満月屋の黎明大夫引退の噂は、当然すぐに吉原中に広まった。

 吉原が外界に向けて公式の発表をした後、もうすぐ見られなくなる黎明大夫を一目見ようと、いつ行われるかも明確ではない花魁道中の為に国内外から多くの人が集まった。

 道中の時には、温かい声援が飛んでくる。
 「ありがとう」とか「幸せになって」とか。

 人との関りは素晴らしいと思うばかりだった。
 苦しい思いが実を結んだ、そんな感覚。

 まだこの悦に浸っていたいという思いと一緒に、引退という一線を引いたからこそ本当のありがたみが分かるのだとも感じる。

 人間の感情は、いつだって明確な所に、混じりけのない最高純度には定まらない。

 当然、松ノ位を引退する事に対していい意見ばかりであるはずはなく。

 松ノ位の在籍期間が過去一番短かったことも後押しして、どうやら外界ではいろいろな噂が立っているらしい。

 とある国の大統領が自分の何番目かの夫人にする為に金を払って松ノ位に昇格させた、だとか、その大統領が自分の国に連れて帰るつもりだから引退になった。とか。

 妊娠説や結婚説。そこから派生する、吉原には実は裏側があるのではないか。という話で外界は盛り上がっているのだという。

 それ以外の純粋な的を得た批判もあった。

 松ノ位に昇格してすぐに引退をするなんて、吉原の歴史を何だと思っているのか。だとか、松ノ位が吉原にもたらす経済効果をわかっていない程勉強不足だから、安易な決断ができる、だとか。

 しかし、そう言った一部ある評価が明依の心に影を落とす事はなかった。

 誰が何と言おうと、この街で自分がやらなければならない事は全て成した。
 旭の夢も、日奈の夢ももう叶ったのだ。
 この街にいる理由はない。

 そして何より。吉原に住む人々は皆、意見を尊重してくれている。

 思い返してみれば、いつも宵の顔色を窺っていた。
 それが宵の意図しての事なのかそうではないのか、今になってはわからないが。

 しかし今の自分は、日奈と旭とそれから宵が世界の全てだと思っていた自分は、別人の様な気がしていた。

 自分がこれほど他者の意見に左右されない日が来るとは思ってもみなかった。
 同時に、振り返った過去で、これほど誰かに深く依存していたとは思いもしなかった。

 だからこそ、区切りをつけるべきなのだ。

 これで正しいという自信が。ここから先は自分の人生だという自覚が、自分の中に、確かにある。

 すぐに身請けの準備をしてくれた藤間のおかげで、もう一週間もたてばこの吉原から〝黎明大夫〟はいなくなる。

 花魁道中も残すところあと一度。
 引退の時に行われる花魁道中だけ。

 その間も仕事をすることを藤間から許可されている。
 藤間は別に愛人として黎明を側に置きたい訳ではないので、異性に向けるいわゆる独占欲というやつは働かないらしい。

 松ノ位を引退する話はもう、終夜の耳には入っただろうか。

 終夜はどう思うのだろう。
 一度は愛してみようと思った女が、自分の傘下から去ることに。

 考えなくてもわかる事だ。
 きっと彼なら、うまく気持ちの整理をつける。

 一人きりでも生きられる。
 夜を越える事ができるんだから。

「黎明大夫、お時間です」

 今日で、今からの座敷で、〝黎明〟の仕事は終わる。
 正式には一週間後に迫った引退式、という名の花魁道中での引退となる。

「今行きます」

 明依は満月屋から主郭を眺めながら言う。

 終夜はきっと、あの建物のどこかにいるのだろう。
 もう終夜は、裏の頭領の居住区に移動したのだろうか。

 もしかするとあの幻想的な部屋の中で、先代の裏の頭領の様に瞑想でも行っているのだろうか。

 それとも、今日で〝黎明〟が仕事納めになることを知っていて、そろそろかと思いを馳せてくれているだろうか。

 どこまでも遠くを見据えられる目を持っていればよかった。
 そうしたらもしかすると一目くらいは、吉原の街を見下ろしている終夜が見られたかもしれないのに。

 少しは傷付いてくれていたら、嬉しい。
 自分が愛さなかった女が、愛すことができなかった女が、もう二度と手の届かない所へ行ってしまう事に。

 でもやっぱり、傷付かないでほしい。

 政略的でもいい。それでもいいから終夜がいつか、身の上を全てわかったうえで受け入れてくれる女性に出会えたら嬉しい。

 ふっとたまに隣で息を抜ける様な。穏やかな女性がいい。

 でもやっぱり、誰とも一緒にならないでほしい。

 終夜は今、何をしているのだろう。

 これから最後の座敷を迎えるというのに、考えるのは終夜の事ばかり。
 そう客観的に考える余裕が頭の中にはある。冷静さを保っているはずなのに、今終夜が何をしているのか想像一つ働かない事が、悲しい気持ちを連れてくる。

 明依は窓辺から視線を外して、ゆっくりと部屋を出る。

 座敷に入る為に部屋を出るのは、これが最後。
 座敷に入る為に廊下を歩くのは、これが最後。
 座敷の前にかしこまって座るのは、これが最後。

「失礼いたします」

 座敷の襖を〝黎明〟として開けるのは、これが最後。
 遊女の黎明として仕事をするのは、これが最後。

 神聖ともいえるくらいに、空気は澄んでいる。
 ツンと鼻の先を刺して存在を示すような、不完全な感情。

 いつか檻の中の様に思ったこの座敷も、監獄の様に感じた満月屋も、地獄と疑わなかった吉原も。
 〝黎明〟というひとりの遊女を好いていてくれていたのなら、遊女としてこれほど嬉しい事はないと、意識の外側で考えている。

 何事にも、終わりはある。
 明依は今、その言葉を明確に感じていた。

 明依は襖を開けて、それから途中で手を止めた。

 障子窓を開け放って外を見ている背中が誰だか、理解できなかったから。

 それから彼だ、と思って。きっと見間違いだと感じて。
 しかし、見間違えるはずがないじゃないかと、心の深い部分がああじゃないこうじゃないと、意見をまとめようとしない。

「遅い」

 そう言うと振り返った彼は、いつもの飄々とした態度で明依を見た。

「裏の頭領待たせるって、死ぬ覚悟できてるの?」

 いつも通りの終夜が、そこにはいた。
 あまりにもいつも通りだから、明依は目に溜まる感動さえ押しやって、息を漏らして笑った。

「なにしてるの?こんなところで」
「たまには一人でふらっと酒でも飲もうと思って、主郭から降りてきただけ」

 妓楼に来て一人ぼっちで酒を飲もうとするヤツがどこにいるの。
 そう言いたい明依の気持ちを察したのか 終夜はふっと笑う。

「でも気が変わったんだ」

 終夜はそう言うと、手招きをした。

「一緒にどう?」

 この気持ちを、どんな言葉で言えばいい。

 吉原を去る前に。つまり、最後の最後に会いに来てくれたことが、嬉しくて。
 終夜と二人だけでゆっくり話ができることが、嬉しくて。
 それなのに、これから必ず来る別れが、悲しい。

 相対する感情が、同じところにある感覚。
 ぼんやりとしているから掴みどころがなくて。

 それでもたった一つだけ、確信している事がある。

 この人生の中で終夜に会うのは、これで最後。

 明依は座敷の中に足を踏み入れた。

 何度も客を取ってきた自分の座敷は、今までにないほど緊張している様子で、固い雰囲気をしている。
 それなのに、障子窓の外側から漏れる暖色の光を、今までにないくらいに吸い込んで受け入れている気がした。

 襖を締め切る慣れた動作でさえ、意識しないと行えないくらいにリズムを乱されている。

 ほのかについた、部屋の明かりに外からの暖色の光が、最後の座敷を悲しい色に染め上げている。

 明依は終夜の隣に腰を下ろした。
 吉原の街の騒がしさが、形にならない音で遠くから聞こえる。

 胸が騒ぐ気持ちを、急く気持ちを、浮つく気持ちを、どんな言葉で語れるだろう。

 後悔だけは、しませんように。
 そう祈ってみてもきっと、後悔してしまうのだ。

 もっとあの時、こんな話をしておけばよかった。
 もっとあの時、こんな風に返事をすればよかった。

「まさか来てくれるなんて、思いもしなかった」

 だからなるべく、自然体の自分で。
 〝黎明〟ではなく〝明依〟のままで。

 それなら前回の座敷でもう〝黎明〟は終わってしまっていたのだ。
 やはり人間はどんな未来を辿っても、ほんの少し、後悔を残してきてしまう。

「どうして、会いに来てくれたの」
「自分が松ノ位に上げた遊女の引退だ。挨拶くらいはしに来るよ」

 明依は薄く笑顔を浮かべると、徳利に手を伸ばした。
 しかし終夜は、ほんの少し持ち上がった徳利を上から手で覆うようにして、明依が徳利を持ち上げる事を優しく阻んだ。

「今日はそういうのはナシ」

 終夜はそう言うと、明依が持っていた徳利をそっと奪った。

「ほら、早く」

 明依が猪口を持つと、終夜はそれに酒を注ぐ。

 それは、全くもって対等だと示している様で。
 例えば、ただの友達のような。

 以前まで何となくあった気まずさは、全くない。

 それどころかきっと今、二人の距離は今までのどんな瞬間よりも近い。
 そんな気がした。

「いただきます」

 明依はそう言うと、終夜の注いでくれた酒を飲み下した。

 いつもの酒の味。
 しかしそれは、どんな一杯よりも、特別な気がして。
 そして途端に、泣きたくなった。

「お疲れ様」

 終夜が余りにも優しい声で言うから。
 胸を張って下した決断が、揺らぎそうになる。

「明依を松ノ位に上げてよかった」

 自分から、この街から離れる決断をした。
 それはつまり、終夜への決別で。

「俺は今、明依のおかげで生きてる」

 二人の人生はこれ以降、ひと時たりとも交わることはない。

「運がよかっただけだよ」

 そう。運がよかっただけだ。

 双子の幽霊が追いかけてきてくれなかったら、終夜は今頃死んでいた。
 雪が施設に来てくれていなければ、自分の無力さを呪っていた。
 吉野と勝山と酒を飲まなければ。勝山が夕霧を紹介してくれなければ、松ノ位に昇格していなかった。
 吉野の世話役にならなければ一切の機会はなかっただろう。
 宵にこの街に招き入れられていなければ、可もなく不可もない人生を送っていたに違いないのだから。

 終夜は一体どんな言葉を言うのか。
 謙遜ととるのだろうか。それとも、本心と取るのだろうか。

「今は運でさえ、科学で証明できる時代だ」

 その言葉はあまりにも。あまりにも、終夜らしくて。

 明依は思わず息を抜いて笑った。

 選ばなかった方の人生は分からないと、よく言う。
 だけどきっとどんな選択肢を取ろうとも、終夜と交わる人生はなかった。

 頭の中で、日奈と旭が笑った。

「ねえ、終夜」

 一夜。

「私ね」

 たった一夜だけでいいから。

「終夜に聞きたいことも話したい事も、たくさんあるの」

 支配される側でもする側でも、遊女でも裏の頭領でもない。
 幼馴染の友達でもない。

 ただの〝友達〟として、話をしてみたい。

 酒を飲み下して、トンと軽い音を立てて台に猪口が置かれた。

「いいよ」

 そういって明依と視線を合わせた。

「今夜だけは、付き合ってあげる」

 終夜は屈託のない笑顔を浮かべている。