当日、満月屋の中は誰もがせわしなく、落ち着きなく動いていた。

 反して、明依の座敷の中は穏やかだった。

「素敵なお着物ですこと」

 八千代はもう何度目かわからないその言葉を言いながら、明依の腕に着物の袖を通した。

「お日様の下で見るときっとこの着物は、さぞ綺麗に輝くのでしょうね」

 真白の生地に銀の刺繍が施された着物の重力が全て明依にかかる頃、八千代はそれを心底楽しみだという様子を隠さずに、浮いた口調で言った。

 裾の内側は朱よりも仄かに暗い赤。
 最初に一目見た時に思ったのは、鮮血の色。
 酸化する前、まだ人の温かさのある、血の色。

 きっと自分は、社会の裏側を見過ぎてしまったのだろう。

 裾の内側が赤い理由はきっと、〝黎明〟を模して日の昇る様を表しているのだ。

 この着物は、今までに袖を通したどんな着物よりも軽い。
 走れと言われても、すぐに駆け出していけそうなくらい。

 もしかすると藤間は、これから幕を開ける未来に軽い足取りで進んでいける様にと、この着物を準備してくれたのかもしれない。

 たくさんの人の思いが詰まっている事を理解している。
 だから最後の花魁道中だと気を抜いてはいられないと、明依は身を引き締める思いで背筋を伸ばした。

「たくさんの愛情を受けているのね」

 八千代は着物にそう言いながら、ゆっくりとしかし一つとして無駄のない動きで、着物を着つけていく。

 藤間にはいつも心配をかけた。
 旭が死んだときも、日奈が死んだときも。

 この街から出る様に取り計らおうとさえしてくれた。

 吉原を題材にして書いていると言っていた物語はきっと、もう書き終わっているのだろう。

 一体どんな話なのだろう。
 吉原のどんな部分を切り取った話なのだろうか。

 吉原の外に出たら、一番に藤間の書いた小説を読んでみようと明依は決めていた。
 その物語の中に自分の面影は、この造花街のどこかの面影は、あるだろうか。

 八千代は明依があらかじめ渡していた簪と櫛を手に取った。

 右側には、日奈と旭と終夜がくれた、太陽の絵が描かれた二本の簪と一本の櫛を。
 左側には、旭と終夜と、それから自分が日奈に渡した、雛菊の絵が描かれた二本の簪と一本の櫛を。

 簪を頭に飾るのは、これが最後。
 櫛を頭に飾るのは、これが最後。

 花魁衣装を身に着けるのは、これが最後。
 八千代に着付けをしてもらうのは、これが最後。

「できましたよ」

 相変わらず、八千代の腕は凄い。

 鏡に写る自分の姿を見て、自分自身に勇気をもらう感覚。
 自分のいい面も悪い面も、全部をひっくるめて、胸を張る権利をもらえる。

「八千代さん、ありがとうございます。八千代さんがいたから私、花魁道中で胸を張れたんです」
「どういたしまして。だけどね、黎明ちゃん。その勇気はもともとあなたの中にあったものよ」

 八千代はゆっくりとした様子で笑った。

「私はほんのひと匙すくい出しただけ。どんな苦難も真っ直ぐに見据えた、あなた自身に礼をいいなさいな」

 そういう八千代に、明依は笑顔を作った。
 八千代はそっと、明依の肩にふれて座敷の外に出る様に促した。

「泣いても笑っても最後の花魁道中よ。お気をつけてね、黎明ちゃん」

 明依は入口で八千代に向き直ると、深く頭を下げてから座敷の外に出た。

 廊下にはたくさんの人が並んでいる。

 従業員たちが並ぶ廊下を、真っ直ぐに歩いた。
 「元気でね」「幸せになって」と、まるで花魁道中の最中に観光客がかけてくれるような声を、みんながかけてくれる。

 時間が許す限り笑顔を向けて、立ち止まった。
 名残惜しさと同時にある、悲しさと、それから、これからの人生に対する期待。

「明依ちゃん、とってもきれいよ」

 桃はそう言いながら、まるで結婚式の花嫁にかける言葉を言って、目に涙をにじませた。

「ありがとう、桃ちゃん」
「せいぜい気を付けて歩きなさいよ」

 霞はぶっきらぼうな様子で言う。
 しかしそれが今では霞らしいと本気で思う事ができるのだから、人との関りも時の流れも悪いものではない。

「気を付けます。霞さん。雪をよろしくお願いします」

 明依がそう言って頭を下げると、霞は「別にアンタに言われなくても……」と言って、少し恥ずかしそうに口ごもった。

「雪ちゃん」

 桃にそう促されて、雪がひょこりと足元から出てくる。
 一緒に花魁道中を歩く雪は、可愛らしく着飾っていた。

「明依おねえちゃん」

 雪はそういって、明依の方へと笑顔で手を伸ばす。

 雪の手を握るのはきっと、これが最後。

 明依はまだ小さな雪の手を握った。
 たくさんの人を背に、満月屋の出入り口に立つ。

 満月屋から外に出るのは、これが最後。

 ふいに、宵の笑顔が浮かんだ。
 〝明依〟とあの優しい顔で呼ぶ、宵が。

 今なら胸を張って言える気がする。

 宵の事が大好きだった。
 日奈と旭と同じくらい。

 世界の全てだった。
 例えそれが暮相が作った偶像なのだとしても、あの日々にはたくさんの思い出と、感謝が詰まっている。
 その世界の全てを捨てて、新しい人生を始めようとしている。

 明依はゆっくりと満月屋の中を振り返る。

 もし〝宵〟が生きていたのなら、きっと一番近くで。
 真正面から、この門出を祝ってくれていただろう。

 大好きだった、あの優しい顔で。

「雪」

 明依は気持ちを切り替える様に、ほんの少し声を張った。
 雪は明依の方へと顔を上げる。

「二人で花魁道中を歩くのは、これが最後」

 明依がそう言うと、雪はこくりと頷いた。

「忘れないで」

 それはまるで、自分自身に〝絶対に忘れるな〟と、言い聞かせているような。

「私はあなたの姐さんでいられて、幸せだった」

 雪は大きくうなずく。そして、花が咲いた様に笑った。
 日奈の面影を感じる、温かい笑顔で。

 満月屋の外には、たくさんの人が太陽に照らされて待っていた。

 満月屋からたくさんの人に見送ってもらえるのは、これが最後。
 満月屋の外に出るのは、これが最後。

 大きく一歩を踏み出した。

 太陽の下に、身体を晒す。
 八千代の言う通り、日の光を吸った銀の刺繍が、淡く光っていた。

 大きな歓声は、いつか外側から見た花魁道中を囲むための長蛇の列より。

 裾を引きずって花魁道中をしたのは、終夜に仕組まれていた時の一度きりだが、あまりにもの珍しく、いつの間にか黎明大夫の代名詞とまで言われるようになった裾を引きずるスタイルで、一歩を踏み出そうとする。

「ちょいと」

 ギリギリの精神状態、緊張感を揺らす声に息を呑み、それから振り返った。

「アンタだけの花魁道中だと思ったら大間違いだよ」

 そこには、花魁衣装をしっかりと身に着けた勝山がいた。

「……勝山大夫」
「お前の引退は、吉原解放にとって大きな一歩となる」

 相変わらず顔を布で隠している高尾は、少し前を歩くどこからどう見ても女性にしか見えない梅雨の肩に手を添えている。

「吉原解放の盛大なセレモニーよ。楽しみましょう」

 夕霧は近くでみても欠点一つない容姿をして笑っている。

「明依。私たちも一緒に、連れて行ってくれるかしら」

 吉野はそう言うと、優しい顔で明依に微笑みかけた。

 それぞれが、それぞれの妓楼を。
 それから、吉原を背負って。

 吉原の五人の松ノ位を目にした観衆たちの割れんばかりの歓声が、吉原の街に一斉に響き渡る。