明依は小春屋から満月屋に帰り、自室に入った。今日は夜に客が来る事が(あらかじ)め決まっている。それまで何をして過ごそうかと考えていた。
 退屈だ。日奈がいた頃は、退屈を感じる暇なんてほとんどなかったような気がする。飽きもせず二人で話をしていた。美味しい茶菓子を準備して、互いの部屋を行き来しながら。

 そう思ったのも束の間、明依はもう一度よく考え直してみた。
 充実した時間だけではなかったはずだ。すべての仕事が日奈と被るなんてことはありえないんだから。退屈な時も必ずあった。

 『自分でいい所だけ選んで、切り取って、飾り立てて。そうやって美化してるくせに、どうしようもないくらい綺麗』
 終夜の言う通りだ。思い出は美しい。目が(くら)む程。
 ずっとここに居たくて、どうしようもなくて、心が泣き叫ぶくらいに。

 気分転換に空気の入れ替えでもしようと障子窓を開け放つと、満月屋に向かいながら宵と十六夜が並んで歩いているのが見えた。

 確かに一度、ズキンと心が痛む。それから明依は至極冷静に、この気持ちについて考えを巡らせていた。
 あの二人が一緒にいる事で、どうして自分はこんな気持ちになっているんだろう。
 話をしている二人を見ながらそんなことを考えていると、ふと宵が視線を上げた。明依は思わずしゃがみ込んで身を隠した。

 バレただろうか。いや、ギリギリ間に合ったはずだ。そもそもなんで隠れたんだ。そんなことを考えた後、深く息を吐く。これじゃあ、やってる事はほとんどストーカーだ。
 明依は障子窓のすぐ下の壁に背を預けて、何となく部屋を眺めた。

 しばらく文机を見つめて、立ち上がって側まで歩いた。

「……ない」

 終夜から取って貰った水風船がない。
 そんなはずない。確かにここに置いたのに。そう思って明依は文机の下や部屋中を探し回ったが、それでも水風船は見つからなかった。

 誰かが持って行ったのか。しかし、貴重品でもない水風船には何の価値もないだろう。そう思い、次に浮かんだのは終夜の顔だった。終夜がする嫌がらせにしては程度が低いし、水風船を持って行く事に何のメリットもない。
 では、誰かが間違えて持って行った可能性は。しかし、他人の部屋に間違えて入って、水風船を間違えて持って行く様なうっかりさんがいるなら心配になるレベルだ。

 明依はいてもたってもいられなくなり、とりあえず妓楼の中を探す事にした。

「水風船ですか?私は知らないな。……誰か見てない?」

 この年になってお祭りで取った水風船を意気揚々と飾っていた挙句、その水風船をなくし、必死になって探しているという事実に引かれるのではと思ったが、張見世中の凪や周りの梅ノ位の女の子は、真剣な表情で考えてくれていた。

「私も見てないですね」
「私もー」
「そうだよね。皆、ありがとう」

 明依はそう告げると、別の場所を探そうと足早にその場を去った。
 盗聴器を仕掛けられたのだ。もしかしてあの水風船には、終夜が逃走用の足を仕掛けていたんじゃないかと明依は馬鹿げていると思いながら、そこそこ真剣に考えていた。

 部屋にもない。廊下にも落ちてないし、ゴミとして出されてもいないみたいだ。
 明依は自分の座敷から出た。もう探せるところは全て探した。それでも明依は諦めきれずに廊下を歩いた。

「なにしてるの。さっきから」

 平坦な声に視線を移すと、座敷の一室に双子の幽霊がいた。

「ねー。海ちゃん。誰か私の部屋に入ったの見てない?」
「見てない」
「空くんは?」
「見てないな」

 二人は首を小さく横に振った。

「何を探してるんだ」
「水風船なんだけど……」

 空の言葉に明依がそう言うと、二人は示し合わせた様に少しだけ表情を変えた。それだけで、ドン引きされているという事が余す事なく伝わってくる。

「祭りで取った水風船を意気揚々と部屋に飾ってたらその水風船がなくなって、今必死になって探してるのか」
「あなた、もう少し恥って言葉の意味を知ったほうがいい」

 ほらね!!絶対言われると思った!!
 という言葉はもはや強がりにしか聞こえない事を理解して、明依はため息をついた。

「私も全く同じこと思ったよ。でも……」
「終夜から貰ったもの」
「……知ってたんだ」
「私たちも見てた。でも途中で見失った。あれからどうしたの」
「どうもしてないよ。ただ二人で当てもなく歩いて、水風船を取ってもらっただけ」
「あの日の終夜はなんだか、楽しそうだった」

 そういう海に、明依の心臓は明らかに高鳴った。
 それがどうしてなのか、明依にはわからない。

「水風船は諦めろ。ないものはない」

 確かにないものはない。空の言う通りだ。これだけ探して見つからないのだから、もうないんだろうと心のどこかでは諦めの気持ちがあることも事実だ。
 しかし、じゃあ諦めきれるかと言われればそうでもなかった。

「でもない訳ないよ。さすがの終夜だって水風船に足、」
「こんにちは」

 明依は急に耳元で聞こえた声に、びくりと肩を浮かせた。何の気配もなく、明依の背後でそういったのは晴朗だった。
 双子の幽霊は急な事で目を見開いていたが、それから睨むように晴朗を見た。

「そんなに警戒しないでください。何もしませんから。……それより、何か探しものですか」

 そういう晴朗に、明依は思わず黙った。一度命を狙われた男に、〝水風船なくしました。見てませんか〟はさすがにメンタルが強すぎる。
 そんなことを考えている明依をよそに、空が明依を指さしながら口を開いた。

「こいつが水風船をなくした」

 いつものように平坦な口調で空はそういう。
 頼むから財布とかスマホくらいのテンションで言うのはやめてほしい。いっそ小馬鹿にした感じで言ってもらった方がまだ救いがあった。

「なくしました。水風船。見てないですか」

 明依は恥を忍んで、勢いに任せて晴朗にそう聞いた。

「さあ。知りませんね」
「……そうですよね」

 晴朗はいたっていつも通りに答える。明依がそういった後、辺りは痛い沈黙に包まれた。さっさと解散しようと明依は口を開いた。

「小春楼の時雨から、いい情報は聞けましたか」

 しかし明依が言葉を発するより先に、晴朗はそう言った。
 どうして先ほど時雨の見世に行った事を知ってるのか。警戒する明依など気にも留めず晴朗は薄く笑った。

「ただの勘ですよ。三人の松ノ位の推薦で昇格することが出来るなら、そういう手段もあると思っただけです。高尾大夫に会う事が出来なければ、顔が利きそうな人間に会いに行く。それくらいの想定なら、誰にでもできるでしょう」

 そういう晴朗に、空と海は静かに彼を睨んでいた。しかし晴朗はそんな二人の様子を気にも留めず、口を開いた。

「『吉原を解放したい』『笑ってほしい女の子がいる』」

 晴朗が発した言葉に、明依は息を呑んだ。
 それは以前旭が吉原を解放したいと言った時の言葉だと、以前晴朗はそう言っていた。

「その言葉の始まりを、知っていますか」
「黎明、さっさと行け。この男の話は聞かなくていい」

 晴朗の言葉に空は舌打ちを一つしてそう言うが、明依は〝その言葉の始まり〟という意味を探して、ただその場に佇んでいた。

「これは吉原解放を唱えた時に、暮相さまが言った言葉です。旭はそれを知っていたのか。それとも知らなかったのか。どちらにしても、兄と慕った彼と同じ言葉を吐いた」
「黎明、聞かなくていい。時間の無駄だから」

 そういう海の言葉はどこか少し、焦っている様に聞こえる気がした。
 それが一体、なんだというのか。暮相という人間が吉原を解放しようとした裏に、誰かの影があるという事か。

「もしかすると渦中にいるのかもしれませんね。あなたも僕も。誰かの陰謀の」
「……どういう意味?」

 何一つとして理解できないままの明依に、晴朗はただ薄く笑っていた。

「どうして、吉原に詳しいの?」

 晴朗は薄い笑顔を張り付けたまま、何も答えない。

「あなたがここに来た時には、もう暮相さんは死んでいたんでしょ」
「黎明、もう行け」

 空の言葉に返事をしている余裕は、今の明依にはなかった。

「あなた、何者なの……?」
「あなた達には僕が、誰に見えますか」

 晴朗はそう言って明依を見ると、次に空、海に視線を移した。

「〝晴朗〟という名前のはずなんですよ、僕は。それなのにどうにも、自分を生きている気がしない。違和感があるんです。操られているんでしょうか。人間というのは、すぐに騙されますから」

 やはり、全くもってこの男が理解できない。この得体のしれない不気味な感覚は、一体何なのか。
 晴朗は明依に視線を戻した。

「かつてあなたが終夜の思惑通りに動き、利用されていた様に」

 晴朗はそう言うと、急に人懐っこい笑顔を浮かべた。

「いつかお互いに、真実を暴く日が来るといいですね」

 そう言うと、晴朗は踵を返してその場を去っていった。晴朗が去って明依の胸にポツリと残っているのは、不気味な恐怖心だった。
 明依が空と海に視線を移すと、二人はじっと明依を見ていた。

「あの男に関わるのは危険。縛るものが何もないから」

 海は感情が読み取れない顔をして、いつも通りの平坦な口調で明依にそう言った。

「……どういう事?」
「宵を頭領に押し上げたい人間が主郭の上にいる以上、(かげ)から見張られる事はあっても害を加えられる可能性は低い。この前の花魁道中みたいな行いが、宵の評価に直接的に繋がる関係だから。ただ、あの男は違う」
「そうじゃなくても一度あの男に命を狙われているんだから、関わっていい事なんてないはずだ。平和に生きていたいなら、あの男に関わることもやめた方がいい。後は終夜のいうことを聞いておけば、最悪の事態にはならない」

 海に続いて、空もそういう。
 最悪の事態。それは殺されるという事か。それとも以前二人が言った死より辛くて苦しい、『これ以上過酷な地獄』というやつか。

「わかった」

 そうは言うものの、それがいったい何なのか。明依には見当もつかなかった。

「……水風船探してくる」
「どこに行くの」
「今日出かけた道を見てみるの」
「持って出てないなら、あるわけないだろ」

 海の言葉に返事をすれば、すかさず空がそういった。きっともう見つからない。頭の中では理解していても、納得できなかった。
 あの白い水風船には日奈と旭の思い出が映っていて、終夜という人間を探していた明依が望んだ小さな何かが、一つの形になった様なもの。そんな気がしていたから。

「じゃあ。二人ともありがとう」

 明依はそういうと、空と海に軽く手を振った。いつも通り顔を見合わせてこちらを見る二人をよそに、明依は歩いて妓楼の外へと出た。

 水風船を見つける為に外に出たというのに、先ほどの晴朗の言葉や終夜の事が頭の中で回っていた。
 晴朗は一体何者なのか。操られているとは、どういう意味なのか。
 終夜と晴朗が本気で殺し合った場合、勝つのはどちらなのだろうか。

 そんなことを考えていると、誰かに肩をぶつけた。

「すまないな」
「いえ、こちらこそ」

 凛とした声の持ち主に明依はそう言いながら顔を上げた。

 夏祭りで売られているであろう古風な面を被り、頭を隠す様に布で覆っている。観光客か、日本に住んでいるのか。随分と流暢に日本語をしゃべる人だと思った。

 その人の隣を見ると、三浦屋で見た派手な着物を着た女がいた。

「運がいいのか、悪いのか」

 面をつけた誰かはそういう。思考が、止まる。
 もし本当にそうなら、自分はなんて運がいいんだ。

「高尾た、」

 名前を言い終わるより先に、背中を何かに強く打ち付けた。
 気付けば目の前には派手な着物を着た女がいる。数秒たってやっと、一瞬のうちに壁に押し付けられているのだと気が付いた。