明依は高尾の言葉を思い出していた。

『お前は欠点を克服しようと思ったこと。自らの意思で足りないものを補う努力をしたことはあるか』
『自分自身に問いかけ、自分という人間を受け入れる覚悟を持ったことはあるか』

 何度考えても、その問いかけの意味が分からない。自分の思い通りになるものは何一つないと知る事。その意味は理解できたのに。
 自分という人間を受け入れるというのは、勝山や夕霧の語る自信とは少し違う気がするのだ。

 竹ノ位の遊女へ挨拶をしながら、明依は一階へと降りた。

「おはよう、明依」

 ちょうど部屋から出てきた宵は、明依に向かって柔らかい笑顔を向けた。あの日から数日、宵の雰囲気はどこか少し柔らかい。
 それに少しだけ心臓が鳴るのは、自分には無縁だと思っていた恋人の様な関係に酔っているのからだろうか。

「おはよう」

 宵にそう返事をしてすぐ、彼の部屋から野分が出てきた。

「野分さん、おはようございます」
「おはよう、明依。この前はありがとうね。お陰で助かったよ」
「こちらこそ。雪にも会えたし、いい経験をさせてもらいました」

 そう言った後、明依は視線に気付いた宵を見た。宵はまた、柔らかい笑顔を向ける。
 野分は明依と宵の顔を交互に見た後、ニヤリと笑って明依に向き直った。

「明依、お茶でもどうだい」

 以前、野分が満月屋に来た時、日奈の事が落ち着いたらゆっくりお茶でも飲もうと約束していた事を思い出した。
 二人の関係に勘付いての事だろうと察しはついたが、本当にこれからがあるのならゆくゆくは皆に公表する事になる。下手に隠す必要もないと判断した明依は頷いた。

「はい。ぜひ」
「じゃあ、宵。少し明依を借りていくよ」
「勿論。お気をつけて。いってらっしゃい」

 そう言って快く見送る宵になぜか気恥ずかしさを感じた明依は、彼の顔を見る事が出来なかった。

「雪は元気ですか」

 満月屋から少し離れた茶店、甘味処の店前の長椅子に二人で腰かけて、あんみつが来るのを待っていた。
 元気ですか、と言ってもあの施設に行ってからそんなに日にちは経っていないが。

「みんなが遊んでいる中、一人で黙々と稽古してるよ。明依お姉ちゃんが必ずお迎えに来るって約束してくれた。明依お姉ちゃんが頑張っているから、私も頑張るって。嬉しそうにアンタの事を待ってる」
「……そうですか」

 心が温かくなって、満たされていくのを感じる。同時に逸る気持ちにもなっていた。早く雪を迎え行きたい。

「叢雲が言っていたそうだよ。黎明は松ノ位に上がる素質がある人間だ。認めざるを得ないってね。だから今主郭は、アンタの松ノ位昇進を前向きに検討している所だろうよ」

 喜ぶべきことであるはずだ。それだけは間違いない。
 素直に喜べない理由は、案外すぐに見つかった。

 まだ自分の納得する自分になんてなっていない。自分という存在を知らしめ、認めさせることが出来るほど、自分というものが固まっているとは到底思えない。
 何も答えない明依に、野分は大きくため息をついた。

「立派な花魁道中、自分を変えようと必死になる努力、誰もが恐怖の対象として見る終夜という人間に向き合おうとする姿勢。いろんな人間が、いろんな角度から黎明という遊女を見た結果だ」
「ほとんど誰かから与えられたきっかけです。私の力じゃない」
「運も実力の内。何の忖度も働いちゃいないよ。誇っていい。皆、アンタの未来に賭けてみたいのさ」
「……ありがとうございます、野分さん」

 明依は笑顔でそう言ったが、内心はやはり納得できずにいた。
 自分はそんな大それた人間じゃない。これは過小評価じゃないと断言できる。近くで松ノ位の遊女を四人とも見た。自分とはかけ離れた存在だ。よくてやっと手が届く想像ができるくらい、遠い存在。

 店員が運んで来たあんみつを口に含んで、明依はしばらくの沈黙の間、ただぼんやりとしていた。

「私はいつかアンタと宵はそうなるんじゃないかと思っていたんだ」

 どんな関係なのかと質問すらされないのかと、明依は苦笑いを漏らした。

「いつからだい」
「ここ数日ですよ」
「ここ数日」

 野分はなぜか明依の言った言葉を復唱しながらニヤニヤとしていた。

「私の勘は大当たりだね」

 野分はそう言いながら満足げに頷いた。
 それからは野分に根掘り葉掘り聞かれたが、生憎それほど話す内容もない。

「宵とアンタは縁があるよ」
「どんな縁ですか?」
「アンタがあの公園にいるのを見つけたのは宵だからさ」

 平気なふりをしたつもりだ。顔に出てはいないだろうか。明依はそれだけが心配だった。

「どういう事ですか」

 なるべくいつもの様子を意識して、明依は野分に問いかけた。

「中学生くらいの子どもがいつも思いつめた顔で同じ公園にいる、家庭環境に悩んでいる子どもかもしれない、って宵から言われたのさ。それで様子を見に行ったらアンタがいたってわけだ」

 宵はそんな事を、一度だって口にした事がない。
 吉原に来た日の記憶をなぞってみる。何一つ不思議なことはなかった。当然、吉原に来る前に宵に話しかけられたこともないし、野分に連れられて実際にいくつも妓楼を回って断られ続け、最終手段として満月屋に来た事も明確に覚えている。

 確か野分はあの時、『賭けてみようかね』と決心した様に言っていた。
 あの言葉はもしかすると、大見世に入れる様な年齢ではないけれど楼主である宵が見つけた子どもだから、説明すれば可能性はあると思っての言葉だったのだろうか。

「明依。アンタ、知らなかったのかい?」

 野分は黙って考え込む明依に驚いたような顔をした後、言ってはいけない事だったと思ったのか少し眉を寄せた。

「宵兄さん、そんな大切な事なにも言ってくれないんだから。今日、本人を問い詰めてみますね」

 明依が明るい口調でそう言うと、野分はどこか安心した様に息を吐いた。

「なんだい、深刻な顔するんじゃないよ。一緒になろうとしている人間の邪魔しちまったのかと思ったよ」

 そう言って明依を軽く睨む野分に、明依は困った様に笑って「すみません」とだけ答えた。

 この胸騒ぎのような感覚は、気のせいではないのだろう。
 明依は満月屋に戻って宵に直接聞くことに決めていた。どんな返事をするだろうか。
 忘れていた。は、無理がありすぎる。言うと不安にさせると思った。は、なんだか言い訳がましい。

 宵は一体、どんな言葉を使って〝説明〟するのだろうか。
 きっとどんな答えでも、平然なふりをするだろう。いやきっと宵は、明依が平然でいられる様な答えしか口にしないはずだ。

「じゃあね、明依。気張んなよ」
「はい。野分さんも、お体には気を付けて」
「そんな年寄りじゃないよ」

 そういう野分の背中を立ち上がって見送った後、明依はもう一度長椅子に腰かけた。
 結局、野分とあれから何の話をしたのか何一つ思い出せない。ずっと同じことを考えていた。

 自分はもしかすると、生涯知ることはないと高を括っていた宵の秘密に触れようとしているのかもしれない。もしそうなら、一体どんな秘密だというのだろうか。

 今から満月屋に帰って、どういう事なのと宵に問いかける。きっと宵は納得できる〝答え〟をくれるだろう。

 そう考えて疑問に思った。
 どうしてそんなに、宵という人間を無条件で受け入れているのだろう。
 平然を装おうとしている隙間から漏れ出る様に顔を出すのは、宵に対する不信感だった。

「こうしてると、デートみたいだね」

 すぐ隣から聞こえた声に、明依は反射的に声の主へと視線を移した。

「デートって言い方はやめておいた方がいいね。もう、個人的に男と関わると傷つく人がいるんだもん」
「……終夜」

 当たり前の様な顔をして、先ほどまで野分が座っていた場所に腰かけている終夜は、明依の目を見てニコリと笑った。

「アンタの考えている事を当ててあげようか」

 大きく一度、心臓が音を立てる。

「やめて」

 明依ははっきりとした口調で、終夜にそう告げる。
 ちゃんと自分で決心した。自分の行動の責任は、自分で取るつもりだ。
 本当にそうだろうか。宵きっと、この疑問に対する〝説明〟も〝答え〟もくれるだろう。この不信感をかき消してくれる。
 どうしてそんなに、嘘が欲しいのだろう。

 深く吐いた息が震える。そんな明依の様子を見た終夜は、意地の悪い笑顔を浮かべた。

「だから、俺にしておきなよって言ったのに。どうして宵が自分を選んだのか。ちゃんと聞いた?」
「やめて」

 今すぐに満月屋に帰らなければ。そう思って立ち上がろうと視線を上げると、そこにはたまたま通りかかったのか、怯えた顔の桃がいた。

「そこのお姉さん」

 終夜はそう言うと、桃に向かって手招きをする。桃はびくりと肩を浮かした後、胸に手を当ててゆっくりと長椅子に座る終夜と明依の方へと歩いてくる。

「宵を呼んできてよ」
「呼ばなくていいから!」

 終夜の言葉を撤回するように大きな声を出す明依に、桃は身を引いて胸の前で手を強く握った。
 無駄だと心のどこかではわかっていたのだと思う。それでも、いてもたってもいられなくなったり立ち上がりはしたが、案の定、終夜は明依の手首を掴んで一瞬だけ強く力を入れた。
 痛みに顔をしかめた後、明依は振り返って終夜を見下ろした。

「私たちの問題なの。アンタに関係ない」
「黎明には、恩があるよね」

 確かに終夜にそう言ったはずの言葉は届かなかったのか、彼は桃に向かって笑顔を作る。

「見殺しにしたくないなら、俺の言う事を聞いておいた方がいいよ」
「本気じゃないの。絶対にそんな事にならないから、お願い。信じて」

 桃はしばらく怯えたような表情で俯いていたが、視線を上げて終夜の顔を見た後、ぎゅっと目を閉じてその場を走り去っていった。
 もういっそ、何もかも投げ出してしまいたい。なんて、一瞬本気でそんなことを考えた。

「目をそらしてばかりじゃさ、悲惨な人生になっちゃうよ。俺は優しいから、警告してあげてるんだ」
「必要ないって言ってるの」

 明依は終夜を睨みつけながらそういう。しかし彼はいつも通り、飄々とした態度で明依を見上げていた。

「女は宵みたいな男が大好きだろ。つまり宵はこの街で、女を選びたい放題って事。それなのにどうして自分を選んだのか。疑問に思わない程思い上がりの激しいバカじゃないって、俺はアンタをそう評価してる。ね、そうでしょ」

 明依は終夜から顔を逸らした。それが今できる最大限の抵抗の様に思ったから。

「成長したって世間知らずは変わらないね。ダメだよ。気安く愛なんて誓ったら。そういう少しの違和感は、必ず後から大きくなるんだから」

 終夜はどこか楽しそうにそういう。そういえば終夜はこういう男だったなと思うのは、現実逃避なのかもしれない。

「叢雲が死んで旭を殺した犯人が分かって、これでひとまず安心じゃないんだよ。宵は大切な後ろ盾をなくした様なもんだ。いいように利用していたのは、本当に叢雲の方だったのかな」

 宵が嫌いなら直接的な方法はいくらだってあるはずで、明依が気に入らないなら潰す機会なんていくらでもあっただろう。何が終夜をそうさせるのか、当然明依には何もわからなかった。

「宵はアンタを利用しようとしているんだよ」
「私みたいな平凡な人間に、何の利用価値があるっていうの」
「条件をそろえさえすれば、従順に従うからだよ。おおむねの人格が形成される幼少期にあんなことがあったんだ。揺るがない自分だけの居場所を渇望するのは、当然の事だよ」
「……お願いだから、はなして」

 そう言いながらも、抵抗する気力はなかった。敵わないとよく知っているから。代わりに強く唇を噛んだ。目には涙が溜まっていく。
 終夜は明依の手首を握っている手と逆の手を伸ばした。手の甲で顔を逸らした明依の頬に触れて自分の方を向かせると、涙を指ですくった。

「真実を知るのは怖い?じゃあ手でも握っておいてあげる」

 終夜の手は手首から明依の手のひらへ移動して、明依の指の隙間に絡んだ。

「宵はね、国から吉原奪還を命じられた、警察官なんだよ」

 真剣な表情でそう告げた終夜と正面から視線が絡むと、彼は綺麗な顔で笑った。