「お前は欠点を克服しようと思ったこと。自らの意思で足りないものを補う努力をしたことはあるか」

 混乱しているのか。それに対して何か答えようと思うまで、頭は回らなかった。

「自分自身に問いかけ、自分という人間を受け入れる覚悟を持ったことはあるか」

 今度はせわしなく頭を動かしているが、高尾の提示した疑問に真っ向から回答できる何かは、生まれてはこなかった。

「私にはお前が恵まれた人間に見えるよ。この吉原に来て大見世の妓楼の楼主に目にかけられ、吉野大夫の世話役となり、勝山大夫や夕霧大夫にまで手をかけてもらえる。与えられたものを、与えられたとおりにやってきただけ。その時々で、足りない手札を分けてもらっただけ」

 この街の中で、自分がどれだけ恵まれた人間かというのは、痛いほどよくわかっていた。それから先に続いた言葉の意味も、確かにと納得せざるを得ない。
 今回だって吉野と勝山が夕霧に会わせてくれたから、自分を変えるきっかけが見つかった。自分は何もしていない。本当に、運がよかっただけだ。それは自分の力じゃない。

「私は妓楼の外に出る事が少ない。私に会いたいと直接訪ねてくる物好きもそうはいない。だが、日をあけずに三度私を訪ねた者は、誰であろうと通す様に伝えている。私のお前に対する印象が、偶然出くわしたから頼んでみようと思った、となるのは仕方のない事だ。お前が私の元に死に物狂いで通う覚悟があったのなら、運が悪かったな」

 そもそも、三回も通う覚悟はなかった。つまり、高尾の言う通りだ。相手がどう思うかが、人間関係の全てだ。それを強制する術はない。高尾の言葉を借りるなら、他人は変えられないんだから。

「努力には方向と質量がある。例えば、話を聞くという曖昧な口約束ではなく、松ノ位になれば必ず何でも一ついう事を聞く。という契約を終夜と交わしていたとする。加えて主郭からの推薦が絶望的で、松ノ位、三人に推薦してもらうしか大夫になる方法はないとしたら。お前は昨日、私が今日はどうだと聞いた時、考える間もなく首を縦に振っていただろう。それはやるべきこと、方向も、注ぐべき力、質量も、明確に定まっているからだ。自分の中の最優先事項が定まっている。方向と質量を最大限にそそぐことを、人は夢中と呼ぶ」

 旭が死んだと聞いた時、他の事は何も考えずに駆け出していた。あれを夢中というのなら、確かに今の状態は、自分の中でやらなければいけない事が散乱していて、うまく整理ができておらず、何から手を付けたらいいのかもわからない。だから、ただがむしゃらなふりをして感情のままに動いている。

「会った事のない私を訪ね、話しをしようとするくらいだ。お前の気持ちは伝わる。おおよその方向を定め、集中しているようにも思う。ただ、持ちうるすべての力を複数方向に散らし、存分な力を発揮できずにいる。目的地の書かれた地図は、ただ持っているだけでは意味がない。何故ならそこに行く道は、何通りもあるからだ。辿るべき道が見えたのなら、様々な条件を加味して、どの道を行くのか、どんな方法で行くのか、選ばなければいけない」

 不思議だ。ここまで厳しい事を言われて、さすがに落ち込みはするが、ふてくされる気にも言い訳する気にもならない。それは高尾という人間の持つ不思議な力なのか、それとも自分自身が成長しているからなのか。そんな暇があるのなら、少しでもこれから意味のある時間を過ごせるようにと考えている。

「夏祭りが終わった後に予定している、修繕工事の全面休園。その間に、吉原は本当の地獄になる。このまま事が進めば、終夜は命を落とすかもしれない。本当にそれまでに終夜に話を聞いてほしいと考えているのなら、その条件が松ノ位に上がる事なら。なりふり構っていられないはず。お前はそれをわかっている。わかっているのに、大きな目標ばかりを見つめ、今この瞬間に自分が何をすべきか明確にわかっていない」

 自分の中に散らばっていた何かが、まとまっていく様に感じる。自分が今、この瞬間に何をすべきなのか。大きな目標を掲げたなら、それを達成するために今何をすべきか。それが分からないから、ただ気持ちだけが先に焦っていた。
 だから昨日、小春屋から帰って来て自室にこもった時、退屈だなんて考えた。時間に余裕がないくせに。今すべきことを、真剣に考えなかったから。

「お前の未来は余りに不明確だ。吉原の解放に何の伝手も手段もなく、心のどこかでは終夜という人間が人の話に耳を傾けて素直に受け入れるような人間ではない事をわかっている。お前は今、定めた目的地に向かって、闇雲に走っている。だから無計画で、合理性に欠ける。それがお前自身が夢中になる事を拒んでいる。だから、努力の方法が間違っていると私は思うんだ。もう一度しっかり、持っている地図を眺めてみるといい」

 高尾は何を思ったのか、布の向こうでゆっくりと息を吐いた。

「気負わないでほしい。勝山大夫に夕霧大夫。あの二人の心を動かし、見込まれた事。それは凄い事だ。だからお前にはきっと、自分で気付いていない部分で人を引き付ける才能があるのだろう。それは誇るべきことだ。しかし、私は今のお前に魅力を感じない。だから、知りたいとは思わない。妓楼の中に籠る平凡な日常を捨て去ってまで自ら声を上げ、松ノ位に推薦する程の人間だとは思えない。厳しい言葉を選んですまないな。……何か、聞きたいことはあるか」

 高尾のその言葉で、一瞬で現実的思考へと引き戻される。
 梅雨は先ほどから変わらず、じっと明依の事を見ていた。

 確かに優しい言葉ではないし、さらに言うなら『魅力を感じない』とまで言われたんだから泣いてもいいくらいだと思う。前の自分なら、確実に怖気付いていただろう。
 しかし、傷ついてばかりでは何も変わらない事を、明依は嫌という程よく知っていた。

「松ノ位に上がる為に努力したことはありますか」

 明依がそう問いかけると、高尾はほんの少し顔を上げた。

「……タフな遊女だな。落ち込まないのか」
「落ち込むのは後にします」

 明依がそう言うと、高尾は声を漏らして笑った。

「この世には何一つ、自分の思い通りになる物はないと知ることだ。天気も、人間関係も、それから自分自身も」
「自分は、思い通りではないんでしょうか。だって、自分ですよ」
「じゃあ黎明。お前、今腹を空かせてみろ」

 突然の事に混乱した明依は、何の返事も出来なかった。

「なりたいと強く願うのなら、今すぐに松ノ位になってみろ」

 確かにそうだと納得した後、明依は放心したまま息を吐いた。

「ほら。自分の事さえままならないんだ。人間というのは。それを知った上で、自分を見つめる事だ」
「自分を見つめるというのは、一体どういう事ですか」
「松ノ位に上がるには、自分という存在を主郭という場所に認めさせなければいけない。自分はこういう人間なんだと、知らしめなければいけない。自分を知らずに、どうしてそんなことができようか。だから、自分自身に問いかける。自分がどんな時に心地よく感じ、自分がどんな時に不快に感じるのか。そうやって心の内に耳を澄ませてみる。自分にはどういう欠点があり、どういう長所があるのか。欠点の改善は可能か。変えられないのなら、どんな風に良く活かすのか。そうやって自分自身に問いかけて自分を知り、ままならない事もあると知っておけば、自分の機嫌を自分で取れるようになる。他人の言動にいちいち惑う事もない」

 夕霧や勝山から教わった事より、もう少し深い。
 自分という人間を知り、変えられない事もあると認識したうえで、自分自身をより繊細な尺度でコントロールする。

「ありがとうございます。試してみます」
「そろそろ次の予定がある」

 そういう高尾にこの場を去ろうと立ち上がろうとしたが、明依はもう一度体制を戻した。

「最後に一つだけ教えてください。……吉原を解放する気は、もうないのですか」

 明依がそう言い終えると、ずっと動かなかった梅雨が視界の端で一歩前に出た。しかし、高尾はそれを手で制した。

「ない。もう二度と、あんな思いはしたくない」

 はっきりとそう言い切る高尾の雰囲気は、明らかにこれ以上踏み入られることを拒んでいた。

「……わかりました。お時間を取っていただいて、本当にありがとうございました」

 明依はそういうと、一度深く頭を下げてから立ち上がった。

「黎明」

 高尾の声が、部屋の中に凛と心地よく響く。明依は振り返った。

「暮相と私が恋仲だったなんてふざけた噂をする人間がいれば、断じて違うと訂正しておいてほしい。ほとほと困り果てている。そんな噂を広めようとする輩には、直接文句を言って回りたいくらいだ」

 高尾は言葉こそ強いが、その口調はどこか(たわ)けた様な。例えば明依自身が、旭に向けて憎まれ口をたたく様な口調に似ている気がした。

「仲が良かったんですね」
「そうだな。お前や旭、雛菊と似た様なものだった、かもしれないな」
「どうして私たちの関係を知っているんですか?」
「挨拶回りに来た時に雛菊に聞いたんだ。嬉しそうに話して聞かせてくれた」

 あの時は口も聞いていなかったのに。嬉しそうな笑顔を見せる日奈が、頭の中に浮かんだ。こんな所にも、日奈が生きていた証拠がある。そのことが、明依の心の内を温かくしたと同時に、切ない何かが胸に落ちた。

「本当に、人生というのはままならないものだな」

 その言葉に明依は俯いていた顔を上げて高尾を見たが、彼女はおそらくこちらを見てはいなかった。少し俯いて、それから顔を明依の方へと向けた。

「……お前も姐さんから、何も聞いてはいないか」

 表情から高尾の感情を読み取ることは出来ない。ただ口調がどこか固い気がした。
 吉野が自分の話をしていなかったかという事だろうか。高尾はもともと満月屋の遊女だと時雨が言っていた。それなら、吉野と関係があってもおかしなことではないだろう。
 しかし明依は一度も、吉野から高尾の話を聞いた事はなかった。

「いえ、なにも……」
「……そうか」

 明依にはその一言が、どこか悲しい音をしているように聞こえた。

「お前と話が出来て楽しかった。ありがとう、黎明」

 しかし次の瞬間にはもう、先ほど同様の雰囲気に戻っていた。
 暮相の言った『吉原を解放したい』『笑ってほしい女の子がいる』という言葉は、高尾の為のものだったのだろうか。
 恋仲ではなかったのなら、別の誰かなのか。

 明依はふと、梅雨を見た。それにしても、この人は昨日から一言だって喋らない。同じくらいの年齢じゃないだろうか。いや落ち着き方はもっと上の様な気がするし、下だと言われれば年下の様な気もする。
 そんなことを考えていると、梅雨は呆れたように音もなく息を吐き捨て、不機嫌そうに明依を睨みつけた。
 明依は背筋を伸ばした後、すぐに視線を逸らし、高尾にもう一度頭を下げて三浦屋を後にした。

 満月屋までの道を歩いていると先ほどよりも気が抜けて、それからじわじわとショックを受けていることを認識してきた。

 大夫に推薦してもらえない事。それは想定内だ。それよりも、松ノ位になったとしても当てもないまま吉原を動かす事は出来ないという事実。それから、今の現状が確かに足りない手札を分けてもらっただけに過ぎない事に、じわじわとショックを受けていた。
 まだまだ甘えていたのだと気付かされた。自分でもっと真剣に状況を把握して、考えなければいけない。

 もし、一刻の猶予もない事を本当に理解していたなら、恐らく図々しいと思うより前に高尾に自分という人間をアピールしていただろうし、それより前に諦めずに高尾に会おうと三浦屋に通っていたはずだ。
 昨日だって、日奈がいないから退屈だなんて思っていた。退屈に思っている暇なんてないというのに。

 しかし、高尾に言われて、その答えは既に出ていた。
 自分の中でやらなければならない事が散乱しているからだ。松ノ位に昇格する為の教科書も、マニュアルもない。
 だったら今、自分のすべきことは何か。

「おかえり」

 明依は弾かれたように顔を上げた。いつの間にか満月屋の前にいた。いつもの様子の宵がいた。
 自分に向けられた声を聴いて確かに一度、心臓がトクンとなる。それは心地がいい気もするし、痛みを伴っている様な気もする。

 心地がいいのはきっと、宵という人間をよく知っているから。
 痛みを伴う気がするのはきっと、きっと、何なのだろう。