「……どういう事?」
「そのままの意味だよ。この街から逃がしてあげる。もう嫌々男に抱かれる事も、手の届かない夢を見て努力することも、吉原の陰謀に巻き込まれる必要もない。どこにでもある平凡な人生の切符を、俺がアンタにプレゼントするよ」

 一体どんな理由があったら、この街の外に出してやるなんて言葉が出るのだろう。そう考えて思い出したのは、勝山の待つ丹楓屋に行った時の事だった。
 終夜から強く手首を握られ、痕が残ったらどうするのかと聞く明依に、この街から逃げてみるかと問いかけた。その後、冗談だと言ったはずだ。その場限りのこの男の気まぐれ。お得意の戯れ、だったはずだ。

「どうして、そんな」
「だってかわいそうだもん。一から築き上げたと思っていた信頼関係は全部仕組まれていて、大切な人が次々に死んで、思い出にまみれたこんな街で一人ぼっち。この場所はもう、地獄の最下層だ」

 どこか演技じみていて、わざとらしい口調で終夜はそういう。

「って言うのは冗談で。邪魔なんだよね。アンタがいると」

 それから、あっけらかんとした様子で言葉を続けた。

「アンタがいなかったらもう少しシンプルになる」

 そして、あっさりとした口調でそういう。
 この男のコロコロと変わる調子は、自分を洗脳しようとしているのではないだろうか。もしかすると、日奈と旭を介して見ている終夜という人間も、終夜が自分の中に作った偶像ではないのだろうか。
 第一線でやっとの事で張っている緊張感の内側で、明依は考えていた。

「私に何が関係あるって言うの?」
「宵と俺の問題だよ。アンタには関係ない」

 関係ないとはっきり言い切る割に、大きく巻き込もうとする。
 それを言えば、無関係な人間を巻き込んでいるのは宵も同じことだ。そう認識すると、心に隙間風が吹いた様な、少しもの寂しい気持ちになる。

「外には自由がある。普通に仕事して、恋愛して、結婚して。そんな普通の幸せも、こんな場所じゃ望めない。どれだけ一晩の夫婦ごっこに興じても、本当の愛はもらえない。外の方が可能性があるよ」

 終夜は先ほどと同じように、明依の向こう側にある吉原の街を眺めた。
 この男はこの街を見ながら、いつも何を考えているのだろう。

「宵と一緒にいるって事は、吉原に一生縛り付けられるという事だ。アンタにとって吉原に、それほどの価値があるとは思えない。自分を本当の意味で救ったのは、拾ってくれた〝宵兄さん〟だなんてこの期に及んで酔いしれてる訳じゃないだろ」

 絡んだ視線に、言葉に、胸の音が鳴ったのは確かだ。
 日奈と旭が死んでから、確かにあの頃の世界の三分の二を失った。しかし今その三分の二は、自分だけの色に染まろうとしている。

「もう死んだんだよ、アンタの希望だった二人は。だったら居座る理由もないはずだ。吉原にいる理由なんてせいぜいもう、宵への恩くらいだろ。でもそれは、旭と日奈が死んだ今、理由としてはあまりにも(もろ)い。これから始まる本当の地獄に見合う価値なんてないよ」

 残る、三分の一の世界。その全ては造られていた。
 しかし、それだけじゃない。自分が触れて造ってきたものが、自分の中に残っている。そこから派生したまだ吉原に居たい理由は、確かに旭と日奈が絡んでいる。それでも、自分の意志で選んでいる。自分の為にここに居る。宵だけが理由じゃない、絶対に。
 しかし、それがうまく説明できない。その理由には終夜もいる。終夜に死んでほしくないという願望を叶える手段は、頭領として一番可能性の高い宵に協力を仰ぐ事だから。

「私はこの街でも、ちゃんと自分らしく生きていける」

 本心だ。紛れもなく。しかし、強がりでもあり、自分を保つ為の嘘でもある。
 終夜は小さくため息を吐いて、呆れた様子を見せる。

「人は極限の状態になった時に、本心を言う」

 それから提案をする様に少し明るい声を出した。

「そんなにわからないなら、俺が一回拷問でもしてあげるよ。きっとすぐにこう言うんだ。〝本当はもう、吉原なんてどうでもいい〟って」

 どうでもよくなんてない。でも、この男がそういうなら、そうかもしれない。
 自分の気持ちだった場所が書き換わる、小さな違和感。自分の意志が、無意識に曲がる感覚。
 今、この男の思い通りになろうとしている。これは、自分の中から生まれた感情じゃない。

 そう認識してすぐ、明依は終夜を睨んだ。

「釣られない。つまらないな」

 ふてくされた様な顔を作って、終夜はそう言った。それすらもどこか演技じみている。

「安心していいよ。足取りどころか、痕跡一つ残さない。今後の安全は保障する」

 この男は、本当に自分が死ぬことを考えていないんだろうか。しかし、死ぬことを考えていない人間に、その時俺が生きていたら、なんて言葉は吐けない。
 水風船を取ってもらったあの日。終夜は間違いなくその言葉を吐いた。
 死ぬ可能性があるのなら一体、何の保障があると言うのか。

「断言してもいい。宵はアンタの事を道具としか見ていないよ。だからそれが自分の世界の全てなんて(みじ)めな考えは捨てなよ。これはチャンスだよ。遊女がどれだけ望んでも手に入らないものだ」
「何がしたいの?」
「善意だよ」

 たった一言そう呟くと、終夜は黙って明依から視線をずらした。
 終夜の視線の先には、息を切らして歩みを止めた宵がいた。

「よかった。ちょうど話が終わった所だったんだ」
「何の話だ」

 様子を見ようと思ったのか、終夜に向いていたはずの宵の視線が明依に向いた。明依が思わず視線を逸らすと、宵は少し目を見開いて、それから俯いて息を吐いた。

「終夜、お前」
「ごめん、宵。全部喋っちゃった」

 宵は顔を上げると、明依の前にいる終夜に視線を向けた。

「そんな顔しないでよ。黎明は吉原のこれからを担う松ノ位になる予定なんでしょ?それなら、成長に必要だと思ったんだ。それとも、これも知らなくていい事だった?」

 どこか馬鹿にした口調で終夜は言う。

「この人の俺への気持ちを疑って、珍しく焦っちゃったの?無理矢理距離を詰めて、強引に自分のものにしようとするから感情に齟齬(そご)が出るんだ。それとも、これも計算の内?わからないなァ。特殊な訓練を受けている勤勉な人間の思考回路は。頭割って開けば、分かる様な仕組みならいいのに」

 どこか楽しそうにそういう終夜を、宵はただじっと睨んでいた。
『その精神力の強さには、何か秘密があるのかな?例えば、特殊な訓練を受けてるとか』
 旭の後任が終夜に決まった時、彼は宵に向かってそんな言葉を吐いた。否定できる気も、宵を庇う術も動機すら浮かばない。
 これを、絶望というのだろうか。しかし、絶望という色合いはこんなものではなかった様な気がして、ふと気が付けば頭は意識よりも深い所で、絶望の色を探り始めていた。終夜の言う無意識領域というものの鱗片に触れているのかもしれない。

「どっちを信じる?」

 その回路をぷつりと切る言葉を発したのは当然終夜で、彼は明依と視線が合うと楽しそうに笑った。

「ほらほら、選んで。こういう重要な事こそ、自分で判断しないと」

 信頼している人からの裏切り。絶望に似た何か。その中で笑う終夜は、不気味だ。
 宵を主郭へ連行したときから感じていた、人ではない何かを相手にしているような恐怖。とは、また違っている。理解不能な、不気味な感覚。その感覚は、恐怖というものの一層手前にあるのか。それとも先にあるのか。

「今度は、俺にしときなよ」

 冗談じみた口調で畳みかける様にそういう終夜の手を、明依はほとんど無意識に握った。
 終夜は目を見開いて、それからじっと明依の目を見た。真意を探ろうとしているのだろうか。それができるのなら、探って教えてほしいくらいだ。
 自分がどんな顔をしているかわからないが、愉快そうな顔ではないという事だけは確かで、もしかすると今にも泣きだしそうな顔をしているのかもしれない。
 
 惨めという言葉がこれほど当てはまる状況を明依は他に知らない。いろんな感情が、落ち着く場所を探して心の内を蠢いていた。
 こんな気持ちになるのなら、あの夏祭りの日に素直に終夜について行けばよかった。手を取らなかったどころか裏切った相手に何をいまさら。そう思うと、さらに深い所に突き落とされた様な気持ちになる。こう思う事はもしかすると、終夜の洗脳なのかもしれない。
 一体、誰を信じたらいいんだろう。

「ごめんね」

 いつの間にか明依の耳元に唇を寄せていた終夜は、小さな小さな声でそう言う。明依がはっと息を呑んだ頃には、終夜の背中は観光客に紛れようとしている。
 さっと薙ぎ払ったように、心の景色が切り替わっている。今はただ、終夜の発した言葉の意味を、深く考えようとしていた。
 どのタイミングで解かれたのかわからない手が少し震えている。触れていたはずの指の感覚を、もう思い出せない。

「明依。俺の話を聞いてくれないか」

 どうしてそんな悲しそうな声を出すのだろう。どうせ、演技のくせに。
 終夜によって薙ぎ払われた心の景色の中にぽつりと暗い色の何かが落ちる。まるで、雨の様だ。

「今は聞きたくない。一人にして」

 明依は一人で満月屋までの道を歩いた。
 怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。自分の感情の行方を知らないまま、宵と話は出来ない。ただ、それだけ。
 きっと意図的ではないのだろう。しかし、極めて冷静にそう考える力を助長したのは、明らかに終夜だった。

 苦しい。
 苦しいのは、当たり前だ。感情が揺れて動いているんだから。勝山にそう教えてもらった。揺れて動くから苦しいんだと。だからこの苦しみは、当然の事だ。くよくよ悩んでいるだけでは解決しない。それなら考えて、乗り越えないといけない。一番自分が納得する方法を探さなければいけない。

 終夜の言った言葉が全て嘘だという可能性は。残念ながらないだろう。宵が警察官なら、全て辻褄が合ってしまう。朔を前にしても平然と話が出来ていた理由も、懐にあった拳銃も。宵を助け出そうとした地下で終夜に問いかけたどうして宵を今すぐ殺さないのかという理由も。

 『宵が認めてくれないからだよ。今生の罪くらいは認めさせてから殺さないと、寝覚めが悪いじゃないか』

 警察官だと認めさせて、主郭の人間に晒して警告したかったに違いない。主郭の人間を説得させるだけの信頼は、きっと終夜にはないから。
 明依が花魁道中をした日に出かけようとしていた理由も説明がついた。警察官だった楪も、時雨とは別行動をしていたんだから。それに、勘のいい宵ならすぐにあの場で違うと説明したはずだ。

 終夜がそこまでして吉原を見捨てない理由は何だろう。明依から見ても、この街が腐っている事は分かる。一体何から吉原を守っているのだろう。宵を敵と認識しているのなら、国からか。
 でも、今まで宵に親切にしてもらったという事は事実で、

 そこまで考えて明依は、フラフラと細道に入り込んだ。それから壁に肩を預けてずるずるとしゃがみ込む。

 動きを止めて、こう思った。
 こんな仕打ちを受ける程、何か過ちを犯したのだろうか。
 明依は胸元を強くつかみながら、声を殺して泣いた。

 『ごめんね』

 終夜の声が響いている。
 何が『ごめんね』だ。もっと寄り添って伝えてくれたらよかったじゃないか。
 自分の言いたい事だけ吐き捨てて、反論する間もなく論破して。心の内をぐちゃぐちゃにして、去っていく。
 人がどんな気持ちになるのかも知らないで。

 でも本当に謝らなければいけないのは
 裏切った自分の方だ。