「本気で言ってるの?」
「ひっ……!」

 自室の中。当たり前みたいな顔をして押し入れを内側から開けて、当たり前みたいな顔をして出てきたのは双子の幽霊の海だ。それに続いて、空も押し入れから出てきて海の隣に並んだ。

「ちょっと……もう。あのさ……」

 明依は胸を撫でおろした後やっとの事でそう呟いたが、言いたいことが山ほどあって、言葉にならない。

「宵の正体を知った。それなのに、どうしてそんな判断をするの」

 先ほどの事を聞いていたんだろうと察しがついた。
 関わらない。と言いながら、なんだかんだと心配してくれているのだと思う。空と海は相変わらずの無表情だが、いつになく真剣な目をしている気がした。

「そうなれば、終夜にバレるのは時間の問題だぞ」
「うん、わかってる。……でも、吉原はもう二回も解放のチャンスを逃してる。こんな幸運は、もうないかもしれない。吉原はもう一度、その機会を手に入れようとしているんだと思う」

 高尾の言った言葉を思い出して、明依は二人にそう言った。しかし二人は、表情を崩さない。

「終夜は宵を頭領にしない為、国に吉原を渡さない為に宵を殺そうとしている。つまりお前のやろうとしている事は終夜とは真逆だって事はわかるよな」
「わかってる」
「この街で一番敵に回したらいけないのが誰かも、わかってるよな」
「わかってる。でも、私はこのままこの状況を見て見ぬふりしたくないの。そのためには宵兄さんの協力がいる。私のこの選択は、絶対に人のためになるって信じてる」

 しんと静まり返った部屋で二人が何を思っているのかは知らない。
 静けさの中で、海はすっと息を吸い込んだ。

「何かを得るためには、何かを捨てないといけない。それが自然の摂理。この本を選ぶなら、あの本は読めない。もしかするとあの本を読む日は来ないかもしれない。誰かに先を越されて取られたまま手に入らないかもしれないし、次の日には忘れているかもしれないし、明日生きている保障なんてないんだから」

 いつも通り平坦な口調で、視線を合わせずにつらつらと饒舌に話す海の引き込まれるような声を明依は黙って聞いていた。

「その選択の先に、あなたは何も得られない。この街から逃げる選択肢を取れば、あなたの人生は大きく変わる。そのチャンスは、今しかないのに。それを選ばないのは頭が悪い。あなたには終夜のやってる事が理解できないかもしれないけど、私にはあなたのやっている事が理解できない。どうしてそこまで、他人の為に頑張るの」

 海はいつになく饒舌に話す。明依の持っていた疑問は、確信に変わった。海は間違いなく、自分を心配してくれているのだという事。

「吉原を解放したとして。双子の幽霊じゃなくて、空くんと海ちゃんとして生きるなら、二人は何がしたい?」

 明依のその言葉に、空と海は目を見開いた。
 子どもはそんな事、何も心配しなくていい。自分の人生に夢中になれなんて諭すような事を言うつもりはない。ただせめて、子どもが子どもらしくいられる街をつくりたい。その子どもの中には、空と海も含まれている。

「私は、終夜がしようとしている事とは真逆の事をしようとしている。だけど私は、この意見を曲げるつもりもない。自分で選んだの。私は自分を信じてる。……だからその代わりに、それ以外の全部を終夜にあげるの」

 未来とか人生とか、そんな不確かなものだ。終夜が無傷でいられる未来。終夜がこの街に縛り付けられなくていい未来。
 そんな夢物語を、二人は黙って真剣な様子で聞いている。

「主郭に報告するの?宵兄さんの事」
「しない。俺達はただ、歴史を記憶するだけ。この街に直接関わる事はしない。……警告はしたからな」

 明依の質問に空はそう答えると、出入り口に向かって歩き始めた。それを見た海も、空に続いて行く。

「気を付けて」

 部屋を出る間際に襖と向き合った海は、明依と視線を合わせないまま一言そう呟いた。





 吉原の街が華やぐ時間。
 明依は見世に出る為に身支度を整え終えて部屋で過ごしていた。

「明依、入るよ」

 そういって襖を開けたのは宵だった。

「茶屋にお客さんが来ているらしいよ。明依を指名しているんだって」

 珍しい事もあるものだと明依は思っていた。
 現代の吉原では茶屋というのは女と客の橋渡しをする場。基本的には一見を相手にしている場所だ。客の提示する予算や条件を加味して見世を選んでくれる。

 基本的にはそれぞれの妓楼の馴染み客から裏側に引きずり込む流れになっているから、竹ノ位の仕事は妓楼の中だけで完結する事が多い。
 我ながら位は高いから、今日の客は多分相当な金持ちだ。別の妓楼で馴染みを作っている客が、こっそりと遊ぶために金で解決したのだろうなという所に落ち着いた。

「わかった。わざわざ呼びに来てくれてありがとう、宵兄さん」

 この妓楼の長であるのだから、人を使って伝えに来ればいいのに。宵はこういう時、絶対に人を使わない。
 それすらも印象操作なのだろうかと、覚悟を決めたくせにうじうじと考えてしまう自分が嫌だ。だから明依は、せめて何の気もないように取り繕う。

 明依は立ち上がって部屋を出ると、宵もそれに続いた。
 距離感は不明確のままだ。でも、別にそれで構わないと思っている。どうせもう、後には戻れない。自分の意志で歩いているという感覚はしっかりとある。

 そんなことを考えて階段を降りていると、あると思って無意識に足をつけた場所に階段がなかった。
 踏み外した。身体が傾く。このまま、落ちる。そう認識して、明依はぎゅっと目を瞑った。

「危ない!」

 背筋がひやりとして、後は次に来る身体中を打ち付ける衝動を待つだけの明依の腕は宵によって引き寄せられる。それから抱きしめられてすぐ、ゴツと鈍い音がする。段差に背を打ち付けたのか、目を開けるとすぐ近くにある宵の顔は苦しそうにしかめられていた。

「宵兄さん!ごめん!!」
「大丈夫。怪我してないか」

 そう言って目を開けた宵と、すぐ近くで見つめ合う。明らかにドクンと心臓が鳴った。これは、宵という人間に騙されていた名残だ。そうだと分かっているのに、高鳴る胸の音が消えない。
 想像よりずっと距離が近かったからか、宵は唖然とした表情で明依を見つめていた。

「ごっ、ごめん……!本当に」
「いいから。それより立てそう?」

 気恥ずかしくなった明依が宵から少し距離を取ったのと、宵は焦った様にふいっと顔を逸らしたのは同じタイミングだった。宵もこんな顔をするのか。と意識の外側でぼんやりと考えていると、宵は明依を抱きしめている腕に込めている力を緩めた。
 騙されていたのだとしても、こんな完璧人間の顔が目の前にあったら誰だって胸くらい高鳴るだろう。と、明依は無理矢理収まるところに収めて立ち上がった。

「ありがとう。宵兄さん」
「怪我がないみたいでよかった」

 慎重に階段を一階まで降りて玄関口で下駄をはくと、宵に向き直った。

「いってらっしゃい。明依」
「うん。行ってきます」

 いつも通りの様子でそういう宵に背を向けて明依は茶屋に向かって吉原の街を歩いた。
 確かにトクンと胸が痛んでいる。
 別に心配してほしい訳でもなければ引き留めてほしい訳でもない。というより、そんなことをされて松ノ位昇進が遠退くなんて事になれば困るのだから、迷惑この上ない話だ。

 しかしどうしてこんなに女心というのは難しいのだろう。
 当たり前の様に見送られるなんて事のない風景は、宵にとってお前はただの駒の一つだ。と認識させられている気がする。

 どんな客が待っているのかわからない場所に一人(おもむ)いている事実が、明依にとってはどこか非日常で、同時にこの街の夜に深く沈んで紛れてしまいたい様な気持ちを連れてくる。

 自暴自棄になりそうな、この感覚。気持ちが揺れている。きっとどんな人間にも、こんな弱さがある。
 終夜にも、あるのだろうか。

「芸者もつけないで、一人で待っていらっしゃるんです」

 茶屋の店主はこの上なく上機嫌に手を擦りながら明依を見た。
 遊女を待つ間に座敷に上がる芸者をつけるには金がいる。客の中には自分の財力を誇示するために、芸者を座敷に招くだけで莫大な金を落とす男もいる。店主のこの上機嫌ぶりを見る限り、おそらく今日の客は芸者をつける以上の金を渡しているのだろう。

「ささ。どうぞこちらに」

 明依は茶屋の店主に続いて茶屋の中を歩いた。

「こちらでお待ちです」
「どうもありがとうございます」

 案内してくれた店主に礼を言って、襖を開ける。

「失礼いたします」

 座敷の中の男は、障子窓にもたれかかって外を見ながら煙管を咥えていた。
 正確な年齢は分からないが、おそらく30より下。想像していたより20以上は若い。遊び慣れているのか、男からは緊張した素振り一つ見受けられなかった。
 男がゆっくりと、視線を向ける。
 しっかりと目が合った後、心臓を掴まれた様な錯覚に陥っていた。宵に似ていると一瞬のうちにそう思った。
 しかし宵よりもずっと、涼しい顔をしていて冷たい雰囲気がある。

 これほどまで容姿の整った人間を相手にするのは間違いなく初めてだ。今から、この人と。
 そう考えると、心臓が無意識に高鳴る。それほどこの男は、客と呼ぶには美しい。この容姿で金を持っている。芸能人か何かだろうか。

「黎明さん?」
「はい、そうです」

 この男の全てが心の内を不自由に縛り付ける。
 プロとして失格だという自覚よりも内側で、ペースが乱される感覚にただ触れていた。
 明依ははっとして室内に入り、後ろの襖を締め切った。

「挨拶はいいです」
「……では、あなた様のお名前は」
「いいです。そんな些末(さまつ)な事。これから先、必要ありませんから」

 直接的に受ける知的な印象に気圧されて、もの寂しくて涼しい目元から目を離せずにいると、彼はゆっくりとした動きで立ち上がって一歩一歩と踏み締める様に明依に近付いてくる。
 もう少し温かい雰囲気があれば、宵にそっくりだ。

「お食事は、」
「そんな事より、抱いていいですか」

 そんな問いかけを自分がされる日が来るとは思っていなかった。今ぶつけられている性急な思いはもしかすると、全ての男の本質なのかもしれないなんてわかりもしない事を考える。
 放心している明依をよそに、男は指先の外側でなぞる様に明依の頬に触れていた。
 優しく触れる手つきとは相反してそこに愛しさの様な暖かい何かが含まれた感情はなさそうで、目の前にいる人間をただ見ているだけ。そんな目をしている。

「はい」

 やっとの事でそう答えると、男はやっと小さく笑って明依の手を握って立ち上がらせた。無意識に心臓が鳴ってすぐ、落ち着けと息を吐く。
 この男のペースだ。その理由を考えれば、あっさりと理由が出てきた。
 宵に似ているからだ。重ねて見てしまっている。互いに利用する関係の宵と、この男を。

 明依の手を引いたまま寝室に入った男は、布団の上に座る様に誘導する。明依が枕を背に腰を下ろすと、男はその前に座り込んだ。そこで違和感を覚えた。普通、客は隣に寝転ぶ。つまり今、出入口と自分との間には男がいて、それがなんだか危険な雰囲気を醸し出している気がした。

「誰かを、裏切った事はありますか」

 明依の不信感を気にする素振りを見せず、男はそう問いかけながら明依の着物を縛っている前結びの帯に手をかけた。

「……ありません」

 『裏切り』という言葉を聞いて一番に思い浮かんだのは終夜の顔だった。宵に叢雲が犯人だと告げた事を、彼はまだ知らない。しかし確実にこれは、裏切りという名で呼ばれるものだ。
 一体、何を聞きたいのだろう。そんなことを考えていると、男は乾いた笑いを漏らした。

「本当に?断言できるなんて、凄いな」

 帯に触れていたはずの手が、一瞬のうちに胸ぐらに伸びる。
 男は先ほどとは打って変わって、楽しそうな顔で笑っている。

「俺より宵を選んだくせに」

 声が変わった。聞き馴染みのある声だ。いったいどういう事で、これは誰の声だっけ。

 一瞬そう思っている内に引き寄せられて、そのまま男と唇が重なった。明依は必死に男の胸を押し返したが、後頭部を抱え込むように手を回している男のせいで距離を取る事が出来ない。
 生暖かい舌が口内に入り込む。違和感を深く認識するより前に舌を深くねじ込まれて、息が詰まる。呼吸をしようと喉を開くと、異物が喉を通った感覚を味わってすぐ、男は舌を引き抜いた。

「客よりも出入口に近い場所に座るのは、遊女の常識だろ」

 何を飲まされたのかはわからない。とにかく、吐き出さないと。しかし何か行動するより前に、男は明依を布団に押し付けた。

「ダメだよ、ちゃんと効くまで待って。それよりさ、どう?この顔。宵に特徴を寄せてみたんだけど」

 ひやりとした何かが、背筋をなぞった気がする。
 男は首元で重なっている衿を指の外側で少し押しやって皮膚を掴んだ。

「あーそうだ。俺はさ、アンタを信じて内部事情を教えたんだ。だから、自分の為だから心の内にしまっておいた方がいいって言ったのに。俺の伝え方が悪かったのかなァ」

 何かを飲まされたことも忘れて、男の様子を見ていた。この男を知っている。それでも脳みそは、この状況を処理しきれずにいた。
 男はそのまま皮膚を引きはがした。ビリビリベリベリと、破けるような音がする。

「気付かれてないって本気で思ってた?」

 喉から顎、頬、目元、額、髪の毛。文字通り皮がはがれていく。よく見慣れた男は、皮をポイっと効果音が付きそうな程あっさり放り投げた。

「終夜、なんで……」

 明依に跨ったまま見下ろしている終夜は、挑発的な顔で笑っている。