「叢雲さんが旭を殺した?」

 宵はその言葉の意味を確認するように呟く。そう呟いた後、宵ははっとした様子で誰もいないか確認するように辺りを見回した。それから少し明依と距離を詰める。

「何の為に?」
「例えば、自分が頭領になりたかったとか。それなら、炎天さんと清澄さんが頭領候補からも辞退している手前言い出せなくて、旭を殺して宵兄さんを……利用しようとしているっていう考えも、ありえない事はないでしょ」

 明依は終夜から聞いた言葉を、なるべく自分の意見の様に言葉を変えて口にする。しかし宵は、少し厳しい顔つきで明依を見た。

「……それは、明依の意見か?」

 宵は明依の真意を見抜こうとしているかのように、じっと明依の目を見た。宵が何を言いたいのか、明依には手に取る様にわかっていた。
 終夜とお前は結局のところ、どういう関係なんだとか。どうしてそんな情報を知っているんだとか。つまりは、また終夜が絡んでいるんだろ。と言いたいに違いない。

 別に宵にどう思われたって構わない。それで宵を守ることが出来るのなら。
 それよりも問題なのは、終夜の言葉を守らなかったという事実だ。言わない事が自分の為なのなら、言った先には何があるのだろう。

「お願いだから、気を付けて」

 しかしこの罪悪感のような、恐怖心のような感情は、宵には関係のない事だ。
 念を押すようにそういう明依に、宵は何か言いたそうな顔をしたが、小さく頷いた。

「わかった。ただ、これ以上首を突っ込むのはやめるんだ」

 明依の目を見てそう言った後、宵はすぐに明依に背を向ける。

「危険な事はしないで」

 明依は宵が後ろ手で自室の襖を閉めても、しばらく部屋の前に立っていた。
 こんな時、端的に言葉で自分の気持ちを伝えるのが難しい。
 宵の為を思っている。宵に死んでほしくないから、終夜から聞いた話を宵にした。宵の事が、大切だからだ。
 それなのにどうして、そんな顔をさせてしまうのだろう。
 宵はどうして、そんな顔をするのだろう。
 考えても答えの出ない〝どうして〟が頭の中に浮かんで、埋め尽くされるような感覚を明依は味わっていた。

「あの話」

 とりあえず自室に帰ろうと踵を返してしばらく歩いていると、急に海の声が聞こえた。

「言うなって、言われなかったの?終夜から」

 いつも通りの平坦な口調。どうしてそんなことを聞くのか、読み取ることは難しい。
 明依は黙っていた。どんな言葉を返したらいいのかわからなかった。しかし、この状況では沈黙は肯定していると取られて仕方ない。それが、事実だった。

「お前、自殺志望者か」

 空はいつも通りの平坦な口調だが、聞き方によっては断定する様な、呆れている様な口調でそういう。

「この吉原で終夜に逆らうって言うのは、そういう事だ。前にも話したはずだ」

 空は鋭い視線を明依に寄越す。明依はその真っ直ぐな目を直視することはできなかった。

「でも周りには誰もいなかったよ」
「私たちの気配にも気が付かなかったのに、どうしてそうだって断言できるの」

 海にそういわれて、確かにという言葉以外浮かんでこなかった。
 明らかに浮かび上がってくる、終夜への恐怖心。しかし、恐怖心よりももっと先にあるのは、もしかすると終夜は明依という人間を信頼して話をしてくれたのかもしれないという期待、それから裏切った罪悪感だった。
 それなのに頭の中ではその理由を探して、宵を守る為なんだから仕方ないなんて考えている。この考えは、脳みそが自分を守るために弾きだそうとしている回答なのかもしれないと、明依は思っていた。

「お前は終夜って人間を誤解している」

 空は感情の読み取れない口調でそう言った。

「目的を達成するためなら、どんな手段も(いと)わない。終夜っていう男は、そういうヤツだ」
「平気な顔をして人を殺すし、平気な顔をして誰かを裏切る」

 空に続いてそういう海に、明依はゆっくりと息を吐いた。
 二人の語る終夜という人間の感想。それがなんだか、聞き捨てならない。

「平気な顔をしててもさ、本当に平気って思っているかは、その人にしかわからないよ」

 日奈と旭が見た終夜という人間は、もしかすると終夜という人間の一部分だったのかもしれない。
 それでも、信じていたかった。日奈が死んだときに簪を渡したのは、終夜だったと。あの二人の見た終夜は幻ではなくて、確かに終夜の中に存在している一部分なのだと。

「終夜は確かに、善人じゃないかもしれないよ。でも、本物の悪人じゃないって、私はそう思う。私がちゃんと、一人の人間として終夜と関わって、そう思ったの」

 真剣な表情でそういう明依に、空と海は顔を見合わせた後、もう一度明依を見た。

「その考えが正しい事を祈ってるよ」

 空はそう言うと、踵を返す。

「背後には気を付けて」

 海は平坦な口調で、いつも通りの無表情でそう言う。そして踵を返した後、薄暗い廊下の向こう側へ消えていった。

 まさか自分が言われることになるとは思っていなかった物語の台詞(せりふ)の様な言葉に恐怖心がないと言えば嘘になる。
 ただ、後悔はしていなかった。あの日、終夜という人間と関わった。自分の中でも形なく漂っていたものが、言葉にする事でやっと、形を持った気がした。
 これが本心だ。もし終夜という人間を見誤っているのなら、もう打つ手はない。

 明依はゆっくり息を吐いた。
 高尾の言う通り、終夜と交わした約束は余りに不明確だ。〝話を聞く〟なんて。おそらく終夜は返事をして、それで終わりだろう。しかし、どうすることも出来なかったと思っている。もし〝契約〟という形であれば、終夜はきっと受け入れなかった。だからおそらくこれが、今できる最善だったのだと思う。

 どれだけ深く考えた所で、やらなければいけない事は決まっている。
 吉原の解放に手立てがない事の緊急度が低いとは言わない。ただ、それは後回しだ。どちらにしても、松ノ位に上がらなければ、吉原での発言権などないに等しい。終夜に話を聞いてもらう事も出来なければ、雪を吉原に戻す事も出来ない。

 だからまず何より先に集中すべきは、松ノ位に上がる事。そこに全力を注がなければならない。目の前のやるべきことを定めてそれにただ集中できるよう、自分の思考を改める。きっと高尾はこれを伝えたかったのだろうと明依は思った。

 ただ松ノ位に必要とされる要素というのは、日々の積み重ねだと明依は確信していた。自分の考え方を根本的に矯正していく。地道に変えていくしかない。恐らく、近道はない。
 それがどこまでも、もどかしい。





「おはよう」
「おはよう」

 ここ数日で竹ノ位の遊女は、返事をしてくれるようになってきた。

「おはよう。最近は早いんだね、明依ちゃん」
「うん。なるべく早く起きる様にしてるの」

 あの座敷で終夜から助けた遊女は、(もも)という。桃は大人しい性格らしい。細々とか弱い声で喋る。例えるならそれはそよ風の様で。聞き心地の良い声をしていた。
 少しずつ、見える世界が変わっていく。きっと日奈と旭が生きていたら、無視され続けた竹ノ位の遊女に自分から挨拶をしようと思う事も、ましてや返事をしてもらう事も、桃と話をすることもなかっただろう。

 『過去の何一つが欠けていたって今の私にはならないなら、どうしようもなかった事も受け入れようと思えてくる。そして、小さな事にも感謝できるようになるものだ』

 明依は、旭が死んだときに藤間が言った言葉を思い出していた。
 まだ受け入れる事は出来ない。ただ、断言できることが一つだけある。

 今の自分が好きだ。
 日奈と旭が生きている世界ではきっと、これほど自分に自信をもって胸を張る日は来なかっただろう。ずっと流されるままに生きていったのかもしれない。自分一人の力では、その事にも気が付かないまま。
 今持っている全てを犠牲にしてでも、日奈と旭のいる世界を渇望しているとは、今はもう胸を張って断言できない予感に、胸が痛む。

 成長は時に、悲しい。過去の人を置き去りにしてしまう。心の内で思うだけでは到底足りないのに、心の内でささやかに思い出す事さえ、虚しくさせる。

 『そう思うまでに随分と長い時間が流れたのに、まだ自分の中で解けきれていない何かがあるのも事実。それでも昔よりは随分と、楽になった。時間とは、そういうものだよ、黎明』

 藤間の言った言葉の続きを思い出す。
 時間の流れとは、こういうものだ。それは明依という人間が確かに成長している証であり、同時に二人が本当に〝過去〟になろうとしている証拠でもあった。
 これは正しいと、胸を張って断言することもまだ出来そうにない。

「黎明」

 桃が去ってすぐ、低い音が穏やかに響いて明依の源氏名を呼んだ。
 明依が振り向くと、そこには叢雲がいた。身体中が強張る。もしかして、自分が旭を殺した犯人であることを隠蔽するために、直接関わってきたのか。勝山が終夜と明依を逃がしたあの夜の事が何か関係しているのか。
 そんな事をせわしなく考える明依をよそに、叢雲はいつもの難しい顔ではなくどこか穏やかな表情を浮かべていた。

「お前を過小評価していたことを詫びに来た」

 一体何を言っているのか。明依はまだ、一言も何かを口にすることが出来なかった。

「あの花魁道中は、本当に見事だった。今まで見たどんな道中よりも美しかった。松ノ位や清澄だけではない。おそらく今、吉原の皆がお前の松ノ位昇進に期待している。満月楼の遊女達もきっと、お前を見直した事だろう」

 叢雲の目的を探ろうと返事一つ出来ない明依をよそに、彼は踵を返した。

「できる事ならもう一度、お前の道中を見たかったものだな」

 そう言うと、叢雲はその場を去っていった。終夜同様、足音はしない。
 何だか無性に嫌な予感がする。それが何なのか、明依にはわからなかった。

 明依は廊下の角を曲がった叢雲を小走りで追いかけたが、そこにはもう、彼の姿はなかった。

 叢雲が自殺したと知らされたのは、その日の夜遅くだった。
 遺体の側には遺書があり、その内容は終夜の想像した通りだった。

 宵を利用して主郭を思うままに動かそうと考えていた事。本当は自分が頭領の立場に収まり吉原を動かしたかったが、暮相が死んだ手前言い出せなかった事。自分の犯した過ちを後悔している事。

 それから、旭を殺した事が書いてあったのだと、時雨は満月屋に来て妙に落ち着いた様子で言った。

 生暖かい、喪失感。
 後悔しているのなら、生きて罪を償ってほしかった。遺された人間は一体、誰に憎しみをぶつけたらいい。人を殺したのだから、本当に後悔しているのなら、その役目くらいは務めたっていいじゃないか。

 人が一人死んでいるというのに、それと並行して頭の中に浮かんでいるのは、終夜に対する罪悪感だった。終夜は嘘をついてはいなかった。本当に叢雲が旭を殺していた。もしかすると、明依という人間を信用して話をしてくれたのではないか。そんな、妄想。

 宵は眉間に皺を寄せて目を閉じた後、声を震わせながら息を吐いた。
 宵は今、何を思っているのだろう。
 裏切りの事実を思っているのだろうか。それとも、叢雲を失った喪失感に苛まれているのだろうか。

「……宵兄さん」

 そう呼ぶことしか、できなかった。