彼女は、2.5次元に恋をする。

「じゃ、二人とも。また来週」

「ああ、邪魔して悪かったな、八尾」

 八尾がデッサンに戻った。

「――俺は帰る。雨も止んだし」

 廊下の窓から見える空は、濃いオレンジになっている。

「私も、このまま帰る」


 俺たちは来た階段を降り始めた。
 一段一段降りる度に、小石のリュックのマスコット達が揺れる。

「蓮君はどこに住んでるの?」

「椿台」

「そっか、近くていいね。私は五本松」

「じゃあ電車か、結構遠いよな。……なんで椿高選んだんだ?」

「何校か学校説明会行ったんだけど、ここの先輩方が凄く生き生きしてたから。
 太巻先生も『いい学校だよ』って言ってたし」

 小石が頬を赤らめながら続ける。

「どの学科紹介も楽しかったけど、私、パソコン使えたらいいなっていうのと、先輩方が資格一杯取っててかっこいいからって事で、商業科に入りたいって思ったの。
 蓮君は?」

「――最寄りだから……」

「そういう決め方もあるんだね」小石がふふっと笑う。

 学校説明会にも参加せず、自宅から最寄りというだけで、ここ一択だった。勿論入試の面接時には、予め考えた当たり障りない志望動機を述べた。学科は消去法で普通科か商業科、最終進路希望調査票のプリントの裏に、あみだくじを書いて決めた。提出時には消したが。

 なんだか情けない過去を振り返っている間に、昇降口に着いた。
 もう少し話したい。話題を変えよう。

「小石って、いつも放課後に教室で絵を描いてるのか?」

「たまにだよ。いつもは家で描いてる。
 今日はSHR(ショートホームルーム)の時に、突然いいイメージが頭に浮かんでね、今描かなきゃ! って」

「教室で絵を描いてて、今まで話しかけられたことは?」

「ないよ」

(あんな感じの絵じゃ、なかなか話しかけづらいよな。それにこいつ、一心不乱過ぎだから軽く話しかけただけじゃ、たぶん気づかない……)

「……そうか。あと訊きたいんだけど、休み時間によく読んでるのって、何の本?」

「寺子屋名探偵の小説! 太巻先生の素敵さについつい没頭しちゃって、気づくといつの間にか授業始まってたりするんだよね」

「ははっ、そうか……」

(ほんと……寺子屋オタクだな。てかこいつ、最前列の席なのに大丈夫なのか?)

「俺、今まで小石って『孤高の秀才』って思ってたけど……実は『人見知りな秀才』だったんだな。『寺子屋オタク』だし」

 小石が目を丸くする。

「!」

 俺は自分の口を抑えた。

(――しまった……『寺子屋オタク』とか、思ったことをそのまま言った)


「…………くっ、あはははっ! 『孤高の秀才』って、私、そんなイメージだった!?」

 小石が口を大きく開けて笑いながら、靴箱から靴を取り出す。こんな風にも笑うのか。

「ふふふっ。オタク=『その道を極める者』って事でしょ? 誇らしい称号だよね」

 (けな)すつもりでも、褒めるつもりでも言ったわけじゃない。が、プラスに捉えてくれたようでほっとした。

「確かに寺子屋オタクだし人見知りだけど、『秀才』は違うかな。
 ――じゃっ! 今日はありがとね、蓮君」

「いや、こっちこそ。体操着、ちゃんと洗って返すから。
 服入れるビニール袋までありがとうな」

 先に外に出ていく小石が俺に手を振る。その姿は夕日の逆光に照らされ、輪郭線が細く光っている。
 しばし見とれてしまった後、俺は傘立てに脱ぎ捨てたレインコートを回収した。


――――――――――――――――――――


 その夜。
 俺はベッドに仰向けで、真っ暗な自室の天井を凝視していた。今日はなかなか眠れない。
 脳裏に浮かぶのは、自分にノートを突きつけた時の小石の汗・髪・頬・唇・瞳はじめ、本日見惚れたシーンのハイライトだ。目に焼き付いた全てが、エンドレスリピートされる。

「はぁ……」

 目を閉じ、そこに手の甲を乗せる。
 ダメだ。目を閉じると余計、ハイライトが鮮明に再生される。


 ――眩しくて、キレイだった。


 絵が下手だろうがオタクだろうが、自分が他人からどう思われるなんて顧みない。いや、むしろオタクであることを誇りに思うほどの、潔い寺子屋――太巻先生への情熱。それがあいつを輝かせているのかもしれない。

 俺も何か、あいつのようにあんなに情熱を持てたら――憧れにも似たこの気持ち。それと共に、今脳内で再生されているのは、小石のはにかんだ表情と声。

 ――『アニメの太巻先生が、私の初恋の人』

 ――『去年椿高で会った太巻先生が、今……私の…………好きな人なの』

「俺は初恋も、今好きなのもお前だ……」

ボソリとしたつぶやきが、口から零れ落ちる。

(早く学校に行きたい)

 こんな事思ったのは、小学校の、好きな給食のメニューの時以来だ。

(早く三連休終わらねーかな)

 こんな事思ったのは――初めてだ。
 これは本当に俺か? 人を好きになるってこんな?
 ――あーもう疲れた、寝よう。

 ふと時間が気になり、スマホをつける。
 ただ今の時刻――午前1時59分。
 翌日、午前9時半過ぎ。
 昨夜はあんな状態だったのに、小石の夢一つ見ないまま目が覚めた。

「だりー……」

 ぼんやりした視界で、リビングのテーブルを見る。その上には、目玉焼きにウインナー、プチトマトが載ったワンプレートの皿――何枚か減った食パンの袋も置いてある。

(パン焼こ……)

 袋から食パンを取り出した、その時――

「れーん!」

 別室から、母の声がした。

「なんで体操着が二つあんの?」

 ぽとり、パンをテーブルの上に落とす。
 昨日、スマホを学校に取りに行った時、母はパートに行っていた。俺が小石の体操着を来て帰った時にはもう帰宅していたが、体操着姿を見られる前に部屋着に着替えたので、あの人は何も知らない。

 母が事情を聞きにこちらに来た。とりあえず拾ったパンを、トースターに入れる。

「……昨日、夕立凄かっただろ? あの時、学校に忘れ物取りに行ってびしょびしょになったから、教室に残ってた奴に体操着借りた」

 忘れ物がスマホだった事は言わない。知ったら怒られそうだ。
 そして『残っていた奴』が女子だった事は、絶対に言わない。

「あー、そういうこと? 今洗濯するとこだけど、Tシャツもズボンも確かに凄かった。
 蓮って要領いいのに……忘れ物とか、たまーに抜けてるよね」

 母が苦笑している。

「――今日、玲菜(れな)は?」

 昨日の事を詮索されまいと、話を変えた。

「出かけた。友達とS台に行くって。好きなブランドのバーゲンがやってるんだって」
 玲菜は中2の妹だ。S台はうちの最寄り駅から、電車で片道1時間半くらいかかる。

「往復で3時間だろ? そこまでして服買いに行く? 俺には理解できない」

 玲菜は中学生になってファッションに目覚め、休日に友達と出かける事も増えた。ファッション費も友達との交際費も、自分のお年玉や毎月の小遣いから計画的に支出しているらしい。俺は高校生になった今でも、母に服を適当に購入してもらっている。激安衣料店だろうが、よほど変でなければ、着られれば何でもいい。

 それに――

「三連休でしょ? 蓮は何か予定無いの?」

「無い」

「友達は?」

「一緒に休みを過ごすような奴はいない」

「………………」残念そうな視線が俺に向けられる。

「いや別に、学校では人間関係、適当にやってるよ。
 ――まぁ暇だし、高校生になったし、バイトやるってのもありかもな……」

 少し黙ってから、母がやや真面目な顔で言った。

「やりたいならいいけど、うちの家計なら心配しないでね? 私、遣り繰り上手だし、養育費はしっかりもらってるから。学資保険もあるし、進学も大丈夫」

 そう、うちの両親は3年前に離婚している。今はこのマンションで母、妹、俺の3人暮らしだ。

「だからお金の事は気にせず、青春を楽しんでね?
 あ、でも交際費とか、あと服も(こだわ)るんだったら、玲菜みたいに自分で遣り繰りして貰えると助かる。足りなかったら相談して?」

 俺が現在、自分の財布から捻出している費用と言えば……ネット上で使うギフトカード代ぐらいだ。月500円のアメプラビデオという動画視聴サービスに使っている。

(――朝飯食べたら、アメプラで何か観よう)


 朝食後。洗顔、歯みがきをすませ、自室に戻った。
 机からベッドに移動させたノートPCをつける。その横に肘枕で横になると、アメプラビデオのホーム画面を開いた。画面を下にスクロールさせていくと、見覚えのあるサムネイルが目に留まった。
 
 ――『寺子屋名探偵』

 小学生の頃は観ていたが、いつの間にか観なくなったアニメだ。ふと小石の言葉を思い出す。
 
 ――『蓮君って〝けん君〟にそっくりだから』

(よし、『けん君』――『剣蔵』がどんなキャラクターなのか観てみるか)

 俺は『寺子屋名探偵』のサムネイルをクリックした。
 変遷した画面には『寺子屋名探偵 シーズン1』と表示されている。
 シーズンがいくつあるのか見てみると――なんと30シーズンもあった。

(今年で30年ってことだよな……)

 地上波で放送され続けているのは知っていたが、ここまでとは。いつだったか母さんが、『私が子供の頃からやってる』と言っていたことを思い出した。
 どのシーズンを観れば――そういえば、剣蔵(けんぞう)が登場したのは去年だと小石が言っていた。

(じゃあ、シーズン29だよな……?)

 シーズン29のエピソードを見ると、すぐに『エピソード1 功刀(くぬぎ)剣蔵(けんぞう)登場の巻』とあった。分かり易くて助かる。
 早速クリックし、視聴を開始した。


 自分が観ていた頃とは、オープニングもエンディングもすっかり変わっていた。俺は二十数分間の視聴を終え、停止ボタンをクリックした。

 結果、剣蔵は頭のキレる、ツッコミの鋭いキャラクターだということが分かった。太巻(おおまき)先生の推理のヒントとなるような発言をし、事件の解決に一役買っていたのが印象的だった。

 そして昨日、小石にセットされた俺の前髪は、やはり剣蔵スタイルだったらしい。彼の後ろ髪は短めのポニーテールのように結われていたが、前髪は昨日の俺そのものだった。

 あと、少し気になったのは剣蔵の目だ。『俺、こんなに目付き鋭い?』と思ったが、まぁ……デキるキャラクターみたいだし、似ていると言われて悪い気はしない。

 ――『蓮君を初めて見た時『剣君がいる!』って。鋭いところもそっくりだね!』

 ふと、また小石の言葉を思い出す。

 ――『椿高でこんなに話せた人いなかったから、嬉しい!』

 そう言った時の彼女は、曇りのない笑顔だった。

「!!」

 瞬間、妙案が頭に浮かんだ。

(もし、学校で寺子屋の話ができる相手がいたら――小石は、かなり嬉しいんじゃないか?)

 思わず、小石が俺と楽しそうに話している姿を想像し、心が躍った。俺としても、彼女と親睦を深めたい。しかし、この想像を実現させるには、今の俺では到底『勉強不足』だ。

(よし、もっと寺子屋を観よう!
 ……そうだ! 忘れないように感想もメモしていこう!)

 すぐさまノートPCをベッドから机に戻し、椅子に座る。そしてシャープペンに消しゴム、未使用のノートを用意すると、背筋を伸ばしながらエピソード2をクリックした。


************


「ただいまー」

 玄関から聞こえたその声に、いきなり現実世界に戻された。
 壁掛けの時計を見ると――6時半過ぎ。部屋の窓からは、オレンジ色の西日が差し込んでいる。

(うぇっ? もうこんな時間か!)

 現在、エピソード24の途中である。今に至るまで、昼食やトイレ休憩以外、ずっと寺子屋の視聴を続けていた。
 一旦視聴を中断し、椅子に座ったまま背伸びをする。
 すると突然、自室のドアがガチャリと開けられた。
 傍若無人に入ってきたのは……俺をアニメの世界から引き戻した声の主だった。

「暑かったー。ちょっと涼ませて」

「なんだよ、リビング行けよ。てか、ノックぐらいしろ」

「あ、ごめん、そういう動画観てた?」

 ――本当に可愛げのない妹だ。

「違う、健全なアニメだ!」

「もしかして……一日中、エアコンの効いた部屋でアニメ見てたの?」

 憐れんだ目で訊くこいつは、さぞ充実した一日を過ごしたのだろう。

「……なんか悪いか?」

「三連休、どっか行ったりしないの?」

「特にしないな」

 はぁ、と溜息をついた妹が、俺のベッドに座る。

「蓮も高校生になったんだから、彼女……とまでは言わないけど、友達と海とかお祭り行くとか、部活で汗を流すとか、何か青春っぽい予定は無いわけ?」

「お前……なんか母さんっぽい――」と俺が言いかけた時、

「蓮玲菜ー、夕飯にしよー?」絶妙なタイミングで母の声がした。

「今行く」
「今行くー」

 不覚にも、俺と妹の声がきれいに重なった。


 夕飯時。俺は今日観た寺子屋の、印象的だったシーンを思い返しながら黙食していた。
 その最中、母と妹の間で『蓮』『友達』『青春』というワードが飛び交っていたような気がしたが、気のせいということにしておこう。
 俺の中で、衝撃や感動、笑えたあのシーンやこのシーン――小石は去年、それぞれどう思って観ていたのだろう。

(あいつに話を振ったら、きっと目を輝かせて語りだすだろうな……)

 口元がゆるむ。
 早く続きを見なければ。今日のペースなら、明日中にはシーズン30に入れるだろう。
 シーズン30は今年4月からの放送分だから、観終わるのにそんなに時間はかかるまい。その後はシーズン1から観よう。


 思いついたこの予定により、三連休はあっという間に終了することとなる。
 なお、母と妹からはそれぞれ、より残念そうな、より憐れんだ目で見られる羽目となった。
 東の空から照りつける日射しは、既に強い。そんな中、自転車を飛ばして登校した俺は、朝から汗だくになっていた。
 自転車を駐輪場に止めて、昇降口に向かう。

 今日は火曜日。あっという間に三連休が終わった。
 明日の放課後は、八尾の案内で小石と漫研を訪ねる事になっている。そして明後日は、終業式だ。
 小石に暫く会えなくなる前に、今日から明後日にかけて、少しでも親睦を深めたい。そのためにこの三連休、『勉強』をしてきた。

 昇降口でいそいそと上履きを履き、(はや)る気持ちで教室に向かう。しかし、自分の左手の紙袋を見た途端、心も足も減速しだした。

(――親睦を深める前に、これ、いつ返そう……)

 その中には、厚手で不透明のビニールに入れた体操着が入っている。因みに紙袋は、よく知らないアパレルブランドのものだ。少しでもオシャレな袋がいいと思い、妹に譲ってもらった。妹は『なんでこれが欲しいの?』と()(げん)な様子だったが、しつこくは訊いてこなかったので助かった。

(今日一日、人がいないタイミングを見計らうか)

 小石は俺に(ちゅう)(ちょ)なく体操着を貸した奴だ。俺が『これ、ありがとう』と言って紙袋を渡したら、『ああ、体操着ね』と普通に言うだろう。それがもし、周りに聞かれたら……。
 男女兼用にしても、女子から体操着を借りたなんて、絶対に誰にもバレたくない。最悪、『変態』というあだ名がつくかもしれない。それは流石に避けたい。
 今日は幸い体育がない日だ。じっくりチャンスを待とう。
 
 教室に着くなり、小石の席を確認すると――彼女は『朝読書』をしていた。
 いつもより早めに登校したはずだったが、クラスの半数以上程は既に教室にいる。今はとても、体操着を返せるタイミングではない。
 小石を見ながら、リュックと紙袋を机横にかける。
 席に着くと、前の席の奴が振り向きざまに話しかけてきた。

「おはよ、ムク。今日早くない?」

 この席になってからというもの、馴れ馴れしく俺を『ムク』呼ばわりするのは、尾瀬(おせ)というツーブロックの男だ。

「その、どこぞやの犬みたいな呼び方、やめろ」

「えぇ〜? オレは気に入ってるんだけど」

 このヘラヘラした感じ、俺の苦手なタイプだ。

「今日の放課後、ちょっと付き合わない?」

「断る」正直、関わりたくない。

「冷たいな~」尾瀬が苦笑する。

「…………ところで、それ……いつ返すの?」

 そう言ったこいつの目線の先は、いつの間にか――机横の紙袋だ。

「!?」

 一気に、血の気が引いた気がした。

「なんで――」

「オレ、金曜、駅で定期無いの気づいてさ。教室に探しに戻ったんだ。まぁ、ムクたちが教室出るまで待ってたけど?」

 俺は言葉を失った。
 こいつは、何をどこまで知っているのか――今は訊く勇気が出ない。
 先週金曜日の出来事が、走馬灯のように俺の頭を駆け巡る。

「……分かった。尾瀬、今日の放課後付き合う」

「良かった〜、オレ、その件でムクと話したかったんだ」

 にこりと尾瀬が笑う。なんだか、だんだん腹が立ってきた。

「んで、定期なんだけど結局さ~、たっつんのところに届いてたんだ。昇降口の自販機のところにに落ちてたって。
 ズボンのポケットから、財布取る時に落ちたんだわ」

 尾瀬の言う『たっつん』とは担任の()(いく)先生だ。

「見つかって良かったな」

 いつもなら興味無く『へ〜』と答えるところだが、今は無下な対応はできない。そして努力はしたが、きっと俺は今、引きつった笑顔をしている。

「――尾瀬……」

「分かってるって。()()()のことは、誰にも言わないから」

 尾瀬の『にこり』が『にやり』に変わった。
「はぁ……」

 ため息と共に、俺はリュックから弁当を出した。

 小石に体操着を返すことは(おろ)か、話しかけることさえできないまま、昼休みになってしまった。尾瀬による精神的ダメージも相まって、今日の授業内容は全然頭に入っていない。

 現在の小石はというと――今日も一人、自席で弁当を食べている。一方、その周辺では他の女子が、グループで楽しそうに弁当を食べている。
 小石に話しかけたいのは山々だが……もし、体操着の話になったら困る。

(いつも一人で食べて、寂しいだろ)

 小石の席は、窓側の一番前。俺は廊下側の一番後ろ。この距離と角度では、彼女の表情が確認しづらい。
 そこで俺は、机から不要なプリントを探し出した。それを丸めながら、教室前方の出入口付近にある、ゴミ箱へ向かう。ゴミを捨てに行きながら、小石の表情を伺う作戦だ。

 次第に見えてきた彼女の顔に――俺は、ほっとため息をついた。

 余程旨いのだろうか。弁当を見つめる目は生き生きとし、()(しゃく)する彼女の口は、笑んでいる。この、ぼっち飯を『堪能』している様子からは、寂しさなど()(じん)も感じられなかった。

 その光景に、少し口元が緩む。すると、近くにいた男子グループ――()(いで)(しい)()飯盛(いいもり)が俺に声をかけてきた。

「椋輪? なんか嬉しそうだな」と小出。

「い、いや? そんなことねーよ」

「今日さ、面白そうな対戦ゲーム見つけたんだ」椎路が、スマホのゲーム画面を見せながら言う。

「飯食べながら、みんなでやろうぜ!」飯盛が続いて言った。

「あ、ああ!」

「楽しそ〜、オレも混ぜて? 『(うま)(めし)トリオ』」

 聞き慣れない『旨飯トリオ』という呼び方。俺は気になり、その由来を考え始めた。

「おう、歓迎する。お前ら、椅子と弁当持って来い」小出が言う。何もツッコまないあたり、その呼ばれ方に慣れているらしい。

 ――小出、椎路から二文字ずつ合わせて『おいしい』。それに飯盛の『(めし)』を足して『美味しい飯』、つまり『旨飯』ということか。

 そんなことより、参戦してきたこの男。

(入って来んな! 俺の精神を(むしば)む、ツーブロック!!)

 自分の眉間に、力が入る。

「あれ? 椋輪、どうした? もしかして、アンチ尾瀬?」椎路が不安そうに、俺の顔を覗き込む。

「まさか。オレ、ムクと放課後デートする仲だけど?」尾瀬が笑って答える。

「はは……語弊を招く言い方はやめろ」

 なるべく眉間の力を抜いて、自分なりに笑って流した、つもりだ。しかし内心では、『せめてゲーム内で、このツーブロックを叩き潰す!』という野心が生まれていた。

***

 昼休み終了のチャイムが鳴る。俺たちのゲームも、今しがた終わったところだ。

「やべー、椋輪強っ!」

「本当に初見プレイだった?」

「全敗かよ〜!」

 スマホを手に、『旨飯』が口々に言う。

「ムク、エグかったわ〜」苦笑する尾瀬は、椅子を片手に自席に戻った。

 そう、俺は奴を散々叩き潰してやった。
 少し晴れた気分でスマホを消し、ズボンのポケットにしまいながら、教室内を見渡す。
 クラスメートが皆、5時間目の準備をしている中――小石は『昼読書』中だ。

「もう一戦だけしよ? 椋輪」悔しそうに飯盛が言う。

「いや、次プログだし移動しないと」

「プログ室にダッシュすれば間に合う!」「俺も」小出と椎路が言う。

 その時、準備を終えたらしい尾瀬が、教室を出ながら大きな声で言った。

「あ! 今ムクの攻略法思いついた!」

「ちょっと待て尾瀬!」旨飯が口を揃える。そして各自の席で、さっさと5時間目の準備を始めた。

(俺も早く準備しないと)

 次々と教室を出るクラスメートを横目に、椅子を自席に戻す。俺が机の上に教科書を出し始めたところで、旨飯が尾瀬を追いかけるように教室を出ていった。

 いつの間にか、すっかり静かになった教室は――俺と、まだ読書中の小石だけとなった。
(今だ!!)

 俺は体操着の入った紙袋を掴み、小石の席に駆け寄った。
 小石は昼休み終了のチャイムも、クラスメートが皆教室から出ていったことにも気づいていないらしい。

 そして今俺が、小石のすぐ正面に立ったところだが……何事もない様子で、未だに読書を続けている。この状況に先日、絵を描いていた時の小石を思い出した。

(ただ声をかけるだけじゃ、ダメだ……)

 俺は、小説に向ける視線を遮るよう、彼女の目の前に紙袋を突きつけた。

「小石、遅くなってごめんな。これ、ありがとう」

 急に変わった視界に、状況がなかなか理解できなかったようだ。ワンテンポ遅れて、小石が俺を見上げた。

「蓮君! ――あぁ、体操着ね?」

 疑問形だったが、予想通りの『体操着ね』。

(良かった、本っ当に良かった。今、教室に誰もいなくて)

 小石は小説を閉じて机に置き、目の前の物を受け取った。

「ふふっ、可愛い紙袋だね。ありがとう」

 微笑む彼女に、いろいろと話したくなったが、今は時間がない。

「お前、また読書に没頭してただろ。昼休み終わってんぞ? 次、プログだからな」

「えっ……」時計を見た途端、小石が焦り顔になった。

「急げ! (こし)()先生、怒ると怖いだろ!」

「わ〜、またやっちゃった! 教えてくれてありがとう」

 小石が紙袋を机にかけ、慌てた様子で机の中を漁り出す。
 机の上に、プログラミングの教科書、ノート、ペンケースに下敷、最後にファイルを出したところで――バサリ。さっきまで読んでいた小説が、次々と出された物に押される形で、床に落ちた。

「ふっ……」

 俺は思わず吹き出しながら、小説を拾った。そして床についた面――『寺子屋名探偵』のタイトルに、太巻(おおまき)先生が描かれた表紙を手で払い、小石に差し出す。

「あ、ありがとう……」彼女が小説を受け取る。

「はははっ。小石って……なんか、(りん)()(ろう)みたいだな」

 凛太郎とは寺子屋名探偵の、太巻先生の元に()(そうろう)している、彼の生徒兼助手だ。昆虫関連のこととなると、周りが見えなくなるほど集中してしまう『昆虫オタク』である。昆虫の知識は豊富だが、学問はさっぱり。おっちょこちょいで慌て者のキャラクターだ。

「なんか、こんなシーン、あったよな?」

「……! それってもしかして、去年の5話で、剣君が凛君に本を――」

 さすが小石、理解が早い。

「そう。でもほら、もう行くぞ!」俺は走りながら自分の席に向かった。

 教室の時計は、5時間目開始まで既に2分を切っていた。プログラミング実習室は特別教室棟の二階、走れば間に合う。

 小石も走り出した。
 俺は机の上に放置した授業セットを引っ掴む。
 そして俺達は、教室の前方と後方から、同時に教室を飛び出した。

「い、今のは、お前への感謝じゃない!」

 背後から、突然聞こえた声。
 まるで別人のような小石の口調に驚き、俺は足を止めて振り返った。

「お前の行動に、感謝したんだ!」

 小石が左手を腰に当て、右手で俺を指差しながら、ツンとしつつも照れたような顔で言った。
 ――凛太郎だ。声や顔立ちが似ているわけではない。しかし今の語調や表情、しぐさはまるで、本人のようだ。そしてこれは、さっき俺が言ったシーンのセリフだと思われる。

(えっと……)

 俺は前髪を右に流し、鼻で笑ってから無愛想に返した。

「俺も、お前のためじゃない。本のために、拾ったんだ」

「――って、こんな場合か!? 早く行くぞ!!」

 俺達は特別教室棟へ向かって、廊下を走り出した。

「ふっ、あはははは! 蓮君、剣君過ぎ!」小石が吹き出して笑った。

「ばっ……! はははは! お前もだ!」俺もつられて笑った。

 二人で笑いながら走る。

 今日も小石のこんな顔が見られて、声が聞けて嬉しい。
 無事返却物を返せた安堵感も後押しし、俺の走る足取りは、とても軽かった。

 その日の放課後。

「で、ちゃんと返却物返せた?」

「ああ……」

「そりゃ良かったな〜、ムク」

 正面に座る尾瀬が、頬杖を付きながらシェイクを飲む。俺もとりあえず注文したが、飲む気が全く沸かない。
 ここは、椿高最寄りの駅前、ファーストフード店の二階だ。隣の席では、他校の女子高生4人が、賑やかに話している。

「――尾瀬、お前……何をどこまで知ってるんだ?」

 俺は尾瀬を見据え、今朝訊けなかったことに斬り込んだ。
 尾瀬はニヤリと笑うと、手を伸ばし、俺の前髪を右に流した。

 (小石が俺の髪をセットしてるところ、か)

「……やめろ」言いながら奴の手を払い除ける。

 横目で確認すると、さっきまで賑やかに話していた女子高生らが、こちらを見ながらヒソヒソと話しだした。

「あと知ってるのは、ムクが真っ赤になりながら教室の隅で服を脱いだことと――」

「ちょっ!! もう少し声のボリューム落とせ!」

 俺は身を乗り出し、右手でストップをかける。

「物凄く下手!!!」

「物凄く情熱を感じた!!!」

 尾瀬は拳を握りながら、むしろボリュームを上げた――そのセリフを言った時の、俺の声のボリュームまで再現しているのかもしれない。
 隣の席に顔を向けると、女子高生らが、今度は顔を赤らめながら、全員そっぽを向いた。何か、『物凄く』誤解されているのかもしれない。

「もういい、お前が教室に着いた時の状況を話せ」

 俺は色々と(えぐ)られた胸に手を当て、テーブルに目を落とした。

「まぁ、そんな苦い顔すんなって。俺が着いたのは、ムクが自分の机を漁って、スマホ出した時だよ」

「最初からじゃねーか!!」俺は顔を上げて尾瀬を睨みつけた。

「来た時点で教室入れよ! てか、一部始終覗いてんじゃねー!」

「や、だって、なんか楽しいことが起こる予感がして……」尾瀬が目をそらし、口籠る。

「俺のことはいいとして、小石の話も全部聞いてたんだろ!? プライバシーの侵害だ!」

「ゴメンて。でもオレ、ムクの応援したくなったんだ。今日もアシストしたつもりなんだけど……まぁいいか」

「は?」

「好きなんだろ? 小石輝が。ムク、分かり易すぎだから」

「ぐっ……」尾瀬への怒りと動揺が入り混じり、顔が熱くなる。

「で、太巻先生は見つかった?」

「……まだだ。漫研の人だろうと思って、明日漫研に小石を連れて行く」

「なんで彼女の好きな人探しなんて手伝うかな? 見つかったら告っちゃうじゃん? 太巻先生と付き合っていいの?」

「いいんだ。俺はただ――それまで一つでも多く、あいつのいい顔が見られれば。それに、太巻先生には勝てる気がしないしな」

「じゃあムク、賭けよ? 彼女が誰と付き合うか。負けた方が、勝った方の言うことを何でも聞くってことで」

「小石で遊ぶな」

「オレ、ムクに賭ける」

「バカか? それ、お前が絶対負けるやつだろ。じゃあ乗ってやる、俺は太巻先生だ」

「ムク、太巻先生がもし見つからなかったらどうする? その時は告ってくれる?」

「絶対見つける!」

「あ〜、ムクもバカだわ〜。
 ところで……それ、飲まない? もらっていい?」

「いや、飲むし」

 俺はシェイクを手に取り、飲んだ。が、すっかり緩くなってしまい、酷く甘い。とても飲めず、すぐにテーブルに置いた。

「ははっ、ゴメン。オレが溶けさせた。もったいないから貰うわ。ムクはこれで口直しして?」

 尾瀬はテーブルに500円を置くと、俺のシェイクを手に取り、飲みだした。

「ついでにポテトも買って? 甘党でも、流石にしょっぱいものが食べたい。Lでシェアということで。
 あ……」

「どうした?」

「これ、ムクと間接キスだわ〜。ははっ」

 隣の席がざわつく。

「だ、か、ら! そういう発言やめろって!」

 俺は顔を(しか)めながら500円を握り、席を離れた。
 教室の時計は現在、7時47分。

 窓を開けると、こもった空気と引き換えに、朝の新鮮な空気が入ってくる。それを深く吸い込み、ゆっくりと吐いた。
 今日も暑くなりそうな、よく晴れた空。まだ誰もいない教室には、セミの鳴き声だけが響いている。

 今日は、小石と漫研を訪ねる日だ。

 一週間弱の俺の短い初恋が、たぶん今日終わる。せめて、その瞬間が来るまで、小石との思い出が少しでも欲しい。
 というわけで、俺は昨夜『小石と二人で昼食を食べよう計画』を考えた。その誘いの手紙――と言っても、ノートの切れ端を四つ折りにしたものだが、シャツの胸ポケットから出し、内容の最終チェックをする。

『昼ご飯、一緒に食べよう。北校舎屋上の階段で、現地集合』

 今朝、30分程かけて校内を調査した結果、そこが一番人目につかなそうな場所だという結論に至った。そして、その階段全段と踊り場、屋上扉手前の空間をほうきで掃き、雑巾で念入りに水拭きしておいた。掃除当番が、どのクラスにも割り当てられていないのか……結構汚れていた。

 手紙やら調査やら掃除やら、なぜここまでするのか。
 それは俺が、周りの目が気になる『小心者』だからだ。

 他のクラスメート達がいる中で、堂々と小石を誘うことはできない。周りから『それ、絶対好きなやつじゃん!』と言われるだろうし、実際好きだから否定もできない。
 それに、教室で堂々と男女一緒に昼食を食べようものなら、「付き合ってる」と噂が立つことが安易に予想できる。それでは、彼女に迷惑がかかってしまう。

 俺は開いた手紙を畳み、小石の机に入れた。

(よし。とりあえず、今やるべきことは終わった)

「ふぁ……」

 不意に大きな欠伸が出た。少し気が緩んだせいか、急に眠気が襲ってきた。昨夜遅くまであれこれ考えていた上に、今朝は5時に起きてしまったので、とても眠い。

(ちょっとだけ寝るか)

 俺は欠伸の涙を拭いながら自席に戻り、机の上に突っ伏した。

***

「……ん君、蓮君……」

 誰かの声がする。俺を『蓮君』なんて呼ぶのは、このクラスであいつしかいない。

 俺が机から顔を上げると、やはり小石が――なぜか俺の前の席に座り、振り返るような体勢で、俺を見つめている。
 よく見ると、その瞳は熱を帯び、頬は紅潮している。朝から、なんて顔を向けるのか。一気に目が覚めた。

「ど、どうした?」

 小石は椅子ごと体をこちらに向けると、突拍子もなくその顔を近づけ、俺に耳打ちをした。

「……蓮君……好き」

「………………」

 いや、そんなはずがない。そうだ、俺が都合よく『すき』を『好き』と誤変換しただけだ。本当は『(すき)』とか、『(すき)』と言っているのかもしれない。

「……ちょ、何だって?」

「蓮君……大好き」

「だっ……!?」

 俺は咄嗟に、耳打ちされていた手を掴んだ。

「蓮君?」

(!?)

 瞬間、身の毛がよだった。
 小石は小石なのだが――その声はさっきと違い、なぜか男の裏声のようだったのだ。

「は?」

 掴んだ手の感触が、妙にゴツくてデカい……



「こいしっ……!?」

 俺は勢いよく、机から再び顔を上げた。

 その目に飛び込んできた光景に、絶望の淵に叩き落とされる。
 自分が掴んでいる手の相手は――前の席の、ニヤけたツーブロックだった。
 現実世界の小石は、自席でいつも通り朝読書に没頭している。

(……っ!! 二段オチかよ……)

「こいしっ? そんなにオレが()()かった?」

「………………」

「もうすぐ朝のSHR(ショートホームルーム)だから、耳元で囁きながら、蓮君を優し〜く起こしてあげたんだけど」

「お前が蓮君呼びするな!」

「『ムク』をやめろって言ってたから『蓮君』にしたのに。じゃ、やっぱ、ムク! あ……」

 尾瀬が急に真剣な顔をし、再び耳元で声を落とした。

「……ムク、顔真っ赤。悪い、ムセーさせた?」

「ばっ!!! んなワケあるかっ!!!」

 怒髪天を衝いた俺が、立ち上がって叫んだ。
 一気に静まり返った教室に、再びセミの鳴き声だけが響く。
 自分に突き刺さる、クラスメート達の視線が痛い。

 そこで、担任の多幾先生が入ってきた。

「おはよう! ……あれ? 喧嘩か?」

「いいえ、ちょっとした悪ふざけです」尾瀬が頭をポリポリと掻きながら、苦笑する。

 ――決まった。

(賭けに勝った暁には、『金輪際(こんりんざい)俺に話かけるな!』と言ってやる!!!)
「起立、――礼」

 4時間目終了の号令が終わると、俺は誰に見られる間もなく、教室を飛び出した。廊下側一番後ろの自席を、今日ほどありがたいと思ったことはない。

 ここは南校舎一階。まずは、早足で北校舎に向かう。
 右手に持つ、コンビニのレジ袋が揺れる。

 今日は、コンビニで弁当と飲み物を買った。今朝は登校時間が早く、母が弁当を用意できなかったのもあるが、理由はそれだけではない。
 昼食後、たとえ小石と時間差をつけたとしても、二人とも弁当箱を持って教室に帰ったら、クラスメートに怪しまれる可能性が十分にある。
 なので、教室に帰る途中で、昇降口のゴミ箱に食後のゴミを捨て、手ぶらになるという作戦を考えた。それ故の、コンビニ弁当だ。

 もちろん、教室に帰る際は『トイレに寄るから、先帰ってて』というセリフで、時間差をつける算段も考えてある。

 
 北校舎の階段に着いた。

 聞こえてきたのは、階段を降りる無数の足音と、賑やかな声。
 階段を上り始めると、アルトリコーダーのケースを持った集団とすれ違った。
 たぶん、音楽の授業が終わった一年生だろう。

 三階は、南校舎が二年生の教室のエリアで、北校舎は音楽室や選択教室等、いわゆる特別教室が集まったエリアだ。因みに三階は、南校舎と北校舎が繋がっていない。
 おそらく校内で、北校舎の屋上階段ほど、隠れ飯に最適な場所はないだろう。
 
 もしかしたら、先客がいるだろうか……。その時は、小石とどこか別の場所に移動するか、先客と交渉して、少し離れた所で食べさせてもらうかにしよう。

 小石が来てくれるか、先客がいないか、クラスメートにバレないか……いろいろと渦巻きながら、若干薄暗めの階段を駆け上がっていく。


 屋上階段に着いた。

(――良かった、誰もいない)

 階段を上り切った所で、腰を下ろした。
 掌で触れた床が、少し冷んやりと感じる。これが日当たり良好な南校舎の方だったら、きっとかなり暑かっただろう。
 レジ袋からお茶のペットボトルを取り出し、喉を潤す。
 買った当初の清涼感は、すっかり失われていた。

「ふぅ……」

 聞こえるのは、自分の()いた一息だけ。まるで、校舎から切り離されているかのような静かな空間で、小石を待つ。
 

 ほどなくして、その静けさが破られた。
 タンタンタンと、階段を駈け上がるような足音が響く。その段々と大きくなる音とリンクするように、自分の鼓動も大きくなる。

 やって来たのは――小石だった。

「蓮君だったんだね!」

 弁当と飲み物を後ろ手に持ちながら、息を切らして、俺を見上げる。

「『だったんだね』?」

「手紙、誰からか分からなかったから」

「あ……そういえば、内容しか書いてなかったな。ごめん」

 小石が階段を上り切り、俺の隣に座ると――ヒヤリ、俺の両頬が急に冷やされた。

「冷たっっ!」

「サプライズ返し!」

 一瞬、氷のような冷たさに驚いた。が、それよりも驚いたのは、俺の頬を冷やしてるのが『小石の掌』ということだ。
 この状況を理解した途端に、心拍のリズムが一気に加速した。

「ドキドキした?」 

「…………凄く、した……」

 小石が掌を離す。

「じゃあ成功〜」ニッと、いたずらっ子のような笑顔が、可愛くて新鮮だ。

「私も、誰がいるのかなって、ドキドキしながら来たんだよ。……手を冷やしながらね」

 言いながら、ペットボトルをカバーから少し引き抜いて見せた。液体の中に浮かぶ、氷の柱が見える。

「飲む? ただの水だけど、冷たくて美味しいよ?」

 これ以上のサプライズ返しは、やめてほしい。

「いつも凍らせて持ってきてるの。暑いときは頭とか冷やせるし、便利だよ」

 そのペットボトルは残量からいって、既に飲まれているものだ。 

 体操着の件といい、回し飲みといい、本当にそういうことを全く気にしない奴だ。
『これ、ムクと間接キスだわ〜』――不意に、思い出したくもないセリフが脳裏をよぎった。

(さっきのサプライズで、もう既に今朝の全苦労が報われてるけど……いいよな? 俺、頑張ったし)

「……飲む」

(変に意識すると、むせるかもしれない。飲み込み終わるまで、無になれ。無!)

 心の中で自分に言い聞かせながら、小石からペットボトルを受け取った。
 無心で口をつけると、遠慮気味に少しだけ中身を飲んだ。
 冷たい感覚が、喉からスッと体の中を走っていく。
 その心地よさに、もう一口。今度は多めに口に含んだ。
 その時――

 ガチャ。

 俺たちの背後から、音が響いた。