昨日、雨が降った。通りをいろいろな色の傘が行きかう様子を綺麗だと思えば、自然と笑顔がこぼれた。
 天気が崩れれば思い出す、日奈と旭の事。昨日に限ってはなんだか、楽しい思い出ばかりだった。日奈がいつも(つまづ)くとか、旭が梅ノ位の女の子からの視線に照れていたとか。
 天気が崩れれば思い出す。それはこれから先もきっと、変わらない。ただ、その思い出は暗いものだけではないのだと救われた様な気持ち。救われた様な気持ちなのにどこか、もの寂しい。

 挨拶を返してくれる遊女は増えたものの、頑なに無視し続ける人がいる事も事実だった。人間というのは本当に際限なく欲が出てくるもので、今まではそれが普通だったというのに、心が痛むのを感じる。それからすぐに、高尾の考えを頭の中で唱えた。
 自分の事さえままならないというのに、他人の考えている事なんてわからない。考えるだけ無駄なのだ。その結論に至っては、淀んだ心が少しばかり浄化する。

 昨日、外は雨。憂鬱な雨だった。
 自然の天気とは別に、自分の心の中にも天気があり、それは自分次第なのだという事を知った気がした。

 最近の宵はどこかぼんやりしている事が多い気がする。
 宵が何を考えているのか直接聞いた訳ではないので詳細は分からないが、十中八九、叢雲が関係している。
 平気なふりをしているが、おそらく精神的に参っているのだろうと明依は思っていた。
 もしかすると、日奈の時も旭の時もそうだったのかもしれない。

 『私ね。宵さまって、思っているより強い人間じゃないと思うの』

 十六夜のあの言葉を聞いたからか、今の宵はどこか弱々しく感じる。気のせいにしては、随分とはっきり。
 叢雲という満月屋に直接的には関りがない人間が死んで、これだ。
 日奈と旭が死んだとき、宵は一体どんな気持ちだったのだろう。あの時は自分の事で精一杯だった。人を思いやる余裕なんて無いに等しかった。宵からの親切を、当然の様に受け取っていなかっただろうか。宵はあの時もしかすると、相当無理をしていたのではないだろうか。

 そう思うと同時に、宵はそういう気持ちの整理は自分でしそうだ。変に声をかけるのは迷惑なんじゃないかとも思っている。
 しかし明依は、自分という人間について何となく輪郭を掴んでいた。

 旭が死んだと聞いた時、後先考えずに主郭の中に入っていった。宵が捕まった時、危険だと分かっていても終夜に近付いた。
 それを後悔した事は、一度だってない。

 こんな時に何もしなかった時に残るのが〝後悔〟という名で呼ばれて、心の内に巣くうのだという事。

「ああ、黎明ちゃん。時雨さんでしょ。上がって待っててよ」

 こんな時に明依が頼る人間と言えば、やはり一人しかいなかった。

「ありがとうございます。でも、大丈夫です、ここで。すぐに終わりますから」
「何言ってんの。お客様を玄関先なんかでお待たせしたら、私が姐さん達に叱られるんだよ。さっさと入んな」

 とうとう小春屋の遊女も、明依が顔を出すと何も言わなくてもすぐに時雨に取り次いでくれるようになった様だ。
 毎度毎度お茶とお菓子をごちそうになるのは申し訳ないので今回は遠慮したが、小春屋の遊女はどこかふざけた口調でそう言って小春屋の中に入ってくる様に促す。

 それからお茶とお茶菓子以上に、毎度毎度利用する様で申し訳ないとは思うのだが、時雨という男は明依の中ではいわばオールマイティカードのような存在だった。

「ねえ時雨さん。お願いがあるんだけど」
「どうした?」
「数時間だけでいいの。満月屋の楼主代理、やってくれない?」
「……宵の気晴らしって事か?」

 時雨は不思議そうにしていたが、少し間をあけてからそういう。

「そういえば宵が今、叢雲さんの事をどう思っているのか本人から聞いたか?」

 世間話の様な軽い口調で、時雨はそういう。明依は首を振った。

「聞いてないよ。時雨さんは聞いてるの?」

 時雨はじっと明依の顔を見つめた後、ゆっくりと口を開いた。

「終夜から聞いた旭を殺した犯人を、宵に言ったな」

 明依ははっと息を呑んだ。
 宵が叢雲の事をどう思っているかなんて、本当ならわかり切った事なのだ。〝慕っていた人が死んでしまって悲しい〟。それ以外にはない。
 何言ってるの、どういう意味。と問いかけるのが正解だった。

 叢雲が旭を殺した犯人だと宵に口にしていなければ、〝どう思っているのか〟なんて選択肢がそもそも、出てくるはずがないんだから。

 明依は黙っていた。しかし、時雨も口を開く気はないらしい。

「……言った」

 沈黙に耐えきれずとうとうそう口にした明依に、時雨は盛大な溜息を吐いて俯いた。

「妓楼の中でも、絶対に人の目がある所を移動しろ。一人で外を歩くときは明るい時間に人通りの多い道を通って、できる限り客と同じ部屋で眠れ」
「私が終夜に殺されるって、そう言いたいの?」
「お前の望まない結末になるって事だ。……こんな人に溢れた街で目立つ行動をしようとするなら、その条件は限られてる。お前にできる事は、終夜が気付いていない可能性に賭けて、もし気付いていた場合に備えてその条件をつぶす事だ」

 念入りに忠告するように重い口調でそういう時雨に、明依は地下の拷問部屋につながれていた男の有様を思い出した。あの男は敵だったから、あれほど痛めつけられただけだ。そんな考えが浮かぶ。
 終夜が自分を殺そうとする実感が、今では少しも湧いてこない。感覚が麻痺しているのだろうか。

「時雨さんも、終夜がそんなことを平気な顔でする人だって思う?」
「思う」

 すぐにそう答えた時雨は落ち着こうとするかのように数回、呼吸をする。

「誰の手も及ばないほど大きく、抗う事も防ぐ事もできない災いを。縋る気持ちで神頼みするしかできない不幸を。人は〝厄災(やくさい)〟と呼ぶんだ」

 ここまで言われてどうして、実感がないのだろう。
 空も海も、それから時雨も、終夜を〝吉原の厄災〟の名にふさわしいと言わんばかりの言葉で彼を語る。
 しかし水風船を取ってもらった夜の終夜は、きっと彼の中にある一部で。日奈と旭の信じた終夜で。自分と大して歳の変わらない負けず嫌いの男の子だった。
 それすら演技だというのなら、もう本当に完敗だ。終夜という人間に打つ手はきっと、何一つ思いつかない。

「明依。お前、自分の幸せについて考えた事はあるか」

 一体どうして急にそんな話になったのか。そう思った明依だったが、時雨の真面目な表情を見て、結局その疑問を口に出すことはできなかった。

「何事もなく吉原の外に出て、普通に生きていく事が幸せなのか。それとも、大切な人と一緒に地獄に縛り付けられて生きる事が幸せなのか」

 前までの自分なら、その与えられた選択肢を行ったり来たりしながら、その答えを探していただろう。
 しかし今の自分の内側がはじき出した答えは、それほど単調なものじゃなかった。

「幸せって多分、そんな大それたものじゃないよ」

 明依がそう言うと、時雨は目を見開いた。
 まるで口をついたかのように出たその言葉に、明依自身も驚いていた。それは違うと直感的に断言できる、自分の中に定まりつつある価値観に初めて触れた気がする。

 やはり終夜の言う通り、人間という生き物は誰かに触れてもらわないと自分の形が分からないように出来ているんだと、ぼんやりと考えていた。

「私はもう、きっとどんな未来でも幸せなんだと思う。何から手を付けていいのかわからない自由な世界に放り出されたって、この狭い街で一生終える事になったって、ちゃんと自分の足で立って自分らしく生きていけるよ。幸せって、そういう事でしょ?」

 早朝に吉野と見た、吉原の違う顔。少し早く起きてゆっくりと一日を始める、ほんの少しの贅沢。自分との約束を守るという、約束。自分を好きになる努力。目標を定めて、自分が成長している実感。
 きっと幸せなんてどこにでもあって、それは自分以外の何物も介入する必要がなく自分の心だけで断定していいものだ。

「終夜がどんな人なのか、聞くたび怖くもなるよ。でも自分の目で見た終夜を信じたいの。その責任を自分で取る覚悟も、ちゃんとできてる」
「……明依に甘いなんてアイツに言っておいて、俺が甘やかしてりゃ世話ねーよな」

 時雨は息を漏らしながら、安心した様に笑った。

「やっぱお前、いい女だな。明依」
「そうでしょ。いい女でしょ、私」

 穏やかに、それでいて嬉しそうに笑う時雨に、明依は調子付いてそう答える。
 時雨は立ち上がると、明依に手を差し出した。

「ほら、立てよ明依。あの堅物を説得しに行くぞ」

 そういう時雨の手を握って、明依は立ち上がった。





「任せられないよ。これから一番忙しい時間になるのに」
「忙しい時間だからこそ、たまには息抜きしてこいって言ってんの」

 宵の部屋の前で時雨はうんざりした顔でそう言った。かれこれ5分はこのやりとりを二人で続けている。

「甘えとけって。ほら、最後にこの時間まるまる休んだのなんて、終夜から地下牢にぶち込まれた時以来だろ?」
「全然笑えない」

 宵はそういうと、目を細めて時雨を睨んだ。

「ありがたい話だけど、」
「お前、本当クソ真面目で強情だな!何とかなるって。可愛い明依の為だと思って行ってこいよ」

 そう言うと、時雨は隣に立つ明依の頭で手をポンポンと力強く弾ませた。

「ここに来たばかりの頃。気を張ってばかりだった私を夏祭りに連れ出してくれた事、覚えてる?」

 その言葉に、宵は少し驚いた表情を見せる。それから一度頷いた。

「ああ、覚えてるよ」
「一緒に行こうよ、宵兄さん」
「あ、おい。(かすみ)

 明依の言葉でも決断できずにいる宵を他所に、時雨が声を上げた。
 少し離れた所にいる霞という遊女は、時雨の声に振り向くと小さく手を振りながらこちらに向かってきた。

「また来てたの、時雨さん」

 呆れた様にそう言った後で宵に頭を下げた霞は、明依を一瞥することもなく時雨に向き直った。
 霞は竹ノ位の遊女で、明依が心底気に入らないらしい。朝に挨拶をしても返事所かこちらを見ようともしない。

「今日暇か?」
「何それ、ひやかし?」

 霞は膨れっ面で時雨を睨む。

「手伝ってほしいんだけど。楼主の仕事」
「それはいいけど……」

 そう言うと霞はちらりと宵の顔を見た。

「たまには息抜きさせてやりたいんだよ」

 時雨の言葉に、霞はあからさまに嫌な顔をした。

「宵さんの息抜きは必要だと思うよ。それは私も賛成。でも私この子の事嫌いだし、この子が絡んでいるなら協力とかしたくないんだけど」

 霞ははっきりとした口調でそう言うと、そっぽを向く。
 その言葉に時雨は深いため息をついて、宵は心配そうに明依を見た。
 宵は当然、妓楼の事も心配だっただろうが、もしかするとこんな展開になる事も嫌だったのかもしれない。

 あの頃は無視されても何も言えなかったし、自分に見合っていない地位を与えられているんだから憎まれても仕方のない事だと思っていた。

 今でもそう思っていない訳じゃない。傷ついていない訳じゃない。ただ、自分の事よりも先に、明依という人間を大切に思ってくれている時雨と宵が傷ついているという事を明依は理解していた。
 時雨や宵が目の前で同じように言われたらきっと、自分が深く傷つくという確信があった。実際に夕霧が日奈を悪く言った時、どうしようもない怒りが溢れた。
 こんな風に真向から負の感情をぶつけてくる人間の気持ちは多分、理解できない。

 昔、明依の悪口を言う女たちに『明依はいつか大夫になるんだから!』と目に涙をいっぱいに溜めて、震えながら言った日奈の言葉を思い出す。

 自分一人なら、何を言われても平気だと思っていた。
 ただ、今はもっと自分を大切にしないといけないと思っている。自分の為だけじゃなくて、日奈や旭、宵や時雨の様に、明依という人間と関わって大切にしてくれている人達の為にも。
 明依は大きく息を吸った。

「それじゃあ、霞さんが宵兄さんの息抜きに付き合ってあげるって言うのはどうですか?」
「はァ?」

 嫌な素振りの一切を見せないまま、笑顔を張り付けてそう提案する明依に霞は信じられないという表情を浮かべる。

 〝私の事は嫌いでもいいから、宵兄さんの事が心配なら協力してほしい〟と言って頭を下げるだとか、もっと上手に事を運ぶ方法は思いついていた。

「幸い私は一度、楼主の仕事をした事があるし、その方が効率的かもしれません。私の事が嫌いでも、宵兄さんの事は好きでしょ?」

 なかなか意地の悪い言い方だと自分でも思った。
 きっと彼女には彼女なりの理由がある。それもわかっていた。もし自分が霞と同じ立場で、後から入ってきた人間がいい待遇をされていたら、恨み一つも湧いてこないと胸を張れる程の自信はない。

 遊郭という区域は、妓楼という場所は、人をおかしくする。信頼する人間から売られ、物の様に扱われるこんな場所では、おかしくならなければきっと生きていけない。それは日奈と旭がいなくなったことで、この街の本当の姿を見た今はよくわかる。

 ただ、だからと言って正面から質の悪い悪口を受け入れる程の器の大きさは持っていない。そんな日が来るかは分からないが、もし関係の改善を図る機会があるのならその時に全部謝ろう。

 そんなことを考えている明依をよそに、霞は少し顔を赤くして口ごもっている。
 明依や日奈、宵の関係が特殊なだけで、楼主と遊女という明確な上下関係がある。
 気を遣う相手の気晴らしに付き合うか。見知った時雨と仕事をするか。選択肢なんてあってない様なものだ。

「俺はお前が適任だと思って声かけたんだけどな。嫌なら他をあたる事にするわ」
「わかったって。やる。やるから」

 いつもの様に飄々とそういう時雨はおそらく、霞を見かねて助け船を出したのだろう。霞はどこかふてくされたような口調で返事をした。

「じゃ、決まりだな。そういう事で宵。心強い味方が付いてるから、安心して行ってこいよ」

 霞はまだふてくされた顔をしているが、時雨は全く気にせずに彼女の肩に手を置いた。

「わかったよ。ありがとう、迷惑をかけるね」
「お気遣いなく。宵さんが普段、自分の身体よりも私達の為に仕事を優先している事なんて、皆わかっている事ですから。たまには気兼ねなく、息抜きをしてきてください」

 薄く笑ってそういう宵に、霞はふてくされた態度を取り下げて最初同様、気丈な様子でそう言った。

「霞さん。ありがとうございます」
「別にあなたの為じゃないから」

 感謝を伝える明依とはやはり顔を合わせずに霞はそういうと、そっぽを向いてその場を去った。

「ちょっと口は悪いが、心根の悪いヤツじゃないんだよ」

 時雨はそう言った後、二人を追い払う様に手を振った。

「ほらほら、ぼーっとしてる間も時間は過ぎるんだぞ。さっさと行けよ」

 そういう時雨にお礼を言った後、明依は宵と二人で満月屋を出た。

 長いようで短かった曖昧な宵との関係はきっと今日、終わるだろう。