「何を飲ませたの」
「何だと思う?毒かな。薬かな」

 状況が理解できないままの明依がやっと一つ目の疑問を口にすると、終夜は楽しそうに笑いながらそう言った。

「叢雲が犯人だって宵に言った。ダメだよ。人との約束は守らなきゃ」

 余裕たっぷりの様子の終夜に見下ろされて、明依は視線を逸らすことが出来なかった。

「今日は答えを聞きに来たんだ。この街から逃げるかどうか」

 答えを聞こうとするくらいだ。おそらく飲まされた何かは命に関わるものではないのだろう。終夜の性格と行動を結び付ける事が出来るくらいにはこの男と関わっているのだと、明依はこんな状況でほんの少しだけ冷静になっていた。

「吉野姐さまの身請けは延期したくせに、何で外に出させようとするの」
「言ったろ。アンタが邪魔だからだよ。黙って藤間の身請け話を受ければよかったのに。あんな好条件をどうして断ったんだか」

 終夜はどうしても、満月屋から三人目の松ノ位を出したくないらしい。藤間の提案した身請けの話を知っている事は意外だったが、今更驚くことでもない。この男が何でも知っているのは今に始まった事じゃない。

「満月屋から人を逃がさないんでしょ」
「俺がいいって言ってるんだよ」

 なんて傲慢な男なんだと終夜を睨んだが、彼は意に介さず笑顔を張り付けているだけだった。

「あとまさかとは思うけど、吉原を解放したいなんて考えてるわけじゃないよね」

 問いかけるようでいて断定的な言葉に、明依の心臓は思わず音を立てた。

「吉原の解放。それはつまり松ノ位に上がるって事だ。この上なく宵に有利になる。そんなことを許すと思う?アンタはもう少し賢いのかと思ってたよ。俺がなんて言ったのか覚えてないのかな」

 そう言うと終夜は不気味な程綺麗な顔でニコリと笑った。

「消される覚悟があるってことでいいよね」

 気圧されている。そう実感しても、息が詰まる感覚から逃げる事が出来なかった。
 夏祭りで水風船を取ってくれた終夜の面影はない。おそらく今、終夜に命を握られているのだという事が、嫌でも認識させられている。

「で、全部につながる話なんだけど吉原から逃げる?逃げない?大切な話だよ。これでアンタの人生の大半が決まると言ってもいい。どういう意味か、わかるよね」
「国はただ、不安なだけよ」

 絞り出すような声で言う明依を、終夜はどこか冷めた表情で見ていた。

「自分たちの外側でこの街が動いていて、秘密を握られているのが不安なだけ。だから、悪い様にはならない。私は吉原を解放したい。それがみんなの幸せにつながるって、私はそう信じてる」
「まだいいように丸め込まれてるんだ。俺はアンタを試したんだよ。叢雲が犯人だって伝えて、宵に言うのか言わないのか。それでアンタは宵を選んだ。で、今もまだ洗脳されたまま」
「そうじゃない。私は自分の意志で、」
「いいよ、もう。もうアンタには期待しない」

 ぐっと込み上げたなにかに身を任せると、涙が溢れる事を知っていた。明依は歯をぐっと食いしばった後、息を吐いた。

「終夜は私を、誤解してる」
「誤解?それってどんな?」
「自分の意志なの。洗脳なんてされてない。まだ、この街にいたい」

 どんな風に説明したらいい。たくさんの理由が絡んでいる。その中には終夜に危険な目にあってほしくないという願望もあって、だから宵に利用されていると知っても覚悟した。自分はどんな場所でも幸せになれると言い聞かせた。雪を守ってあげたい。あの施設の子達や、双子の幽霊を自由にしてあげたい。
 そんなタラタラと長い話に、終夜は耳を傾けないだろう。

「お願いだから、邪魔しないでよ」

 みっともない程声を震わせて呟いた一言は、心の底からの願いだった。
 終夜は何を思っているのか、溜息を一つ吐き捨てると立ち上がった。急に身体が軽くなって、明依は大きく息を吸い込んだ。

「生花の吉原遊郭では、武士たちは刀を預ける決まりになっていた。だから座敷の中に刀が飾られてるなんて、あり得ないんだよ。前もって本物にすり替える人間がいるなんて考えもしないんだろうね。自分たちがどれだけ危険な場所に足を踏み入れているのか気付きもしない。本当に平和ボケしてるよ。この街も、この国も」

 終夜は床の間に飾られている刀を左手逆手で掴んで持ち上げた。右手で柄を握ると、鞘は重力に従って畳の上に落ちた。
 逃げないと。そう思っているのに、身体が動かない。

「神経毒だよ。身体は動かない」

 終夜は刃を光に当てて確認しながら近寄ってくる。その動きが妙に生々しく、脳内に直接叩き込まれてこの状況を認識している様な錯覚に陥っている。

「人を殺すって言うのは、案外労力がいる。どうしてかわかる?」

 終夜はすぐそばにしゃがみこむと、明依の顔を覗き込んだ。

「害を与えられると思ったら、抵抗するからだよ。火事場の馬鹿力ってヤツ。アドレナリンって神経伝達物質が血中に過剰分泌されて、本来人間に備わっているリミッターが一時的に外れるんだ。あれが厄介なんだよ。夢中になっているときに怪我をしてもしばらく気が付かないのは、そう言う事。相手が女だろうが子どもだろうが、抵抗している人間を殺すのは労力がいる。だったら最初から、抵抗させなければいい」

 身体は動かないし、動いたとしても終夜相手に逃げられるはずもない。ここで死ぬんだ。そう思うと不思議と、身体中の力が抜けた。
 自分のやりたかった事が頭の中を駆け巡る。そしてプツリと途切れた後、頭に浮かんだのは日奈と旭の顔だった。それは、予想していなかった感情を連れてきて目を閉じた。

 はやく、日奈と旭に会いたい。

 もしかするとこれは現実から逃避するための一種の手段なのかもしれないし、自分の内側に今もまだ潜んでいた本当の願いなのかもしれない。

「でも俺は殺すとは言ってない。〝消す〟って言ったんだよ」

 瞼を上げた明依と目が合った終夜はニコリと笑った。

「世の中には、死よりも辛い事が山ほどあるって思わない?遊女にとって致命的なのは、男に晒せない身体になるとか」

 終夜はそう言いながらゆっくりと立ち上がると明依を跨いて立ち、切先を明依の胸の真ん中に当てた。

「ねえ、明依。どんな未来を期待したの?」

 意地悪な顔で笑う目の前の男は、本当に夏祭りで黙々と水風船を取っていた人間と同一人物なのだろうか。
火のない所に煙は立たないとはよく言ったものだ。やはりこの男は〝吉原の厄災〟という名にふさわしい。

「最後にもう一度だけ聞いてあげる。この街から逃げてみる?」
「逃げたくない」
「身体に傷があるなんて、遊女にとっては致命的だ。客足が遠のけばいずれ満月楼にもいられなくなる。わかる?この状況に誘い込まれている時点で、勝ち目なんてなかったんだよ。松ノ位も余計なことをした。凡人に中途半端な夢を見せるから、大多数からはみ出してこの街の当たり前に抗ってしまった。勝てもしない人間に刀を向けられても、怖がる感覚さえ麻痺してる」
「勝つとか負けるとか、そんな事考えてない」

 そういえばいつか、こんなことを思った。きっと脳みそは終夜を〝悪人〟だと認めるつもりなんてない。本気で殺されかけて人生をめちゃくちゃにされる位の事があれば、話は違ってくるかもしれない、と。

「勝てなくていいよ。生きていてくれるなら」

 それがどうしていつどこでどう変わったのかは知らないが、死よりも過酷な未来を生きろと言う終夜を、悪人だと認める事は出来そうにない。
 明依はせめて終夜の目をまっすぐに見た。彼は顔色一つ変えずに、代わりに表情を消した。無機質な顔で明依を見ている。

「アンタの性格は大体わかってると思ってた。でも、どうしてこの状況でもそんな真っ直ぐに俺を見てるのか、全く理解できないや」
「私は終夜が悪人じゃないって、この状況でもそう信じてるから」

 感覚のある指先が震えているのが分かる。怖い。身体に傷がつくことも、激痛が走ることも全て。終夜はそんな明依の様子をちらりと見た後、溜息を吐き捨てた。

「人間は慣れる生き物だと思うけど、裏切られる事にはそろそろ飽きたら?」

 冷たくそう言い放った終夜は、明依の胸の中心に当てている切先を押し込んで、肩口まで切り裂いた。溢れた大量の血を、派手な色の着物が吸い込んでいく。かなり深く切られたはずだ。それなのに、不思議と痛みはない。代わりに一秒よりも短い尺度で刻む時間が、傷口を燃えるように熱くしていく。
 身体に傷がついた。こんな大きな刀傷は絶対に隠せない。遊女として致命的。これで終夜は、満足なのだろうか。明依は身体の力を緩めた。途端に涙腺が緩んで、涙が目じりを通って落ちた。

「こんな事までして、国から吉原を守りたいの?」

 遊女としての未来を断たれたと言っても過言ではない。当たり前の顔をして人を殺すのだから、終夜からしたらおそらくこの程度の事だろう。いや、世の中には死よりも辛い事が山ほどあるという認識があるのなら、自分がどれほどの事をしたのかわかっているはずだ。

「なんで終夜がこんな事するのか、わからないよ」

 止まらない涙を拭う術もないまま突発的に口にした言葉は、二人の名前のない関係には随分と親し気な言葉だった。

「わかり合えるほどの何かなんて、俺達の間にはないよ」

 その言葉に、ズキンと確かに胸が痛んだ。終夜は切先から滴る血をぼんやりとした様子で眺めていた。それは明依の帯にシミを作っている。
 傷口からどんどん血が溢れて、それを見ているだけで心臓の音がさらに大きく鳴って、焦点を定めていられなくなるほどぼんやりする。

「吉原を解放したいと思うなら、融通の利く松ノ位に上がって主郭の人間と協力する必要がある。旭は死んだ。それなら可能性があるのは宵と組む事だ。宵はアンタを松ノ位に仕立て上げて自分のものにしようとしているんだから、利害関係が一致することは分かってた。アンタは今、地獄最下層の大門前だ」

 終夜が傾けていた刀から滴っていた血は止まった。
 明依は自分の傷口に視線を向けた。着物のシミはどんどんと広がり続けている。先ほどよりも随分と胸が重たい。これだけ血が出ていたらさすがに死ぬんじゃないか。いや、終夜が殺すとは言わないんだから死なないのか。と頭に浮かんで、この男に対する変な信頼は一体何なのだろうとこの場に全くそぐわない事を考えた。

 乾いた笑いを漏らした後、大きく息を吸って吐いた。そうして気を張っていないと、今にも意識を飛ばしてしまいそうだ。ショックで感覚がないのか。痛みがあれば少しは、意識を保っていられるのに。

「いつまでも抗ってないで、さっさと眠りなよ」

 刀を布団の上に放り投げると、終夜は明依の隣にしゃがみこんだ。その顔にはやはり色はなく、どこまでも無機質な表情をしていた。

「終夜」
「なに?怖いの?」

 いつもの様に飄々としていたら恨みの一つでも出てくるのに、感情の全てを殺した様に淡々としゃべられると、責めるものも責められなくなる。

「悲しかった」
「なにが?」
「わかり合えるほどの何かなんて、私達の間にはないって言われたこと」

 終夜は表情を変えないまま、その場に胡坐をかいた。意識を飛ばすのを待っているのだろうか。

 宵の正体を告げた時、『ごめんね』って言ったくせに。
 花魁道中が成功した時、残念で仕方ないとか言いながら嬉しそうにしていたくせに。
 悪逆非道な鬼も、たまには温情を見せるのだろうか。そう思うには既に手遅れで、それが終夜の本質だという思いが、こんな状況になっても消え失せてくれない。

「私は終夜にも、認めてほしいのに」

 終夜がどんな顔をしているのか知らない。ただそう告げて息を吐いた後、強烈に意識が揺らいでこれ以上意識を保てない事を理解した。
 もう目も開けていられない。

「黎明。この吉原に縛られている限り、アンタに夜明けは訪れない。だったらもう大人しく眠ってた方が、きっと幸せだよ」

 遠退いていく意識の中。目に溜まった涙を拭われる感覚には、確かに覚えがあった。