「うん、ただいま」

 明依はそう言って、宵に微笑みかけた。
 悩んでいた答えの最適解を弾き出しましたよ。とでも言わんばかりに、明依の頭の中にはぽつんと一つの考えが浮かぶ。

 投票結果だけで言えば、裏の頭領として一番可能性が高いのは宵だという事。宵に頼めば、吉原の解放に協力してくれるのではないだろうか。

「どこに行っていたんだ?」

 いつもの様子でそう問いかける宵。明依は口を開こうとしたが、視界の端にこちらに向かって歩いてくる叢雲を見て思わず宵の手を引いた。観光客に紛れながら叢雲に背を向ける。
 叢雲は二人に気が付かないまま、満月屋の前を通り過ぎて行った。

「叢雲さんが、どうかした?」

 不思議そうにそういう宵に、明依は少し視線を落とした。
 宵は叢雲が旭を殺したという事を知らない。
 もし終夜のいう事が本当なら、叢雲は宵を利用しているという事になる。宵に、頭領になったら吉原の解放を協力してほしいと頼むのは、叢雲のしている事と何ら変わりないのではないかと、良心が痛む気がした。
 裏の頭領になれば、この街から出る事は出来なくなるんだから。

 宵は自分が頭領になる為に松ノ位に上がってくれと明依に言う事を躊躇(ためら)っていた。それはこんな気持ちだったのだろうかと、何となくそんなことを考えた。

 いっそ宵に全て話してしまいたい。旭を殺した犯人が叢雲だという事も、利用されているかもしれないという事も。自分の気持ちの変化も、何もかも。そう思ったのは一瞬の事で、すぐに頭の中には終夜の顔が浮かんだ。

「二人とも、今日も仲よさそうだな」
「時雨さん」

 明依は宵から手を離して、時雨に向き直った。向き直りはしたが、明依の意識は宵に向いていた。
 結局宵との関係は、中途半端なままだ。関係どころか、自分が宵に向けている気持ちさえ中途半端な解釈しかできていない。
 だから時雨が来て、安心していた。二人きりの状態で、宵を直視しなくていい事に。勿論、自分でも最低だという自覚はあった。

「楽しんでるな」

 そういう宵に明依は彼から意識を逸らして時雨に向けた。
 面を顔の横につけて、両手にはたくさんの食べ物を抱えていた。
 子どもでもこんな光景はなかなかない。はしゃぎすぎて収拾がつかない時雨の様子に、明依は息を漏らして笑った。

「ここに来るまでの間にもらったんだよ」

 さすがは吉原一の人気者だ。持ち切れないから、食べ切れないから、と断らない所がきっと、時雨という人間の人気の秘訣なのだろうと思う。

「何かあったのか?」
「何も。客が来るまで暇潰し。一緒に食うか」

 宵の問いかけに、時雨はそう答える。
 そして明依は先ほどの高尾とのやりとりを思い出していた。

「時雨さん。暮相さんと恋仲の噂は嘘なんだって。訂正しておけって」
「誰が?」
「高尾大夫」

 明依がそう言うと、宵と時雨は目を見開いた。

「お前、高尾大夫にあったのか?」
「一人で行ったのか?」

 花が咲いた様に明るい顔の時雨とは対照的に、宵は少し眉間に皺を寄せた。

「どこで会った!?」
「道の途中で偶然。三浦屋に呼んでもらったの」
「どんな女だった!?顔は?」
「顔は見てないよ。声はね、なんか。よく通る綺麗な声で、でも優しい感じが、」

 詰め寄る時雨に若干身を引きながら、記憶の中の高尾を思い出してそう答えていると、手首を握られて強く腕を引かれた。
 腕を掴んでいるのは宵だった。

「あ、おいちょっと!」

 二人の後ろでそういう時雨に、宵は何も答えないまま、足早に満月屋の中に入っていく。
 手を握る力も、歩くスピードも、宵らしくない。彼らしい配慮や思いやりを全て欠いた、強くて雑な動きだった。

「誰も入れないでください」

 すれ違い様に従業員にそう言った宵は、やはりらしくない。いつもなら、きちんと視線を合わせて会話をするのに。
 この状況に明確な焦りや不安が現れたのは、宵がぴしゃりと音を立てて襖を締め切った後だった。

「座って」

 そう言って振り返った宵から感じるのは、有無を言わせない威圧感だった。
 明依は黙ってその場に座った。明確な焦りと不安。それから、少しの恐怖心。

「自分が今、吉原でどんな立ち位置にいるか。わかってる?」

 そう言いながら宵は明依の正面の少し離れた所に座った。
 『終夜が殺したいという宵が目に掛けている遊女。主郭の人間がゴリ押ししている宵を頭領選抜一位に押し上げた遊女。それから、〝吉原の厄災〟と必要以上に深く関わる女』
 その時雨の言葉を思い出した。

「……わかってる」
「高尾大夫の側についている遊女は、陰だって噂は知ってた?」
「……知ってた」

 わかっているし、知っていた。時雨から聞いていたから。

「じゃあ、どうしてわざわざそんな危険なことをするんだ」

 感情的に声を震わせて、宵はそう言った。
 現状に見合う言葉は、〝心配をかけてごめんなさい〟だろうか。一番確かで、一番手っ取り早くて、

 一番、自分自身に向き合う気のない言葉だ。

「心配してるのは、私も一緒なんだよ」

 宵ははっとしたように、目を見開いて視線を揺らした。

「……危険な事をしているのは、私だけじゃない」

 今度は少し目を細めて、真剣な様子で明依を見る。

「裏の頭領になると、二度と吉原の外に出られないって。宵兄さん、知ってた?」
「知ってるよ」

 さも当然の様に、宵はそういう。

「叢雲さんから聞いたから」

 そう言葉を続ける宵に、今度は明依が目を見開いた。そして眉間に皺を寄せて俯いた。

「……どうしてそこまでするの。吉原から逃げれば、終夜に命を狙われる事もない。ずっとこの街に縛り付けられることもないんだよ」

 その声は、自分の耳に入っても悲痛な響きをしていた。

「俺は、この街が好きだよ」

 淡々としていて、しかしどこか穏やかな口調で、宵はそう言った。

「絶えずたくさんの人を、鮮やかな様子だけで魅了し続けるこの街が」

 宵が何かを評価するような言い方で、自分の内側を言葉にするのを聞いたのは初めてかもしれない。

「その裏面にある淀みさえ、どこか美しく感じさせる。でもその美しさは遊女たちの犠牲の上に成り立っている。俺は何も考えないで、楼主をしてきたわけじゃない。全部を理解できなくても、傍で見てきたからこそわかる事もある。だから、自分一人でこの街から逃げるなんて、無責任な事はしたくない」

 ゆっくりと吐いた息を震わせる明依に、宵は薄く微笑んだ。

「俺にとってはチャンスでもあるんだよ。ずっと自分の中で形にならずに散らばっていたものを、形にする」
「終夜から殺されるかもしれないんだよ。死んだら、何も残らないよ」

 『死んだら、何も残らない』それは嘘だ。だって暮相という人間が残したものが、今もこの街のいたる所にある。それは時に誰かを温かく包み、時に呪いの様に誰かを(むしば)んでいる。
 日奈も、旭だってそうだ。見方によっては誰かを包み、誰かを蝕む。意思疎通が二度と、出来ないからこそ。

 きっと宵は、自分の考えを受け入れないだろう。何となくわかっている事だ。終夜も宵も、きっと変わらない。それは明依だからではなく、誰が何を言おうと変わらない。

 でも、人を失う苦しみを知っているのなら。どうか一度立ち止まって、考え直してはくれないだろうか。
 心の内に(くすぶ)る気持ちを、意味を、余すことなく端的に伝える言葉を。終夜と宵に理解してもらえるだけの何かを、明依は持ち合わせてはいなかった。

「終夜は考えを変えそうになかった?」

 宵らしくない。淡々としていてどこか意地悪な言い方だ。現に明依は、それに対してどんな言葉を返したらいいのか、見当もつかなかった。

 何の気もない様な先日の態度とは一変して。
 自分の気持ちに折り合いがついていると思った、って?冗談だろ。とでも言いたげな態度で。

「俺は答えたよ。明依はどうして、そんな危険なことをするんだ」

 たぶん、主導権というものが目に見えてあるのなら、先ほどの言葉からそれは宵に移ったのだと思う。

「松ノ位に、なりたいから」

 そういう明依を宵はただ、じっと正面から見ているだけだった。

「旭と日奈が望んだみたいに、吉原を解放したいって思う」
「殺されない確証はどこにある」
「私の立場が、宵兄さんの評価に直接関わる関係にあるから」
「だったら俺に不利に働く場合、消される可能性があるとは考えないのか」

 宵にそういわれて、はっと息を呑んだ。
 確かにそうだ。もしも終夜にまた利用されて、宵が裏の頭領に選ばれることを阻害するようなことがあれば、話は変わってくる。
 もしかすると今自分は、首の皮一枚繋がっている状態なのかもしれない。

 宵は俯く。ゆっくりと細く吐き捨てた息は、喉元で震えていた。

「終夜を庇って日奈は死んで。終夜に松ノ位昇進を邪魔されて。人殺しに利用されて。恨んで、憎んで。……それで今度は、危険だと知っていて終夜と関わって、それでやっぱり気持ちが変わって終夜を知りたくなったって?」

 はっきりとした口調で淡々と、読み上げる様な口調で宵はそういう。
 反論の一つも出来なかった。

「明依。あの時、何て言おうとした?」

 宵はそう言いながら立ち上がって、明依のすぐ側に立った。
 〝あの時〟
 それが、『……俺と来る?どうせ同じ未来なら』という終夜の問いかけに対する、喉元で絡まった言葉だという事は、分かっていた。
 宵の長身がそうさせるのか。その威圧感に、殴られても何も不思議ではないとそう思った。

 その質問に真っ向から自分の気持ちをぶつける勇気が、明依にはなかった。それを答えるくらいなら、感情のままに殴られた方がまだマシだと思える。
 目の前にしゃがむ宵を視線で追った後、明依は覚悟をして目を閉じた。
 きっと宵にはこの時点で、何もかもお見通しのはずだ。

「この妓楼の中にいれば、不自由しない。だから外の汚れた世界なんて知らなくていいって。自分の目の届く範囲なら、全部から守ってあげられるはずだって。本気で思ってたよ」

 宵は優しい口調でそういう。明依が目を開いた事と、宵の腕の中におさまったのは、同じタイミングだった。
 一瞬見えた宵の表情は、口調とは相反してどこか悲しそうに見えた。

「終夜と一緒にいるお前を見ると、おかしくなりそうだよ」

 言い終えると宵は、より一層強く明依を抱きしめた。
 おかしくなりそうなのは、こっちの方だ。なんて、頭の隅でそんなことを考えた。それは自分の意思が弱いのか。それとも、宵の意思が強いのか。

「……それはズルいよ、宵兄さん」

 自分から出た声が、酷く気が抜けている様な気がした。
 言葉を言い終える頃には、目に涙が溜まる。
 その涙が頬を伝ってやっと、自分の感情の()()を何となく知った。

 大切で、大切で仕方ない、自分の中に確かにある三分の一の世界だ。
 心の中で溢れ出る気持ちはどこまでも温かい。ずっと浸っていたいのに、溢れ出たそばから段々と冷たくなっていく。それはまるで、人肌から離れた涙の様だと思った。

 ただ素直に、汚い感情を吐き出していいのなら。褒める言葉も、笑顔も、隣を歩く事さえ、全部自分一人の物にしたい。この人の一番になりたかった。ずっと昔から。他の誰でもないこの人に、認めてほしかった。
 これはいつか終夜の語った〝依存〟か。
 自分の中に残った弱さが見せる〝幻〟か。
 それとも、本当の〝愛〟か。

「十六夜さんがいるくせに」

 明依はそう言いながら、宵を強く抱きしめ返した。
 自分がどうしてその言葉を吐いたのか。よくわからない。愛だの、恋だの。そんな不明確なものにはきっと、定義なんてないから。

 それは異性として向ける感情なのか。
 それとも家族の様に思う相手に向ける感情なのか。

 分かっている事は、ただ一つだけだ。
 どうしても、どんな手を使っても、宵を失いたくない。もしかすると、終夜を止めようとしている原因の全ては宵の為だったのではないかと、自分のものだったはずの感情を辿って、疑おうとするくらいには。

「それは俺が〝終夜がいるくせに〟って言ってるのと、きっと何も変わらないよ」

 その穏やかな言葉に、安堵する。何もかも捨てて身を任せたいくらい、強烈に。
 もしかすると、ずっとこの言葉を待っていたのではないかと、錯覚する程。

「俺にならできるよ。吉原を解放する手助けが」
「出られないんだよ、ずっと」
「この街から逃げるつもりはないよ。それなら残る可能性は、頭領になる事以外にない。同じことだよ」

 宵の温かい手が、明依の後頭部に回る。宵は頬を寄せた。

「運がよかったって思って、明依は俺を利用したらいい」

 日奈と仲違いしたまま別れた原因は自分にあると宵がそう言った時、彼は同じ言葉を選んだ。

「……利用なんか、したくないよ」

 だったら自分は、どうしたいんだろう。
 ずっと宵の腕の中にいたいと思っている。それが宵から与えられた安心によって麻痺し、一時的に鮮やかな色を放つ安定だという事もわかっていた。
 違う。考えないといけない事は、そんな事じゃないのに。脳みそは、楽な方向へシフトする作りになっているんだと思う。
 多分今、一部の思考回路は動きを止めた。

「俺は絶対にどこにもいかない。明依が許してくれるなら、ずっと明依の側にいる」

 その曖昧な言葉は、一体何を示しているのか。どんな意味にしても大切にされている実感がある。
 受け入れればきっと宵は、何の不自由のない世界を与えてくれるだろう。そしてその責任さえ、全て取ってくれる。
 日奈と旭が望んだ吉原の解放を、きっと宵は叶えてくれる。

 ただ、吉原の外に出る希望を捨てるだけ。
 吉原を自由にしてみんなで外の世界に行こうと言った、破れかけた約束を捨てるだけ。
 しかしそれは、旭にしても同じことだと思った。旭が吉原の外に出られないのなら、きっと日奈もそれを選ぶ。そして自分も同じようにそれを選ぶのだという事。

「だから、一緒にいよう」

 宵の言葉に嬉しそうな表情を浮かべた十六夜の顔が頭に浮かび、刺すように心を痛めつけてすぐ、何色かに染まった自分の感情だったはずの端っこ。残っている〝自分〟の部分が何かを伝えようとしている。燃え盛る様な熱を持って、どうしようもなく疼きながら。

 どうしようもなく疼くのに、宵といる自分はどうしても思い通りにならない。
 何がそんなに不満なんだ。本当に大切な人と、幸せな夢を見る事の一体何が。

 疼く先ではきっと、こう言っている。
 他人の力で咲いた美しい花は、その人がいなくなればいずれ醜く枯れる。
 甘えは、自分にとって毒だと。

 宵は明依の後頭部に手を回したままほんの少しだけ頬を離して、唇を寄せる。伏せた宵の目はどこまでも澄んでいる様に見える。とても、綺麗だ。

「〝好き〟だよ。明依」

 疼きは止まったのか。それとも、本能が無理矢理目を逸らさせたのか。
 その一瞬の隙でこう思った。

 きっとどうしようもなく甘いこの毒を、飲み下してしまう。