、自分だけの音色に仕上げている。

「クリスティーナは今日も完璧ねぇ。その才能の半分でもお姉さんにあれば良かったんだけど」

「ありがとうございます、ローランド先生。けれど、姉も頑張っています」

「あら。頑張ることなら誰にでもできるのよ、クリスティーナ。伯爵令嬢にしかるべき教養を、とお母様から言い渡されていますからね」

 あなたは優しいこね、と言って微笑み、先生は妹の頭をなでた。

 私は固く重い教本を頭に載せたまま、楽しそうに会話をするふたりをながめていた。

 ピアノは苦手だ。

 ううん、ピアノだけじゃない。令嬢が身につけるべき教養というものが、どうにも頭に入ってこない。

 勉学は教本を読むより、講義を聴いて覚える耳学問を主流としていて、うっかり集中力がとぎれたら何が何やらわからなくなる。
 裁縫や乗馬、ダンスといったお稽古事にかんしても、同じところで何度もつまづき、なかなか上達しない。さっきのピアノがいい例だ。

「姉様はなにごとにも慎重で臆病すぎるのよ、エイッて勇気をだしてもっと要領よくやらなきゃ」

 四歳下の妹はそう言っていつも無邪気に笑う。そうね、と同意して笑うのが精一杯だ。

 私には妹のほかに弟もいる。五歳下で、今日も騎士になるための訓練を宮廷で行うため、家を空けているはずだ。

 姉弟(きょうだい)でこうも教養の差が出てしまうのは、なにかの罰なのだろうか。そんなことすら考えてしまうことがある。

「元気をだして? まさかそんなしょぼくれた表情(かお)で舞踏会にでるつもり?」

「そのことなんだけど、クリス……私やっぱり今夜は」

「だめよ。ミューレン家の長女が舞踏会に出席しないなんて、そんなことあってはならないわ。ぜったいだめ。お父様とお母様が恥をかくもの。それに姉様は……みてくれは美人なんだから、堂々と胸を張っていればいいの」

「えぇ」

 舞踏会も苦手だ。社交界デビューを果たしたのは、もう七年も前のことだが、結婚を申し込まれたことはただの一度もない。お父様やお母様から縁談を持ち込まれたこともない。教養の身につかない低脳な私は、だれにも選ばれない。