医者はすぐに外出用の上等な着物を準備してくれた。もしかするとこれは同じ人物に似た感情を抱いた人間への餞別なのかもしれないと思い、ありがたく受け取った。それを籠の中に入れて、ベッドの下に隠した。

「傷の具合はどう?」
「うん、順調に塞がってるって先生が」
「そうか。よかった」

 ここに運ばれた日から数日、宵は毎日見舞いに来た。この目が回る程忙しい時期に。そんなに来なくていいと言っても、「俺の好きにさせて」という宵に押し負けて、退屈な明依の時間を埋めるように他愛もない話をしている。

 『俺は、こういう事こそ一緒に考えていきたいって思ってる』と先日言った宵の言葉に誠実さを感じた。それから階段から落ちそうになった時に顔を逸らした宵の表情も。互いを利用する関係で側にいたのだとしても、時間が経てば本当に心から好きだと思っていたのではないかとすら考えていた。
 その考えの外側では、それすら宵の手中かもしれないという思いがある事も事実で。遊女として価値なんてもうないくせにそんな考えが浮かび上がるのだから、多分、素直にはなれない。

「また考えてた?終夜の事」
「違うよ」

 あっさりとした様子でそういう宵に、明依は笑いながら首を振った。

「そんなにいつもいつも、終夜の事ばかり考えてないよ。宵兄さんにもわからない事ってあるんだね」
「あるよ。明依が思っているよりたくさん」
「例えば?」

 終夜との関係も不思議だが、宵との関係も同じくらい不思議だ。騙していた人間と騙されていた人間。普通こんな時、どんな感情になるのだろうか。

「明依の本当の気持ちとか」

 その言葉にはなんだか、寂しさも混じっている気がした。宵は薄く笑っているのに、悲しそうで。読めない表情をしていた。
 互いに利用する関係なら、傷がついた時点で利用価値はないと判断してもいいはずだ。それなのに毎日忙しい合間を縫って会いに来てくれる。全部委ねてしまえたら楽だろうななんて、また弱気な自分が顔を出す。

「それが分かるなら、私の心を読んで教えてほしいくらいだよ」

 明依がそう言い終わると宵はふいに立ち上がった。急にどうしたのかと宵の顔を見ると、彼は唇を押し付ける様に明依に口付けた。唖然としているうちに唇は離れて、宵と目が合った。

「嫌?」
「嫌じゃ、ないけど」

 どうして。と続くはずだった言葉は、宵の唇が降ってきた事で遮られる。意図的に言葉を遮ったのではないかと思うくらい短い口付けの後、またすこし唇が離れた。

「明依がこのまま消えちゃうんじゃないかと思って」

 彼にしてはあまりに抽象的。死ぬとか、この街から去るとか、そういう意味か。それとも本当に霞の様に消えてしまうのではと、非現実的な事を思っているんだろうか。
 そんなことを考えている間にもう一度、今度は押し付ける様な口付けが降ってくる。それから宵の腕の中に納まった。
 穏やかで、ぬるま湯につかっている様な心地よさは、なんだか泣きそうになる。
 偽りでもこんな暖かい世界を見せてくれる宵にも、もう二度と会えないかもしれない。

 明依が背中にそっと腕を回すと、宵は強い力で抱きしめ返してすり寄る様に少しだけ顔を寄せた。それがなんだか遠慮がちに甘える子どもの様で、どっと溢れたのは間違いなく愛しさなのに、その色はわからない。ただ、大切な人だと知っていた事を思い出させただけ。

「話せない?あの座敷の中で、何があったのか」

 その言葉で、少し息が詰まった。きっと終夜はここに来ると、宵に言ってしまおうか。それを止める事ができたら、夏祭りが終わるまでに松ノ位に上がるという目的は達成できるかもしれない。
 一瞬、頭に過った。それなのに実行しようとは思えないのは、どうしてだろう。口にしろと言われても、明確には言葉にできないだろう。

「話せない」
「……そうか」

 頭の中にはあの座敷の中、意識を飛ばす前に見た終夜が浮かんだ。どこまでも無機質な顔。あの表情の向こう側で彼は一体、何を考えているんだろう。
 自分の腕の中で別の男の事を考えている事を、宵は知っているだろうか。
 宵は強く強く明依を抱きしめた。傷口に響くくらい、強く。それからふっと、力を抜いた。

「明依」

 宵はそう言うと、身体を離して明依の頬に口付けた。思わず口付けられた頬に触れて勢いよく俯いた。唇にキスされる事なんて何とも思わないが、頬に自然にキスされるなんて性的対象の遊女には稀な訳で。それを仕事ではない時に、ごく自然にされるなんて、ときめかないはずはなくて。
 真っ赤な顔を隠すようにただ俯いている事しかできなかった。

「少しは意識してくれた?俺の事」

 俯く明依を覗き込むように見る宵に、明依は思わず顔を逸らした。しかし宵は明依の頬を両手で包むように触れると、無理矢理自分の方を向かせた。

「ちょっと待って」
「いやだ」
「今、顔赤いから!」
「知ってる」
「本当に待って!!恥ずかしい!!」
「知ってる。知っててやってる」
「意地悪いよ!どうしたの!宵兄さん!!」
「だって、割と本気でムカついてるから」

 言動の全てが、いつもの宵じゃない。だからいつもならどことなく引く一線さえもなくなって、最後に発した宵の言葉をしばらくの間考えていた。

「夏祭りに行った日。あれだけ話して一緒になろうって言ったのに、俺の正体を知って全部嘘だったんだって勝手に結論付けてる明依に、ムカついてるから」
「……それって、多分だけど、自業自得……」

 本気か冗談かわからない様子の宵に、明依は本心をぼそぼそと呟いた。
 頬を包むように置かれた手を拒む為に、両手でそれぞれの手首を強く握っていたはずなのに、宵が余りに突拍子もない事を言い出すからその手は今となっては添えられているだけだった。

「終夜の言った事が俺の全部じゃないって、そろそろ気付いて」
「どういう意味?」
「そのままの意味」

 宵の本心なのだろうか。これほど真っ直ぐに言われたら、例え後から嘘だと言われても信じられないかもしれない。そんなことを考えていると知られたら、叱られてしまうだろうか。

「明依と一緒にいたい。だから、明依を守りたいって思ってるよ。でも状況を教えてくれないと、助けてって言ってくれないと、何もできない」
「……助けてもらわないといけない事なんて、何もないよ」

 明依は射抜くように真っ直ぐに見つめる宵の目を見て、はっきりとそう言った。
 助けてほしいとは思ってない。それは自分自身が終夜を敵と思っていない事と同じ意味だった。

「何もない。だから信じて。宵兄さん」

 そう言って笑顔を作る明依の顔を宵はじっと見つめる。

「本当に、信じていいんだな」

 こくりと一度だけ頷いた。
 もう二度と会えないかもしれない大切な人を欺いた。でも、どうしてだろう。後悔は一つもなかった。彼からたくさんの思い出をもらったからだろうか。いい事も、勿論、悪い事も。

「いつもお見舞いに来てくれてありがとう。また明日ね、宵兄さん」

 自分に明日なんかない事をわかっていて、手を振って嘘を吐き捨てる。

「ああ。また明日」

 宵はそう言って去っていった。もしかすると宵は何か勘付いているのかもしれない。でもこの吉原は、終夜の領域だ。終夜に分がある。どうしてそれに、心底安心しているんだろう。

 もしかして自分は終夜にさらわれたい願望があるのかと冷静に考えてみたが、やっぱりそれはなさそうだ。円満に解決できることなら、この街で夢の続きを追いかけたい。
 明依は宵が戻ってこない事を確認すると、ベッドの下に隠しておいた着物を身に着けた。

 それから、ベッドに座ったまま夜を待つ。
 『終夜って、どんな人なの?』
 『終夜はね、いつも笑ってるよ』
 まだ終夜を知る前に問いかけた時、そう言った日奈を思い出した。終夜は確かにいつも笑っている。それなのにどうしてあんなに冷たい顔をするんだろう。

 建物と建物の間に月が浮かんだ頃、浮雲に途切れた後でまた月が見えた。窓辺から目の前に視線を移すとそこには終夜がいた。
 やっぱり、あの無機質な表情をしている。

「そんな格好してどこいくの?」
「来ると思って待ってたの。終夜の事」
「……やっぱアンタ、狂ってるよ」
「めそめそしてると思った?」

 終夜はバカにしたように乾いた笑いを一つ漏らす。

「バカな女。宵に正直に話していたら、助かったかもしれないのに」
「ねえ終夜。終夜から見た今の私もさ、松ノ位にふさわしくないって思う?」
「お生憎様(あいにくさま)。そんな表立った評価は、俺の仕事じゃないんだ」
「でも私、終夜にも認めてほしい」
「そういうくだらない感情を、承認欲求って言うんだよ。俺がアンタを認めて、何になるの?」
「わからない。でも私、それでも終夜に認めてほしい」
「……あのさァ、俺に誰の面影を見てるの?日奈?それとも、旭?この際だから、はっきり言ってあげるよ。俺達の関係は、世間一般の友達なんて呼べる程のものじゃない。ただの幼馴染。知人って言葉でも事足りるよ」
「でも二人は信じてたよ。終夜が悪人じゃないって事」
「まだ他人の人生、生きてたんだ。そろそろさ、自分の目で見て物事を判断できるようになったら?」
「……その言い方、ムカつく。私が泣いてないって知った時、ちょっと安心したくせに」

 明依がそう言うと、終夜は目を見開いて明らかに視線を揺らした。

「夏祭りの時、私のお願いを聞いてくれた。宵兄さんが警察官だって私に言った時、最後に『ごめんね』って言った。花魁道中が成功した時に残念で仕方ないなんて言いながら、なんだか柔らかいって言うか、優しかったの。……私から見た終夜は、そういう人だよ。終夜から見た私は、ただのバカ女だったかもしれないけど、何も考えてなかったわけじゃないよ。自分で判断しないといけないところは、自分で判断できる。だから言ってるの。二人は信じてたんだよって」
「だから女は面倒で嫌いなんだ」

 舌打ちを一つした後、終夜は吐き捨てる様にそう言った。

「すぐに相手に期待する。で、その期待が外れたら、全部まとめて他人のせい」
「でも女は嫌いな人間に期待はできない生き物だって、知ってた?」

 色がなくて冷たい、無機質な表情。感情の全てを殺した様な。淡々した口調。ただ景色を反射しているだけの瞳。
 何度も終夜のこの表情を見てきた。それは今になって、胸を抉る程、堪らないくらい、悲しい表情の様な気がした。

「また、そんな顔する」
「は?」
「その冷たい顔」

 そういうと終夜は、どこかぽかんとした表情を浮かべた。

「表情を作る余裕がないとき、終夜は無意識にそんな顔をするの」

 確信はなかった。ただ、そんな気がして吐いた言葉に、終夜は目を丸く見開いた。まさか自分が終夜の心の内を言い当てるなんて思っていなかった明依は心底驚いたが、それを態度に出さない様に努めた。それから終夜は取って付けたように乾いた笑いを一つ漏らして、いつもの飄々とした態度を作った。

「なに?今日は随分、積極的だね。知りたくなったの?俺の事」
「別に。……もう全部、アンタにくれてやったから。怖いものなんてないし、言いたい事言ってるだけ」
「そういう所が可愛くないんだよ。……覚悟できてるなら、さっさと行くよ」

 廊下には月明かりが照っていた。廊下に倒れている数人が着ている夜に紛れる様な黒い服は、終夜が朔を殺した時に見たものと同じ。陰の服だった。

「こいつらみたいにアンタも眠ってた。で、起きたら黎明はこの場所にはいなかった。って事にしといて」

 明依の少し前でそういう終夜の声を合図に、一つの部屋から出てきたのは明依の担当医だった。

「まだ完全にふさがっているわけじゃない。無理に動かしたらいけないよ」
「わかってるよ」

 終夜は見向きもせずにそう言うと、あっさりとその横を通り過ぎた。

「お世話になりました。着物、大切にします」

 明依は医者に深々と頭を下げた。何か言いたそうにしているが言葉にならない様子の医者の気持ちは、何となくわかった。
 自分でもあれだけチャンスがあったのに誰にも助けを求めず、この男について行く選択を取った事が正解なのかは、未だにわからない。

 終夜に会ってみれば何か答えが出そうだなって思ったが、なんて事のない答えだ。
 終夜の心の一部に触れられたようで、嬉しかった。ただ、それだけ。

 もしかするとこうやって従順について行くのは、終夜から逃げたと思われたくなかった。そんな意地なのかもしれない。はたまたさっきの様に、終夜ともっと深い部分で分かり合える様な気でもしたのだろうか。

「悔いが残らない様に、よーく見ときなよ。最後の常世(とこよ)の景色だ」

 月明かりが落ちた街を背に、吉原に来るときに旭が言った言葉と似た事を、終夜が言う。