彼女は、2.5次元に恋をする。



 辺りが白っぽくなるほどの、激しい雨。
 雷光と、少し遅れての雷鳴のセットが、何度も繰り返す。
 始まりは、そんな放課後だった――


(なんで、今日に限って忘れんだよ! 俺!!)

 ○○県立椿(つばき)(ざと)高等学校――心の中で何度も自分を責めながら、俺はやっと目的地に着いた。
 昇降口前に、急いで自転車を止める。続いて、あまり役に立たなかったレインコートを、傘立ての上に脱ぎ捨て、教室へ直行した。

 1年7組、廊下側一番後ろの机に着くや否や、その中を確認する。

(あった、俺のスマホ!! 良かった〜、盗難されて悪用とかされなくて)

 思わず、安堵のため息が漏れる。

(……さて、雨が弱まるまで待つか? いや、もはやずぶ濡れだし、今帰るか。このスマホ、防水だし。雷もまだ遠そうだし……)

 そう思った矢先、薄暗い教室が一瞬明るくなり、直後に大きな雷鳴が響いた。
 雷が近くなってる。
 教室の窓に目を向ける。
 すると俺は、思いがけない光景に目を見開いた。
 

 窓側一番前の席に、一心不乱に勉強をしているらしい女子がいる。


 スマホの事で頭がいっぱいだったし、教室に電気がついてなかったので、全く気づかなかった。

 そいつの名前は、()(いし)(てる)。入学式で、新入生代表の挨拶をしていた。
 椿里高校――略して椿(つばき)(こう)では、新入生代表=全学科で入試の成績トップの生徒、だ。例年は特進科の生徒で、俺ら商業科の生徒だったのは十数年ぶり、という噂だ。

(放課後も教室に残って勉強か……やっぱり新入生代表は違うな。こいつ、休み時間も読書してるっぽいし、群れたりしないよな)

 まぁ、俺もさほど群れてないけど、クラスの奴とは程よい距離感で、孤立せず、それなりに上手くやっている。
 だが、小石が誰かと話したり、楽しそうにしているところは、見たことがない。
『孤高の秀才』って感じだ。

 ところで、どうしたものか……この状況。
 もちろん、小石と俺が話したことは、一度もない。しかし、遭遇したのに何も話しかけないのも、なんだか気まずい。
 もっとも、小石は俺の存在に気づいていないのだが。

「お前、何してんの?」

 意を決して、自分の席から声をかけてみた。が、まるで反応なし。ここで引き下がるのも、なんだかモヤっとする。
 そこで、俺は(おもむ)ろに彼女の席へ足を向けた。

 ふと、微かな物音が耳に入ってくる。
 それは近づくにつれ、『シャッ、シャッ』と、だんだんはっきり聞こえてきた。
 これは、シャープペンを走らせる音だ。しかし、こんな音が出るシャープペンの運びは、おそらく文字を書くものではない。
 不可解に思った俺は、小石の背後から、机の上をそっと覗き込んだ。

 広げられたノートには――着物を着た人物らしき…………もの凄く下手!!! な絵が、現在進行形で描かれている。

 困惑しつつも、今度は小石の肩を軽く叩きながら、声をかけた。

「お前、何してんの?」
「!!」

 小石がポニーテールを揺らしながら、はっと俺を見た。

(えっ!?)

 唐突に、自分の視界が『もの凄く下手!!!』な絵のアップになる。
 小石が俺の目の前に、ノートを突きつけているのだ。
 予想外の事態に面食らったが、俺はもう一度、その絵をまじまじと見た。

 …………おそらく着物に袴姿であろう、ポニーテールの人が、木の下にいる。その周りには、小さな雫型がたくさん描かれていた。

『卒業式の女子が、木の下で雨宿りをしているところ』といった感じか。
 もしかしたら、この女子は、髪型的に小石自身なのかもしれない。

(よく見ると、消し後が沢山あるな……それに、細かい雨粒が一個一個丁寧に描かれてる。
 でも、この女子や木は何と言うか……小学校低学年、いや、幼稚園児レベルと言っても過言じゃない)

 やはり『もの凄く下手!!!』だ。

「どう? これ。まだ髪の毛が途中なんだけど」

 なぜか自信ありげな声で、小石が尋ねる。ノートを持つ手は、絵を描く際に擦れたのであろう、黒く汚れていた。

(たとえ浮いてる奴でも、クラスメートと険悪になるのは面倒だ。ここは、波風立てないように……)

 ふと、小石の表情を伺った瞬間、思考が停止した。
 俺の目に映ったのは――

 汗で濡れた、顔周りの髪。
 ほんのり上気した頬。
 広角の上がった、艶やかな唇。
 そして、ノートの奥からまっすぐ俺を見つめる、澄んだ瞳。

「っ……!」

 思わず、目を奪われた――その時、

 ピカッ!



(眩し――)

 ドーン!

 体中に響き渡る音に、衝撃を受けた。
 小石が慌てて窓を見ながら、固まる俺に訊く。 

「落ちたっ!?」 

「………………………………た、ぶん……」


(たぶん、()()()

 
 眩しかったのは、雷光じゃない。
 衝撃を受けたのは、雷鳴じゃない。
 
「大丈夫? けん……っじゃなくて(れん)君!」

 小石の呼びかけに、我に返る。

「…………あっ、ああ! てか、俺の名前、知ってんだ?」

 小石は他人に無関心そうだし、俺はクラスで目立つ方じゃないから尚更、知られてないものだと思っていた。 

「フルネームで知ってる。で、この絵どう? (むく)()蓮君」

「もの凄く下手!!!」

 サラリと本音が出る。なぜか、嘘をつきたくない気持ちが芽生えたのだ。

「うん……それも知ってる」小石は冷静に言った。

「でも、消し跡が沢山あって……何度も何度も、納得行くまで書き直したって事が分かる。
 それにこの雨粒、雨の表現としてはどうかと思うけど、こんな沢山、しかも一個一個丁寧に描かれてて……」

 これも本音。決してフォローするつもりではない。

「物凄く情熱を感じた!!!」

 無意識に拳を握りながら言い切った直後、たちまち顔が火照ってきた。
 小石が驚いた顔をしている、いや、引いているのか。

(わ〜~~、何語ってんだ俺、何キャラ!? イタイ、かなり恥ずかしい!!)

 もし時間が戻せるならば、土砂降りの中、自転車を漕いでいるところからやり直しても構わない。そんな出来もしない事を考えながら、片手で顔を覆う。自分の顔も、髪も濡れている。体に張り付くTシャツとジーパンの不快さも、今思い出した。

(あぁ……そうだ、俺、ズブ濡れだったんだ。なんかもう帰りてぇ……)
 

「…………分かってくれるんだ!」

 小石が束の間の沈黙を破った。
 恐る恐る、顔を覆った指の、隙間を覗く。小石が嬉しそうに目を細め、こちらを見ている。
 それが、とても眩しい。
 鼓動が激しくなり、体中に響き渡る。益々顔が火照るのを感じた。

「やっぱり…………好きなんだな……」

 不意に、ぼそりと呟く。

「えっ!? 蓮君鋭い……! そうなの、好きなの、この人が!」

 ノートの『卒業式女子』を指差しながら、小石が言った。

「え?」

「分かるでしょ? この人、『寺子屋名探偵』の『(おお)(まき)(たすけ)先生』」
「これ『寺子屋』の『(おお)(まき)先生』!? 男かよ!」

『寺子屋名探偵』とは、主人公の『太巻』という寺子屋の先生が、抜群の推理力で色々な事件を解決していく、というアニメだ。

「ちょっと待て、この袴の位置とか……」

「え?」

「胴が短すぎだ! 卒業式の袴女子かと思うだろ」

 俺は、太巻先生の胴を指差しながら指摘した。絵の真相による動揺で、別件の動揺が段々引いてくる。

「……あ、確かに、アドバイスありがとう!」

 素直だ。

「てか、『好き』って、『推し』ってやつ?」

「えっと、アニメの太巻先生が、私の初恋の人。
 で、去年椿高で会った太巻先生が、今……私の…………好きな人なの」

 伏し目がちに、はにかんだ様子で小石が言った。その表情の(まばゆ)さと、発言の意味の分からなさが、俺の脳内でせめぎ合う。

「蓮君て去年の夏休み、椿高の学校説明会行った?」

「…………行ってない」

「私ね、その時に、太巻先生に助けてもらったんだ」

 即座に質問したいところだが、ここは黙って聞こう。

「私、その日張り切って、受付時間より30分以上前に椿高に到着したの。
 その時、なんか違和感あるなって思ってたら、初めての生理が来ちゃってて……生理用品持ってないし、保健室も開いてないし……で、おろおろしてたら、たまたま太巻先生が通りかかってね――」

(こいつ、アニメキャラが初恋とか、生理とか……俺と初めて喋るのに、こんなに躊躇なく話すのか)

「それがもう、本っっ当に、太巻先生なの!! 着物も髪も顔も背丈も!
 でね、その太巻先生が色々察してくれて、安心ドラストで生理用品見繕って来てくれたの」

 安心ドラストは椿高のすぐ側にある、24時間営業のドラッグストアだ。

「それにね、どこから持ってきてくれたのか分からないんだけど、私の中学のスカートに似てるスカートまで用意してくれて……。
 おかげで無事、説明会に参加できたんだ」

(めちゃ神対応だな太巻先生! てか、機転利きすぎて怖ぇーよ、スカートなんてどっから持ってきたんだよ?)

「説明会終わってから、『太巻先生に生理用品代返さなきゃ!』って思って探して、見つけた時はもう着物じゃなくて、椿高の制服姿だったんだけど――」

「コスプレオフ姿で、その人だって分かったのか?」

「ううん、カラコンとか髪はそのままだったから。
 でね、その時私、財布見たら全然お金無かったの。そしたら太巻先生、『入学したら返しにおいで』って笑顔で言ってくれて……。その日から、もう、太巻先生のその笑顔で頭一杯で……。
 中学で友達に話したら、『輝も〝2次元〟じゃなくて、ついに〝3次元〟に恋したんだね!』って。
 ふふふっ……」

(いや、『2・5次元』だろ。てか中学では友達いたんだな、こいつ)

「でもね、太巻先生に、返金とお礼と…………告白もしたいんだけど、全然会えなくて。
 蓮君、会ったこと無い?」

「無い」

 きっと太巻先生は漫研の人で、部活動としてコスプレしてたんだろう。俺は(あい)(にく)SHR(ショートホームルーム)終了と共に下校する帰宅部だから、放課後に部活動してる人に出くわす機会がない。

「小石は、もう漫研訪ねたのか?」
「漫研? 行ってないけど?」

「コスプレって、漫研っぽくないか?」

「そっか……! 蓮君鋭い!」

 いや、普通だろ?

「私、英語科の人かなって思ってた。
 学校説明会の学科紹介で、英語科の先輩達が『ハロウィンパーティーの時はこんな感じでーす』って、コスプレして登場したから。
 ……まぁ、太巻先生は見当たらなかったんだけどね。
 それに、入学してから英語科の2、3年生の教室何度も覗いたんだけど、それらしき人いないし」

 そんな事してたのか。ちょっとした不審者だ。

「覗くだけじゃなくて、訊いてみればいいのに。太巻先生の事、知ってる人がいるかもしれないだろ?
 それに、コスプレオフ状態で、『この人!』って分かるのか?」

「……私、知らない人とか慣れない人と話すのが苦手で……。」小石の表情が少し陰った。

「それに、背で分かる気がするの。本当の太巻先生みたいに、凄く大きい人だったから」

 小石は、女子の中では背が高い方だ。彼女がそう言うなら、よほど背の高い男子なのだろう。

 ……いや、ちょっと待て――

「なんで俺とは普通に喋ってるんだ? 初めてだよな?」

「蓮君は、特別。ずっと気になってて……話してみたかったの」

(え? ……何? この期待感――)胸が高鳴る。

「――蓮君って『けん君』にそっくりだから」

「けん君って……?」

「寺子屋に去年新登場したキャラ。『功刀(くぬぎ)(けん )(ぞう)』君。先生見習いなの。
 蓮君を初めて見た時『剣君がいる!』って。鋭い所もそっくりだね!」

 期待感は(はかな)(しぼ)んだ。俺が太巻先生の方に似てれば……。てか、見てない間にそんなキャラが出てきたのか。

「それに今日の絵はいい出来だし、テンション上がってるから、っていうのもあるかも」

 ……いい出来だったのか。

「椿高でこんなに話せた人いなかったから、嬉しい! 話しかけてくれてありがとう」

 曇りのない笑顔で言ったそれは、本音だと分かる。

「あっ!? 蓮君びしょ濡れだね! ごめん、気づくの遅くてっ。
 良かったらこれ使って?」

 小石が自分の――よく見ると、太巻先生はじめ、寺子屋キャラと思われるマスコットが何個かついたリュックから、タオルを取り出した。

「いやいや、使えねぇよ! 大切な物だろ?」

 広げたタオルから、プリントされた太巻先生が、腕を組んで俺に微笑みかけている。

「大丈夫、これは使う用。家に観賞用と保存用があるから」

「ちょっ!」

 小石が立ち上がり、ワシャワシャと俺の髪を拭く。

 至近距離の小石が、タオルの動きと共に見え隠れする。この距離はマズイ。俺は目が合わないように、硬く瞼を瞑った。

(自分だって汗まみれのくせに、俺なんか拭くなよ)

「あ、良かったら、これも着て?」

 少ししてタオルの動きが止まり、俺は目を開けた。

「良くない良くない!」

 小石が俺に差し出していたのは、彼女の体操着だ。

「大丈夫、私のLサイズだし、蓮君でも着れるでしょ?」

「ああ、ワンサイズしか違わないし……って、大丈夫じゃない、そういう問題じゃない!」

「? ここの体操着、男女兼用だし、大丈夫でしょ?」

「大丈夫じゃない!」


――――――――――――――――――――――――――――


 雨が弱まってきた。



(どうしてこんな事に――)

 今俺は、なぜだか小石の席に座らされ、髪を整えられている。机に置かれた折り畳みの鏡には、前髪を左分けにされた、口が真一文字の自分が映っている。『大丈夫』『大丈夫じゃない』という押し問答の末の、体操着姿で。

「うん! 素敵!」

 きっと剣蔵の髪型を再現しているに違いない。目を輝かせて満足気に俺を見る小石が、鏡越しに見える。

 もう剣蔵でもなんでもいい。
 楽しそうに、キラキラしてる彼女が見られるなら。


「――俺、お前の太巻先生探し、手伝うよ」


 例え、この恋が、報われなくても。


「えっ!? なんで?」

「タオルと、体操着のお礼。
 お前、人見知りなんだろ? 俺がフォローする。
 漫研、一緒に行こう」

「うっ…………嬉しい!! 助かります! ありがとう、蓮君!!」


 一瞬驚いた顔が程なく、満面の、弾けるような笑顔に変わる。
 少しでも多く、彼女のこの表情が見られたら、それでいい。


 窓の外は少し明るくオレンジがかり、先程の落雷が嘘だったかのように、すっかり静かになっていた。
 俺は、小石を連れて、2階へ上がった。

「蓮君、漫研って……いつどこで活動してるか知ってるの?」階段を登りながら、小石が訊く。

「いや、分からないから美術部に訊いてみる。
 美術も漫研も描く者同士、繋がってる人がいそうじゃないか?」

「成程! 流石だね」


 美術室に着いた。
 開けっ放しの入口から、石膏像のデッサンをしている生徒達が数人見える。みんな黙々と鉛筆を動かし、声をかけづらい雰囲気だ。すっかり緊張した面持ちの小石に、俺が言う。

「大丈夫、俺が話すから」

(フォローするって言ったんだ、行くぞ)

 軽く咳払いをして、第一声を放った。

「あの、デッサン中すみません」

 何人かがこちらを見た。そのうちの一人の女子生徒が、鉛筆を持つ手を止めて、こちらに来てくれた。

「はい、美術部の入部希望者かな?」

「いえ、漫画研究部の活動場所を知りたいんですけど、どなたかご存じないですか?」

「……だってさー、()()さん、聞こえた?」

(ん? 八尾?)

「部長、ちょっと待って、今行きます」

 ふんわりしたボブの女子が、デッサンを続けながら答える。
 そして、程なくして切りがついたのか、

「漫研は、月、水で特別教室――」

 と言いながらこちらにやって来たのは、やはり知っている顔だった。

「――って、椋輪君? あんた、漫研に興味があるの?」

「いや、こいつが人を探してて。
 たぶん漫研の人じゃないかと思うんだけど……」

 小石が、俺の後ろからひょっこり顔を出し、一礼した。

「小石……さん?」

「特別教室ってどこだ? 行ったことないんだけど」

「なんだ、同じクラスの子達?
 なら月曜、八尾さんと一緒に行けばいいじゃない」部長が言った。

「……え? 八尾ってもしかして漫研部員でもあるのか?」

 大変失礼だが、俺の中では、漫研部員=オタク=垢抜けない・冴えない見た目、のイメージがある。しかし八尾はこの季節でも、校内でダサいと評判の半袖ブラウスではなく、長袖ブラウスの袖をまくって着用している。第一ボタンは開け、スクールリボンを少し下げて付け、スカートは短め。セットに手間がかかってそうな髪のふんわり感は、一目でオシャレ意識の高い女子だと分かる。
 因みに、今俺の後ろにいる女子は、半袖ブラウスを第一ボタンまできちんと留め、スクールリボンもきっちり上に付けて着用している。スカートの丈は膝下だ。

「部長! 同じクラスの人に、漫研ってバレたくないって言ったでしょ!?」

 八尾が鬼の形相で、美術部部長を睨んだ。

「あ……ごめん、八尾さん……」部長がいかにも『しまった』という顔で固まる。

「八尾が漫研だって知られたくないなら俺、別に誰にも言わないから」

「あんた、あたしがオタクでキモいって、バカにしてんでしょ!?」

「は? んなこと一言も言ってねーだろ」

 確かに、オタクとか垢抜けないとか冴えないというイメージは持っていた。しかし、そういう人達を、決してキモいともバカとも思っていない。言いがかりをつけた上に、勝手にキレないでもらいたい。

「…………っ、蓮君は、そんな人じゃない!」

 いきなり、小石が俺の前に出て『あのノート』を八尾に見せつけた――が、八尾とは目を合わせられないようだ。視線は、明後日の方を向いている。

「この絵、『物凄く、じゃ、じょ、情熱を感じた!!!』って言ってくれたの!」

 噛んだし、その声は上擦っている。どうやら人見知りが発動しているようだ。自分のセリフを暴露された恥ずかしさで、俺も余裕がなくなる。

「え……? …………ごめん、これ、何の絵?」

 キレていた八尾が、一気に動揺気味だ。

「あ、これ、『寺子屋名探偵』の『太巻先生』だって」

 俺が咄嗟に答えた。八尾が、じろじろと絵を見る。

「――確かに……情熱は感じるかも……」

 八尾が、ふう、と溜息をついた。

「……分かった。月曜日、漫研に案内するよ。
 でも、クラスの人達にはバレないようにしてよ?」

「あっ、ありがとう、八尾さん!」

「――ありがとう」小石に続き、俺も言った。
 
「じゃ、二人とも。また来週」

「ああ、邪魔して悪かったな、八尾」

 八尾がデッサンに戻った。

「――俺は帰る。雨も止んだし」

 廊下の窓から見える空は、濃いオレンジになっている。

「私も、このまま帰る」


 俺たちは来た階段を降り始めた。
 一段一段降りる度に、小石のリュックのマスコット達が揺れる。

「蓮君はどこに住んでるの?」

「椿台」

「そっか、近くていいね。私は五本松」

「じゃあ電車か、結構遠いよな。……なんで椿高選んだんだ?」

「何校か学校説明会行ったんだけど、ここの先輩方が凄く生き生きしてたから。
 太巻先生も『いい学校だよ』って言ってたし」

 小石が頬を赤らめながら続ける。

「どの学科紹介も楽しかったけど、私、パソコン使えたらいいなっていうのと、先輩方が資格一杯取っててかっこいいからって事で、商業科に入りたいって思ったの。
 蓮君は?」

「――最寄りだから……」

「そういう決め方もあるんだね」小石がふふっと笑う。

 学校説明会にも参加せず、自宅から最寄りというだけで、ここ一択だった。勿論入試の面接時には、予め考えた当たり障りない志望動機を述べた。学科は消去法で普通科か商業科、最終進路希望調査票のプリントの裏に、あみだくじを書いて決めた。提出時には消したが。

 なんだか情けない過去を振り返っている間に、昇降口に着いた。
 もう少し話したい。話題を変えよう。

「小石って、いつも放課後に教室で絵を描いてるのか?」

「たまにだよ。いつもは家で描いてる。
 今日はSHR(ショートホームルーム)の時に、突然いいイメージが頭に浮かんでね、今描かなきゃ! って」

「教室で絵を描いてて、今まで話しかけられたことは?」

「ないよ」

(あんな感じの絵じゃ、なかなか話しかけづらいよな。それにこいつ、一心不乱過ぎだから軽く話しかけただけじゃ、たぶん気づかない……)

「……そうか。あと訊きたいんだけど、休み時間によく読んでるのって、何の本?」

「寺子屋名探偵の小説! 太巻先生の素敵さについつい没頭しちゃって、気づくといつの間にか授業始まってたりするんだよね」

「ははっ、そうか……」

(ほんと……寺子屋オタクだな。てかこいつ、最前列の席なのに大丈夫なのか?)

「俺、今まで小石って『孤高の秀才』って思ってたけど……実は『人見知りな秀才』だったんだな。『寺子屋オタク』だし」

 小石が目を丸くする。

「!」

 俺は自分の口を抑えた。

(――しまった……『寺子屋オタク』とか、思ったことをそのまま言った)


「…………くっ、あはははっ! 『孤高の秀才』って、私、そんなイメージだった!?」

 小石が口を大きく開けて笑いながら、靴箱から靴を取り出す。こんな風にも笑うのか。

「ふふふっ。オタク=『その道を極める者』って事でしょ? 誇らしい称号だよね」

 (けな)すつもりでも、褒めるつもりでも言ったわけじゃない。が、プラスに捉えてくれたようでほっとした。

「確かに寺子屋オタクだし人見知りだけど、『秀才』は違うかな。
 ――じゃっ! 今日はありがとね、蓮君」

「いや、こっちこそ。体操着、ちゃんと洗って返すから。
 服入れるビニール袋までありがとうな」

 先に外に出ていく小石が俺に手を振る。その姿は夕日の逆光に照らされ、輪郭線が細く光っている。
 しばし見とれてしまった後、俺は傘立てに脱ぎ捨てたレインコートを回収した。


――――――――――――――――――――


 その夜。
 俺はベッドに仰向けで、真っ暗な自室の天井を凝視していた。今日はなかなか眠れない。
 脳裏に浮かぶのは、自分にノートを突きつけた時の小石の汗・髪・頬・唇・瞳はじめ、本日見惚れたシーンのハイライトだ。目に焼き付いた全てが、エンドレスリピートされる。

「はぁ……」

 目を閉じ、そこに手の甲を乗せる。
 ダメだ。目を閉じると余計、ハイライトが鮮明に再生される。


 ――眩しくて、キレイだった。


 絵が下手だろうがオタクだろうが、自分が他人からどう思われるなんて顧みない。いや、むしろオタクであることを誇りに思うほどの、潔い寺子屋――太巻先生への情熱。それがあいつを輝かせているのかもしれない。

 俺も何か、あいつのようにあんなに情熱を持てたら――憧れにも似たこの気持ち。それと共に、今脳内で再生されているのは、小石のはにかんだ表情と声。

 ――『アニメの太巻先生が、私の初恋の人』

 ――『去年椿高で会った太巻先生が、今……私の…………好きな人なの』

「俺は初恋も、今好きなのもお前だ……」

ボソリとしたつぶやきが、口から零れ落ちる。

(早く学校に行きたい)

 こんな事思ったのは、小学校の、好きな給食のメニューの時以来だ。

(早く三連休終わらねーかな)

 こんな事思ったのは――初めてだ。
 これは本当に俺か? 人を好きになるってこんな?
 ――あーもう疲れた、寝よう。

 ふと時間が気になり、スマホをつける。
 ただ今の時刻――午前1時59分。
 翌日、午前9時半過ぎ。
 昨夜はあんな状態だったのに、小石の夢一つ見ないまま目が覚めた。

「だりー……」

 ぼんやりした視界で、リビングのテーブルを見る。その上には、目玉焼きにウインナー、プチトマトが載ったワンプレートの皿――何枚か減った食パンの袋も置いてある。

(パン焼こ……)

 袋から食パンを取り出した、その時――

「れーん!」

 別室から、母の声がした。

「なんで体操着が二つあんの?」

 ぽとり、パンをテーブルの上に落とす。
 昨日、スマホを学校に取りに行った時、母はパートに行っていた。俺が小石の体操着を来て帰った時にはもう帰宅していたが、体操着姿を見られる前に部屋着に着替えたので、あの人は何も知らない。

 母が事情を聞きにこちらに来た。とりあえず拾ったパンを、トースターに入れる。

「……昨日、夕立凄かっただろ? あの時、学校に忘れ物取りに行ってびしょびしょになったから、教室に残ってた奴に体操着借りた」

 忘れ物がスマホだった事は言わない。知ったら怒られそうだ。
 そして『残っていた奴』が女子だった事は、絶対に言わない。

「あー、そういうこと? 今洗濯するとこだけど、Tシャツもズボンも確かに凄かった。
 蓮って要領いいのに……忘れ物とか、たまーに抜けてるよね」

 母が苦笑している。

「――今日、玲菜(れな)は?」

 昨日の事を詮索されまいと、話を変えた。

「出かけた。友達とS台に行くって。好きなブランドのバーゲンがやってるんだって」
 玲菜は中2の妹だ。S台はうちの最寄り駅から、電車で片道1時間半くらいかかる。

「往復で3時間だろ? そこまでして服買いに行く? 俺には理解できない」

 玲菜は中学生になってファッションに目覚め、休日に友達と出かける事も増えた。ファッション費も友達との交際費も、自分のお年玉や毎月の小遣いから計画的に支出しているらしい。俺は高校生になった今でも、母に服を適当に購入してもらっている。激安衣料店だろうが、よほど変でなければ、着られれば何でもいい。

 それに――

「三連休でしょ? 蓮は何か予定無いの?」

「無い」

「友達は?」

「一緒に休みを過ごすような奴はいない」

「………………」残念そうな視線が俺に向けられる。

「いや別に、学校では人間関係、適当にやってるよ。
 ――まぁ暇だし、高校生になったし、バイトやるってのもありかもな……」

 少し黙ってから、母がやや真面目な顔で言った。

「やりたいならいいけど、うちの家計なら心配しないでね? 私、遣り繰り上手だし、養育費はしっかりもらってるから。学資保険もあるし、進学も大丈夫」

 そう、うちの両親は3年前に離婚している。今はこのマンションで母、妹、俺の3人暮らしだ。

「だからお金の事は気にせず、青春を楽しんでね?
 あ、でも交際費とか、あと服も(こだわ)るんだったら、玲菜みたいに自分で遣り繰りして貰えると助かる。足りなかったら相談して?」

 俺が現在、自分の財布から捻出している費用と言えば……ネット上で使うギフトカード代ぐらいだ。月500円のアメプラビデオという動画視聴サービスに使っている。

(――朝飯食べたら、アメプラで何か観よう)


 朝食後。洗顔、歯みがきをすませ、自室に戻った。
 机からベッドに移動させたノートPCをつける。その横に肘枕で横になると、アメプラビデオのホーム画面を開いた。画面を下にスクロールさせていくと、見覚えのあるサムネイルが目に留まった。
 
 ――『寺子屋名探偵』

 小学生の頃は観ていたが、いつの間にか観なくなったアニメだ。ふと小石の言葉を思い出す。
 
 ――『蓮君って〝けん君〟にそっくりだから』

(よし、『けん君』――『剣蔵』がどんなキャラクターなのか観てみるか)

 俺は『寺子屋名探偵』のサムネイルをクリックした。
 変遷した画面には『寺子屋名探偵 シーズン1』と表示されている。
 シーズンがいくつあるのか見てみると――なんと30シーズンもあった。

(今年で30年ってことだよな……)

 地上波で放送され続けているのは知っていたが、ここまでとは。いつだったか母さんが、『私が子供の頃からやってる』と言っていたことを思い出した。
 どのシーズンを観れば――そういえば、剣蔵(けんぞう)が登場したのは去年だと小石が言っていた。

(じゃあ、シーズン29だよな……?)

 シーズン29のエピソードを見ると、すぐに『エピソード1 功刀(くぬぎ)剣蔵(けんぞう)登場の巻』とあった。分かり易くて助かる。
 早速クリックし、視聴を開始した。


 自分が観ていた頃とは、オープニングもエンディングもすっかり変わっていた。俺は二十数分間の視聴を終え、停止ボタンをクリックした。

 結果、剣蔵は頭のキレる、ツッコミの鋭いキャラクターだということが分かった。太巻(おおまき)先生の推理のヒントとなるような発言をし、事件の解決に一役買っていたのが印象的だった。

 そして昨日、小石にセットされた俺の前髪は、やはり剣蔵スタイルだったらしい。彼の後ろ髪は短めのポニーテールのように結われていたが、前髪は昨日の俺そのものだった。

 あと、少し気になったのは剣蔵の目だ。『俺、こんなに目付き鋭い?』と思ったが、まぁ……デキるキャラクターみたいだし、似ていると言われて悪い気はしない。

 ――『蓮君を初めて見た時『剣君がいる!』って。鋭いところもそっくりだね!』

 ふと、また小石の言葉を思い出す。

 ――『椿高でこんなに話せた人いなかったから、嬉しい!』

 そう言った時の彼女は、曇りのない笑顔だった。

「!!」

 瞬間、妙案が頭に浮かんだ。

(もし、学校で寺子屋の話ができる相手がいたら――小石は、かなり嬉しいんじゃないか?)

 思わず、小石が俺と楽しそうに話している姿を想像し、心が躍った。俺としても、彼女と親睦を深めたい。しかし、この想像を実現させるには、今の俺では到底『勉強不足』だ。

(よし、もっと寺子屋を観よう!
 ……そうだ! 忘れないように感想もメモしていこう!)

 すぐさまノートPCをベッドから机に戻し、椅子に座る。そしてシャープペンに消しゴム、未使用のノートを用意すると、背筋を伸ばしながらエピソード2をクリックした。


************


「ただいまー」

 玄関から聞こえたその声に、いきなり現実世界に戻された。
 壁掛けの時計を見ると――6時半過ぎ。部屋の窓からは、オレンジ色の西日が差し込んでいる。

(うぇっ? もうこんな時間か!)

 現在、エピソード24の途中である。今に至るまで、昼食やトイレ休憩以外、ずっと寺子屋の視聴を続けていた。
 一旦視聴を中断し、椅子に座ったまま背伸びをする。
 すると突然、自室のドアがガチャリと開けられた。
 傍若無人に入ってきたのは……俺をアニメの世界から引き戻した声の主だった。

「暑かったー。ちょっと涼ませて」

「なんだよ、リビング行けよ。てか、ノックぐらいしろ」

「あ、ごめん、そういう動画観てた?」

 ――本当に可愛げのない妹だ。

「違う、健全なアニメだ!」

「もしかして……一日中、エアコンの効いた部屋でアニメ見てたの?」

 憐れんだ目で訊くこいつは、さぞ充実した一日を過ごしたのだろう。

「……なんか悪いか?」

「三連休、どっか行ったりしないの?」

「特にしないな」

 はぁ、と溜息をついた妹が、俺のベッドに座る。

「蓮も高校生になったんだから、彼女……とまでは言わないけど、友達と海とかお祭り行くとか、部活で汗を流すとか、何か青春っぽい予定は無いわけ?」

「お前……なんか母さんっぽい――」と俺が言いかけた時、

「蓮玲菜ー、夕飯にしよー?」絶妙なタイミングで母の声がした。

「今行く」
「今行くー」

 不覚にも、俺と妹の声がきれいに重なった。


 夕飯時。俺は今日観た寺子屋の、印象的だったシーンを思い返しながら黙食していた。
 その最中、母と妹の間で『蓮』『友達』『青春』というワードが飛び交っていたような気がしたが、気のせいということにしておこう。
 俺の中で、衝撃や感動、笑えたあのシーンやこのシーン――小石は去年、それぞれどう思って観ていたのだろう。

(あいつに話を振ったら、きっと目を輝かせて語りだすだろうな……)

 口元がゆるむ。
 早く続きを見なければ。今日のペースなら、明日中にはシーズン30に入れるだろう。
 シーズン30は今年4月からの放送分だから、観終わるのにそんなに時間はかかるまい。その後はシーズン1から観よう。


 思いついたこの予定により、三連休はあっという間に終了することとなる。
 なお、母と妹からはそれぞれ、より残念そうな、より憐れんだ目で見られる羽目となった。