〝ご縁〟というのはこういうことを指すのだと、明依はひしひしと感じていた。

 もしかすると暁にとってあの一言は、大博打だったのかもしれない。
 そんな大切な思いに、タイミングが合わなければ一生気付かない事もあったのだ思うと恐ろしい。

 そうか、と現状に改めて納得する。
 だから藤間はきっと自分を気にかけてくれていたのだろう。

 友の愛した女の娘。
 その娘が吉原に戻ってきたと気付いたから、側で見守ってくれていたのかもしれない。

 そう思うと本当に、縁というのは結ばれるべくして結ばれているのだと感じていた。

 藤間は着物の袖で涙を拭う。 
 それからふっと息を抜いて、明依を見た。

「実はね、黎明」

 藤間はまるで霧が晴れた後の空の様に澄んだ様子で言って、明依に笑いかけた。

「私は代理なんだ」
「……藤間さまが、代理?」

 藤間が何を言っているのか、すぐに理解することはできなかった。

 〝代理〟、というのは代わりの人、という意味だ。
 一体藤間が、誰の代わりだというのだろう。

「そう、私は代理。君を身請けたのは、旭くんと雛菊だ」

 何を言い出すのか。
 旭と日奈は死んでいるのだ。
 この目で二人が死んだところは、しっかりと見ている。

 この感覚はまるで、終夜を得体のしれない鬼の様に思っていた時に、一方的に情報を注がれて思考を止める感覚に似ていた。

「君に頼まれて私が身請けをすると話が進んでいたはずなんだが、終夜くんに後出しされてしまってね。提示された金額の倍の金を〝日奈と旭の遺した金だ〟と叩きつけられてしまった」

 藤間は、やられたよ、とでも言いたげに。しかし優しい笑顔を浮かべている。

「終夜くんに言わせれば、『どいつもこいつも甘やかしすぎ』なんだそうだ」

 〝甘やかしすぎ〟。
 それは確かに、終夜らしい言葉だ。

「『自分一人の力で生きていけ』と言付かっている」

 やはり、終夜らしい。
 その場がありありと目に浮かぶ。

 藤間に身請けをされて吉原を出るという事は、最低限の生活はどうあっても保障されているという事だ。
 同時に、どう足掻いても藤間に恩を感じて生きていくという事。

 大きなことを言うのなら、誰の後ろ盾もなく自分の力で生きていけと。
 つまり、誰にも恩を感じることなく、誰かが枷になる事もなく、自分の思うままに生きてみろと言う、終夜からの最後のメッセージ。

「私が一度身請けの話を打診した時の事を覚えているかい」
「はい、勿論」
「実はあの身請け話は、終夜くんに頼まれてね。いつかは君を自由にしてあげたいと思っていたから後はタイミングだけだったんだが。……宵くんから黎明を守るなら今しかないと、いつになく真剣な様子で私に言ったよ」

 あの時身請け話を断ったから、胸に大きな傷を残す事になった。
 終夜はやはり、なるべくなら無傷のままでと思っていたのだろう。

 終夜が必死になって守ろうとしてくれた事は、よく分かっているつもりだったが、藤間にまで協力を仰いでいるとは思わなかったし、二人が繋がっているなんて考えたこともなかった。

 幸せにならなければ。
 きっと今、誰よりも願ってくれている終夜の為にも。

 そう思うのにまた堪らなく、終夜に会いたくなる。

 藤間はまるで、綺麗なものでも見ているような穏やかな表情をしていた。

「その着物も、終夜くんが準備をしたものだよ」

 明依はもう一度、冷静に、自分の着物を眺めた。

「〝夜〟と〝明〟ける、という二つの漢字を書くらしい。だけど、なんと呼ぶのかまでは教えてくれなかった」
「……〝よあけ〟、ではないのでしょうか」

 それであれば、〝黎明〟という源氏名にちなんで付けたのだろう。
 裾の内側に見える赤はきっと、太陽だ。

「〝よあかし〟という可能性もあるね」

 一晩中眠らない、という意味のよあかし。

 そう言われて思い出したのは、終夜と過ごした、最後の座敷での事。
 夜が明けなければいいと思った、あの時の事。

 この着物を〝よあかし〟というのなら、裾の内側の赤は吉原の暖色をあらわしているのかもしれない。

「それとも別の読み方か。もしかすると、定められた読み方はないのかもしれない。だけどこの二文字には間違いなく、終夜くんから君への想いがたくさん詰められている。言葉を使うというのはこういう事だと、勉強になるよ」

 白い布地に、銀色の刺繍。
 それから赤い裾の内側。
 どこまでも軽い着物。

 藤間からの贈り物だと思っていた。
 まさか最後に終夜から、こんな贈り物をもらえるなんて。

 先代・裏の頭領、暁が先代・吉野大夫に向けた様に、きっと終夜もこの着物に、たくさんの想いを詰めてくれたのだろう。

 松ノ位の平均的な身請け額を考えて、日奈と旭の残した金だけではおそらく足りないだろう。
 だったらその残りの金が、一体どこから出ているのか。

 考えなくてもわかる事だ。

 今すぐにでも、駆け出して会いに行きたい。
 でも許されないから。終夜が吉原の外に出る事を望んでいると知っているから、明依はひっそりと歯を食いしばった。

「いい名だな」

 高尾はなるべく穏やかでいようと努めているみたいな声で言う。明依はやっとの事で「はい」と答えた。

「歴代最短期間で、歴代最高の身請け額。まさに異例の遊女ね、黎明」

 夕霧は状況を面白がっている様にそう言った。
 きっと彼女には、明依の葛藤が手に取るように分かっているに違いない。

「黎明」

 勝山に名を呼ばれて、明依はゆっくりと振り返った。
 これだけの晴れ舞台を台無しにしようと頭をよぎった自分自身に、うんざりしながら。そして、自分自身を戒める為に、吉原から出る理由をもう一度頭の中でなぞりながら。

 勝山はいつになく、真剣な表情をしていた。

「その着物は軽いだろう。どこへだって走っていける」

 それから勝山は、いつも通りの勝気な笑みを浮かべていた。

「そして、吉原の夜は終わったんだ」

 一歩だけ前に出る吉野の両手には、何かがあった。

「あなたたちの夜はもう、明けたのかしら」

 明依が視線を移すと、吉野の手元には終夜から借りた長羽織と、それから立入許可証。 
 吉野に捨てておいてほしいと頼み、手渡したものだった。

 明依はもう二度と触れる事はないと思っていた終夜の長羽織に触れた。
 明依はそれを皺が出来る事にも気をやらないで、強く強く抱きしめた。

「ありがとうございます」

 明依は高下駄を脱ぎ捨てると、着物の分厚い裾を持ち上げて走った。

 ゆっくりと歩いた花魁道中を、全速力でさかのぼる。
 たくさんの観光客を横切って。

 何事かと唖然とした声が、いたるところから。

 松ノ位が全員、勝手に黎明の引退の為に用意された花魁道中に参加した事が可愛く想える程の、大問題。

 しかし明依の気分は、清々しいともいえるものだった。

 人間にはやはり、勢いが大切な時がある。

 ただ走って、走って走って。旭が死んだと聞かされた時と同じ道を走る。

 話したいことがある。
 それは本当ならもっと早く話さなければいけなかったことだ。

 さかのぼり、そして降りていく。
 主郭という城の最上階まで、落ちて行く。
 その先には、終夜がいる。

 明依は石段を駆け上がった。

「黎明大夫、ここで何を、」
「通してください」

 明依はそういって、〝立入許可証〟と長羽織を門番に押し付けて、勢いを殺す事なく走った。
 隣を通って門を通り、主郭の中へ。

 明依の勢いに押された門番は立入許可証に視線をやり、それからすぐに明依を視線で追ったが、もう明依は主郭の中。

 階段を登って、それから廊下を走った。

 終夜は何一つ望んでない。

 明依は迷うことなく、裏の頭領の居住区に足を踏み入れた。
 廊下を走り、それから襖を開いた。

 肩で息をする。

 終夜は障子窓に片足を上げて座り、吉原の街を眺めていた。

 終夜が目の前にいる。
 自分の意志で触れられる距離に、終夜がいる。

「花魁道中さかのぼって走ってくるって、めちゃくちゃだよ」

 この高い場所からは、花魁道中を一目見ようと観光客が作った長蛇の列の全貌が、まるで手中の様だ。

「この後処理、誰がするか知ってる?」

 終夜は外を見たまま、振り返らない。
 明依はある程度息を整えた後、姿勢を正した。

「長羽織、やっぱり返しておこうと思って」
「そんなに言うなら受け取ってあげてもいいよ。で? 肝心のその羽織は?」

 明依はまだ肩で息をしながら我に返って、それから念のため、自分の手元を見た。

「……ちょっと今は、持ってないけど」

 門をくぐるときに勢い余って立入許可証と一緒に門番に渡してきてしまった。

 終夜は〝やっぱお前、馬鹿だろ〟とでも言いたげに溜息をつく。

「せっかくお役御免だと思って一服してたのに」

 終夜が煙を吐き出した。
 それから灰皿にタバコの形が変わるくらい強く押し付けた。

 そしてやっと、終夜は振り返る。

「また俺の邪魔をする」

 いつも通りの口調。
 だけど終夜は、仮にも一度愛し合った女に向けるべきものではないほど無機質な表情で、冷たい目をしている。