「宵さん」

 幻聴だと思った。それくらい、ぼんやりとしていた。
 しかしそれが自分だけに聞こえているものじゃないと認識したのは、宵が唇と唇が触れ合うほんの少し前に、ぴたりと動きを止めた事だった。

「あの、誰も入れない様にと、」
「宵さん」

 従業員の声を遮って、部屋の外からはっきりとした口調で宵の名前を呼ぶ声は吉野のものだった。
 落ち着け。そう言い聞かせる様に宵は息を吐き捨てながら、明依の肩に額を預けた。

「どうしました、吉野大夫」
 
 明依に肩を預けたまま、宵はそういう。
 不自然なくらい、自然な声で。
 そして宵は、明依から身体を離して立ち上がった。

「そこに明依がいませんか」
「いますよ。何かありましたか?」

 世界の全部がぼやけている気がする。そんなことを考えている明依をよそに、襖まで真っ直ぐに歩いた宵は、吉野の問いかけに答えながら襖を開いた。

「話をさせてください。明依と」

 吉野は真っ直ぐに、宵を見ていた。その様子はどこか、焦っているようにも見える。もしかして自分は何かミスを犯してしまっただろうかと、ぼんやりした意識の中でほんの少し不安になった。

「わかりました。後でも構いませんか」
「いいえ。今すぐに」

 宵が言葉を言い終わるより前にそういう吉野を見て、珍しいと思った。やはり、ぼんやりした意識の中で。焦っているのか、穏やかさを欠いた様子はあまり彼女には似合わない。
 吉野は、瞬きを一つすると、いつものように穏やかな笑顔を浮かべた。

「藤間さまがお待ちですから」

 宵は少し間をあけて、それから明依の方へと振り返った。宵は薄く笑っていた。

「行っておいで、明依」

 そう言われて、明依は一度頷いて立ち上がった。それから道を開ける宵の隣を通り過ぎて、吉野の前に立つ。吉野は何も言わずに明依に微笑みかけると、踵を返して歩き出した。明依は少し迷った後、吉野に続いて歩いた。

 宵は今、どんな顔をしているのだろう。
 そればかりが、気になっていた。気になっているのに、振り返って確認する勇気がなかった。もし目が合ったら、どんな風に何を言えばいいのか。何一つわからなかったから。

 吉野が来なければどうなっていたのか。その答えは断言できるほどあっさりと出た。
 間違いなく受け入れていた。思考するよりも速いスピードで押し寄せる、あの雪崩れのような感情に飲み込まれたまま。自分が自分でいられなくなる感覚がなんだか妙に懐かしく、それでいてどこかそこはかとない恐怖心を抱いていた。

「藤間さまがいらっしゃっているわよ」

 いつもの様に穏やかな口調でそういう吉野に、明依は弾かれた様に顔を上げた。吉野は明依の前を歩きながら、首だけをすこし明依の方向へと振り返っていた。

「……でも、準備が」
「今日はいいの。ほんの少し、話がしたいだけだそうだから」

 そう言うと、吉野は進行方向を向いた。
 出かけていたので小綺麗な格好をしてはいるが、遊女の衣装と比べると服も化粧も比べ物にならない程落ち着いている。派手な格好に慣れている藤間の前に、こんな格好で出ていいのだろうか。という疑問と同時に、何となく気恥ずかしい気持ちもある。

「藤間さま、失礼いたします」

 吉野はそう言うと、明依の座敷の襖を開けた。部屋の中の藤間は、窓辺に立って外を見ていた。
 明依が座敷の中に入ると、後ろで襖はぴしゃりと音を立てて閉まった。

「……あの、藤間さま」
「あの花魁道中は、本当に見事だったね。黎明」

 落ち着いた様子で、しかし嬉しそうな様子で藤間は言う。振り返った藤間は、優しい顔をして笑っていた。
 藤間の手に促されるまま座ると、彼もまた明依の前に腰を下ろした。

「あれほど素晴らしいものが見られるなんて、本当に運がよかったよ。君のあの様子でずっと言葉を選んでいた場面が、急にまとまって浮かんで来た。書き留めるものを何も持っていなかったから焦って、すぐに吉原を出たよ」

 どんな返事をしたらいいのか。明依は分からなかった。嬉しいような、恥ずかしいような。しかし一番の理由はおそらく、〝黎明〟というエンジンがかかっていないからだと思う。

「この街から、出る気はないかい。黎明」

 藤間の放った言葉は、一体どういう意味か。頭の中でただ、それを探っていた。

「私の側にいてくれと重たい事を言っているんじゃない。実はもうすぐ、話が完成するんだ。たくさんの人の目に触れる事になる。ずっと書きたかった、遊郭を舞台にした作品が、やっと」

 それは藤間にとって一つの大きな区切りなのか。安堵しているような、穏やかな表情をしている。

「私は君に沢山のインスピレーションをもらった。この街の外での生活は、私が保証しよう。君を自由にしてあげたい」

 以前宵は終夜に言った。
 『生きる為に客の相手をさせられる遊女にとって身請けというのは、一番マシな選択肢。年季が明ければ外の世界を知らないまま妓楼から放り出される遊女からすると、唯一の希望だ』

 遊女にとってそれはきっと、ほとんど満点の回答だ。
 藤間はそれよりももっといい条件を提示する。身の保証をして、自由をくれるのだという。
 きっと一般的な遊女という括りの中では、おそらくこの街で一番の幸せ者なのだ。

 頭の中には、宵の顔が浮かんだ。
 これから宵と一体、どんな関係になるのか。それ以前にまだ、拾ってくれた宵への恩を返していない。満月屋の松ノ位の三人目になる事で、何も持っていない自分を受け入れてくれた宵への恩返しがしたい事。それから、終夜に話を聞いてもらう必要がある事。何もかもを諦めて吉原の外に出れば、吉原を解放するという日奈と旭の夢は(つい)えてしまう。
 今の時点で、やりたい事の全ては、この街の中にあった。

「私の為を思って声をかけてくださった事は、本当に嬉しく思います。せっかくのお話ですが、まだこの街でやり残した事がありますから。お気持ちだけ、有難く頂戴いたします」

 自分でも驚いていた。言葉に詰まることもなく、何のためらいもなくはっきりとそう口にできる事が。
 自分というものの輪郭が、藤間という人間と関わることで浮いて見える気がした。明らかな成長と、自分という人間の確かな感覚。

「そうかい」

 藤間は少し残念そうに俯いて呟くと、顔を上げて明依を見ながら薄い笑顔を浮かべた。

「それなら、気が変わったら教えてくれ」

 いつもの穏やかな様子でそう言う。
 明依は短く返事をしたが、宵がこの街にいる限り、おそらくそんな日は来ないだろうという気持ちは、心の奥底にしまう事にした。

 少しそんな考え事をしている間に、藤間は立ち上がっていた。慌てて立ち上がった明依だったが、藤間はそれを手で制した。

「今日はその話をしに来ただけなんだ。送ってもらう必要はない」
「しかし、」
「私の順番は終わったから、次は姐さんの話を聞いてあげなさい。何か思い悩んでいる様子だった所を、私が黎明を呼ぶ為に引き留めてしまったんだ」

 そう言うと藤間は、本当に明依を置いてさっさと座敷を出て行った。広い座敷の中で一人ぽつりと残されれば、なんだか堪らなく不安な気持ちになった。不安でいっぱいの中、どこか温かい。

 そんな気持ちを誘発するほとんどの理由は当然、宵だった。宵は一体、どんな気持ちであんな言葉を口にしたのか。
 一般的に好きだと言われ、一緒にいようと言われる意味は、付き合うとか結婚とか、そういう意味なのだろう。もし宵もそのつもりなら、とんでもなく中途半端な所で出てきてしまった。
 しかしもしかするとこれは、自分の勘違いかもしれない。きっと宵はまだ、日奈と仲たがいしたまま別れた罪悪感を抱えている。だから責任を取って一緒にいようと言っているのかもしれない。

 どちらにしろもう一度、ちゃんと話をしなければいけない。
 ほら。冷静に考えればこんな風に答えが出るのに。宵といる自分は直感に従ってしまう。この人の側にいたいと思えば、それ以外何も考えられなくなってしまう。そんな自分が、嫌だった。

 これから先、どうなってしまうんだろう。そんな漠然とした不安と、宵から認められているような温かさ。それを考えていると頭の中に浮かんでくるのは、なぜか終夜の顔だった。

 座敷の襖が開く音が聞こえて、明依は反射的にそちらに顔を向けた。

「高尾大夫に会ったのね、明依」

 座敷の襖が吉野の手によって閉まり切るより前に、彼女はそういう。先ほど宵の部屋に来た時に吉野の言った『話をさせてください』というのはこの事かと、明依は妙に納得した気分になっていた。

「はい、そうです。……どうして」
「時雨さんから聞いたのよ。さっき、そこでね」

 明依の前に腰を下ろす吉野からは、先ほどまで確かに感じていた、焦った様な雰囲気はなかった。
 明依は自分の中に燻っていたものを吐き出すように息を吐いて、それから笑顔を作った。

「何かやってしまったのかと思いました」

 明依が小さく笑いながらそう言うと、吉野は笑顔を浮かべた。

「思い当たる事があるの?」
「吉野姐さまが急に話をさせてほしいなんて言うから」

 明依がそういうと吉野は、クスクスと笑う。
 先ほど宵と話をした時に、吉原解放を願った日奈を思い出したからなのか。その姿が、日奈と重なった。
 そして不意に、一つの疑問が浮かんだ。どうして吉野は、自分の世話役として自分を認めてくれたのかという事。例えば日奈のように、自分とタイプの似た遊女なら満月屋にもいただろう。全然タイプが違う人間をそばに置いてみたくなったのか。
 しかしその疑問は、おそらく高尾の話を聞くためにこの座敷にいる吉野に今投げかけるべきものではないと、明依は理解していた。

「彼女は何か、言っていなかった?」

 吉野は薄い笑顔のまま、少し硬い口調でそういう。その音は緊張しているようにも、もの寂しい雰囲気を纏っているようにも聞こえる。
 明依の心臓は、なぜか一度大きく音を立てた。それは吉野の見慣れない姿を見たからか。それともその様子が、先ほどの高尾と重なったからなのか。

「……いいえ、何も」

 どんなふうに答えたらいいのか、わからなかった。
 言葉にしなくても、二人には何か深い問題がある事は明白だった。しかしそれは、自分が土足で踏み荒らしていいようなものではない。どんな風に埋めたらいいのかわからない程深く、しかし二人で解決しないといけない何か。
 例えばあの日、互いに心配する気持ちが重なって揉めた、日奈と自分自身のような。きっとそんな深い問題なのだ。

「どうしてそんな事を聞くんですか」

 先ほど高尾に投げかける事が出来なかった疑問を、明依は口にした。実を言えばそれは吉野の為でも、高尾の為でもない。話を聞いたからと言って、何か自分が役に立てるとは微塵も思わなかった。
 つまりそれは、純粋な、自分の内側から湧き出る好奇心だった。

「喧嘩したまま、それっきり何も話さないまま、彼女は三浦屋に行ってしまったの」

 『お前や旭、雛菊と似た様なものだった、かもしれないな』
 そう言う高尾の言葉から察すれば、その関係には吉野も関わっている。

「どうして喧嘩したんですか」
「あの二人が、吉原を変えたいと言ったから」

 その事に関しては、自分の中では消化できている話なのだろうか。吉野は穏やかな様子はそのままで、はっきりとした口調で言う。

「当時、吉原の状況は良くなかった。いろいろな所から狙われて、外から見ていても主郭がピリピリしているのが分かるくらいにね。そんな時、暮相は言ったのよ。『吉原を解放したい』『笑ってほしい女の子がいる』って」

 晴朗以外の人間から聞くその言葉に、明依の心臓は確かに一度、大きく音を立てた。それは確かにこの街に旭が生きて自分と関わっていたという事実であると同時に、暮相という人間が存在していた証明のような気がした。

「それに高尾大夫は賛同した。やめましょうって、そう言ったの。でも二人は、私の話に聞く耳を持ってはくれなかった。大切だったの、どうしようもなく。自分の意見だけを通すような、身勝手な言動だって理解していた。二人が胸の中に秘めている、自分が危険を冒してでも、他人を助けたいと思う気持ちも理解していた。だけど私は他の何を犠牲にしても、あの二人を危険な目に合わせたくなかった」

 友達を危険な目に合わせたくない。その気持ちが、それを理解してもらえないもどかしさが、痛いほどよくわかる。
 終夜をかばう様なそぶりをしている日奈に同じことを思った。おそらく日奈は、宵を助けるために主郭の地下に入ったと知った時同じことを思ったはずだ。

「高尾大夫は、何度も何度も私を説得しようとした。私もその度に、彼女を納得させようとした。いつも同じ話をした。そして私は我慢できなくなって言ったの。『どうしてわかってくれないの』ってそしたら高尾大夫も同じことを言っていた」

 〝どうしてわかってくれないの〟
 夜桜の夜。日奈も同じ言葉を口にしていた。
 きっと本当に伝えたいことをすべて伝えきって、もう何一つ言葉が残っていない時、それでもあきらめきれない時、人間はその言葉を口にするのだと思う。
 あの時もっと、向き合っておけばよかったと思う。きっとその後悔を抱えているに違いない。吉野も、高尾も。

「私たちはいつも一緒にいた。あなたと、日奈みたいに。……辛かったでしょうね。他の誰でもない私に、認めてほしかったと思うから。必死だったのはきっと、お互い様なのね」

 そういう吉野に、高尾の様子を伝えるのは簡単なことだ。きっと二人とも、思っている事は一緒なのだから。

「元気だった?」

 明依は高尾の様子を詳しく伝えようと思って、それから口をつぐんだ。
 高尾のあの様子を、自分の口から伝えてはいけないと確信していた。それは当人たち同士の問題で、〝高尾大夫も仲直りしたいとおもっている様子でしたよ〟なんて無責任なことは口にしてはいけない。
 それは明らかに度を超えたお節介の様に思えた。

「はい」
「……そう。よかった」

 悲しそうに、吉野は笑っていた。