心地よい朝。
暖かい空気が幸せを底上げしているみたいな、気持ちのいい朝だった。
目を閉じていても朝を感じる、日の光。
こんな朝は、久しぶりで。
しかし明依は目を開けるより少し前に、肌で冷たい雰囲気を感じた。
雰囲気、というよりは違和感。
目を開ける前に気が付いた。
終夜はもう、この座敷の中にはいない。
目を開けて、天井を眺めた後、顔を隣に向けた。
やはりそこに、終夜はいない。
想定していたことだ。
あれは〝一晩〟だけの夢だった。
明依は身を起こして、座敷の中を見回した。
座敷の雰囲気は、ちぐはぐだ。
太陽の光が飽和する座敷の中は温かくて明るいのに、冷たい色をしている。
まるで昨日の名残だけがぽつりと残されて、ぶら下げられているみたいに。
ひどく、もの寂しい。
きっとこの座敷の中には、終夜がいた痕跡は何一つとして残されていない。
指紋や頭髪の生態的な証拠はもちろん、呼吸や雰囲気さえ。
本当に昨日の一晩は夢だったのではないかと思う程、なにひとつ。
しかし心の内側が、昨日の夜を覚えている。
終夜に触れた感覚を、鮮明に。
だから今、目に見ている世界は錯覚だ。
座敷がこんなにももの寂しく感じるのは、それなのにぶら下がった温かさがある事も。
自分の心の内側にある例えようのない寂しさが見せる、ただの錯覚。
明依は自分の肩に触れた。
終夜が昨日、座敷に来てくれなかったなら、いつも通りに客を取って黎明の最後を迎えていたら。
今日は一体、どんな気持ちになっていたのだろう。
今の自分は夜をなぞれば、確かに満たされた気持ちになる。
それなのに、どこからかその気持ちが漏れ出ている。
いつか、今は満たされている器は空っぽになる。
その空っぽになった器に、今度は何を入れたらいいのか。
きっとこれが、自分の人生で一番の課題になるのだろう。
その実感が、今の明依には確かにあった。
明依は着替えを済ませると、まず片付けを始めた。
吉原を出る為に自分の座敷と部屋。それから日奈の部屋も片付けなければいけない。
残りの時間を全て片付けに充てる事を覚悟していたが、案外あっさりと終わりそうだった。
吉原で使っていたもので、外の世界で違和感なく利用できるものはそう多くない。
座敷に飾られている頂き物の飾りや、遊女の頃に使っていた身の回りのものは全て質に入れた。
少しずつ整理をしていたのがよかったのか、座敷の片付けは一日で終わった。
それから数日かけて、日奈の部屋を片付ける。
日奈はあまり多くの物を持つのが好きではなかったから、量で言えば明依の部屋の三分の一程。
日奈の物も自分の物同様に必要のないものは質に入れる。
花祭りの時に着たお揃いの綺麗な着物も二つまとめて質に入れると、前々から覚悟をしていた。
日奈の部屋にはいたるところに思い出が散りばめられていた。
日奈は持ち物は少ないが、物持ちがいい。
明依はとっくに忘れていた二人で買ったお揃いで飾りや、一緒に買い物に出た時に日奈が気に入って買ったものまで。
日奈の持っているものには、ほとんど自分との思い出があるのではないかと思うくらい。
どれもこれも、覚えのあるものばかりで。
何度も泣きそうになりながら、そして堪えられなくなって泣きながら、日奈の部屋を片付ける。
この部屋を片付け終える事は、自分の人生の中で大きな一区切りになる確信が、明依にはあった。
しかし、どうしても手放すことが出来ないものが一つ。
それはからくり箱。その中身だった。この中には、日奈がお披露目の花魁道中でつけるはずだった簪が入っている。
明依はこれだけは吉原の外に持って行こうと決めて、からくり箱を自室に移動させた。
自室の片付けも少しずつ進めていたので、大して量はない。
必要のないものは、全て質に入れる。
しかし上質な着物や飾りは、雪の為に少しだけ残しておいた。
大きくなって身に着けても構わないし、金に困れば売ればいい。
ものが無くなった部屋の中は、空気の通りがよくなったからか寂しく感じる。
まだこの場所にいたいと、ほんの少し心が騒ぐから、明依はゆっくりと息を吐いて、これから先の人生に希望でも見るように、窓の外を眺めた。
旭はいつも、あそこから見上げて手を振ってくれたっけ。
日奈と二人で旭を迎えに行って。三人でいつも、一緒にいた。
そこに終夜がいたら、四人で吉原で笑い合える未来があったら、それは何にも代えがたい幸せだったのだろうか。
自然と漏れた笑顔に、悲しみの色がにじんでいる事に、明依は気付いてた。
しかしもう、この場所にはいられない。
新しい世界を自分の目で見ると決めたのだから、この先に行かなければいけない。
明依は押し入れの中から終夜から借りた長羽織を取り出す。
丁寧にたたまれた羽織の上には〝立入許可証〟の文字が書かれた紙。
終夜は本当に、緻密に計画を立てて吉原の抗争に挑んだのだろう。
そして死ぬつもりだった。
だから終夜が生きていること自体が奇跡で。
だけどこの羽織は、吉原の外へは連れていけない。
だから終夜の形のある面影に触れるのは、きっとこれが最後。
大丈夫、大丈夫。
明依はそう言い聞かせて終夜が捨てておいてと言った羽織を、強く抱きしめた。
この気持ちもいつか、強く生きて行こうと思う糧になるはずだ。
「明依」
部屋の外から聞こえた声に、明依は顔を上げた。
「まだ捨てるものはある?」
吉野の手で襖が開く。明依はもう一度終夜の羽織に視線を移して、長羽織と立入許可証と書かれた紙を差し出した。
「これをお願いします」
吉野はその二つを明依の手から受け取った。
明依は自分の手から離れるギリギリまで、指先に意識の全てを向けていた。
「手伝ってもらってすみません」
「私は嬉しいのよ。あなたを送り出せるから」
本来なら天辻は、吉原が解放されたらすぐにでも吉野の身請けをと考えていたらしいが、明依が吉原を出ると決まってから、吉野が明依を送り出したいからそれまで待ってほしいと告げたのだそうだ。
それで天辻はさらに待つことになった。
きっと天辻は何度も何度も身請けを延期されて、自分を恨んでいるだろうと明依は思っていた。
「あなたのお母さまと、お父さまの出会いを聞いたことがある?」
吉野は薄い笑顔を浮かべている。
それからその場に腰を下ろして、明依から受け取った羽織と紙をすぐ隣に置いた。
そして明依を見上げる。まるで、少しお話ししましょうよ、とでも言うように。
それに応えて明依が腰を下ろすと、吉野は柔らかい笑顔を浮かべてふっと息を抜いた。
「実はね。あなたのお父さまは、あなたのお母さん。先代・吉野大夫のファンだったのよ」
「ファン?」
「そう。だけど松ノ位の座敷なんてとてもではないけど一般人に払える金額ではないから、あなたのお父さまはいつも、人知れず姐さんの事を見ていた」
明依は自分の父親の姿を思い出す。
父は母の事が好きだった。
自分よりも母親の事が好きなのだろうと思って、子どもながらに嫉妬していたくらいだ。
「それでね、姐さんは自分の事を熱心に見ている、後にあなたのお父さんになる人に気付くと、こっそり妓楼の中に入れて、〝内緒よ〟って言って、二人きりで食事をする機会を作ったのよ」
聞き覚えのある話に、明依の頭の中には以前、双子の幽霊が言っていた話が浮かんで、繋がった。
『花魁を買う金なんて持っていない青年が、暇さえあれば吉原に来て熱心に自分を見ている事に気付くと、こっそり妓楼の中に入れて自分が金を出して二人きりで食事をさせたなんて噂話もある』
ただ何となく、聞き流していた。
〝最も優れた人格者〟と言われた先代・吉野大夫の面影を話して聞かせる為だけの材料。そのうちの一つとして、何となく。
双子の幽霊が話して聞かせてくれた話は、自分の母親と父親の出会いだったのだ。
「それから気が合った二人は、人目を忍んでこっそりと会っていた。いつも互いの身の上を心配しながら。……子どもながらに素敵だなって思ったの」
吉野は穏やかな顔で、過去に触れている。
「吉野姐さまは、先代が……私の母がその人との子どもだって、どうしてわかるんですか?」
「あなたの目や雰囲気は姐さんに似ている。だけど目の色と唇の形は、あなたのお父さまにそっくり」
「私の見た目だけで、わかるんですか」
「わかるわよ。私は姐さんが。あなたのお母さまの事が大好きだった。……それにね、あなたのお父さまは私の初恋の人なんだから」
驚いて声も出ない明依を見て、吉野は笑う。
「初恋の人の面影を、間違えるはずがないもの」
吉野はそう言うと、人差し指を唇に当てた。
「内緒よ」
そしていたずらな顔をして笑うのだ。
明依はそれに、大きく頷いた。
人とのつながりの深さを、深く感じている。
「幸せになって、明依」
いつか必ず、この道でよかったと思える日が来る。
いやきっと、そんな日を迎えてみせると、肝が据わっていく。
自分を大切だと思ってくれた、全ての人の為に。
暖かい空気が幸せを底上げしているみたいな、気持ちのいい朝だった。
目を閉じていても朝を感じる、日の光。
こんな朝は、久しぶりで。
しかし明依は目を開けるより少し前に、肌で冷たい雰囲気を感じた。
雰囲気、というよりは違和感。
目を開ける前に気が付いた。
終夜はもう、この座敷の中にはいない。
目を開けて、天井を眺めた後、顔を隣に向けた。
やはりそこに、終夜はいない。
想定していたことだ。
あれは〝一晩〟だけの夢だった。
明依は身を起こして、座敷の中を見回した。
座敷の雰囲気は、ちぐはぐだ。
太陽の光が飽和する座敷の中は温かくて明るいのに、冷たい色をしている。
まるで昨日の名残だけがぽつりと残されて、ぶら下げられているみたいに。
ひどく、もの寂しい。
きっとこの座敷の中には、終夜がいた痕跡は何一つとして残されていない。
指紋や頭髪の生態的な証拠はもちろん、呼吸や雰囲気さえ。
本当に昨日の一晩は夢だったのではないかと思う程、なにひとつ。
しかし心の内側が、昨日の夜を覚えている。
終夜に触れた感覚を、鮮明に。
だから今、目に見ている世界は錯覚だ。
座敷がこんなにももの寂しく感じるのは、それなのにぶら下がった温かさがある事も。
自分の心の内側にある例えようのない寂しさが見せる、ただの錯覚。
明依は自分の肩に触れた。
終夜が昨日、座敷に来てくれなかったなら、いつも通りに客を取って黎明の最後を迎えていたら。
今日は一体、どんな気持ちになっていたのだろう。
今の自分は夜をなぞれば、確かに満たされた気持ちになる。
それなのに、どこからかその気持ちが漏れ出ている。
いつか、今は満たされている器は空っぽになる。
その空っぽになった器に、今度は何を入れたらいいのか。
きっとこれが、自分の人生で一番の課題になるのだろう。
その実感が、今の明依には確かにあった。
明依は着替えを済ませると、まず片付けを始めた。
吉原を出る為に自分の座敷と部屋。それから日奈の部屋も片付けなければいけない。
残りの時間を全て片付けに充てる事を覚悟していたが、案外あっさりと終わりそうだった。
吉原で使っていたもので、外の世界で違和感なく利用できるものはそう多くない。
座敷に飾られている頂き物の飾りや、遊女の頃に使っていた身の回りのものは全て質に入れた。
少しずつ整理をしていたのがよかったのか、座敷の片付けは一日で終わった。
それから数日かけて、日奈の部屋を片付ける。
日奈はあまり多くの物を持つのが好きではなかったから、量で言えば明依の部屋の三分の一程。
日奈の物も自分の物同様に必要のないものは質に入れる。
花祭りの時に着たお揃いの綺麗な着物も二つまとめて質に入れると、前々から覚悟をしていた。
日奈の部屋にはいたるところに思い出が散りばめられていた。
日奈は持ち物は少ないが、物持ちがいい。
明依はとっくに忘れていた二人で買ったお揃いで飾りや、一緒に買い物に出た時に日奈が気に入って買ったものまで。
日奈の持っているものには、ほとんど自分との思い出があるのではないかと思うくらい。
どれもこれも、覚えのあるものばかりで。
何度も泣きそうになりながら、そして堪えられなくなって泣きながら、日奈の部屋を片付ける。
この部屋を片付け終える事は、自分の人生の中で大きな一区切りになる確信が、明依にはあった。
しかし、どうしても手放すことが出来ないものが一つ。
それはからくり箱。その中身だった。この中には、日奈がお披露目の花魁道中でつけるはずだった簪が入っている。
明依はこれだけは吉原の外に持って行こうと決めて、からくり箱を自室に移動させた。
自室の片付けも少しずつ進めていたので、大して量はない。
必要のないものは、全て質に入れる。
しかし上質な着物や飾りは、雪の為に少しだけ残しておいた。
大きくなって身に着けても構わないし、金に困れば売ればいい。
ものが無くなった部屋の中は、空気の通りがよくなったからか寂しく感じる。
まだこの場所にいたいと、ほんの少し心が騒ぐから、明依はゆっくりと息を吐いて、これから先の人生に希望でも見るように、窓の外を眺めた。
旭はいつも、あそこから見上げて手を振ってくれたっけ。
日奈と二人で旭を迎えに行って。三人でいつも、一緒にいた。
そこに終夜がいたら、四人で吉原で笑い合える未来があったら、それは何にも代えがたい幸せだったのだろうか。
自然と漏れた笑顔に、悲しみの色がにじんでいる事に、明依は気付いてた。
しかしもう、この場所にはいられない。
新しい世界を自分の目で見ると決めたのだから、この先に行かなければいけない。
明依は押し入れの中から終夜から借りた長羽織を取り出す。
丁寧にたたまれた羽織の上には〝立入許可証〟の文字が書かれた紙。
終夜は本当に、緻密に計画を立てて吉原の抗争に挑んだのだろう。
そして死ぬつもりだった。
だから終夜が生きていること自体が奇跡で。
だけどこの羽織は、吉原の外へは連れていけない。
だから終夜の形のある面影に触れるのは、きっとこれが最後。
大丈夫、大丈夫。
明依はそう言い聞かせて終夜が捨てておいてと言った羽織を、強く抱きしめた。
この気持ちもいつか、強く生きて行こうと思う糧になるはずだ。
「明依」
部屋の外から聞こえた声に、明依は顔を上げた。
「まだ捨てるものはある?」
吉野の手で襖が開く。明依はもう一度終夜の羽織に視線を移して、長羽織と立入許可証と書かれた紙を差し出した。
「これをお願いします」
吉野はその二つを明依の手から受け取った。
明依は自分の手から離れるギリギリまで、指先に意識の全てを向けていた。
「手伝ってもらってすみません」
「私は嬉しいのよ。あなたを送り出せるから」
本来なら天辻は、吉原が解放されたらすぐにでも吉野の身請けをと考えていたらしいが、明依が吉原を出ると決まってから、吉野が明依を送り出したいからそれまで待ってほしいと告げたのだそうだ。
それで天辻はさらに待つことになった。
きっと天辻は何度も何度も身請けを延期されて、自分を恨んでいるだろうと明依は思っていた。
「あなたのお母さまと、お父さまの出会いを聞いたことがある?」
吉野は薄い笑顔を浮かべている。
それからその場に腰を下ろして、明依から受け取った羽織と紙をすぐ隣に置いた。
そして明依を見上げる。まるで、少しお話ししましょうよ、とでも言うように。
それに応えて明依が腰を下ろすと、吉野は柔らかい笑顔を浮かべてふっと息を抜いた。
「実はね。あなたのお父さまは、あなたのお母さん。先代・吉野大夫のファンだったのよ」
「ファン?」
「そう。だけど松ノ位の座敷なんてとてもではないけど一般人に払える金額ではないから、あなたのお父さまはいつも、人知れず姐さんの事を見ていた」
明依は自分の父親の姿を思い出す。
父は母の事が好きだった。
自分よりも母親の事が好きなのだろうと思って、子どもながらに嫉妬していたくらいだ。
「それでね、姐さんは自分の事を熱心に見ている、後にあなたのお父さんになる人に気付くと、こっそり妓楼の中に入れて、〝内緒よ〟って言って、二人きりで食事をする機会を作ったのよ」
聞き覚えのある話に、明依の頭の中には以前、双子の幽霊が言っていた話が浮かんで、繋がった。
『花魁を買う金なんて持っていない青年が、暇さえあれば吉原に来て熱心に自分を見ている事に気付くと、こっそり妓楼の中に入れて自分が金を出して二人きりで食事をさせたなんて噂話もある』
ただ何となく、聞き流していた。
〝最も優れた人格者〟と言われた先代・吉野大夫の面影を話して聞かせる為だけの材料。そのうちの一つとして、何となく。
双子の幽霊が話して聞かせてくれた話は、自分の母親と父親の出会いだったのだ。
「それから気が合った二人は、人目を忍んでこっそりと会っていた。いつも互いの身の上を心配しながら。……子どもながらに素敵だなって思ったの」
吉野は穏やかな顔で、過去に触れている。
「吉野姐さまは、先代が……私の母がその人との子どもだって、どうしてわかるんですか?」
「あなたの目や雰囲気は姐さんに似ている。だけど目の色と唇の形は、あなたのお父さまにそっくり」
「私の見た目だけで、わかるんですか」
「わかるわよ。私は姐さんが。あなたのお母さまの事が大好きだった。……それにね、あなたのお父さまは私の初恋の人なんだから」
驚いて声も出ない明依を見て、吉野は笑う。
「初恋の人の面影を、間違えるはずがないもの」
吉野はそう言うと、人差し指を唇に当てた。
「内緒よ」
そしていたずらな顔をして笑うのだ。
明依はそれに、大きく頷いた。
人とのつながりの深さを、深く感じている。
「幸せになって、明依」
いつか必ず、この道でよかったと思える日が来る。
いやきっと、そんな日を迎えてみせると、肝が据わっていく。
自分を大切だと思ってくれた、全ての人の為に。