彼女は、2.5次元に恋をする。

「これ『寺子屋』の『(おお)(まき)先生』!? 男かよ!」

『寺子屋名探偵』とは、主人公の『太巻』という寺子屋の先生が、抜群の推理力で色々な事件を解決していく、というアニメだ。

「ちょっと待て、この袴の位置とか……」

「え?」

「胴が短すぎだ! 卒業式の袴女子かと思うだろ」

 俺は、太巻先生の胴を指差しながら指摘した。絵の真相による動揺で、別件の動揺が段々引いてくる。

「……あ、確かに、アドバイスありがとう!」

 素直だ。

「てか、『好き』って、『推し』ってやつ?」

「えっと、アニメの太巻先生が、私の初恋の人。
 で、去年椿高で会った太巻先生が、今……私の…………好きな人なの」

 伏し目がちに、はにかんだ様子で小石が言った。その表情の(まばゆ)さと、発言の意味の分からなさが、俺の脳内でせめぎ合う。

「蓮君て去年の夏休み、椿高の学校説明会行った?」

「…………行ってない」

「私ね、その時に、太巻先生に助けてもらったんだ」

 即座に質問したいところだが、ここは黙って聞こう。

「私、その日張り切って、受付時間より30分以上前に椿高に到着したの。
 その時、なんか違和感あるなって思ってたら、初めての生理が来ちゃってて……生理用品持ってないし、保健室も開いてないし……で、おろおろしてたら、たまたま太巻先生が通りかかってね――」

(こいつ、アニメキャラが初恋とか、生理とか……俺と初めて喋るのに、こんなに躊躇なく話すのか)

「それがもう、本っっ当に、太巻先生なの!! 着物も髪も顔も背丈も!
 でね、その太巻先生が色々察してくれて、安心ドラストで生理用品見繕って来てくれたの」

 安心ドラストは椿高のすぐ側にある、24時間営業のドラッグストアだ。

「それにね、どこから持ってきてくれたのか分からないんだけど、私の中学のスカートに似てるスカートまで用意してくれて……。
 おかげで無事、説明会に参加できたんだ」

(めちゃ神対応だな太巻先生! てか、機転利きすぎて怖ぇーよ、スカートなんてどっから持ってきたんだよ?)

「説明会終わってから、『太巻先生に生理用品代返さなきゃ!』って思って探して、見つけた時はもう着物じゃなくて、椿高の制服姿だったんだけど――」

「コスプレオフ姿で、その人だって分かったのか?」

「ううん、カラコンとか髪はそのままだったから。
 でね、その時私、財布見たら全然お金無かったの。そしたら太巻先生、『入学したら返しにおいで』って笑顔で言ってくれて……。その日から、もう、太巻先生のその笑顔で頭一杯で……。
 中学で友達に話したら、『輝も〝2次元〟じゃなくて、ついに〝3次元〟に恋したんだね!』って。
 ふふふっ……」

(いや、『2・5次元』だろ。てか中学では友達いたんだな、こいつ)

「でもね、太巻先生に、返金とお礼と…………告白もしたいんだけど、全然会えなくて。
 蓮君、会ったこと無い?」

「無い」

 きっと太巻先生は漫研の人で、部活動としてコスプレしてたんだろう。俺は(あい)(にく)SHR(ショートホームルーム)終了と共に下校する帰宅部だから、放課後に部活動してる人に出くわす機会がない。

「小石は、もう漫研訪ねたのか?」
「漫研? 行ってないけど?」

「コスプレって、漫研っぽくないか?」

「そっか……! 蓮君鋭い!」

 いや、普通だろ?

「私、英語科の人かなって思ってた。
 学校説明会の学科紹介で、英語科の先輩達が『ハロウィンパーティーの時はこんな感じでーす』って、コスプレして登場したから。
 ……まぁ、太巻先生は見当たらなかったんだけどね。
 それに、入学してから英語科の2、3年生の教室何度も覗いたんだけど、それらしき人いないし」

 そんな事してたのか。ちょっとした不審者だ。

「覗くだけじゃなくて、訊いてみればいいのに。太巻先生の事、知ってる人がいるかもしれないだろ?
 それに、コスプレオフ状態で、『この人!』って分かるのか?」

「……私、知らない人とか慣れない人と話すのが苦手で……。」小石の表情が少し陰った。

「それに、背で分かる気がするの。本当の太巻先生みたいに、凄く大きい人だったから」

 小石は、女子の中では背が高い方だ。彼女がそう言うなら、よほど背の高い男子なのだろう。

 ……いや、ちょっと待て――

「なんで俺とは普通に喋ってるんだ? 初めてだよな?」

「蓮君は、特別。ずっと気になってて……話してみたかったの」

(え? ……何? この期待感――)胸が高鳴る。

「――蓮君って『けん君』にそっくりだから」

「けん君って……?」

「寺子屋に去年新登場したキャラ。『功刀(くぬぎ)(けん )(ぞう)』君。先生見習いなの。
 蓮君を初めて見た時『剣君がいる!』って。鋭い所もそっくりだね!」

 期待感は(はかな)(しぼ)んだ。俺が太巻先生の方に似てれば……。てか、見てない間にそんなキャラが出てきたのか。

「それに今日の絵はいい出来だし、テンション上がってるから、っていうのもあるかも」

 ……いい出来だったのか。

「椿高でこんなに話せた人いなかったから、嬉しい! 話しかけてくれてありがとう」

 曇りのない笑顔で言ったそれは、本音だと分かる。

「あっ!? 蓮君びしょ濡れだね! ごめん、気づくの遅くてっ。
 良かったらこれ使って?」

 小石が自分の――よく見ると、太巻先生はじめ、寺子屋キャラと思われるマスコットが何個かついたリュックから、タオルを取り出した。

「いやいや、使えねぇよ! 大切な物だろ?」

 広げたタオルから、プリントされた太巻先生が、腕を組んで俺に微笑みかけている。

「大丈夫、これは使う用。家に観賞用と保存用があるから」

「ちょっ!」

 小石が立ち上がり、ワシャワシャと俺の髪を拭く。

 至近距離の小石が、タオルの動きと共に見え隠れする。この距離はマズイ。俺は目が合わないように、硬く瞼を瞑った。

(自分だって汗まみれのくせに、俺なんか拭くなよ)

「あ、良かったら、これも着て?」

 少ししてタオルの動きが止まり、俺は目を開けた。

「良くない良くない!」

 小石が俺に差し出していたのは、彼女の体操着だ。

「大丈夫、私のLサイズだし、蓮君でも着れるでしょ?」

「ああ、ワンサイズしか違わないし……って、大丈夫じゃない、そういう問題じゃない!」

「? ここの体操着、男女兼用だし、大丈夫でしょ?」

「大丈夫じゃない!」


――――――――――――――――――――――――――――


 雨が弱まってきた。



(どうしてこんな事に――)

 今俺は、なぜだか小石の席に座らされ、髪を整えられている。机に置かれた折り畳みの鏡には、前髪を左分けにされた、口が真一文字の自分が映っている。『大丈夫』『大丈夫じゃない』という押し問答の末の、体操着姿で。

「うん! 素敵!」

 きっと剣蔵の髪型を再現しているに違いない。目を輝かせて満足気に俺を見る小石が、鏡越しに見える。

 もう剣蔵でもなんでもいい。
 楽しそうに、キラキラしてる彼女が見られるなら。


「――俺、お前の太巻先生探し、手伝うよ」


 例え、この恋が、報われなくても。


「えっ!? なんで?」

「タオルと、体操着のお礼。
 お前、人見知りなんだろ? 俺がフォローする。
 漫研、一緒に行こう」

「うっ…………嬉しい!! 助かります! ありがとう、蓮君!!」


 一瞬驚いた顔が程なく、満面の、弾けるような笑顔に変わる。
 少しでも多く、彼女のこの表情が見られたら、それでいい。


 窓の外は少し明るくオレンジがかり、先程の落雷が嘘だったかのように、すっかり静かになっていた。
 俺は、小石を連れて、2階へ上がった。

「蓮君、漫研って……いつどこで活動してるか知ってるの?」階段を登りながら、小石が訊く。

「いや、分からないから美術部に訊いてみる。
 美術も漫研も描く者同士、繋がってる人がいそうじゃないか?」

「成程! 流石だね」


 美術室に着いた。
 開けっ放しの入口から、石膏像のデッサンをしている生徒達が数人見える。みんな黙々と鉛筆を動かし、声をかけづらい雰囲気だ。すっかり緊張した面持ちの小石に、俺が言う。

「大丈夫、俺が話すから」

(フォローするって言ったんだ、行くぞ)

 軽く咳払いをして、第一声を放った。

「あの、デッサン中すみません」

 何人かがこちらを見た。そのうちの一人の女子生徒が、鉛筆を持つ手を止めて、こちらに来てくれた。

「はい、美術部の入部希望者かな?」

「いえ、漫画研究部の活動場所を知りたいんですけど、どなたかご存じないですか?」

「……だってさー、()()さん、聞こえた?」

(ん? 八尾?)

「部長、ちょっと待って、今行きます」

 ふんわりしたボブの女子が、デッサンを続けながら答える。
 そして、程なくして切りがついたのか、

「漫研は、月、水で特別教室――」

 と言いながらこちらにやって来たのは、やはり知っている顔だった。

「――って、椋輪君? あんた、漫研に興味があるの?」

「いや、こいつが人を探してて。
 たぶん漫研の人じゃないかと思うんだけど……」

 小石が、俺の後ろからひょっこり顔を出し、一礼した。

「小石……さん?」

「特別教室ってどこだ? 行ったことないんだけど」

「なんだ、同じクラスの子達?
 なら月曜、八尾さんと一緒に行けばいいじゃない」部長が言った。

「……え? 八尾ってもしかして漫研部員でもあるのか?」

 大変失礼だが、俺の中では、漫研部員=オタク=垢抜けない・冴えない見た目、のイメージがある。しかし八尾はこの季節でも、校内でダサいと評判の半袖ブラウスではなく、長袖ブラウスの袖をまくって着用している。第一ボタンは開け、スクールリボンを少し下げて付け、スカートは短め。セットに手間がかかってそうな髪のふんわり感は、一目でオシャレ意識の高い女子だと分かる。
 因みに、今俺の後ろにいる女子は、半袖ブラウスを第一ボタンまできちんと留め、スクールリボンもきっちり上に付けて着用している。スカートの丈は膝下だ。

「部長! 同じクラスの人に、漫研ってバレたくないって言ったでしょ!?」

 八尾が鬼の形相で、美術部部長を睨んだ。

「あ……ごめん、八尾さん……」部長がいかにも『しまった』という顔で固まる。

「八尾が漫研だって知られたくないなら俺、別に誰にも言わないから」

「あんた、あたしがオタクでキモいって、バカにしてんでしょ!?」

「は? んなこと一言も言ってねーだろ」

 確かに、オタクとか垢抜けないとか冴えないというイメージは持っていた。しかし、そういう人達を、決してキモいともバカとも思っていない。言いがかりをつけた上に、勝手にキレないでもらいたい。

「…………っ、蓮君は、そんな人じゃない!」

 いきなり、小石が俺の前に出て『あのノート』を八尾に見せつけた――が、八尾とは目を合わせられないようだ。視線は、明後日の方を向いている。

「この絵、『物凄く、じゃ、じょ、情熱を感じた!!!』って言ってくれたの!」

 噛んだし、その声は上擦っている。どうやら人見知りが発動しているようだ。自分のセリフを暴露された恥ずかしさで、俺も余裕がなくなる。

「え……? …………ごめん、これ、何の絵?」

 キレていた八尾が、一気に動揺気味だ。

「あ、これ、『寺子屋名探偵』の『太巻先生』だって」

 俺が咄嗟に答えた。八尾が、じろじろと絵を見る。

「――確かに……情熱は感じるかも……」

 八尾が、ふう、と溜息をついた。

「……分かった。月曜日、漫研に案内するよ。
 でも、クラスの人達にはバレないようにしてよ?」

「あっ、ありがとう、八尾さん!」

「――ありがとう」小石に続き、俺も言った。
 
「じゃ、二人とも。また来週」

「ああ、邪魔して悪かったな、八尾」

 八尾がデッサンに戻った。

「――俺は帰る。雨も止んだし」

 廊下の窓から見える空は、濃いオレンジになっている。

「私も、このまま帰る」


 俺たちは来た階段を降り始めた。
 一段一段降りる度に、小石のリュックのマスコット達が揺れる。

「蓮君はどこに住んでるの?」

「椿台」

「そっか、近くていいね。私は五本松」

「じゃあ電車か、結構遠いよな。……なんで椿高選んだんだ?」

「何校か学校説明会行ったんだけど、ここの先輩方が凄く生き生きしてたから。
 太巻先生も『いい学校だよ』って言ってたし」

 小石が頬を赤らめながら続ける。

「どの学科紹介も楽しかったけど、私、パソコン使えたらいいなっていうのと、先輩方が資格一杯取っててかっこいいからって事で、商業科に入りたいって思ったの。
 蓮君は?」

「――最寄りだから……」

「そういう決め方もあるんだね」小石がふふっと笑う。

 学校説明会にも参加せず、自宅から最寄りというだけで、ここ一択だった。勿論入試の面接時には、予め考えた当たり障りない志望動機を述べた。学科は消去法で普通科か商業科、最終進路希望調査票のプリントの裏に、あみだくじを書いて決めた。提出時には消したが。

 なんだか情けない過去を振り返っている間に、昇降口に着いた。
 もう少し話したい。話題を変えよう。

「小石って、いつも放課後に教室で絵を描いてるのか?」

「たまにだよ。いつもは家で描いてる。
 今日はSHR(ショートホームルーム)の時に、突然いいイメージが頭に浮かんでね、今描かなきゃ! って」

「教室で絵を描いてて、今まで話しかけられたことは?」

「ないよ」

(あんな感じの絵じゃ、なかなか話しかけづらいよな。それにこいつ、一心不乱過ぎだから軽く話しかけただけじゃ、たぶん気づかない……)

「……そうか。あと訊きたいんだけど、休み時間によく読んでるのって、何の本?」

「寺子屋名探偵の小説! 太巻先生の素敵さについつい没頭しちゃって、気づくといつの間にか授業始まってたりするんだよね」

「ははっ、そうか……」

(ほんと……寺子屋オタクだな。てかこいつ、最前列の席なのに大丈夫なのか?)

「俺、今まで小石って『孤高の秀才』って思ってたけど……実は『人見知りな秀才』だったんだな。『寺子屋オタク』だし」

 小石が目を丸くする。

「!」

 俺は自分の口を抑えた。

(――しまった……『寺子屋オタク』とか、思ったことをそのまま言った)


「…………くっ、あはははっ! 『孤高の秀才』って、私、そんなイメージだった!?」

 小石が口を大きく開けて笑いながら、靴箱から靴を取り出す。こんな風にも笑うのか。

「ふふふっ。オタク=『その道を極める者』って事でしょ? 誇らしい称号だよね」

 (けな)すつもりでも、褒めるつもりでも言ったわけじゃない。が、プラスに捉えてくれたようでほっとした。

「確かに寺子屋オタクだし人見知りだけど、『秀才』は違うかな。
 ――じゃっ! 今日はありがとね、蓮君」

「いや、こっちこそ。体操着、ちゃんと洗って返すから。
 服入れるビニール袋までありがとうな」

 先に外に出ていく小石が俺に手を振る。その姿は夕日の逆光に照らされ、輪郭線が細く光っている。
 しばし見とれてしまった後、俺は傘立てに脱ぎ捨てたレインコートを回収した。


――――――――――――――――――――


 その夜。
 俺はベッドに仰向けで、真っ暗な自室の天井を凝視していた。今日はなかなか眠れない。
 脳裏に浮かぶのは、自分にノートを突きつけた時の小石の汗・髪・頬・唇・瞳はじめ、本日見惚れたシーンのハイライトだ。目に焼き付いた全てが、エンドレスリピートされる。

「はぁ……」

 目を閉じ、そこに手の甲を乗せる。
 ダメだ。目を閉じると余計、ハイライトが鮮明に再生される。


 ――眩しくて、キレイだった。


 絵が下手だろうがオタクだろうが、自分が他人からどう思われるなんて顧みない。いや、むしろオタクであることを誇りに思うほどの、潔い寺子屋――太巻先生への情熱。それがあいつを輝かせているのかもしれない。

 俺も何か、あいつのようにあんなに情熱を持てたら――憧れにも似たこの気持ち。それと共に、今脳内で再生されているのは、小石のはにかんだ表情と声。

 ――『アニメの太巻先生が、私の初恋の人』

 ――『去年椿高で会った太巻先生が、今……私の…………好きな人なの』

「俺は初恋も、今好きなのもお前だ……」

ボソリとしたつぶやきが、口から零れ落ちる。

(早く学校に行きたい)

 こんな事思ったのは、小学校の、好きな給食のメニューの時以来だ。

(早く三連休終わらねーかな)

 こんな事思ったのは――初めてだ。
 これは本当に俺か? 人を好きになるってこんな?
 ――あーもう疲れた、寝よう。

 ふと時間が気になり、スマホをつける。
 ただ今の時刻――午前1時59分。
 翌日、午前9時半過ぎ。
 昨夜はあんな状態だったのに、小石の夢一つ見ないまま目が覚めた。

「だりー……」

 ぼんやりした視界で、リビングのテーブルを見る。その上には、目玉焼きにウインナー、プチトマトが載ったワンプレートの皿――何枚か減った食パンの袋も置いてある。

(パン焼こ……)

 袋から食パンを取り出した、その時――

「れーん!」

 別室から、母の声がした。

「なんで体操着が二つあんの?」

 ぽとり、パンをテーブルの上に落とす。
 昨日、スマホを学校に取りに行った時、母はパートに行っていた。俺が小石の体操着を来て帰った時にはもう帰宅していたが、体操着姿を見られる前に部屋着に着替えたので、あの人は何も知らない。

 母が事情を聞きにこちらに来た。とりあえず拾ったパンを、トースターに入れる。

「……昨日、夕立凄かっただろ? あの時、学校に忘れ物取りに行ってびしょびしょになったから、教室に残ってた奴に体操着借りた」

 忘れ物がスマホだった事は言わない。知ったら怒られそうだ。
 そして『残っていた奴』が女子だった事は、絶対に言わない。

「あー、そういうこと? 今洗濯するとこだけど、Tシャツもズボンも確かに凄かった。
 蓮って要領いいのに……忘れ物とか、たまーに抜けてるよね」

 母が苦笑している。

「――今日、玲菜(れな)は?」

 昨日の事を詮索されまいと、話を変えた。

「出かけた。友達とS台に行くって。好きなブランドのバーゲンがやってるんだって」
 玲菜は中2の妹だ。S台はうちの最寄り駅から、電車で片道1時間半くらいかかる。

「往復で3時間だろ? そこまでして服買いに行く? 俺には理解できない」

 玲菜は中学生になってファッションに目覚め、休日に友達と出かける事も増えた。ファッション費も友達との交際費も、自分のお年玉や毎月の小遣いから計画的に支出しているらしい。俺は高校生になった今でも、母に服を適当に購入してもらっている。激安衣料店だろうが、よほど変でなければ、着られれば何でもいい。

 それに――

「三連休でしょ? 蓮は何か予定無いの?」

「無い」

「友達は?」

「一緒に休みを過ごすような奴はいない」

「………………」残念そうな視線が俺に向けられる。

「いや別に、学校では人間関係、適当にやってるよ。
 ――まぁ暇だし、高校生になったし、バイトやるってのもありかもな……」

 少し黙ってから、母がやや真面目な顔で言った。

「やりたいならいいけど、うちの家計なら心配しないでね? 私、遣り繰り上手だし、養育費はしっかりもらってるから。学資保険もあるし、進学も大丈夫」

 そう、うちの両親は3年前に離婚している。今はこのマンションで母、妹、俺の3人暮らしだ。

「だからお金の事は気にせず、青春を楽しんでね?
 あ、でも交際費とか、あと服も(こだわ)るんだったら、玲菜みたいに自分で遣り繰りして貰えると助かる。足りなかったら相談して?」

 俺が現在、自分の財布から捻出している費用と言えば……ネット上で使うギフトカード代ぐらいだ。月500円のアメプラビデオという動画視聴サービスに使っている。

(――朝飯食べたら、アメプラで何か観よう)


 朝食後。洗顔、歯みがきをすませ、自室に戻った。
 机からベッドに移動させたノートPCをつける。その横に肘枕で横になると、アメプラビデオのホーム画面を開いた。画面を下にスクロールさせていくと、見覚えのあるサムネイルが目に留まった。
 
 ――『寺子屋名探偵』

 小学生の頃は観ていたが、いつの間にか観なくなったアニメだ。ふと小石の言葉を思い出す。
 
 ――『蓮君って〝けん君〟にそっくりだから』

(よし、『けん君』――『剣蔵』がどんなキャラクターなのか観てみるか)

 俺は『寺子屋名探偵』のサムネイルをクリックした。
 変遷した画面には『寺子屋名探偵 シーズン1』と表示されている。
 シーズンがいくつあるのか見てみると――なんと30シーズンもあった。

(今年で30年ってことだよな……)

 地上波で放送され続けているのは知っていたが、ここまでとは。いつだったか母さんが、『私が子供の頃からやってる』と言っていたことを思い出した。
 どのシーズンを観れば――そういえば、剣蔵(けんぞう)が登場したのは去年だと小石が言っていた。

(じゃあ、シーズン29だよな……?)

 シーズン29のエピソードを見ると、すぐに『エピソード1 功刀(くぬぎ)剣蔵(けんぞう)登場の巻』とあった。分かり易くて助かる。
 早速クリックし、視聴を開始した。


 自分が観ていた頃とは、オープニングもエンディングもすっかり変わっていた。俺は二十数分間の視聴を終え、停止ボタンをクリックした。

 結果、剣蔵は頭のキレる、ツッコミの鋭いキャラクターだということが分かった。太巻(おおまき)先生の推理のヒントとなるような発言をし、事件の解決に一役買っていたのが印象的だった。

 そして昨日、小石にセットされた俺の前髪は、やはり剣蔵スタイルだったらしい。彼の後ろ髪は短めのポニーテールのように結われていたが、前髪は昨日の俺そのものだった。

 あと、少し気になったのは剣蔵の目だ。『俺、こんなに目付き鋭い?』と思ったが、まぁ……デキるキャラクターみたいだし、似ていると言われて悪い気はしない。

 ――『蓮君を初めて見た時『剣君がいる!』って。鋭いところもそっくりだね!』

 ふと、また小石の言葉を思い出す。

 ――『椿高でこんなに話せた人いなかったから、嬉しい!』

 そう言った時の彼女は、曇りのない笑顔だった。

「!!」

 瞬間、妙案が頭に浮かんだ。

(もし、学校で寺子屋の話ができる相手がいたら――小石は、かなり嬉しいんじゃないか?)

 思わず、小石が俺と楽しそうに話している姿を想像し、心が躍った。俺としても、彼女と親睦を深めたい。しかし、この想像を実現させるには、今の俺では到底『勉強不足』だ。

(よし、もっと寺子屋を観よう!
 ……そうだ! 忘れないように感想もメモしていこう!)

 すぐさまノートPCをベッドから机に戻し、椅子に座る。そしてシャープペンに消しゴム、未使用のノートを用意すると、背筋を伸ばしながらエピソード2をクリックした。


************


「ただいまー」

 玄関から聞こえたその声に、いきなり現実世界に戻された。
 壁掛けの時計を見ると――6時半過ぎ。部屋の窓からは、オレンジ色の西日が差し込んでいる。

(うぇっ? もうこんな時間か!)

 現在、エピソード24の途中である。今に至るまで、昼食やトイレ休憩以外、ずっと寺子屋の視聴を続けていた。
 一旦視聴を中断し、椅子に座ったまま背伸びをする。
 すると突然、自室のドアがガチャリと開けられた。
 傍若無人に入ってきたのは……俺をアニメの世界から引き戻した声の主だった。

「暑かったー。ちょっと涼ませて」

「なんだよ、リビング行けよ。てか、ノックぐらいしろ」

「あ、ごめん、そういう動画観てた?」

 ――本当に可愛げのない妹だ。

「違う、健全なアニメだ!」

「もしかして……一日中、エアコンの効いた部屋でアニメ見てたの?」

 憐れんだ目で訊くこいつは、さぞ充実した一日を過ごしたのだろう。

「……なんか悪いか?」

「三連休、どっか行ったりしないの?」

「特にしないな」

 はぁ、と溜息をついた妹が、俺のベッドに座る。

「蓮も高校生になったんだから、彼女……とまでは言わないけど、友達と海とかお祭り行くとか、部活で汗を流すとか、何か青春っぽい予定は無いわけ?」

「お前……なんか母さんっぽい――」と俺が言いかけた時、

「蓮玲菜ー、夕飯にしよー?」絶妙なタイミングで母の声がした。

「今行く」
「今行くー」

 不覚にも、俺と妹の声がきれいに重なった。


 夕飯時。俺は今日観た寺子屋の、印象的だったシーンを思い返しながら黙食していた。
 その最中、母と妹の間で『蓮』『友達』『青春』というワードが飛び交っていたような気がしたが、気のせいということにしておこう。
 俺の中で、衝撃や感動、笑えたあのシーンやこのシーン――小石は去年、それぞれどう思って観ていたのだろう。

(あいつに話を振ったら、きっと目を輝かせて語りだすだろうな……)

 口元がゆるむ。
 早く続きを見なければ。今日のペースなら、明日中にはシーズン30に入れるだろう。
 シーズン30は今年4月からの放送分だから、観終わるのにそんなに時間はかかるまい。その後はシーズン1から観よう。


 思いついたこの予定により、三連休はあっという間に終了することとなる。
 なお、母と妹からはそれぞれ、より残念そうな、より憐れんだ目で見られる羽目となった。
 東の空から照りつける日射しは、既に強い。そんな中、自転車を飛ばして登校した俺は、朝から汗だくになっていた。
 自転車を駐輪場に止めて、昇降口に向かう。

 今日は火曜日。あっという間に三連休が終わった。
 明日の放課後は、八尾の案内で小石と漫研を訪ねる事になっている。そして明後日は、終業式だ。
 小石に暫く会えなくなる前に、今日から明後日にかけて、少しでも親睦を深めたい。そのためにこの三連休、『勉強』をしてきた。

 昇降口でいそいそと上履きを履き、(はや)る気持ちで教室に向かう。しかし、自分の左手の紙袋を見た途端、心も足も減速しだした。

(――親睦を深める前に、これ、いつ返そう……)

 その中には、厚手で不透明のビニールに入れた体操着が入っている。因みに紙袋は、よく知らないアパレルブランドのものだ。少しでもオシャレな袋がいいと思い、妹に譲ってもらった。妹は『なんでこれが欲しいの?』と()(げん)な様子だったが、しつこくは訊いてこなかったので助かった。

(今日一日、人がいないタイミングを見計らうか)

 小石は俺に(ちゅう)(ちょ)なく体操着を貸した奴だ。俺が『これ、ありがとう』と言って紙袋を渡したら、『ああ、体操着ね』と普通に言うだろう。それがもし、周りに聞かれたら……。
 男女兼用にしても、女子から体操着を借りたなんて、絶対に誰にもバレたくない。最悪、『変態』というあだ名がつくかもしれない。それは流石に避けたい。
 今日は幸い体育がない日だ。じっくりチャンスを待とう。
 
 教室に着くなり、小石の席を確認すると――彼女は『朝読書』をしていた。
 いつもより早めに登校したはずだったが、クラスの半数以上程は既に教室にいる。今はとても、体操着を返せるタイミングではない。
 小石を見ながら、リュックと紙袋を机横にかける。
 席に着くと、前の席の奴が振り向きざまに話しかけてきた。

「おはよ、ムク。今日早くない?」

 この席になってからというもの、馴れ馴れしく俺を『ムク』呼ばわりするのは、尾瀬(おせ)というツーブロックの男だ。

「その、どこぞやの犬みたいな呼び方、やめろ」

「えぇ〜? オレは気に入ってるんだけど」

 このヘラヘラした感じ、俺の苦手なタイプだ。

「今日の放課後、ちょっと付き合わない?」

「断る」正直、関わりたくない。

「冷たいな~」尾瀬が苦笑する。

「…………ところで、それ……いつ返すの?」

 そう言ったこいつの目線の先は、いつの間にか――机横の紙袋だ。

「!?」

 一気に、血の気が引いた気がした。

「なんで――」

「オレ、金曜、駅で定期無いの気づいてさ。教室に探しに戻ったんだ。まぁ、ムクたちが教室出るまで待ってたけど?」

 俺は言葉を失った。
 こいつは、何をどこまで知っているのか――今は訊く勇気が出ない。
 先週金曜日の出来事が、走馬灯のように俺の頭を駆け巡る。

「……分かった。尾瀬、今日の放課後付き合う」

「良かった〜、オレ、その件でムクと話したかったんだ」

 にこりと尾瀬が笑う。なんだか、だんだん腹が立ってきた。

「んで、定期なんだけど結局さ~、たっつんのところに届いてたんだ。昇降口の自販機のところにに落ちてたって。
 ズボンのポケットから、財布取る時に落ちたんだわ」

 尾瀬の言う『たっつん』とは担任の()(いく)先生だ。

「見つかって良かったな」

 いつもなら興味無く『へ〜』と答えるところだが、今は無下な対応はできない。そして努力はしたが、きっと俺は今、引きつった笑顔をしている。

「――尾瀬……」

「分かってるって。()()()のことは、誰にも言わないから」

 尾瀬の『にこり』が『にやり』に変わった。
「はぁ……」

 ため息と共に、俺はリュックから弁当を出した。

 小石に体操着を返すことは(おろ)か、話しかけることさえできないまま、昼休みになってしまった。尾瀬による精神的ダメージも相まって、今日の授業内容は全然頭に入っていない。

 現在の小石はというと――今日も一人、自席で弁当を食べている。一方、その周辺では他の女子が、グループで楽しそうに弁当を食べている。
 小石に話しかけたいのは山々だが……もし、体操着の話になったら困る。

(いつも一人で食べて、寂しいだろ)

 小石の席は、窓側の一番前。俺は廊下側の一番後ろ。この距離と角度では、彼女の表情が確認しづらい。
 そこで俺は、机から不要なプリントを探し出した。それを丸めながら、教室前方の出入口付近にある、ゴミ箱へ向かう。ゴミを捨てに行きながら、小石の表情を伺う作戦だ。

 次第に見えてきた彼女の顔に――俺は、ほっとため息をついた。

 余程旨いのだろうか。弁当を見つめる目は生き生きとし、()(しゃく)する彼女の口は、笑んでいる。この、ぼっち飯を『堪能』している様子からは、寂しさなど()(じん)も感じられなかった。

 その光景に、少し口元が緩む。すると、近くにいた男子グループ――()(いで)(しい)()飯盛(いいもり)が俺に声をかけてきた。

「椋輪? なんか嬉しそうだな」と小出。

「い、いや? そんなことねーよ」

「今日さ、面白そうな対戦ゲーム見つけたんだ」椎路が、スマホのゲーム画面を見せながら言う。

「飯食べながら、みんなでやろうぜ!」飯盛が続いて言った。

「あ、ああ!」

「楽しそ〜、オレも混ぜて? 『(うま)(めし)トリオ』」

 聞き慣れない『旨飯トリオ』という呼び方。俺は気になり、その由来を考え始めた。

「おう、歓迎する。お前ら、椅子と弁当持って来い」小出が言う。何もツッコまないあたり、その呼ばれ方に慣れているらしい。

 ――小出、椎路から二文字ずつ合わせて『おいしい』。それに飯盛の『(めし)』を足して『美味しい飯』、つまり『旨飯』ということか。

 そんなことより、参戦してきたこの男。

(入って来んな! 俺の精神を(むしば)む、ツーブロック!!)

 自分の眉間に、力が入る。

「あれ? 椋輪、どうした? もしかして、アンチ尾瀬?」椎路が不安そうに、俺の顔を覗き込む。

「まさか。オレ、ムクと放課後デートする仲だけど?」尾瀬が笑って答える。

「はは……語弊を招く言い方はやめろ」

 なるべく眉間の力を抜いて、自分なりに笑って流した、つもりだ。しかし内心では、『せめてゲーム内で、このツーブロックを叩き潰す!』という野心が生まれていた。

***

 昼休み終了のチャイムが鳴る。俺たちのゲームも、今しがた終わったところだ。

「やべー、椋輪強っ!」

「本当に初見プレイだった?」

「全敗かよ〜!」

 スマホを手に、『旨飯』が口々に言う。

「ムク、エグかったわ〜」苦笑する尾瀬は、椅子を片手に自席に戻った。

 そう、俺は奴を散々叩き潰してやった。
 少し晴れた気分でスマホを消し、ズボンのポケットにしまいながら、教室内を見渡す。
 クラスメートが皆、5時間目の準備をしている中――小石は『昼読書』中だ。

「もう一戦だけしよ? 椋輪」悔しそうに飯盛が言う。

「いや、次プログだし移動しないと」

「プログ室にダッシュすれば間に合う!」「俺も」小出と椎路が言う。

 その時、準備を終えたらしい尾瀬が、教室を出ながら大きな声で言った。

「あ! 今ムクの攻略法思いついた!」

「ちょっと待て尾瀬!」旨飯が口を揃える。そして各自の席で、さっさと5時間目の準備を始めた。

(俺も早く準備しないと)

 次々と教室を出るクラスメートを横目に、椅子を自席に戻す。俺が机の上に教科書を出し始めたところで、旨飯が尾瀬を追いかけるように教室を出ていった。

 いつの間にか、すっかり静かになった教室は――俺と、まだ読書中の小石だけとなった。
(今だ!!)

 俺は体操着の入った紙袋を掴み、小石の席に駆け寄った。
 小石は昼休み終了のチャイムも、クラスメートが皆教室から出ていったことにも気づいていないらしい。

 そして今俺が、小石のすぐ正面に立ったところだが……何事もない様子で、未だに読書を続けている。この状況に先日、絵を描いていた時の小石を思い出した。

(ただ声をかけるだけじゃ、ダメだ……)

 俺は、小説に向ける視線を遮るよう、彼女の目の前に紙袋を突きつけた。

「小石、遅くなってごめんな。これ、ありがとう」

 急に変わった視界に、状況がなかなか理解できなかったようだ。ワンテンポ遅れて、小石が俺を見上げた。

「蓮君! ――あぁ、体操着ね?」

 疑問形だったが、予想通りの『体操着ね』。

(良かった、本っ当に良かった。今、教室に誰もいなくて)

 小石は小説を閉じて机に置き、目の前の物を受け取った。

「ふふっ、可愛い紙袋だね。ありがとう」

 微笑む彼女に、いろいろと話したくなったが、今は時間がない。

「お前、また読書に没頭してただろ。昼休み終わってんぞ? 次、プログだからな」

「えっ……」時計を見た途端、小石が焦り顔になった。

「急げ! (こし)()先生、怒ると怖いだろ!」

「わ〜、またやっちゃった! 教えてくれてありがとう」

 小石が紙袋を机にかけ、慌てた様子で机の中を漁り出す。
 机の上に、プログラミングの教科書、ノート、ペンケースに下敷、最後にファイルを出したところで――バサリ。さっきまで読んでいた小説が、次々と出された物に押される形で、床に落ちた。

「ふっ……」

 俺は思わず吹き出しながら、小説を拾った。そして床についた面――『寺子屋名探偵』のタイトルに、太巻(おおまき)先生が描かれた表紙を手で払い、小石に差し出す。

「あ、ありがとう……」彼女が小説を受け取る。

「はははっ。小石って……なんか、(りん)()(ろう)みたいだな」

 凛太郎とは寺子屋名探偵の、太巻先生の元に()(そうろう)している、彼の生徒兼助手だ。昆虫関連のこととなると、周りが見えなくなるほど集中してしまう『昆虫オタク』である。昆虫の知識は豊富だが、学問はさっぱり。おっちょこちょいで慌て者のキャラクターだ。

「なんか、こんなシーン、あったよな?」

「……! それってもしかして、去年の5話で、剣君が凛君に本を――」

 さすが小石、理解が早い。

「そう。でもほら、もう行くぞ!」俺は走りながら自分の席に向かった。

 教室の時計は、5時間目開始まで既に2分を切っていた。プログラミング実習室は特別教室棟の二階、走れば間に合う。

 小石も走り出した。
 俺は机の上に放置した授業セットを引っ掴む。
 そして俺達は、教室の前方と後方から、同時に教室を飛び出した。

「い、今のは、お前への感謝じゃない!」

 背後から、突然聞こえた声。
 まるで別人のような小石の口調に驚き、俺は足を止めて振り返った。

「お前の行動に、感謝したんだ!」

 小石が左手を腰に当て、右手で俺を指差しながら、ツンとしつつも照れたような顔で言った。
 ――凛太郎だ。声や顔立ちが似ているわけではない。しかし今の語調や表情、しぐさはまるで、本人のようだ。そしてこれは、さっき俺が言ったシーンのセリフだと思われる。

(えっと……)

 俺は前髪を右に流し、鼻で笑ってから無愛想に返した。

「俺も、お前のためじゃない。本のために、拾ったんだ」

「――って、こんな場合か!? 早く行くぞ!!」

 俺達は特別教室棟へ向かって、廊下を走り出した。

「ふっ、あはははは! 蓮君、剣君過ぎ!」小石が吹き出して笑った。

「ばっ……! はははは! お前もだ!」俺もつられて笑った。

 二人で笑いながら走る。

 今日も小石のこんな顔が見られて、声が聞けて嬉しい。
 無事返却物を返せた安堵感も後押しし、俺の走る足取りは、とても軽かった。