「手をあげろ」

 終夜の表情は見えない。しかし、宵にそういわれても動く気はないようだった。宵は急かす様に銃口を強く押し付ける。その動きに釣られて終夜は顔を上げた。

「もう、どう転んでも思う通りにはならない。お前ならこの状況を冷静に判断できるはずだよ、終夜」

 舌打ちをしてからぐっと唇を噛みしめた終夜の唇には、薄っすらと血が滲んでいる。こんな終夜の様子を見るのは初めてで、それは寂しい色の波紋を心の内側に広げた。
 終夜は深く息を吐いた後、畳に押し付けていた梅雨から手を離して簪を放り投げると、両手を肩辺りの高さまで上げた。

「そのまま離れて」

 終夜が離れたと同時に、梅雨はさっと身を起こして立ち上がると、宵に向かって軽く頭を下げた。それから、先ほどまで立っていた場所まで戻る間に高尾に視線を向ける。高尾はゆっくりと一度頷いた。それが何を意味しているのかは知らないが、おそらく二人だけに通じる何かなのだろう。

「座って」

 そう言った後、宵は終夜に銃口を向けたまま距離を取った。終夜は緩く胡坐をかいてその場に座り込む。それからすぐに手を下ろして、足の間に気だるげに放った。

「終夜よ」

 高尾の言葉を聞いた終夜は、視線だけを彼女に向けた。

「黎明がどうしてこの街に残りたいか、理由がわかるか」
「どうでもいいね。理由なんて」
「嘘は感心しないな。付随する事情をお前が考えないはずがない。何が黎明にそこまでさせるのか、考えてもわからなかったんだろう」

 淡々とした口調で語る高尾を見る終夜が何を考えているのか、どんな気持ちでいるのか。表情からは何も読み取ることができない。

「楼主への恩。雛菊の世話役だった娘の事。松ノ位に夢を魅せられた事。それによって希望が見えた雛菊と旭の追った夢。お前に言わせればそれに近付いたという〝勘違い〟。そんな仮説を立てたはずだ。黎明に関わるその全てを断ち切ったつもりになっていたんだろう。だから、吉原に執着する程の価値はないはず()()()

 高尾はやはり淡々とした口調で語る。終夜は表情一つ変えずに、ただ少し俯いた。

「黎明という遊女に伸びしろがないと見限りでもしていたのか。それとも、人間の心というものが先人が弾き出した心理法則と自分の知識、経験の枠からはみ出さないと考えていたのか。どちらにしても詰めが甘かったな。全部が全部決まった枠に収まる程、人間という生き物は美しくない」

 高尾が言ったことを否定しないのなら、おおむねそうだという事だろうか。

「お前はまだ、上辺だけしか見ていない。だから黎明という遊女を、明依という一人の人間を誤解している」
「誤解?俺が?」

 終夜は俯いたままあざ笑うように息を漏らしながらそう言うと、少し間をあけて明依へと視線を向けた。

「そういえばアンタも同じこと言ってたっけ。誤解って、なに?」

 終夜は今、純粋な好奇心に駆られているのかもしれない。どうして自分の理解が及ばないのか。自分の理解が及ばない理由とは、一体何なのか。
 それが人間特有の〝感情〟という不明確なモノが集まって明確に見える形を作るそれに深く深く絡んでいる事を、彼は知っているだろうか。

「私はもう、誰かに守ってもらわないとこの街で生きていけない女じゃない」

 この言葉は終夜の知りたい部分ではない事は分かっていた。今告げたこれはつまり結果であって、終夜が知りたいのはこの言葉に至るまでの経過だろう。しかしその経過をすべて言葉に乗せるには、余りに時間が足りない。いつか。そんな日が来るのなら。いつか、終夜とゆっくり酒でも飲みながらそんな話ができたら。
 やはり希望は大切だ。こんな状況でも、行き着く先が地獄の最下層だと知っていても、気持ちを前向きにしてくれる。

「……なにそれ」

 そんな事を考える明依をよそに、終夜が乾いた笑いを漏らした。それはもう、何もかもを諦める様な放り投げる様な態度に思えた。終夜は腕を後ろについて体重を預けると、首の力を抜いて天井を見上げた。

「全っ然、わかんないんだけど」

 そう言った後、終夜は目を閉じた。思考に集中している。そう見えたが、違う事に気が付いた。おそらくただ、思考を止めている。理解が出来ない情報を飲み込もうとする時の感覚を、終夜から何度も押し付けられたあの感覚を思い出していた。
 そう思えば、終夜の言動は年相応の様子に見えた。

「高尾大夫」

 戦意喪失と受け取ったのか。宵は銃をしまうと、高尾に視線を移した。

「終夜と手を組んでウチの遊女を吉原の外に出そうとした事は、どう説明されるおつもりですか」
「ではお前は、ウチの見張りを傷つけて妓楼の中に入った事をどう説明する」

 そう言われた宵は、冷静な表情を変えないまま黙り込んだ。

「すまないな、宵。脅すつもりはないんだ。ただ、ここは私の城。私の領域(テリトリー)だ。自分の身の振り方について、よく考えてくれることを願っている」
「随分傲慢な言い方ですね。つまりそれは、この一件を見逃せという事ですか」
「そういう事だな。私は黎明にとって、今回の終夜の提案は決して悪い話ではなかったと確信している。そうは思わないか」
「思いませんね。それは明依の意志じゃない」
「お前は暮相という人間にあった事はあるか」

 急に話を変えられたにもかかわらず、宵は表情一つ変えない。

「ありません。俺が来た時にはもう、この街にはいませんでしたから」
「では、吉原の街にあの男が死んだという一報が巡った時の事は覚えているか」
「覚えていますよ。主郭もこの街自体も、騒然としていた。それが何か」
「絶望の渦中にいる人間に希望を見出して生きよと言う事ほど、無責任な世迷言はない。私はあの時、暮相は救われたのだと思った。あの男の気持ちが救われる唯一の道がそれだったのなら、友としてその選択に花くらいは手向けてやりたいと、そんなことを思った」

 宵はやはり表情一つ変えず、冷静な態度を崩さなかった。

「『世の中には、死よりも辛い事が山ほどある』と、死んだ暮相はよく言っていた。この場所はやがて本当の地獄になる。お前は大切だと思う人間が救われる道があると知りながら、地獄の最下層を見せたいのか?それとも、私という前例があることで、黎明への可能性を捨てない選択を取ったか」
「考えすぎですよ。それに俺とあなたは数年前の夏祭りで一度会っただけです。お互いに何も知らない」
「本当にお互いに何も知らないならな」
「どういう意味でしょう」
「一人の人間を調べ上げるくらい造作もないだろうと言っているんだ」

 宵と高尾は互いにじっと目を見ていた。高尾は宵の正体を知っているのだろうか。宵はしばらく高尾を見ていたが、切りかえるように短く息を吐いた。

「あなたはどうなんですか、高尾大夫。終夜と裏で手を組んでおいて、結局それすらもなかった事にしようとしている。つまりあなたの言葉を借りるなら、救われる道があると知っているのに地獄の最下層を見せようとしている。俺にはあなたの心理が、到底理解できない」
「女の心の内を理解できると思っているなら、お前は傲慢な男だな。宵」

 高尾は茶化す様な口調でそういう。宵は少し眉を潜めて、高尾に睨む様な視線を向けた。

「……同じ様に傷を持った人間を、救いたい気持ちにでもなりましたか」
「そんな大層なものじゃない」

 そう言った高尾は、穏やかな笑顔を作った。

「地獄に落ちねばならない人間が極楽に居座りたいと(のたま)うなら、いざ知らず。極楽に行くべき人間が地獄で生きたいと言うのなら、先人として少しくらいは手を差し伸べてやりたいと思った。ただ、それだけだ」

 高尾の言葉に、宵は不振そうに目を細める。しかし当の高尾は気にする素振りも見せずに終夜に視線を移した。

「さて、終夜」

 終夜は閉じていた目を開けて少し姿勢を正すと、高尾を見た。

「私と取引をしよう」
「取引?」
「博打と言った方がいいかもしれないな」

 きょとんとした顔で高尾を見ていた終夜だったが、〝博打〟という言葉を聞いて少し眉を潜めた。

「吉原の解放を手助けしてやってもいい」

 終夜は目を丸く見開く。しかしそれは、明依も宵も同じだった。

 高尾はまるで、それが終夜の望みの様な言い方をする。今の今まで終夜は吉原の解放には反対だと思っていた。吉原は犯罪者が無理やり国からこの街を取り上げて形を作っているのだと言っていた。だから微妙なバランスで成り立っていると。だから吉原の解放をしようなんて思うなと。しかし思い返してみればその答えは既に出ている。
 吉原の解放を遊女が望むなら、融通の利く松ノ位に上がるという事。終夜が黎明という遊女に念押ししたかったのはその部分。

「一度だって、聞く耳すら持たなかったくせに。……それどころか、今回のこの一件。黎明を吉原の外に出す手助けをするからキッパリ諦めろと言ったのは、どこの誰でしたか」
「気が変わった」

 悪びれる様子もなく、はっきりと高尾はそう言った。
 どうして終夜は、吉原を自由にしたいのだろう。

「遊女は気まぐれなんだ」

 それから付け加える様にそう言う高尾の本心を探ろうとしているのか、終夜は彼女の目をじっと見ていた。

「知っての通り、私は亡き暮相と共に吉原解放のパイプを作ってきた。それを全て、お前にやろう」
「高くつきそうだね。コレにしてくださいよ。言い値でいいから」

 親指と人差し指で円を作った終夜は、その手をフラフラと振った。

「そんな無価値な条件は出さない。お前には、黎明がこの街に残る事を承諾してもらおう」

 明依は耳を疑った。つまり高尾は、終夜から持ち掛けられていた吉原解放の話に一度として聞く耳を持っていなかったのに、明依がこの街に残る事を条件にその全てを終夜に託そうとしている。

 『最後に一つだけ教えてください。……吉原を解放する気は、もうないのですか』
 『ない。もう二度と、あんな思いはしたくない』

 先人として少しくらいは手を差し伸べてやりたいと思った?ただ、それだけ?
 そんなはずがない。確かに高尾は、前に話をした時にそう言っていた。明依というたった一人の人間が、高尾の確固たる決意を変えたのだろうか。明依は自分にそれほどの価値があるとは思えなかった。明らかに過剰評価だ。それなのに、高尾という人間がこの状況で判断を間違える様にも思えなかった。どんな理由があって、それほどの価値があると判断したのか。
 教えてほしいと思う。それなのに、喉元で絡まって言葉が出てこない。

 そんな最中、終夜はどこかふてくされた様な態度で高尾を見ていた。

「どうした。不満か?」
「ものすごく」
「なる様にしかならないぞ。こうなればもう、側において守ってやったらどうだ」
「どいつもこいつも……。遊女は本当に、夢物語が好きだね」

 今度は呆れたように深く深くため息を吐き捨てた。

「主郭はさ、俺を()りに来るんですよ。つまり俺が地獄最下層のド真ん中って事。一介の遊女に構ってる暇なんてないんだ」
「この地獄にいる事を自ら望んだ。誰からどんな地獄を見せられても文句は言えまい。いざとなればお前らしく、盾にでも使えばいい」
「盾にしては粗末だと思うけどね」

 終夜は小ばかにしたように明依に視線を向けた。誰が粗末だ。ボロクソに言い負かされたクセに相変わらず態度だけはデカいな。という視線を向けるが、終夜は飄々とした態度で視線を逸らした。

「主郭は松ノ位に絶対の信頼を置いている。そして黎明はこれから、松ノ位に上がる」

 息を呑んだのは、この空間にいる高尾以外の全ての人間だった。

「どうだ。立派な盾になりそうだろう」

 高尾はどこか楽しそうにも見える。その様子はまるで、終夜と明依の関係を勘ぐった夕霧の様だ。
 松ノ位。この吉原という場所で、これ以上の確かな盾はない。
 それから高尾は宵へと視線を向けた。相変わらず、どこか楽しそうな様子で。

「お前にとっては誤算か?宵」

 やはり高尾は、宵の正体を知っている。そう思える言動を、明依は息を呑んで見守っていた。

「何の話でしょう」

 そうやって薄く笑う宵からは、本気で隠し切ろうとする気持ちが見えない。それを見た高尾はまた、楽しそうに笑った。