「おはよう」

 朝。いつもと同じ様に、満月屋の遊女にそう挨拶をした。

「お、おはよう……!」

 意を決した様な声が後ろから聞こえて、明依は振り返った。
 そこには竹ノ位の遊女が、腹部辺りで両手をぐっと握りしめて立っていた。

「……この前は、ありがとう。明依ちゃん」

 この前、というのが、主郭が満月屋で宴会をした時の事だと分かった。あの時、終夜の担当になり明依が庇った遊女だった。
 まさか挨拶を返してくれるとも、感謝されるとも思っていなかった明依は、驚きでしばらく放心していたが、嬉しくなって笑顔を作った。

「うん。どうしたしまして」

 そう言うと明依は、踵を返して廊下を歩いた。なんだか心が軽い気がする。
 そんな気持ちのまま一階に降りると、宵と十六夜がいた。直接的な言い方をするなら、なんでもない何て言った癖に。と、なんだか少し暗い気持ちになる。そうさせる気持ちは何が原因なのか、それはよくわからなかった。

「明依」

 宵はすぐに明依に気付くと、手招きをした。

「十六夜が、身請けされる事になったんだって。挨拶をしに来てくれたんだ」
「吉原を出るって事ですか?」

 明依は驚いて十六夜を見た。十六夜は少し困ったような笑顔を浮かべている。もういろんな人間から身体に触られる事はない。身請けをするのは金持ちばかりだから、金にも困ることはないだろう。それなのにそんな笑顔を浮かべる理由は、きっと女だからこそ。明依にはわかっていた。
 先ほどまであんなことを思っていた自分が、恥ずかしくなる。

「……どうしてそんな急に」
「本当に、急に決まったのよ」
「もう、お別れなんですか」

 なんだか例えようのないくらい、悲しい気持ちになる。

「お別れね」

 困った様に笑っていた十六夜は、今度はどこか憂いを帯びた表情をして薄く笑っている。
 それから十六夜は意を決した様に顔を上げた。

「宵さま、私」

 自分がここに居るのは邪魔なんじゃないかと思う程真っ直ぐに、十六夜は宵を見ていた。
 きっとこれが、最後だ。
 気を利かせてこの場を去ろうか。明依がそんなことを考えていると、十六夜は口を開いた。

「あなたが頭領になるところを見たかった」

 十六夜は、宵の目を見たままそう言った。
 想像と違う言葉にほんの少し混乱した明依だったが、十六夜は次に明依を見て薄く笑った。

「あなたが大夫になるところも、見たかったな」

 どんな言葉を返していいのかわからなかった。
 きっとそれは宵も同じことで、何かを言いたそうに口を開いたがすぐに閉じてもう一度口を開いた。

「昔馴染みと、中で話でもしていくといい」
「いいえ。本当に急な事でしたから、もう戻って準備をしないと。もし聞かれる様な事があれば、お手数ですけれどお伝えください」

 十六夜はそう言うと、綺麗な笑顔を作った。

「お世話になりました」

 そう言って、深々と頭を下げる。

「じゃあ、私はこれで」

 どこかあっさりした様子でそういう十六夜は、踵を返して道の真ん中を通り、丹楓屋への道を歩き始めた。
 明依は、勝山と酒を飲む約束を取り付けに来た十六夜と、廊下で話した時の事を思い出していた。宵が一緒に丹楓屋まで行こうと言った時の、あの嬉しそうな笑顔だった。嬉しそうなのに、どこか悲しそうでもある。

「明依!」

 宵の声に答える暇もなく、明依は駆け出していた。
 どんな気持ちなのか、明依は自分でもよくわかっていなかった。ただ、女同士だからこそわかる、何か。そんな不明確なものだ。

 同時に頭の中に浮かぶのは、終夜に水風船を取ってもらった日。終夜の問いかけに何も返事が出来なかった事。それが、ほんの少しの後悔となり、今の自分を突き動かしているのかもしれないとも思っている。

「好きだったんじゃないんですか」

 明依はそう言いながら、十六夜の着物の袖を掴んだ。

「宵兄さんの事」

 十六夜は驚いた様に目を見開いて振り返った。
 それから彼女の顔には、ゆっくりといつもの落ち着きが戻ってくる。

「どうして、そう思うの……?」
「なんとなく、です」

 そうは言うものの、十六夜の態度は結構わかりやすかったと明依は思った。普段はクールな彼女が、宵の前だけはどこか優しさに溢れた顔をしている。

 十六夜はゆっくり息を吐く。それはまるで、自分の中に蔓延っていた何かを吐き出すような、そんな呼吸だった。

「私ね、本当の事を言うとあなたが羨ましい」

 その理由は口にしてもらわなくてもきっと、よくわかっていると直感した。

「ずっと宵さまの側にいられて、宵さまと心を通わせることができるあなたが。それが異性に向けるような感情なのか、それとも家族を大切に思うような感情なのか。私にはわからないけど」

 やはり十六夜は、宵の事が好きなのだと思う。だとしたらきっと、羨ましくて堪らなかったはずだ。

「宵兄さんの事が好きなら、どうして自分から丹楓屋に異動したんですか?満月屋に居れば、一緒にいられる時間は長かったじゃないですか」

 勝山大夫に憧れた。という話を疑っているわけじゃない。ただ、それほどの思いがあるのなら、どうして自ら可能性の芽を摘み取るような事をしたのか、疑問に思っていた。

「好きだったからよ」

 明依の目をまっすぐに見てそういう十六夜は本当に綺麗で、思わず息を呑んでしまう程だった。

 十六夜はこれ以上何かを語る気はないらしい。
 勝手に推測するのなら、宵にこれ以上仕事をしている所を見られたくなかった、とか。そんな理由だろうか。宵と身体を重ねかけた時、自分が汚れていると思った。もし十六夜がそんな気持ちで、本当に宵の事が好きだったのなら、その気持ちもわかる気がした。
 もしくは、芯のある十六夜の事だ。仕事関連に私情を持ち込む自分が嫌になった。とか。

 どちらにしても、自分は本当に能天気に暮らしてきたのだと改めて思う。たくさんの人に守られてきた。それなのに、宵とささやかな幸せを噛みしめる十六夜に嫉妬心にも似た気持ちを抱いて。

「私に申し訳ないって顔をしているわ、黎明」

 そう言われて、明依は思わず俯いた。
 この思いは、当然の報いの様に思えた。十六夜は宵に向ける感情も、きちんとわかっているのだと思う。きっと十六夜は自分よりもずっと、宵という人間を想っている。
 そう考えると、なんだか自分が卑怯に思えた。途方もないくらいに、情けない気持ちになってくる。

「私ね。宵さまって、思っているより強い人間じゃないと思うの」

 そう語る十六夜は、どこか軽い口調でいう。

「きっとたくさんの重圧に負けない様に、自分を騙して立派であろうとしている。きっと彼にも気を抜きたいときがたまにはあって、誰かと寄り添いたい時があるんだと思う。人間って、そういうものでしょう。私にその役割は、できなかったから」

 もしかすると十六夜は、宵に想いを伝えて断られたのかもしれない。そう思わせる様な言い方だった。
 十六夜は宵が好きだった。だから、終夜が主郭の地下に宵を連れて行った時、自分が危険を冒してまで助け出そうとしたのだ。妙に納得いくと同時に、胸の内をかき乱すほど悲しくなる。
 十六夜は一体今、どんな気持ちでいるんだろう。そう思って十六夜の顔を見ると、彼女はいつも通り薄く笑っていた。

「幸せになって」

 そういう十六夜からは、少しも妬みや嫉みの感情は見られなかった。
 ただ本当に、そうなることを願ってくれているような、穏やかな口調だ。

 『幸せになって』という言葉の前に〝宵さまと〟という言葉があるのだろうという不確かな、確信。

「お世話になりました。十六夜さん。本当に、ありがとうございます」

 明依がそういうと、十六夜はしっかりとした足取りで去っていった。
 明依はその後姿を目に焼き付けた。

 十六夜の背中が見えなくなるまで見送った後、満月屋に戻った。
 宵は既に外にはおらず、満月屋の中の自室の前に立って叢雲と話をしている。どんな話をしているのか、何も聞こえてこなかった。明依は気付かれない様になるべく近くに移動して、耳を澄ませた。

「旭を殺した犯人の断定は、絶望的かもしれないな」

 少しの間をあけた後でそういう叢雲の言葉が、嫌な程はっきりと耳に入る。
 一体どの面を下げて、その言葉を吐くのか。
 それから二人が、どんな話をしたのかはよくわからない。叢雲が宵の側から離れてすぐ、入れ替わる様に明依は宵の前に立った。

「明依、どうした?」

 なんだか心の内で何かが煮え立つ様な感覚だ。これが単調な感情ではない事は分かった。ただ大きな割合を占めていたのは、十六夜が本当に大切にしていた宵を利用しようとしている叢雲に対する怒り。
 それに続くのは、余りに身勝手な。口に出すには汚すぎる、勝手な感情だ。宵にも宵の感情があるのだから。

 それに続くのは、宵への怒りだった。宵という人間を過剰評価しているのかもしれない。ただ、宵なら十六夜と上手く距離を取る方法を思いついたのではないか。早々に諦めさせるような態度を取れたのではないか。そんな事が浮かぶと同時に、叢雲の件も相まって都合よく彼に利用されている所にも腹が立ってくるのだ。

 人間というのは本当にどこまでも理不尽だと考える余裕が頭のどこかにあることが幸いだった。
 それに続いて幸いだったのは、声が聞こえる範囲には誰もいない事。

「宵兄さん、大切な話があるんだけど。本当に、大切な話」

 宵は少し不審がる様に、じっと明依の顔を見ていた。

 『この事は心の内にしまっておいた方がいいよ。それが自分の為だと思って』
 『言うなよ。誰にも』

 終夜と時雨から言われた言葉が、頭の中で反響する。

「誰にも言わないって、約束してくれない?」
「何の話をしているんだ?」
「約束して」

 不審の色を強める宵に、明依は少し強い口調でそう言った。
 その直後、視界の端に終夜を見た気がした。明依は急いで視線を移したが、彼はいなかった。それは、恐怖心や罪悪感が見せる幻だったのか。

「わかった」

 宵はそう言うと、それから頷いた。

「約束する」

 明依はもう一度辺りを見回す。やはり終夜はいない。
 楼主の部屋は、人の出入りが激しい。早めに言ってしまわなければ、機会を逃してしまう。
 明依は息を吸って、それからゆっくりと息を吐いた。罪悪感を、少しでも吐き捨てたくて。頭が胸の内に残る罪悪感を精査して認識させるより前に、明依は勢いに任せて口を開いた。

「叢雲さんが、旭を殺した犯人かもしれない」

 宵は明らかに動揺していた。目を見開いて、視線を彷徨わせた。
 信じられない。そんな表情をする宵から視線を逸らした明依は、どっと沸き上がった罪悪感や恐怖心に耐える為にゆっくりと息を吐いた。

 一度吐いた言葉は絶対に、元には戻らない。
 勢いに任せて言葉を吐いた後に胸の内に残っているのは、この選択が正解だという確信ではなかった。