もし今逃げ出したら終夜はどうするんだろうなんて、意味のない事を考えている。きっと終夜は一瞬で追いついて抑えつける。暴れる様なら、胸から肩にかけて自分が付けた傷をこじ開けてでも阻止するだろう。
 黄色にも白にも見える月がこぼす光が人気がなく静まり返った吉原の街に落ちては、雲がそれを隠した。

「旭が生きていたら、今頃吉原はどうなってたかな」
「さあね」

 先を歩く終夜は、大して興味も無さそうにそう言った。

「旭が死んでから、この街はどんどんおかしくなってる。生きていたら全部丸く収まっていたんじゃないかなって思わない?」
「……その仮説に何の意味があるの?」

 やはり終夜は、大して興味のない様子でそう言った。

「終夜はさ、希望を持たないようにでもしてるの?」
「……なんで?」
「いつも私の語る理想を、冷静に論破するから。今だってそう。旭が生きていたらって話も、そうやって正面から拒絶する」
「それはさ、子供だましの夢物語を大人に話して聞かせて、さあ本気で信じなさい。って言ってる危ない宗教と同じ理屈だよ」
「信じなきゃ、何も変わらないとは思わないの?私は眠るときくらいは絶望ばかりの物語より、希望がある物語を聞きたいって思うけど」
「期待して願うだけでそれが叶うなら、努力や苦労なんて言葉は存在しないんだよ」

 予想通りの反応に、明依は小さく息をついた。
 医者から聞いた話で確信した。終夜は自分を律して鍛える事が出来る人間だ。途方もない努力や苦労がそこにあることを予想するのは難しい話ではなかった。
 終夜もこの街の犠牲者で、〝子どもでいる事を許されなかった子ども〟だったのだろう。

「ほら、そういう所。理屈っぽくてイヤ」

 なるべく優しい口調でそういう明依に、終夜は大きなため息を吐いた。

「希望ねェ」

 終夜は呆れたように、諦めたように、その一言を呟いた。

「そんなモノ、初めて人を殺した時に見つけて、どっかで失くした」

 テキトーな口調でそう言った終夜の表情は見えない。終夜は今、一体どんな気持ちでいるんだろう。こんなことを考えるのは、これで何度目だ。知りたいと思う。この掴めない男の全部を。でも吉原の外に出れば、もう二度と会う事はないかもしれない。いやきっと、会う事はないだろう。宵に正直に告げた方がよかったのだろうか。いや、もしそんなことが炎天に知られたら、終夜を殺す立派な理由になってしまう。自分がその理由の一つになるなんて、絶対に嫌だ。
 そんなことを考えている明依の方向へ、終夜は少し難しい顔で振り返った。

「って言うか、自分の状況分かってる?俺はさ、商売道具の身体に傷を付けて、まだこの街にいたいって言うアンタを無理やり外に出そうとしてる。危機感バグってるの?」
「だって、どうしようもないもん。私だって、媚び売って見逃してもらえるならそうするよ」
「そんな事できるほど器用な女じゃないだろ、嘘付けよ」

 まあ、確かにそうかもしれないと思った後、何でコイツにこんな言い方されないといけないんだ。とちょっとむかついた。それは懐かしい感情で、旭と口喧嘩しているときに似た感覚だった。

「吉原には興味ないのに、国に渡すのは嫌なのには理由があるの?」
「ここは俺の領域(テリトリー)だから」
「興味、ないのに?」

 本当に、意味が分からない。この男の考えている事の全部が。矢継ぎ早に話を振るのは、誰にも邪魔されない二人きりの空間で、終夜という人間を知りたいという本能が働いているからだろうと察しはついていた。

「アンタだってさ、自分の座敷で全然知らない遊女と全然知らない男が当たり前の顔してヤってたら嫌でしょ。そういうモンじゃない?だから邪魔者は排除する。アンタも。それから、宵も」

 なんだか違う気もするが、おそらく終夜はこれ以上話をするつもりはないのだろうなと明依は黙った。
 ここまで終夜の事が気になる理由の入り口は、旭と日奈で。それから先の全部は、自分の中にあって。湧き出して止まらない何か。好奇心、理不尽、親近感。そんなものがぐちゃぐちゃに混ざった、何か。ぐちゃぐちゃに混ざって何となく見える不規則な輪郭は、旭に抱いていた感情とも、宵に抱いている感情ともまた違う。
 それでもどこか暖かくて、守りたいと思っている。

 明依は終夜の背中を見つめた。着物の擦れる音も、歩く音も聞こえる。それになぜか、安堵した。話しかけようとした所で、終夜は建物の潜り戸から中に入っていく。はっとしてから立ち止まって、建物を見上げて気が付いた。ここは三浦屋だ。どうしてここに。

「どうして、」
「しー。みんな起きちゃうよ」

 限りなく小さな声で問いかけた明依だったが、終夜の言葉を聞いて思わず押し黙った。
 終夜は当たり前の顔をして、静まり返った三浦屋の中を歩いて行く。声を殺していた明依だったが、ここで声を出してしまえば誰かに助けてもらえるのでは。という疑問がふと浮かんだ。あんな当たり前の顔をして、『みんな起きちゃうよ』なんて言われたら騙されるに決まっている。この男、本当に口がうまいな。そう思った頃には、終夜は一室の襖を開いていた。
 そこには深い夜によく似合う控えめな暖色の光が漏れている。

 凛とした佇まいで座っている高尾は以前と同じように顔を布で覆っていて、表情が見えなかった。離れた所に立つ梅雨はいつも通りの無表情で、こちらを見向きもしない。

「お前も災難だな、黎明」

 労わる様な穏やかな高尾の声色を聞いて、ひどく安心した。おそらくこの街から黎明という存在を消す為の重要な役割を担っているであろう高尾に、どうしてこんなに安心しているのだろうと自分でも不思議に思うほど。

「身体に傷が付いたそうじゃないか。それほど芸達者な人間はならすぐに見つかりそうなものだが。一体、どこの誰だろうな」
「さあ、どこの誰だったんでしょう。生憎、尻尾も掴めそうにないんですよ」

 終夜は知らぬ存ぜぬと言った様子で高尾の言葉に笑顔を浮かべてそう答えた。

「黎明。ほとぼりが冷めるまでこの妓楼にいるといい。陰の目からは、梅雨が守ってくれる」

 そういう高尾の言葉で、明依は梅雨に視線を向けた。やはり噂通り、梅雨は陰なのかと思って見つめていると、瞬きを一つした梅雨と目が合った。その視線が〝勘違いするな〟〝不本意だ〟と語っている。目は口ほどに物を言うというのは、こういう事かと妙に納得した。

「それから先の事は、私の客に話を付けてある。吉原から出て、しばらくそこに身を隠すといい」
「遊女は大門から出られないと聞いています」
「それはこの男が何とかするんだろう」

 高尾の言葉を聞いてから盗み見た終夜は、張り付けた様な薄い笑顔を浮かべているだけだ。

「随分と冷静だな。黎明」

 感情が読めない口調の上に、表情さえわからない。そこまで考えて、会話の中で自分が無意識に他人の表情や声色から判断して、発する言葉を決めているのだという事に気が付いた。
 それが分からないのなら、自分の心の内にある言葉を正直に話そうと明依は息を吸った。

「私はまだ、この街にいたいです」
「安心していい。足はつかない。ほとぼりが冷めた頃に、名前を変えてひっそりと生きていけばいい」
「私はこの街で、堂々と生きていきたい」

 その言葉を聞いて呆れたように溜息をついたのは終夜だった。

「大見世の妓楼でちやほやされただけアンタを、どう扱えばいいの?アンタはあの妓楼の中で守られていたから生きていけた。小見世で安い金でまわされる女の気持ちなんて、世間知らずには想像も出来ないだろ。吉原にとってはお荷物。いらない人間だ」

 客を取れない人間はいらない。それは確かに、その通りだろう。しかしその言葉は上辺だけのもので、終夜の本質ではない事は分かっていた。
 『この傷はあなたを恨んで付けたものじゃない。寧ろ……』その言葉の続きは、何となくわかっていた。終夜に何が何でも、この街から明依という人間に消えてほしい。それは本当に宵に、つまり国に有利に傾かないという事だけが理由なのだろうか。
 宵が警察官だと告げた時、『外には自由がある』と終夜は明るく見える希望を話した。それが本質、とも思えない。
 騙されていると知らずに宵と一緒になろうとする女を、不憫にでも思ったのだろうか。他人に対して興味もない終夜が。

「黎明。この街に来る客は、お前の思っている以上に女の見てくれを気にする。胸の中央についた傷は、隠すわけにもいくまい。逃げ出すのも勇気。時にはそれが正解の場合がある。身に危険は及ばない事は私が約束しよう」

 身の危険なんて、吉原の方が多いに決まっている。この短期間で終夜に殺されかけて、晴朗に殺されかけて。知らないうちに利用されて、宵の都合のいい駒になって。身体に傷までつけられた。

「……そんな事、どうだっていいんです」

 どうでもいい、心底どうでもいい。今更そんな事とただ伝えたかっただけなのに、感情がどっと溢れて乗った声は震えていた。

「この傷を受け入れる覚悟はできています。だから、心ない言葉を浴びせられても構いません」
「傷物の女に、商品の価値はないよ」
「傷があるからって、私の価値が無くなるわけじゃない」

 終夜は明依の言葉を遮る様に告げるが、明依は終夜が言葉を言い終わるより前に、はっきりと言い切った。

 『わかってんのか、次はお前の番って事だ』
 『同じ妓楼から二人の大夫が出る事も初めてなんだよ?三人目は、』
 『それは、前例がないだけだろ。なけりゃ、作ればいいんだ』

 旭の言葉を真に受けてはいなかった。それが気が付けば、目前まで迫っていた。今更一つ課題が増えた所で、それが一体何の枷になるというんだろう。

「前例がないなら、自分で作ります。だから私の人生を、勝手に決めないで」

 終夜という人間に触れて湧き出た形容し難い感情が、形を変えて思考に触れる感覚を心の内で噛みしめて、感じている。
 この背中を、日奈と旭が見ていてくれたらいいのにと願う。

「……聞いていた話と随分違うな、終夜」
「高尾大夫」

 小さく舌打ちをした終夜が、高尾の名を責めるように呼んだ。
 高尾はしばらく黙り込んで、それから小さく息を吐いた。

「黎明。お前はその傷を、客に何と説明する?」

 その回答には興味があるのか、無表情の梅雨は一点を見つめていた視線を明依に向けた。逆に終夜は溜息を吐き捨てて視線を逸らした。

 旭が死ななければ、宵が頭領候補になることはなくて。宵が頭領候補にならなければ終夜が身体に傷をつける事はなくて。終夜に傷つけられることがなければ、彼の過去に触れる事も、無表情の裏側を言い当てる事もなかっただろう。

 心は自分だけのものなのだから、どんな経路をたどってこの感情に落ち着いたのかくらいは、わかりやすくたどれるようにしておいてくれないかと思った。
 明依は嘘偽りない笑顔を作って、高尾を見た。

「心から愛した人に付けられた傷だと話します」

 空気が変わったと、そう明確に感じた。高尾の顔が少し上がって、梅雨は目を丸くした。終夜も梅雨と同じ様な顔で明依を見ていた。

 愛した人達の言動が、巡り巡ってこの傷をつけた。それなら過去の理不尽なんてもう、昇華してしまったらいい。

 過去の出来事さえ養分にして、心の内に花が咲く。

「ただ客の相手をしているだけでは個性が紛れるのが、吉原です。そういう遊女が一人くらいいても、おもしろいじゃないですか」

 ここは今、黎明という遊女の独擅場だ。
 シンと静まり返った部屋の中で、高尾がゆっくりと息を吸った。

「確かにその考えは興味深い。それでお前はその胸の傷を客に晒してでも客の相手をすると。そういう事だな」
「高尾大夫」

 どこか楽し気な口調でそういう高尾に、終夜は珍しく焦ったような声で高尾の名を呼んだ。

「だが、それを新たな試みだと思うのなら、とても残念なことだが諦めた方がいい」

 高尾はそう言うと、頭と顔を覆っている布に手をかけた。これから高尾がしようとしている事を理解して、ドクリと心臓が鳴った。終夜と梅雨は、先ほどよりも目を丸くして高尾を見ていた。

 高尾が自ら取り去った布からサラサラとこぼれ出たのは、ちょうど今日の月の様な白にも黄にも見える薄い色だった。暖色をそのまま反射するほど、透き通った白い肌。顔を上げた事によって見えた左顔面を覆うような痛々しい火傷の痕。薄い色素の瞳の中で泳ぐ暖色の光が、息を呑むくらいに美しかった。

「悪いが、前例は既にある」

 それは、異世界に迷い込んだと錯覚する程。