「懐かしいな。まともに夏祭りに参加するのなんて、あの時以来だよ」

 そういう宵を盗み見ると、薄く笑いながら夏祭り一色に染まった街の様子を眺めていた。

 宵はいつも穏やかだが、いつも忙しく働いている。だからこんな風にゆっくりとした時間を過ごしている事が、明依はなんだか嬉しかった。
 明依が来た年の夏祭りの時期、宵は目が回るほど忙しかったに違いない。余裕なんて全くなかったはずだ。それなのに気遣って誘ってくれたのだろうと思うと、宵の隠れている優しさに触れている気がして嬉しくなる。

 明依を吉野の世話役にと言ったのは宵だ。それでも、明依自身が気に入らないという霞の様な気難しい遊女でも、宵を認めている。
 もし自分が霞の立場なら、自分がその場所に居たかった嫉妬心の隙間に宵が選んだ人間ならきっと立派な遊女になるのだろうという期待の様な、でもやっぱり嫉妬心の様な。そんな複雑な感情があるに違いない。

 それが明依の様な普通の、それもただ幸せそうにしていて何の能もない人間が選ばれたのだと分かれば、嫌いになる事も頷ける気がした。相手を変える事が出来ないのなら、自分を変えなければ。
 そこまで考えて、先ほど霞に意地悪を言った事を申し訳なく思った。

「そういえば、夏祭りで宵兄さんが挨拶してくれたって高尾大夫が。5年前の8月何日かで、その時射的を出していた見世の前って言ってた。宵兄さん、覚えてる?」
「挨拶をしたのは覚えてるけど、さすがに日にちや場所までは覚えてないな。噂通り凄い人だね、高尾大夫は」

 そんな他愛もない話をしていると目に飛び込んできたのは、涼し気に水に浮かんでいる水風船だった。終夜がとってくれたあの水風船は、一体どこに行ってしまったんだろう。あれは紛れもなく、終夜との思い出。もしかすると最初で最後の彼との明確な思い出なのかもしれない。

 定まりつつある価値観に従うのなら、それは間違いなく大切な思い出だ。こんなことがあったと話して聞かせたいのに、自分だけの秘密にしておきたい不思議な気持ち。
 人間の感情に白黒はっきりとつけるなんて、至難の業なのかもしれない。

 何の気もないような顔で、水風船を出している見世の前を通りすぎた。

 宵の横顔はやはり薄く笑っていて、懐かしむ様な顔をしている。

「せっかくのお祭りだよ。何食べる?」
「じゃあ……とりあえずカステラかな」

 そういう宵の手を引いて、明依は小さなカステラを焼いている屋台に並んだ。それからたこ焼きを食べたり、射的をしたり。本当に穏やかで、楽しい時間を過ごしていた。

「あらあらどうも宵さん、こんばんは~。賑やかな夜ねェ」

 見世の楼主の奥さんは宵の姿を見ると、嬉しそうに駆け寄ってきた。この見世の出す屋台には、高尾が身に着けていた様な古風な面がたくさん並んでいた。
 二人が他愛もない話をしている間、明依はふと視界の端に捉えた色彩の方へと顔を向けた。

 風車が竹で作られた軸に縦にも横にも均等に並んでいる。どの風車も、時が止まっているかのように動きを止めていた。
 視界を観光客に何度も遮られながらとても綺麗なその様子を何の気なしに眺めていると、店員ではなさそうな若い男が風車の前に立っている事に気が付いた。

 終夜だ。
 直感的にそう思った後で見えた男の横顔は、やはり終夜だった。
 そう認識した途端、心臓がうるさくなり始める。怖いのか。申し訳ないと思っているのか。悲しいのか。それとも会えたことが素直に嬉しいのか。明依にはもう自分が終夜に対してどんな感情を抱いているのかわからなくなっていた。

 終夜は誰かと会話をした後、隣に飾られた風車を見上げる様に視線をやって眺めている。
 終夜はきっと、視線に気付いている。そして間もなく、こちらに視線を向ける。絶対にそうだという確信が明依にはあった。

 意識の外側では、面をタダで持って行けと言われて「では、せめて買わせてください」という宵と、「絶対に似合うから、持って行って!よかったらそっちのお嬢ちゃんの分もね」という楼主の奥さんの声がただ流れていた。

 終夜が風車から視線を逸らした。その途端、観光客に遮られて、終夜が見えなくなる。
 それでも意識は、その先にいるはずの終夜に向いていた。

 「じゃあ、お言葉に甘えて」と宵の声が流れて、焦りの様な感情だけがぽつりと胸の内に浮かんだ。

 観光客が遮っていた視界がまた、開けた。一体、何を期待しているだろう。

 どこか冷たい顔でこちらを見ている終夜を、自分が今どんな顔で見つめているのかわからなかった。

 終夜は今、どんな気持ちでいるんだろう。
 叢雲が犯人だと宵に告げた事を知っていて、幻滅しているのだろうか。丹楓屋からの帰り道、自分から帰りたくないと言っておいて、あの場で宵に何も言えなかった事に呆れているだろうか。一緒に来るかと聞かれた時に、すぐに返事が出来なかった事を責めているだろうか。それとも一介の遊女なんて、終夜にとってはやはり価値がないに等しいのだろうか。

 明依は口を開いて、何を言えばいいのかわからずに口を閉ざした。終夜は言葉を待つようにただじっと、こちらを見ている。
 こんな風に思い続けるくらいならいっそ、酷い言葉で責め立ててくれたらいいのに。

 早く口を開かないと。この男は気まぐれで、すぐに人込みに紛れてしまうから。
 なんの言葉も決まらないまま、口を開いた。

 〝終夜〟

 とっさに口にした彼の名前は、自分の耳にも届かない程小さな音だった。
 終夜は〝そうじゃないだろ〟とでも言いたげに、馬鹿にした様にそれから呆れたように鼻で笑った後、薄く笑顔を作っていた。

 観光客に遮られた一瞬で、明依は定めていたはずの視線を散らした。夢から覚めて覚束ない様な、魔法が解けた様な。現実に引き戻された様な感覚に浸っていた。

 風車の前に終夜はいない。クルクルとご機嫌に回っている風車を見て、今の終夜は夢だったのかもしれないと本気で考えていた。

「ごめん、お待たせ明依」
「ううん、全然。可愛いお面だね、それ。何の動物?」

 両手に面を持ってそう言う宵に、思考するより前に言葉を返せる自分に明依は驚いていた。

「狐と猫らしいよ。どっちがいい?」
「じゃあ、宵兄さんが狐」
「明依が猫って事だな」

 そう言って猫の面を受け取った後、「ありがとうございます」と遠くにいる楼主の奥さんに告げると、手を振って返事をしてくれた。
 粘土なのか、紙なのか。よくわからない手触りの面をなぞる様に触れてみる。

 あの時終夜に、何を言うのが正解だったのだろうか。
 声は届かなくてもきっと終夜は、口の動きだけでどんな言葉でも理解出来たはずだ。

「何を見ていたんだ?」
「……あの風車」

 明依が指を差すと宵はその方向に視線を向けた。相変わらずご機嫌そうに回っている。

「吉原って、凄く綺麗な街だなって思って」
「そうだね」

 風車からこちらに視線を移す宵に気付いていて、顔を見る事が出来なかった。

「この街は綺麗だよ」

 それは自分の中の終夜という思い出を守る為の、よく作られた嘘だったから。

「行こうか」

 宵のその言葉を合図に歩きだして、また夏祭りの雰囲気に紛れながら宵の持っている狐の面を見た。

「宵兄さん、それよく似合いそうだね」
「本当?似合ってる?」

 宵は面で顔を覆ってこちらを見る。身長が高くてすっとしているからか、ただそれだけで絵になっている。

「うん。やっぱり似合ってる」

 明依はそう言いながら自分も持っていた面をつけた。

(つまづ)かないようにね」
「日奈じゃないんだから」
「確かに日奈はよく何もない所で躓いてたな」

 そう言って二人で笑い合った。もうほとんど過去になった、大切な人の話を。

「ねえ、宵兄さん」
「うん」
「旭と日奈が死んだとき、宵兄さんも辛かったはずなのに、私を気遣ってくれてありがとう」
「どうしたんだ、急に」

 少し笑いながらそういう宵はそういう。面に隠れた互いの顔は見えない。

 吉原の街の端には、ひっそりとした神社がある。オタクと呼ばれる一般人が作った地図がネット上にあるのだと客から聞いたことがあるが、吉原の街は公式に地図を公開していないので、神社だけを目指して吉原に来る人はそうはいない。喧騒が、遠くに感じる。

 大きなイベントの前には、妓楼の人間はこぞって手を合わせに来る。日奈も大夫昇進の際、手を合わせに来たに違いない。
 その神社の側で二人は足を止めて、隣に並んで立った。

「私、宵兄さんの重荷になっていただろうなって、そう思って。言葉にするのは難しいんだけど、宵兄さんは私みたいな人間とは違うんだろうなって思っていたっていうか、疑いもしなかったの。でもきっと宵兄さんも、普通の人間なんだよねって」
「人間なんて皆、きっと大して変わらないんだと思うよ。ただ、明依が想像している様な俺でいたいとは、いつも思っているんだけどね」

 そういう宵の口調は穏やかで、凛としている。
 『明依はいつも俺を褒めてくれるけど、俺はそんな立派な人間じゃない』
 夜桜の日。宵にそう言われていたのに、どこかで違うだろうと思っていた。今でもなんだか、信じられない気持ちだ。きっと宵は誰かに縋らなければいけない程弱い人間ではない。

「もし叢雲さんが生きていて、本当に宵兄さんが利用されて頭領になったんだとしても。多分宵兄さんは、叢雲さんの思い通りにはならなかったよ」

 宵がどんな気持ちでいるのかは知らない。ただもしも利用されていたことに思う所があるのなら、少しでも気が楽になるのではないかと考えている。

「だって宵兄さんはしっかり、自分って言うものを持っていて、それはきっとあの高圧的だった叢雲さんの前でも変わらないって、私はそう思う」
「うん」

 発した宵のたった一言は、どこか嬉しそうに聞こえる。

「それからね、宵兄さんは今もまだ、日奈と仲たがいしたまま別れた事への罪悪感を抱えているんじゃないかと思って」
「それは多分、消えるようなものじゃないよ。明依がどれだけ俺のせいじゃないって説明したって、多分消えない。……ただ、だから責任を取って一緒にいようと言っているんだ、って思っているんだったら、それは違うよ」

 いつも通りの口調で言う宵は、それからすっと息を吸う。

「自分の意志で明依と一緒にいたいって、そう思ってる」

 はっきりと告げられた言葉から逃げるつもりなんてなかった。

「藤間さまに、身請けたいって言ってもらったの」
「藤間さまが?」

 面の向こうの顔は見えないが、驚いている様だ。宵は初耳だったらしい。
 宵の言った言葉をなかったことにしたくて話を逸らした訳じゃない。
 ただ、今から話すことは二人のこれからにおいて避けては通れない事だ。

「この街でまだやり残した事があるって、断ったの。まあどうせ終夜のせいで、却下になるんだろうけどね。……拾ってくれた宵兄さんへの恩返しだとか、雪を満月屋に戻してあげたいとか。思っている事はたくさんあるんだけど、全部私の為なの。私は中途半端に何もかもを投げ出して、仕事を辞めたくない」

 宵が楼主として満月屋にいるのだとしても、頭領になるのだとしても、一緒にいると誓うのなら遊女でいる事は許されないだろう。だから今、自分が宵に条件を持ちかけている様な構図になっているのかもしれない。
 何を思っているのか、何も喋らないまま宵は正面を向いていた。

「それから終夜の事。ちゃんと話してなかったから」

 宵は相変わらず、何を思っているかわからない様子で正面を見ていた。

「日奈と旭はね、終夜が〝吉原の厄災〟なんて酷い言葉で呼ばれる様な人間じゃないって信じてた」

 もっと緊張したり、口ごもったりするものだと思っていた。しかし案外、あっさりと終夜という人間を口にできる。
 ただ〝終夜〟と口にするたびに胸がチクリと痛むのは、きっと気のせいじゃない。

「私も信じたいの。あの二人がそう思っていたからじゃない。私が私の目で見て、そう思った。だから、終夜と約束してるの。私が松ノ位に上がったら、私の話にちゃんと耳を傾けるって。終夜に死んでほしくないって本気で思っているから」
「そうか」

 自分が拾った遊女が、自分を殺そうとした人間を良く思っていると告げられるのは、どんな気持ちだろう。ただこれは、どうしても伝えておかなければいけない。
 どれだけ成長しても、拾ってくれた宵に認めてほしいと思う気持ち消え失せる事はないのかもしれない。

 同時に、もしこの考えを拒絶されるのなら、一緒にいる事なんて出来ないだろう。

「いい気分はしないな」

 あっさりとした様子で、でもはっきりと宵は言う。

「明依が俺を慕ってくれている気持ちは、よく知っているつもりだよ。だからいつも、どこか俺に遠慮して一線を引いていた。ずっとそんな様子だった明依が、正直な気持ちを口にしている事が嬉しいって思う気持ちもある。……勿論、いい気分はしないんだけど」

 念を押すように最後の言葉を言う宵に、明依は思わず笑った。吐き出した音が面の中に籠った。

「素直なんだね、宵兄さん」
「明依が素直に話してくれたのに、俺だけ遠慮して〝大丈夫だよ〟〝それでも平気だよ〟って言うのは違うと思って。でも、ちゃんとわかったよ。一緒に考えていこう。二人の事も、吉原の事も。それから終夜の事も」

 今の自分を認められた様な気持ち。それから、心強い味方を得た安心感。
 宵に部屋に連れ込まれた時のあの強制的に注がれるだけの気持ちは、一体何だったのだろう。疲れていたのだろうか。そう思うくらい今の時間は穏やかで、自分と宵の意見を交わらせることが出来ていると確信する。

「宵兄さんは、私の事をおいていかない?」
「俺は明依が許してくれるなら、ずっと側にいるよ」

 聞き覚えのある言葉だ。
 宵という人間には何か秘密がある。それはもしかすると知らなくていい事なのかもしれないし、打ち明けられたとしても受け入れられる事なのかもしれない。ただそれは今、関係のない事の様に思えた。
 一人の人間として、宵という人間と関わっていくことが出来るのなら。だから、今の明依にとってはこれ以上の返答はないのかもしれない。

「たくさん心配かけてごめんね」
「実は俺も叢雲さんに利用されているのかもしれないなって、何となく気付いてたよ。危険なことを承知で動いていたのは、俺も明依も一緒だね。……じゃあ、もういい?」

 それから宵は面を外して明依を見た。

「曖昧な関係は、とりあえずこれで終わりにしても」
「私のわがまま、聞いてくれるの?」
「いいよ。全部聞いてあげる」

 宵はそう言うと、明依が顔を覆っている面を外した。

「いちいち終夜に嫉妬するより、ずっといいよ」
「そんな理由?」
「重要な事だと思うけど」

 笑いながら問いかける明依に、やはりいつもよりどこか砕けた宵の口調でそういう。

「じゃあ、終わりにしよう」

 吉原の外に出ようという約束は破ってしまうけれど、その代わりにしっかりと自分の足で立ってこの街で生きていく。日奈の大切だった雪を満月屋に戻して、あの二人の〝終夜〟を守って、吉原の皆を自由にして。旭の思っていた未来とは違うけれど、二人はきっと認めてくれるはずだ。

 明依の言葉を合図に、どちらからともなく重ねた唇の感覚を脳みそが認識するより前に、軽い音を立てて面が地面に落ちる。

 罪悪感というきっかけを差し引いて明依という人間を選んだ可能性が一体どれくらいあるのか。十六夜という人間を根本的に拒絶できなかった理由が何かあったのか。生涯知ることはないのかもしれない。心の奥底を覗こうなんて、傲慢な話じゃないか。

 ただどんな理由があるのだとしても繋ぎ止めていたい。そう、互いが思っている事だけは確かだった。

 完全にその人間自体を愛しているんだと胸を張って側にいる男女が、一体どれくらいの割合でいるだろう。
 大人になるにつれて打算的になっていく事を、誰も否定できやしない。

 相手の給料だとか、スペックだとか、容姿だとか。これから先ずっと側にいるからこそ、打算的になる。それと何も変わらない。自分の思い描く将来に一番近い人。そして、ある程度のフィーリングが合って、同じ方向を見ていられる人。
 それに今の自分なら、この人を支えられるだけの何かがあると明依は思っていた。
 だって同じものを失って、同じこれからを共有しているから。

 異性に向ける愛情か。家族に向ける愛情か。そんなモノはもはや、何の意味も持たない事は分かっていた。
 ずっと側にいれば、異性に向ける愛情はやがて家族のような絆へ派生する。

 きっと誰も、愛の定義を説明できない。

 あの鮮やかな色を放つ風車の前に立つ終夜を脳みそが引っ張り出すより前に、目を閉じて唇の感覚だけに意識の全てを向けた。