日の光を余すことなく集めた様な、温かさだけを抱いた様な世界の中にいる。日奈が笑っている。それを見た旭が、慈しむような優しい笑顔を向けている。
 そうか。やっぱり今までの事は全部悪夢だったのか。そりゃそうだ。そうじゃないと精神的にもつはずない。そう思った後、心の内が反発するようにもやもやした。
 日奈と旭が遠くにいる誰かに向かって大きく手を振って、手招きをした。一向にこちらに来ない誰かの元に、旭が駆け寄っていく。日奈に手を引かれて、走った。誰だろう、あの人をよく知っている気がする。日奈の手を握り返して、自分の足で走った。まだぼやけて見えない、誰かの所へ。それは本当に、本当に純粋な好奇心だった。

「終夜」

 二人が呼んだ名前に心臓が大きく跳ねて、立ち止まったと同時に日奈の手が離れた。まるで割れた水風船の水が勢いよく飛び散る様に、複雑で残酷な現実世界の感情が内側から湧き上がってくる。

 目を開けると、見慣れない天井がある。ここは、どこだ。

「明依!」
「……宵兄さん」

 明依は椅子から立ち上がって手を取る宵を見て、ゆっくりと息を吐いた。

「ここ、病院?」
「そうだよ。よかった、本当に」

 吉原の中には病院がある。基本的に医者が妓楼に来て遊女を見るため、病院に入るのはこれが初めてだった。
 これだけの怪我をしても吉原の外には出られないのだと思うと、藤間の身請けも終夜の提案も遊女には奇跡の様な話だったのだと認識させられる。同時に、それが原因でこの場所にいる自分が、なんだか少し馬鹿らしく感じた。

「身体に傷がついたの。痕が残ると思う」
「今気にする事じゃない」
「気にする事だよ。私はこの身体を使って、この街で生きて来たんだから」

 明依は宵に握られていない方の手で、恐る恐る傷口があると思われる場所に病衣の上から触れた。宵は強く、明依の手を握った。

「俺は、こういう事こそ一緒に考えていきたいって思ってる」

 明依は思わず乾いた笑いを漏らした。自分の感情がどこにあるのか、悔しいのか悲しいのか怒っているのか、分からない。ただ少し、投げやりになっている事はわかった。
 いいのに、そんな言葉。商品としての女の価値がなくなった。それは宵にとって、黎明という遊女に用はないという事だ。上辺だけの言葉なんて必要ない。
 そう言ってやろうと思ったのに

「明依に嘘ばかりを吐いて来たつもりはない。俺は今、本心を話してる」

 思わず口をつぐんだ。続いた言葉は、宵を利用すると話した時と同じ言葉だったから。それだけじゃない。宵があまりに真っ直ぐで真剣な目をしていたから。

「目が覚めたか、明依」

 そう言いながら部屋の中に入ってきたのは炎天だった。その後ろには、吉野と清澄がいる。三人は明依のベッドを囲むように立った。

「痛みはない?」

 吉野は思わずふっと息を抜いてしまうくらい優しい顔で微笑みながら明依に問いかけた。

「はい、ありません。ご心配をおかけしました」
「その傷をつけた人物は見事な腕前ですな」

 最後に部屋の中に入ってきたのは、恰幅のいい初老の男だった。

「傷は破ける様に裂けてしまうと治りが遅い。黎明さんの傷は胸の中央から肩口までぶれる事なく真っ直ぐに切られている。本当に見事という他ない」
「先生!感心している場合ではありませんぞ!」

 興奮気味に語る医者に、炎天は大きな声で制した。

「申し訳ない。あまりに綺麗な傷口でつい」

 医者は申し訳なさそうに笑いながら頭を掻いた。

「言え、明依。誰にやられた?」

 医者から視線を移すと、炎天は睨む様な視線を向けていた。

「お前の身体に傷を付けたのは誰だ?」

 ピンと糸が張った様に、空気が張り詰めている。わかっているくせに。そう思った。みんなこの傷を誰が付けたのかなんて、聞かなくてもわかっているはずだ。炎天はただ、確信が欲しいだけだ。終夜を消す、明確な理由が出来るから。

「知らない人でした」

 はっきりとした口調でそういう明依の言葉に、その場にいる全員が息を呑んだ。自分でも余りにはっきりと出た言葉に驚いたくらいだ。

「明依!!!」

 炎天は眉と目の間をぐっと縮めて、責める様に叫ぶ。
 当たり前の顔をして嘘を吐く。誰もが気付く嘘だ。

「本当に知らない人でした。顔も見た事はありません」
「これ以上、明依ちゃんを巻き込むのはやめよう」

 明依の言葉を待ってすぐに口を開いたのは清澄だった。

「元をたどれば、宵くんを頭領にしようとして始まった松ノ位昇進話だろう。松ノ位どころか、遊女として致命的な傷を負わせてしまった。もうやめよう。これ以上、いたずらに人を傷つけるのは」
「お前は終夜を見捨てられないのではなかったか、清澄。まるで終夜が明依を切ったと断言するような言い方だな」
「身体に傷がある遊女が小見世で客からどんな扱いを受けているのか、炎天も知ってるだろう」
「じゃあ他にどうする。今更俺やお前が頭領になったところで、ついてくる人間なんて限られている。宵しかいないんだ。その立場を揺るがせない為に満月楼三人目の松ノ位が、明依の昇進が必要だったんだ。この計画には吉原の未来がかかっている」
「清澄さん。お気遣い感謝いたします」

 決して大きくはないのに、空気をすっと裂く声は吉野のものだ。それは鈴が静かな場所で一度だけ音を鳴らす様子に似ていた。

「炎天さんも、明依を松ノ位にふさわしいと認めているからこその言葉だと、私は感じました。しかし明依は巻き込まれたとも、ましてやあなた様方を恨んでもいないでしょう。責任は全て明依にあります。一見客の危険を察知できなかった事も、胸に傷がついた事も、これからの事も全て」
「しかし吉野ちゃん……」

 清澄はちらりと明依を見て言いにくそうに口ごもった。

「なのでどうか。申し訳ないと詫びる程の思いがあるのなら、正当な立場で正当な評価をしていただきたい」

 二人の目を交互に見て告げる吉野の思いは、すっと心に溶け込んでくる。吉野は瞬きを一つすると明依を見た。そして優しい顔で微笑む。その時に気付いた。吉野は終夜の話題から話を逸らしてくれたのだと。
 もし自分と同じように雪が身体に傷を付けられたら。明依はその人間を許す事が出来ないだろうと思った。しかし吉野は、心の内をすくってくれる。本当に味方でいてくれているのだと思うのは当然の事だった。それからぽつりと、胸に灯る何かがあった。それは胸の内でくすぶっている。
 でもそれは、灯ったとして何になるのだろう。

「傷口を見たい。皆さん、今日の所は」

 医者がそう言うと、四人はそれぞれ部屋を出て行った。それを見届けた後、医者は明依に向き直った。

 明依は病衣の衿を腹部まで下げた。初めて見る自分の傷は、思っていたよりも細い線だった。もっと赤紫で爛れた様子を想像していたからか、派手ではない傷の様子に拍子抜けしたくらいだ。

「私はもう何十年もここで医師をしている。だからたくさんの傷を見てきた。刀傷も銃の傷も。だけど、これほど優しい傷跡は見た事がない」
「それは……どういう事ですか?」

 明依は思わず傷口から医者に視線を移す。彼は明依の傷口を宙でなぞる様に人差し指を動かした。

「傷跡を残す為だけの刀傷だ。外科手術の切開の様に、治癒することを前提に真っ直ぐひと思いに切ってある。抵抗はしなかったのかな」
「……毒を飲まされました。神経毒と」
「神経毒。言い方を変えれば、麻酔。痛みや熱が出ないのも、そのおかげだ」

 医者から視線を逸らしたが、視界なんてもはや脳に何の情報も送っていなかった。聴覚以外の全ての情報を遮断して、終夜がいたあの座敷での事を思い出していた。

「それからね。この傷口じゃあんな大袈裟に血は出ない。あれはほとんどが血糊。偽物の血だ。おそらく切りつける前にあなたの着物に仕込んでおいたんでしょうね。混乱させて意識を飛ばしてしまおうという魂胆だったのかもしれない」

 医者はなぜか、優しい顔をしていた。どうしてそんな顔をしているんだろう。そう明依が考えている途中で、医者はどうぞ、とでも言うように手を向けた。はっとした明依は、病衣を肩まで上げて胸元を隠した。

「私にはわかるよ。これは誰が付けた傷なのか。どうしてあなたがそれを、口にしたくないのか」
「どうして、分かるんですか」
「黎明さん。人間というのはね、残酷だけど生まれ持った遺伝子である程度の事は決まってしまうんだ。身長も体格も、性格や得手不得手まで。でも、それを覆してしまうものがある。それは努力だ。努力を努力だと忘れてしまうくらい長い時間が必要になる。強さや技術というのは、一朝一夕では絶対に手に入らない。自分を律して鍛え上げる事が出来る人間は何人か知っているよ。ただ、これを実行するだけの技術を持った人間も、こんな方法を選ぶ不器用な人間も、私の知る限り一人しかいない。……こんな事をネタばらししたと彼に知れたら、私も命を狙われてしまうかな」

 最後の言葉を戯けた様に言う医者に、明依は思わず笑顔を浮かべた。間違いなくこの医者は終夜の事を話している。将来を奪った人間の話を聞きたいと思うなんて、やはり自分はどうかしているのではないかと、頭のどこかで思った。

「幼いころの彼をよく知っているよ」
「彼はどんな子どもでしたか」
「陰の訓練は、死人が出る程厳しいと聞く。彼は来る日も来る日も人一倍励んでいたよ。いつもどこかケガをしていた。まだ友達と遊んでいたい年齢だっただろうに、何に焦っていたのかねェ。傷を作っては『どうやったらすぐに治る?』って言うんだ。ある日私が、治療は手助けにしかならないからまずはしっかり休みなさいって言ったら、その日は黙って帰って次の日に小さな傷をいくつか増やして分厚い専門書を抱えてやってきた。『傷が段階を経て治癒するなら、それを効率化することはできるはずだ。それが知りたい。でもアンタは役に立たないから、自分で勉強する』って生意気な事を言うくせに、私に沢山の事を聞きたがった」

 あまりに終夜らしい言葉選びに、明依は思わずくすりと笑う。ただ、終夜にも知らない事があるのだと、改めて同じ人間だと感じた。

「隠れて彼を心配している人間は意外と多い。ただみんな、口に出すことができずにいる。……遊女のあなたにこんなことを言うのは酷かもしれない。ただ、私が保障してもいい。この傷はあなたを恨んで付けたものじゃない。(むし)ろ……」

 そう言って言葉を止めた医者は少し俯いた。寧ろ、なんだろう。しかし医者は「いや」と小さく首を振った。その顔はなんだか、穏やかだ。どうして、そんな顔をするんだろう。それから医者は細く長く息を吐いて、どこか真面目な様子で明依を見た。

「黎明さん。期待させるような言い方はしない。はっきり言うと、傷口はすぐにふさがるが、痕は残ります。これは吉原に長年勤めた医師として個人的な意見ですが、遊女として生きていく事は考え直した方がいい。心の傷は、身体の傷より厄介です」
「……わかりました。ありがとうございます」

 医者はそう言うと病室を出て行こうと振り返る。同時に若い男が入ってきた。

「今日は往診があったかな」
「薬の説明が済んだら、僕が珠名(たまな)屋に行きます」

 すれ違いざまにそう会話をした後、男は明依を見て穏やかに笑った。

「今、痛みはありますか」
「いえ、ありません」
「そうですか。よかった。しばらくすると傷が痛んでくると思いますから、薬の説明をしますね」
「はい」

 ふっと息を吐くと、傷口が少し痛む気がした。男が薬の説明を始める。

 終夜はこの病室に来るだろう。状況を整理して遊女として生きていくことは出来ないと諦めた頃に。終夜の想像では、そこにどんな〝明依〟がいるのだろう。どうして、どうして、と自分を責め立てて泣き叫んでいる女がいるのだろうか。それとも全てを諦めて色をなくし、従順に従うだけの女だろうか。

 終夜は、きっと知らない。
 数日で綺麗にあっさりと諦められる程の思いなら、恐怖の対象〝吉原の厄災〟に抗ったりしないという事も。将来を奪った男に対して吐き出す恨みが湧いてこないという事も。だからと言って答えが出ているわけではない事も。会って終夜の顔を見れば何か答えが出そうだと思っている事も。全部。

「では、僕はこれで」
「お願いがあるのですが」

 踵を返そうとする男にそう言うと、男は不思議そうな顔をして明依を見た。

「先ほどのお医者様にお伝えいただけませんか。外着を一枚、準備していただきたいと」
「ええ、伝える分には構いませんが。……しばらく外出はできませんよ」
「わかっています」

 男は病室を出て行った。あの医者なら、状況を理解してくれるはずだ。終夜は近いうちに必ずこの病室にあらわれて、この吉原から黎明という存在を消し去るつもりだ。
 従う他ないだろう。力でも頭脳でも勝てないのなら、せめてありふれていない情調を。
 明依は今確かに、自分という人間の本質に触れていた。
 あの男の思い通りになんて、なってあげない。