梅雨(つゆ)。いい」

 面をつけた女がそう言うと、梅雨と呼ばれた派手な着物を着た女は明依から手を離して身を引いた。

「すまないな。悪気はないんだ。私を守ってくれている。怪我はないか」
「はい。……大丈夫です」

 そう言いながら明依はゆっくりと肩の力を抜いた。驚きすぎて怪我があったとしても気が付かないだろうし、そもそも痛みなんてどうでもいい。
 少し冷静になった後、自分はなんて運がいいんだと、もう一度驚いた。

「私を知ってるか」
「はい、勿論。……高尾大夫ですよね」

 明依がそう言うと、高尾は一度頷いた。

「夏祭りはいい。面で顔を覆える分、外にいてもそんなに怪しまれる事がないからな」

 高尾は夏祭りの喧騒に視線をやってそう言った。その雰囲気は凛と糸が張り詰めた様なのに、穏やかな川の流れの様でもある。

「あの……」
「黎明だな」
「はい、そうです」
「あの道中は見事だった」

 思っていた感じとは違っていた。勝手なイメージだが、もっと気難しい人なのだとばかり思っていた。

「ありがとうございます」
「お前の所の楼主は元気か」
「はい」
「私がこうやって夏祭りに乗じて外に出ていた時、すぐに気付いて挨拶をしてくれた。混乱を防ぐ為に名前を呼ばないという配慮までしてもらった。5年前の8月7日、この通りから二つ向こう。当時、射的を出していた見世の前での事だ」

 明依は驚きすぎて、相槌(あいづち)すら打てなかった。
 『一度でも話した相手の名前と顔、その内容は絶対に忘れないって噂だ』
 噂通りだが、それどころではない。話をした日にちや場所まで、明確に覚えている。この人は、瞬間記憶か何か持っているんだろうか。

「隣にいたのは、お前ではなかったか」

 そう言われて明依は、我に返った。
 思い返してみれば、初めて吉原に来た年に宵は夏祭りに連れて行ってくれた。そういえばそんな事もあったような気がするが混乱しているのか、はたまた5年も前の事であの時はかなり精神的に参っていたのでよく思い出す事が出来ないのか。

「そうだったかもしれません」

 明確に思い出すことが出来ないからこそ、目の前にいる高尾の凄さに圧倒されている。

「引き留めて悪かったな、黎明。お前と話ができてよかった」
「あの!」

 この場を去ろうとする高尾に、明依は思わず一歩前に出て声を上げた。

「私の話を聞いていただけませんか」

 当然、面をつけている高尾の表情は分からない。

「松ノ位に上がりたいと、本気で思っています」

 取り繕う事もしないでただ正直に、明依は高尾を見ながらそう言う。高尾は明依に向き直った。
 松ノ位に上がりたいから何なんだと言われたら、どんな言葉を返そうか。直接的に断られた場合、どんな言葉を返そうか。

「……いいだろう。ウチに来るといい」

 不安な明依を他所に、高尾はあっさりとそういった。
 それに心底驚いているのはどうやら明依だけではないようで、梅雨も目を見開いていた。それから梅雨は静かに目を細めて、責める様に軽く高尾を睨んだ。

「そんな顔をするな、梅雨。今日、この後はどうだ」
「今日ですか。……今日」

 明依は未だに状況をよく整理できていなかったが、必死になって頭を動かした。今日この後は、予め客が来る事になっている。

「今日はお客様が決まってるので、明日はどうでしょうか」
「では、明日。話ができる事を楽しみにしている」

 高尾はそう言うと、今度こそ踵を返して去っていた。梅雨は睨む様な少し強い視線を明依に寄越した後、高尾の後を追い、彼女の少し前を歩いた。

 明依は二人の背中が見えなくなっても、しばらくその場を動けなかった。水風船をなくしたのはショックが大きいが、この広い街で高尾に出くわす偶然という確立を考えれば、水風船の不運を全てここにつぎ込んだのだとしても到底足りないに違いない。

 明依はしばらくその場に佇んだ後、時間が許す限り三浦屋と小春屋へ向かう道を探したが、やはり水風船は見つからなかった。





 いつも通りの夜を越えて、次の日の朝を迎えた。

「おはよう」

 昨日と変わらず満月屋の外に出るまで、すれ違う竹ノ位の遊女に挨拶をした。当然、誰一人として返事をする人はいないが、それが何か特別に明依の感情を揺らす事はなかった。

「こんにちは。満月屋の、」
「黎明さんね。高尾大夫から聞いております。さあ、どうぞ中に」

 昨日と同様に従業員の女は穏やかな様子でそういうが、昨日とは違いどこか積極的に受け入れられている様な感じがした。

 三浦屋の妓楼の中は、至ってシンプルだった。洗練された、落ち着きのある佇まいだ。
 遊女たちは、通り過ぎる明依に丁寧に頭を下げる。明依はとっさに頭を下げ返した。

 通された一室の正面には高尾が座っている。昨日のような祭りの面ではなく、歌舞伎や人形劇の黒衣(くろご)の様に、顔を長い布で覆っていた。

 離れた所には梅雨が立っている。梅雨から何となく感じる威圧感を除けば、この部屋もまたゆっくりと息を抜きたくなるような、落ち着きのある部屋だ。
 高尾は明依に、手で座る様に促した。

「お招きいただいてありがとうございます、高尾大夫」

 頭を下げようとする明依を、高尾は軽く手を挙げて制した。

「固い挨拶は苦手だ。それより、お前の話が聞きたい。どうして松ノ位に上がりたいのか」

 どこまでも嫌味のない口調に感心していた。自分の意見も言い方ひとつで捉え方さえ変わるのかと思いながら、明依は下げようとしていた頭を上げた。

「雛菊の世話役をしていた雪という子を、もう一度満月屋に迎え入れたいと思っています」

 高尾は明依の話の続きを待っているのか、身動き一つ取らず黙っていた。

「それから、以前に施設と呼ばれる場所を見ました。これから吉原で生きていく子どもたちの為に、少しでも選択肢を増やしたい。死んだ雛菊と旭の遺志を継ぎたいという思いがあります」
「その二つが理由か」

 確認するようにそういう高尾に、明依は「いえ」と小さな声で返事をした。
 至極、個人的なことだ。それをどんな言葉で伝えたらいいのかと考えて、結局取り繕う事をやめた。

「終夜に、変わってほしい。考え方を変えてほしいと思います。夏祭りが終わって、修繕工事のための全面休園になった先で主郭の人達が考えている事を、高尾大夫もご存じだと思います。だからその前に、私は終夜に話を聞いて、」
「人は変らない」

 明依の言葉を遮る様に、高尾は諦めろとでも言いたげにはっきりとした口調でそういった。

「自らの意志で変わろうとしない限り、絶対に変わらない。お前達がどういう関係なのかは知らない。だが、もし終夜が聞く耳を持ったとしても、意思は変わらないだろう。終夜は既に自分の中に揺るがない軸を持っている。他人にはどうにもできない。人の考え方を根本的に変えたいなど、傲慢な話だと私は思う」

 例えば相手を傷つけてやろうとか、ねじ伏せてでも諦めさせようだとか。高尾の口調にはそういった棘は全く見当たらない。
 ただ端的に、かつ最低限の配慮はしつつ、自分の意見を述べている事が理解できる。だから自分とは違う意見を言われているのだとしても、すんなりと理解することが出来ていた。

 やはり他の三人同様、圧倒される何かが高尾にもあった。

「それから、吉原解放について。たった一人の松ノ位の力で何かが変わるのなら、私はもうとっくにこの街を変えている事だろう。今現在も吉原が女の地獄とは呼ばれているのは、そういう事だ。ここまでで何か、言いたい事はあるか」

 最後の問いかけは、文句があるか、という様な威圧的なものではなかった。ただ単純に、この意見に対しての意見を求められているように感じる声色だ。
 言いたい事も、聞きたい事もたくさんある。高尾の言っている言葉の意味一つ一つは分かるが結局のところそれは、お前は松ノ位には見合わないと言われているのか。

「頭領の亡くなったご子息、暮相さんと吉原の解放を考えていたと聞きました」
「懐かしいな。そんな事もあったか。……懐かしい」

 高尾は凛とした声色を少し緩めてそういう。

「子どもたちの未来を守るために吉原の解放を叶えたいのなら、主郭という絶対的な場所を動かす必要がある。旭は死んだ。それならどうする?国さえ手を焼く吉原をお前がぶん取るか?」

 少し冗談じみた口調でそういう高尾に明依は考えを巡らせてみたが、あんな化け物だらけの主郭をぶん取って自分が玉座に踏ん反り返るなんて夢物語は、想像さえできそうになかった。

「解放の意思があり、かつ頭領という立場に収まる器を持った人間。この二つの条件に合う人間がいないのなら、当然それしか方法はないだろう。自らが裏の頭領となり、そして一生、吉原という街に縛り付けられる。裏の頭領という絶対的な信頼。あれは自らを犠牲にして成り立っている。頭領はいわば人柱。信頼の為に自らを吉原という街に縛り付ける。つまり二度と、吉原の外には出られない」

 高尾の言葉に、明依の中には疑問が浮かんだ。
 旭が吉原を解放したらと以前話した時、終夜も入れて4人でいろんな所に行こうと言っていた。頭領になるつもりだったのなら、吉原の外に出られないという事は考えなかったのだろうか。
 旭には何か考えがあったのだろうか。いや、旭の事だ。小難しい話は抜きにして考えた結果、頭の中からすっぽり抜けていた可能性が高い。
 
 もし旭の願った通り、終夜と四人で吉原の外に出るという未来があったなら。
 吉原解放をしたり顔で見届けた旭に、終夜がそれとなく匂わせて〝ん?あれ?俺だけ外出られなくね?〟と認識してショックを受けている旭の隣で、終夜は外で流行っている食べ物をこれ見よがしに食べながら、スマホで撮影した外の景色を見せつけているに違いない。

 それを見てきっと日奈は〝終夜。やめてあげて〟と困った様に笑う。そして、吉原の外に出られない旭が寂しくない様に、そっと側にいるのだろう。

 ありありと〝あったかもしれない未来〟の想像ができるのに、それが叶う日は来ない。
 ただ、本当にそんな未来があったらよかったのにと思わずにはいられない。それが高望みというのなら、せめて誰も争わずに、みんなが笑っていられる未来になればいいのに。

「暮相と旭。生きて頭領になっていれば、人柱になどならなくても周りの人間の信頼を人望だけで勝ち取って、本当の意味で吉原を解放してみせていたかもな」

 旭が本当に忘れていたのだとしたら、大切な事なのになんてアホなんだと思うと同時に、旭という人間はそういうヤツだったと、明依は思わず声を漏らして笑った。
 結局見かねた誰かから助けてもらうのだろうが。旭は、そういう人だった。

「あの二人は完璧じゃなかった。それなのに、すでに絶対的な信頼を持っていた。この街の人間からも、主郭の人間からも。……天性の才だったのだろうな。どんな人間も毛嫌いせず、まずは自分から受け入れる姿勢を見せた。自分の弱い部分もさらけ出して、素直に助けを請うていた。……自らに開いた穴を埋め合って生きてこそ、自分の存在を実感できる。人間とはそういう生き物だと、あの二人はこの街に生きる者にとって、とても大切なことを教えてくれた」

 自分の内側が温かく灯って嬉しくなった後、途端に寂しくなった。

 夢から覚め切る前の現実との狭間で、今でも時々この現実世界が夢なのではないかと思う時がある。
 旭も日奈もいない日々を何日越えても、夢の中でこう思う。そんな残酷な出来事を受け入れて生きて行けるはずなんてないと。

 それでも存外、生きて行ける。

「しかし、あの二人の様に本当に他人の事を考え、他人から愛される才能を持った人間は稀だ。それが人の上に立つ確率はもっと低い。吉原はその好機をもう二度逃した。……結論を言おう。先ほどお前の言った松ノ位に上がりたい理由の中で唯一、雪という子どもの為という事だけ私には合理的に見える。努力には正しい方向と質量がある。お前は努力の方法が間違っている。実に勿体ない事だ」

 高尾はそう言うと顔を隠した布の向こう側で、少し深く息を吸った様な気がした。

「お前の花魁道中。あれは確かに美しく、見事という他ない。しかし私から言わせれば、ただ、それだけ。だ」

 (さげす)む様な口調でも、馬鹿にするような口調でもない。
 夕霧や勝山の時と同様に、何かを伝えようとしている高尾の言葉を先手を打って探そうとする感覚が確かにしている。

 それなのに、先ほどと何一つ変わらず凛としていて穏やかな口調が、一手先どころか彼女の放った言葉の意味を咀嚼(そしゃく)する事さえ拒んでいる。