吉原の松ノ位、五人が同時に歩く花魁道中。

 おそらくこの花魁道中は主郭の指示ではなく、松ノ位四人の独断。これから吉原の運営側は公に説明を求められるだろうが、松ノ位はきっとどこ吹く風と聞き流す。

 しかしいずれにしてもそれは、割れんばかりの歓声の裏側の話。
 表舞台は近年稀に見る盛り上がりを見せていた。

 今日、この花魁道中を見ている人は、至極運がいい。

 吉原の松ノ位全員を一度に視界に収める機会なんて、金輪際ありはしないだろう。

 これをまさに、異例というのだ。

 明依という人間の隣にいる〝黎明大夫〟。その世間から見たイメージは、思ってもみない事を平気でやる女、だろう。

 もしかすると吉原の歴史に、〝黎明大夫〟というのは〝異例〟という簡素な言葉で記されるのかもしれない。

 表側から見れば、盛大な引退セレモニー。
 しかし、吉原の人間たちからすればこの花魁道中は、吉原が解放され、誰もが自由になった事を表している。

 この街には、表と裏がある。

 吉原の裏側が無くなることはない。
 この街は多くの人間を意図的に底なし沼に落とし込み、それと同時に多くの人間の命を救い、選択肢を与えている。

 この花街が美しい理由は他でもない。
 人の命を養分として咲いているからだ。

 裏側に住むしかない人間にとって少しでも息がしやすい場所になってくれれば、これ以上に嬉しい事はない。

 この決意を見た誰かが。〝黎明大夫〟の背中を見た誰かが。今回では手の届かなかったところまで吉原の改善を、と気をやってくれますように。

 次の世代に繋ぐ希望を想ってくれますように。

 豪華絢爛で埋め尽くした花魁道中は長い列となった。
 妓楼によって特色の濃く出る花魁道中が、融合している。

 それは一つの大きな塊のようであって、華やぐ時頃の吉原を照らす暖色の様に、明確な形はない。

 ただ一般的な感性をもってすれば、〝美しい〟以外に言葉はなくて。
 おそらくこの感覚は、吉原の外から大門を初めて見た時とまったく同じ感覚。

 息をする間さえ、本能が物惜しみする。
 たった一つさえ逃すまいと、視界に意識をやるあまりに。

 無数とも呼べる観光客の隣をゆるりと歩く。

 たくさんの人が、涙を流している。

 松ノ位が一斉に介した花魁道中に感動のあまり涙しているのか。
 それとも〝黎明大夫〟に特別な思い入れがあるのか。

 もし個人的に〝黎明大夫〟に思い入れがあって、彼女に充てられた涙なら。
 涙を流している人々の心に自分が生きてきたことで、何か強いものを残すことが出来たなら。

 大往生じゃないか。

 苦しみだったことも含めて、心の底から救い上げられた気持ち。
 だから、感謝しなければいけないのは、こちらの方だ。

 通り過ぎる全ての人々との空白を埋めて、今しがた確かに人生が交わったのだと、強く認識していた。

 これが、臨界点の向こう側。

 この世に生まれ堕ちてから自分の不幸を恨み、それから幸福を知った。騙し騙され、それから愛された、ありきたりから少し外れた〝黎明〟の集大成。

 いよいよ、宴もたけなわ。

 藤間の姿を正面に定めて、花魁道中は真っ直ぐ進む。
 そして明依は、彼の前でピタリと動きを止めた。

「気分はどうだい、黎明」

 藤間は穏やかな様子で言った。

「最高の気分です」

 堪えて堪えて、ぽつりとした微笑みだけを浮かべた。
 満面の笑みを作ってしまうと、自分の内側にせっかく溢れている幸福が漏れてしまうかもしれないなんて、バカげたことを考えて。

 たくさんの感情が同時に出てきて、まとまりがない。
 しかし確実に、幸福だと言える。そんなぼんやりとしたものがあつまって、形になっているような感覚。

 この気持ちは、終夜に恋をしているときの想いに似ている。

「この街を出て、何がしたい?」
「まずは、藤間さまの書いた小説を読んでみたいです」

 藤間は今の明依の隣がよく似合う、緩やかな笑顔を浮かべる。

「何やら評判はいいけどね。書いておいて何だが、あの小説は大して面白い話じゃないよ。あまり期待しないでほしい。……舞台は、吉原。本当は自分が物語の主人公になりたかったくせに、自ら選んで脇役になったバカな男の話だ」

 明依はその言葉に息を呑んだ。

 藤間はそんな明依に気付かず、真っ直ぐに主郭へと視線を向けて少し目を細めた。

 『熱燗が好きだといっていつもそればかり飲んでいる男が、焦がれた女性を待っている間に冷えてしまったその酒を、その女性に注いでもらうのはどんな気持ちか、知りたかっただけなんだ』

 旭が死んだという知らせを聞いて、座敷で待つ藤間を放って主郭へ駆け出し、藤間を帰らせてしまった次の座敷。
 宵が終夜に連行されてからすぐ。

 藤間は確かに言った。

 『蒸す夏の夜に、燗酒を飲んだ。座敷に入り込んだ風で身体を冷やしながら』

 裏の頭領、暁は確かに言った。

 『人生って言うのは長い。思いもよらない病気にかかって長い間入院する事になったり、揉めた友人と縁を切った事もあった』
 
 藤間は言った。

『友を、家族さえ捨て置いてでも私はこの場所に立つことを選んだ』

 暁は言った。

 暁と藤間の関係が繋がった事をきっかけに、明依はゆっくりと息を吐く。

 〝黎明〟の着物の裾の内側を見た時、藤間が話して聞かせてくれた、座敷で藤間と話した自ら選んで脇役になった男と酒を注ぐ女の話を思い出した。

 〝外側を白く塗り潰す〟様な白い着物。
 しかしそこから〝垣間見えているであろう色を吐き捨てた様にうるさい内側〟。

 〝彼女の胸にぽつりと一滴でも影を落としたのだという柄にもない優越感。そう思っている自分に対する背徳感。その一切を隠して、外側を白く塗り潰すように平然を装っていた。しかし、それでも垣間見えているであろう色を吐き捨てた様にうるさい内側に、彼女はそっと目を伏せたまま、気付かないふりを決め込んでいた。結局の所一言でまとめてしまえば、会えて嬉しい。ただそれっぽっちの安い言葉を、男は女が注いだ酒と一緒に飲み下した〟

 あの藤間の言葉は物語のわき役の気持ちを。
 つまり、〝黎明〟の着物を祝いに送った暁の気持ちを表していたに違いない。

 藤間がこの街を舞台に描いたのは、先代・裏の頭領暁と、先代・吉野大夫の物語。

 〝黎明〟の表面に見える真っ白の着物は、覆い隠し、取り繕っている暁の善意。
 色を吐き捨てた様な裾の内側は、好いた女を他の男に渡す暁の苦しみと、葛藤。つまり、本心。

 お引きずりで花魁道中を歩く意味。

 藤間と暁は、友と呼ぶ間柄だった。
 心の深い所にぽつりと温かい何かがともって、照らしている。

 長い時を経て今、道を違えた二人を繋いであげられる。

 『お前の〝知人〟に、伝えてくれ』

 暁との、最後の記憶を頭の中でなぞる。

「『なかなか良かった』と」

 明依がそう言うと、今度は藤間が息を呑んだ。

 『縁があれば、いずれわかる』
 この瞬間にこの出来事を〝縁〟と呼ばずに、なんと言おうか。

「暁さまより言付かっております。藤間さま」

 藤間は目を見開いてそれからゆっくりと息を吐いて、穏やかな顔で笑った。
 目にはほんの少しだけ、涙をためて。