この街からは出ない。
 その結論は、あっさりと出た。いや、最初から出ていたのだと思う。

 もう、絶望を大切に握りしめているだけじゃない。
 どんな場所だって、幸せを見つけて生きていく。自分で選んで、その責任も自分で取る覚悟はできている。もう、誰かに人生を決められたくはない。

 双子の幽霊。空と海から、何度も終夜のいう事を聞いておけと言われた。
 今回なら、吉原の外に出ろ。という事。
 しかし明依はやはり、どれだけ考えてもその考えが変わることはないと、冷静になった後で思っていた。
 そう結論が出てから、明依はこれからについて考えている。

 宵が自分を見つけたのは偶然という所に考え付いた。理由は、自分の妓楼に入る様にと最初から言っていれば、こんな面倒なことをする必要はないと思ったから。
 終夜の考えから仮定すると、宵が自分から声をかけなかった理由は、いろんな妓楼をまわらせて絶望感を植え付けたかったからなのかもしれない。
 明らかに今、心は痛んでいる。でも、動けない訳じゃない。

 もしかすると、明依という人間を思い通りに操る為に、十六夜の気持ちを利用していたのかもしれない。宵になら、うまく距離を取る方法を考え付いただろうから。しかし、十六夜が去るときに一瞬見せた、宵の何か言いたげな表情は何だったのか。

 そこまで考えて至った結論は、十六夜はもう吉原にいないという事。だからこれはもう、今となっては宵と明依だけの問題のはずだ。

 宵は国の為に裏の頭領になる必要がある。以前宵は、吉原解放の手伝いをすると言っていた。そんな嘘をつけば、後から話が違うと言われる事は分かり切っている。その言葉が真実だとすれば、人身売買のパイプだけ自分達の物にできて、自分たちが操っていると安心する事が出来れば、国はそれでいいのかもしれない。

 問題は終夜だ。目的は宵を殺す事。だからおそらく終夜は、裏の頭領という立場に特別興味はないはず。
 終夜の思い描く吉原の街を宵が体現出来れば、少しくらい可能性はないだろうか。(かすがい)というと大げさだが、二人の関係を少しでも軽くする事は出来ないか。

「今、いい?」
「どうぞ」

 満月屋の宵の部屋の前でそう言うと、宵は軽い様な重い様な口調でそう言った。
 明依が襖を開けると、宵は作業をしている手を止めて視線を明依に寄越した。

「話があるの」

 宵は改まった様に姿勢を正して、それから立ち上がった。

「うん。話をしよう」

 二人は向かい合って座り、少しの間沈黙が流れた。

「終夜から聞いた話だけど。宵兄さんが警察官だって言うのは本当?」

 そう問いかけて、本当の事を話す理由など宵にとってはどこにもないという事に気が付く。
 宵にとっては一遊女。切り捨てるのがもったいなくても、切り捨てる事が可能な人間だ。
 もしかすると、任務に支障が出るかもしれないと考えるなら、はぐらかされるのか。

「そうだよ」

 しかし宵は、大してためらった様子も見せず、はっきりとそう言った。
 チクリと胸の内が痛んだのは、間違いじゃない。

「薄っぺらい謝罪も、言い訳をする気もない。俺は国から吉原奪還を命じられた警察官だ」

 はっきりと宵の口からそう聞いて思った。
 この期に及んで、はぐらかしてほしかったのかもしれない。嘘で包んでほしかったのかもしれない。
 その証拠に、胸の内からこみ上げた薄青色の様な何かが涙腺を緩ませた。

「何度かあの公園の前を通って、明依がいるのを見つけた。だから野分さんに報告した。利用したのも事実だ。この街でどうやったら自分が動きやすくなるのか。主郭という閉鎖的な場所に触れるにはどうしたらいいのか。そのことばかりを考えていた。明依が吉原に来た時、利用しようと考えた」
「自分から声をかけなかったのは?」
「吉原という場所で、あの頃の明依の年齢はほとんど価値がない事は分かっていた。だけど、野分さんの性格だときっと吉原に連れてくる。最後にたどり着くのはウチだろうと思っていたからだ。焦る必要はなかったし、いろいろな妓楼を回ってたどり着いた方が、俺の印象が明依に強く残ると思ったから」
「……じゃあ、私が松ノ位に上がれないって言った時、受け入れてくれたのは?」
「人間は他人から強制されたことには能動的に動けない性質がある。だから受け入れた」

 終夜が言っていた事と、ほとんど同じだ。明依は目に溜まった涙をこぼさない様に少し上を向いた。泣くな、泣くなと必死になって言い聞かせる。

 宵はこんなに言葉を使うのが上手だっただろうか。きっと、上手だったのだろう。

 『いろいろな妓楼を回ってたどり着いた方が、俺の印象が明依に強く残ると思ったから』
 それはつまり、自分の価値がないと絶望させておいて、受け入れた自分のギャップを狙って印象付けようという事だ。
 宵は別に嘘はついていない。ただ、自分の勘が冴えてしまっているだけだ。

 だからあと一つ準備をしていた、妓楼の人間から嫌われる様に仕向けたのは本当かという質問は、怖くて問いかける気になれなかった。

「ただ」

 はっきりとした口調でそういう宵に明依が視線を移すと、彼は真剣な表情で明依を見ていた。

「明依に嘘ばかりを吐いて来たつもりはない」

 凛としている中に、少し悲しそうな音。
 それも、嘘かもしれないのに。

 ただ、誠実な回答だろうと感じていた。申し訳なさそうに眉を潜めて小さな声で弁解されるよりずっと信頼できる。
 嘘はついていない、そんな気がする。

 先日宵と夏祭りに出かけた日。繋ぎ止めていたいと互いに思っているのだと思った。少なくとも、明依にはそう感じた。宵はきっと、一番利用価値のある黎明という遊女を繋ぎ止めておきたかったのだと思う。

「吉原の解放を手助けができるって言ったのは、本当?」

 どうしてその話になったんだ。とでも言いたげに宵は目を見開く。しかし明依にとっては、全てここに繋がる話だった。

 宵は明依が発言の撤回も修正もせずに自分の返事を待っていることに気が付いた様で、一度頷いた。

「国は吉原の人の流れに文句があるわけじゃない。人身売買のパイプがそのままであれば構わない。怖いんだよ、国の人間は。どれだけうまく回っているんだとしても、自分の監視下にないこの状況が」

 その気持ちは何となくわかる気はしたが、国が肝心の子どもの気持ちをくむことはない。
 自分にない部分は、本当の意味で理解することはないのだろうから。生まれつきアタリの手札を引いている人間に、分かるはずもない。

「吉原の子ども受け入れを断つメリットは、吉原にも国にもないと俺は思ってる。国は虐待や育児放棄の件数を下げたい。この街はそれで商売をしている。明依の言う〝解放〟というのが、吉原に一度入った人間に選択肢をと言う話なら、何とかなるよ」
「それは嘘じゃないんだね」
「嘘じゃない」
「じゃあ私、運がよかったと思って、宵兄さんを利用する」

 『運がよかったって思って、明依は俺を利用したらいい』
 さすがの宵も、自分が言った言葉をまさかこんな風に使われるとは思っていなかったのだろう。宵は唖然とした表情を浮かべていた。

 『俺は絶対にどこにもいかない。明依が許してくれるなら、ずっと明依の側にいる』
 本当に、宵の言ったとおりになる。許すという決断をするのなら、どう転がっても同じ結末になった。

「どうして」
「私多分、宵兄さんが思っているほど綺麗で単純な人間じゃない。本当の事を言うと、純粋に宵兄さんの事が好きだって気持ちだけで一緒にいようって思ったわけじゃないから。私の将来の目標を一緒に叶えようって言ってくれた。裏の頭領になる可能性が高くて、自分の思い描く将来に一番近い人。だから私は一緒にいようと思った」

 この時点で、生涯口にするつもりのなかった事を知られたのはお互い様だ。心に残っている説明しがたい不快な色が消えていく。

 『この選択を後悔しないか』
 吉原に来る前にそう問いかけた宵が頭の中をよぎる。

 〝強くなる〟という事は、痛みに慣れる事ではない。
 ままならない物事を細かく分解し、それを受け入れて自分の物にする力。その処理能力を大きくする事。言葉にすると曖昧なものを人は〝強くなる〟というのだと思う。

「だから、宵兄さんは私を使って。必ず松ノ位に上がるから」

 終夜の顔が浮かぶ。どうしてこんな時に。
 そうか。吉原から逃がすという言葉を受け入れない事。もう本当に後戻りが出来ないと、認識したからだ。
 本当にそれだけの理由かと無意識に自分自身に問いかけるよりも前に、明依はそれを考える事をやめた。

 松ノ位と身を固める事になれば、吉原での信頼は厚くなる。当然だ。松ノ位というのは、吉原内外でも、それほどに影響力があるのだから。
 その裏に、そう評価されるに値する努力と苦しみが隠れている。

 完璧な人間を前にして、堂々と自分の意見を言う日なんて来ないと思っていた。また一つ前に進む事が出来ている。
 宵に感謝してもいいくらいだ。

 宵は何を考えているのか、俯いて目を閉じた後、深く息を吐いた。

「裏の頭領は夏祭りの後。吉原が休園している間に決める事になってる」

 そう言って宵は顔を上げた。

「終夜を殺した後で決めようって事だ。つまり主郭は、どう転んでも終夜を吉原に留めておくつもりはない」
「止められないの?」
「ないと思っておいた方がいい。炎天さんは以前から、終夜の不義理な様子を心底嫌っている。ブレーキ役だった叢雲さんが死んだ。あの猪突猛進の炎天さん相手じゃ、誰も止められないよ。それに、今主郭の中心となって動いているのは炎天さんだ。彼がいなくなったら、主郭は実質、機能しない」

 炎天はもともとから終夜を嫌っている。それに加えて叢雲が死んだとなったら、宵を頭領にする事に躍起になるのは目に見えている。
 これは叢雲の残した希望か、それとも呪いなのか。

「じゃあ、清澄さんは?」
「あの人はもともと、吉原に興味はないというか。あまり深い所まで入り込んで主郭を回しているわけじゃない。今は状況が状況だから、主郭に出入りしているだけ」

 〝状況〟というのは、吉原が大きく揉めそうだから。そして、理由の大きな部分に終夜が絡んでいるのだろう。清澄は人がいい。このまま終夜が事情に巻き込まれて死んでいく事に不満があるのは確かだった。

 つまり、宵が頭領になる以外に選択肢はないという事だ。

「じゃあその状況から、終夜を助ける事は出来る?」
「終夜が納得しなければ難しい。俺の命を狙っている限り必ず主郭、つまり吉原全体とぶつかる事になる。あの終夜を力ずくで引き留めて吉原から出すなんて、現実的じゃない」
「私が終夜に話をして、納得してもらえれば可能って事ね」
「何か策はあるのか」
「これから考えてみる」

 簡単な様子で言ってはみるものの、おそらく難しいという事は明依にもわかっていた。
 吉原という場所から終夜への一方的な矢印なら、それは可能だった。しかし、終夜は宵を殺そうとしている。
 そして終夜という男は、自分の意見を曲げる様な真似はしない。

「もし終夜を納得させることが出来るなら、その時は万が一にも吉原からの手が迫らないように国で保護しよう」

 〝保護〟なんて、終夜に一番似合わない言葉じゃないか。
 その保護は受け入れてもらえないと思っていた方がいい。終夜を説得して、宵を殺すことをやめさせるしか方法はない。

「殺さないって、約束して。終夜の事」
「ああ。約束するよ」

 この街を肌で感じて、見て見ぬふりは出来なかった。
 日奈と旭も、同じ気持ちだったはずだ。今きっと、同じ感情を抱いているのだと思う。不安で、怖くて、それでも自分がやらなければずっとこの街は変わらないという焦燥感。この街が変わった時を想像して心に薄く広がる、高揚感。

 やはり半端な覚悟ではなかった。その事に安堵していた。自分がやりたい事の全ては、この街にある。

 『アンタにとって吉原に、それほどの価値があるとは思えない』
 『吉原にいる理由なんてせいぜいもう、宵への恩くらいだろ。でもそれは、旭と日奈が死んだ今、理由としてはあまりにも脆い』

 宵に受け入れられていなければ、親戚夫婦を殺していたかもしれない。だからきっと恩は消えないのだろう。
 もしかすると勝山や夕霧と出会っていなければ、自分の世界の中、日奈と旭がいた部分を失ったままだったら。残っていたものが宵への恩だけなら、終夜の言うとおりにこの街から逃げ出していたかもしれない。

 真摯に見つめてみれば、いつの間にか世界のほとんどが自分の色に染まっていた。

 『心を見つめ、心に耳を傾ける事を〝生きる〟というんじゃないかと思っているんだ。喜怒哀楽。人間の中に溢れている時に形容し難い感情を。それが形を変えて思考に触れる感覚を。心の内で噛みしめ、ただ感じる事』

 今なら藤間の言葉の意味を理解できる気がした。
 この感覚をきっと〝生きている〟という。

「これからも引き続き、どうぞよろしくお願いします」

 明依は笑顔を作って、宵に向かって丁寧に頭を下げた。
 宵がどんな表情をしているのか、何を考えているのかは知らない。端的に言えば、興味がないというのだろう。
 もしかすると、罪悪感で眉を潜めているかもしれないし、思い通りの結末に笑顔を浮かべているかもしれない。

 終夜はきっと、国からこの街を守りたいのだと思う。
 しかし、それには命を賭けなければいけない。宵を殺せるのなら、相打ちでも構わないという覚悟だから、『俺が生きていたら』何て言葉を言ったのかもしれない。

 だが宵の話が本当なら、吉原は悪い風にはならない。部外者の意見かもしれないが、命を賭ける程の何かがそこにあるとは明依には到底思えなかった。

 終夜はきっと、宵の正体を知っておいて協力するという決断を下した事に幻滅する。いや、幻滅する程、あの男の中の明依という人間に価値があるとは思えない。考えられるとすれば、明確な殺意を向ける。だろうか。

 それでも、死んでほしくない。
 日奈と旭が信じた終夜が生きてさえいてくれたら、それでいい。
 それさえ叶うのなら、終夜に関わる全てを自分の中から捨て去っても構わないし、終夜にどう思われても構わないとさえ思う。

 この感情は何だろう。淡くて、繊細で、どこまでも広くて穏やかなのに
 どうしようもなく、泣きたくなる。