稚沙(ちさ)はその場で、それからしばらく働くことができず、ただただ呆然としていた。

(今のって、口付けされたのよね?私が椋毘登(くらひと)に……)

そう思うと、急にひどく顔が赤くなってきた。

「ち、ちょっと、これは一体どういうことよ!!」

そして彼女は恐る恐る、自身の口に指を当ててみる。

すると先ほどの感触が今も自身に残っている。彼の唇は冷たくて、少し乾燥もしていた。

それに無理やりされたのだから、彼をひっぱたいても良いぐらいだった。だが彼女にはそれが出来なかったのだ。

彼との口付けがとても心地よく、唇を離した時に見せた彼の優しい表情に、思わず胸を高鳴らせてしまう。

「どうしよう、私全然嫌じゃなかった。むしろもっと彼に抱きしめていて貰いたいとさえ……」

これまでの彼との会話や出来事が脳裏に浮かんでくる。
彼は少し意地悪ではあるが、本当はとても優しい青年だ。

「そうか、私は椋毘登のことが好きなんだ」

だが彼は自身の幸せよりも、一族の繁栄の方が大事だといっていた。

仮に椋毘登が自分に好意を抱いていたとしても、きっと彼は一族を選ぶだろう。

そんな彼をどうやって、自分は繋ぎ止めることが出来るというのだ。

(私また失恋しちゃうのかな?)

どうして自分は報われない恋ばかりしてしまうのか。そんな自分がひどく哀れに思えた。





一方椋毘登の方も、蘇我(そが)に戻るため馬を走らせていた。

「くそ、俺にどうしろというんだ。
彼女とは出会わなければ良かった。そうすればこれほどに心を乱されもしなかった」

(あの時、稚沙はとても真っ直ぐな目で俺を見つめてきた。あいつのあんな目を見たら、歯止めが効かなくなって……)

「俺だって本当はこんなこと望んでいない。でも他にどうすれば良かったというんだ!」

椋毘登はそういって、思わず馬の手綱を強く握りしめる。

だがそれと一緒に、ふと不思議な感覚が彼の中にはあった。

「でも何だろう、とても懐かしい感じがしていた。まるでずっと前からお互いが知り合っていたかのように……」

だが自分と彼女は知り合ってまだ日が浅い。過去に会ったことがある記憶もまるでなかった。
なのに懐かしさを感じるのは何故なのだろうか。

「一体なんだ。生まれる前から知っていたとでもいうのかよ!」

彼はひどく自身の感情を取り乱すようにして、そういった。

(でも、稚沙はさっきの件どう思ったんだろう……まぁ、過ぎてしまったことはどうしよもないが)


こうして2人は、それぞれの気持ちや葛藤を胸に秘めたまま、今後についての想いを巡らせていく。