「お気をつけて行ってらっしゃいませ。またのお越しをお待ち申し上げております」
 
 フロントカウンターの中から頭を下げる。隣に視線を向けると、別のスタッフがやはり同じような光景を繰り広げている。午前八時を少し回った頃。ここからあと三時間ほど、チェック・アウトが続く。


 駅からほど近い場所に立地するシティホテル、ヘルメース・トーキョー。総客室数三百室、レストラン三店舗、バー一店舗、大小含めて宴会場五つを保有するこのホテルは、来年で開業三十周年を迎える。まだまだ老舗とは言い難いが、これから共に歴史を刻んでいけるというのは、それはそれで夢があるというものだ。そうそう、「ヘルメース」というのはギリシャ神話に登場する神で、旅人や商人の守護神と言われている。なかなか素敵な名前だと思わないか?
 
小鳥遊(たかなし)支配人、おはようございます」

 今しがた出勤したばかりのスタッフたちが、順に挨拶をしにフロントカウンターまでやって来る。これも毎朝お馴染みの光景だ。

「おはようございます」

「支配人、はよざいまーすっ」

 ……コイツは。この男だけは、どうしてこういつまでたっても学生気分が抜けないんだ。

 この男。馬場裕也(ばばゆうや)、二十四歳。専門学校を卒業後、ヘルメースへ入社して早四年目。今はベルスタッフとして働いている。仕事振りはまあ、悪くはないんだが、いかんせん言葉使いや態度が軽い。軽すぎる。
 
「馬場。学生言葉を使うなと言っただろう」

「さーせーんっ。あ、ゲストには使ってないんで大丈夫っス!」

 悪びれる様子もなく、笑ってみせる。

「当たり前だ。ホテルの品格に関わる」
 
 馬場はヘラヘラと笑いながら、ロビーの端にあるベルデスクへと戻って行った。彼は主に、ロビーにいるゲストをフロントまで案内したり、チェック・インを済ませたゲストを客室まで案内したり、ゲストの荷物を運んだりするのが仕事だ。あれで結構、ゲスト受けが良いのだから複雑だ。

何故、こんなに馬場にこだわるのかって?

それは彼が、俺がやりたくてもできないことをいとも簡単にやってのけるからだ。