「高尾大夫は……!?」
「今、吉野大夫と朝ご飯を食べてる」

 必死の様子で辺りを見回していた梅雨だったが、明依の言葉を聞いて気を抜いた様子で深く息を吐いた。

「……酒くさ」

 そりゃそうだ。上半身全部酒だもん。
 そういうとお前が何かしたのかと疑われるかもしれないので、明依は黙っておいた。

 梅雨はだるそうに腕を後ろについて首をもたげる。
 派手な色の羽織が、片方の肩から滑り落ちた。
 しかし梅雨は気にも留めずに深く息を吐き、片手で頭に触れた。

「あー頭が割れる……」
「飲まされたからね」

 明依があっさりそう言うと、梅雨は座敷の中を見回した。
 相も変わらず、ダメな大人たちがいたるところで雑魚寝を繰り広げている。

「地獄絵図だな」

 梅雨は大座敷の妓楼の様子を端的な言葉で表し、呆れたように呟く。

 どう考えても梅雨は普段節制が出来ている側の人間だ。
 あの酒乱モンスターの魔の手が高尾に及ぶ心配さえなければ、昨日の夜は真っ当に酒を飲んでいたに違いない。

「梅雨ちゃんってさ」
「梅雨ちゃんって言うな」

 梅雨は二日酔いで頭痛がしても、〝梅雨ちゃん〟と呼ばれる事だけは阻止したいらしい。
 しかし明依はもう〝梅雨ちゃん〟以外なんと呼べばいいのかわからず、そして相変わらず変えるつもりもなかった。

「女の人のフリをしていた時と、全然違うね」
「そうか?」

 梅雨は大して興味も無さそうに、頭を抱えたまま明依に返事をする。

 喋らない時は人を近付けない冷たい印象があった。
 今も別にとっつきやすい性格というわけではないが、話しにくいという事もない。

「みんなを起こすの、手伝ってくれない?」
「なんで俺が」

 梅雨は心底めんどくさいと言った様子で吐き捨てた。
 本当に高尾が絡まなければ動きたくないらしい。
 それでもこの大座敷で寝ている人間の中で一番まともなのはやはり梅雨だという確信が明依の中にはあった。

「高尾大夫に言っておくから」
「……なにを?」
「梅雨ちゃんが起こすのを手伝ってくれたんですって」
「梅雨ちゃんって言うな」

 もはや定型文になりそうな〝梅雨ちゃんって言うな〟を聞き流す。

 しかし〝梅雨くん〟はなんだか違う。〝梅雨〟と呼び捨てにするのもなんだか。
 あだ名でなんて呼ぶとブチ切れそうなので、明依はこのまま梅雨が〝梅雨ちゃん〟に慣れるまで言い続ける心づもりでいる。

 梅雨はしばらく考えている様子だったが、すっと立ち上がった。

「絶対に言えよ」
「うん。任せて」

 よかった。これでひとまず倍速で終わる。
 梅雨は高尾を使えば何とかなる、というのがここ最近の一番の学びかもしれない。

 明依はまず、太陽の光を余す事なくこの座敷の中に入れようと障子窓を開け放った。

 元々薄く入っていた太陽の光が、刺すように大座敷を埋め尽くす。
 けたたましい音で起こされるよりも、太陽の光で目が覚めるのは悪い気はしないはずだ。

「おい、起きろ」

 しかし梅雨は明依とは真逆の戦法を取るらしい。

 寝ている人の身体を結構な強さで蹴って起こしていた。
 「あいた!!!」という声が上がる事も気にせず、次々に座敷の中の人たちに手を出していく。

 彼のこんな姿を高尾は知っているのだろうかと一瞬だけよぎったが、高尾の前では清廉潔白です。という仮面をかぶっているに違いないと明依は思った。

「朝だぞ」

 梅雨はそう言いながら、鳴海と時雨が枕にしている丹楓屋の楼主の首元を掴むと、ずるずると引きずった。

「ぐえ」

 カエルがつぶれた様な声を出しながら、鳴海の後頭部と時雨の顔面が畳に落ちる。

 鳴海は起き上がりながら「くっそ、頭いてェ」と言って頭を抱える。
 時雨はその場に小さくうずくまって、「もう二度と酒は飲まねェ」と言っていた。

 〝二度と酒を飲まない〟と言って本当に酒を飲まない人間を明依は知らないので、戯言だと思い放置した。

 明依はてっきり優しく起こすものだと思って手を貸してほしいと言ったのだが、明依が手を下すこともなく乱暴な起こし方をする梅雨のおかげで何もせずに済んだ。

 座敷でつぶれていた人たちはのそのそと起き出して、のそのそと座敷の外に出て行く。

 丹楓屋の楼主は瀕死の状態で座敷から出て行き、鳴海と時雨も「二度寝する」と言い残して去っていった。

 あっという間に、座敷の中は静かになる。
 座敷に満ちる静寂さは、この空間を持て余しているのではと思うくらい、寂しいものだ。

「……乱暴な起こし方」
「起こし方まで指定されてないからな」

 明依のつぶやきに、梅雨は〝俺は悪くない〟という態度を前面に出して言った。

 終夜とはタイプが違うが、我の強さは彼と変わらないのかもしれない。
 二人はなんだかんだと言いながら気が合うのだろうと明依は思っていた。

「昨日結局、終夜は来なかったのか?」

 なんの気もない様子で梅雨に言われて思い出したのは、障子窓の前で酒を飲む勝山と終夜の姿。
 それから、終夜に抱かれたまま移動した夢。

「わからない。私、潰れてたから」
「そうか」

 梅雨の我の強い所は終夜に似ているような気がするが、凛とした雰囲気があって何事にも動じる事の無さそうな雰囲気は、一番側にいる高尾に似ている気がした。

「梅雨、起きているか」
「起きています」

 襖の外から聞こえた高尾の声に、梅雨はそちらを見る事もなく即答する。
 そして襖の方へと歩き出した。

「お待たせして申し訳ありません、高尾大夫」
「気にしなくていい。久しぶりに日和と朝食を食べてきた所だ」
「黎明から聞きました。楽しめたのなら、何よりです。もう帰られますか」
「ああ、帰るとしよう。梅雨、腹は減っていないか」
「はい。俺は大丈夫です」

 梅雨と高尾の間には緩やかな雰囲気が流れていて。
 互いにある程度の遠慮と配慮を持って接している。その関係が、凄く素敵だと思った。

「あれだけたくさん倒れていたのに、もう全員帰ったのか」
「本当ね」

 吉野と高尾が話しをしているさなか、梅雨が小さな声で言う。

「おい」

 この状況で自分以外に話し相手はいないはずだが、こんなこそこそと話す内容などないはずなので、明依は自分の事ではないのだろうとほとんど無意識で結論付けて、聞き流していた。

「おい、黎明」
「え、私?」

 明依は戸惑いながら、小声で話す梅雨に少しだけ耳を寄せた。

「忘れてるんじゃないだろうな」
「……何を?」
「約束!」

 梅雨は精一杯に声を潜めて、しかし精一杯の強い感情をこめて一言を言う。
 そして明依は先ほどの部屋の人を起こしたら高尾に言うという約束を思い出した。

「あー」

 明依は間延びした声で言う。
 完全に忘れていた。それをわかっている梅雨から冷たい視線が降ってくる気がするが、明依は気付かないふりを決め込んで高尾を見た。

「高尾大夫」
「どうした」
「この座敷で寝ていた人たちを起こしてくれたのは、梅雨ちゃんなんですよ」
「そうなのか、梅雨」

 高尾の言葉に梅雨はキリっとした顔で「はい」と答えた。

「凄く助かりました」
「黎明が困っていたので。当然です」

 キリっとした顔に薄い笑顔を張り付ける梅雨は、どこからどう見ても好青年だった。

 もはや詐欺だ。
 明依は貼り付けた笑顔の裏側で、物凄く乱暴な起こし方をしていたことを思い出したが、そんなことを言おうものなら、命がないような気がしたので黙っておいた。

 明依は玄関口まで見送る為に移動する吉野と、高尾と梅雨の背中を見送る。

 広い座敷の中に遊女たちが掃除をするために入っていく。
 散々待たされたにも関わらず、遊女たちは昨日と変わらずに楽し気な様子で。

 明依はそれを横目に、吉原の解放を機に自分の人生が大きく変わる予感を感じていた。

 きっと今自分は、人生の分岐点にいるのだと明依は確信していた。



「黎明さん! お久しぶりです!」

 凪にそう言われて、明依は満月屋から出ようとしていた足を止めた。

「凪。久しぶり」
「お休みの間、吉原の街はどうでした!?」

 凪は相変わらずのオタクっぷりを発揮していて、興味津々と言った様子で明依に問いかける。

「大きな重機が吉原に入ってきて、なんか変な感じだったよ」

 そう言うと凪は一層目を輝かせた。

「もっと話を聞きたいけど……お出かけですね」
「そう。またそのうち、ゆっくりね」

 明依がそう言うと、凪は嬉しそうに笑って手を振って見送ってくれた。

 吉原は以前と同じ様に、観光客が騒がしい街になった。

 吉原の解放は叶った。
 誰もが吉原を自由に出入りできるようになった。
 運営の難しい事はよく分からない。しかし、自分が売られた分の借金を払っている事が確認できていて、かつ吉原を出る事を希望している遊女たちを少しずつ慣らしている所らしい。

 遊女をやめて吉原に残る人の為の整備も行われた。
 修繕工事を経て、吉原の外の人たちに手習いを教える場所が増え、その場所に遊女をやめた人たちが職員として勤務している。

 明依も、主郭から任されていた仕事が終わってほっとしている所だった。

 やっと解き放たれた感覚。
 それは達成感を連れてきて、もうこの街でやり残したことはほとんどない事に気が付く。
 糸が緩んだ感覚、ともいうのかもしれない。

 松ノ位がいなければ雪は妓楼にいられないというルールは、気付けば撤廃されていた。
 誰も何も言わないが、おそらく終夜がなかったことにしたのだ。

 だからこそもう、この街でやり残したことはほとんどない。

 明依は観光客が騒がしくなった吉原の街を歩きながら、今日の座敷までの時間を過ごそうとある場所へと移動した。

 〝雛菊保育園〟

 立派な門をくぐり、門の期待を裏切らない立派な建物の入り口にはそう書かれた看板が立っている。

「野分さん」

 明依は建物の中に入ると、野分は子どもを片手に抱きながら手を振った。

「本当にてんてこ舞いだよ。施設の時と何にも変わりゃしないけどね」

 そういう野分の横には、空と海もいる。
 二人ともいつも通りの無表情で、子どもの相手をしている。

 吉原解放に伴い、〝施設〟という場所は解体された。
 その代わりに〝保育園〟と名前を変えて、子どもたちがいる。

 保育園の制度は、明依が個人的に推し進めていたことだ。

 近い将来この場所は、遊女たちが吉原で安心して働く為に夜間も子どもを預かる場所になる。

 保育園の中を見渡した。

 『不安だからってそのまま嫌々吉原で働く事を選ぶ人も、出戻りで遣り手の仕事をする人もいると思うんだ。それならいっそ、この場所で安心して働ける材料の一つとして、夜間も預かってくれる保育園を作ったらどうかな、って思っているんだ』

 これが日奈の夢だ。

 この保育園の中では、コップも哺乳瓶もプラスチックを利用している。
 粉ミルクもあるし、紙おむつを使う。

 吉原の街がこだわる〝昔〟とは違う。
 おもちゃも音の鳴って子どもが楽しめるものをたくさん準備した。

 子どもが吉原の外に出ておびえる事がないように、不足なく現代の技術をそのまま利用できるようにしっかりと主郭に許可を取ってある。

 一人の女の子が、プラスチックのコップに入っている飲み物をこぼした。
 明依は泣きそうになる女の子の側に歩いて行く。

「泣かなくていいよ」

 『泣かなくていいの』
 頭の中で、母親の面影が言う。

「こぼした時は、ここに置いてある雑巾で、こうやって拭けばいいから」

 『こぼした時は、ここに置いてある雑巾で、こうやって拭けばいいの』

「ほら! 元通り」

 『ほら、元通りになった』

 そう言うと女の子は嬉しそうな顔をして笑う。

 その顔が過去の自分と重なる。
 子どもは抑えつけるだけでは成長しない。
 自分の失敗を、次からの成功に生かすことを教えなければいけない。

 やはり、母親は偉大だったのだと、この保育園で子どもと関わり始めて強く思う。

 〝死んだ人間はあなたの中で生き続ける〟
 それは、単なる気休めだと、まだ心のどこかでは思っていた。

 しかし明依は今、その言葉はこういう事を指すのだろうという確信がある。

 母親と父親から教えてもらった事。例えばこぼした時の拭き方とか。言われて希望を持つことが出来た言い方とか。
 一緒にした〝経験〟を、今度は自分が、他の子どもたちに教えてあげる。活用をする事。

 それが〝死んだ人間はあなたの中で生き続ける〟という事なのだ。

 明依は野分に「仕事があるのでそろそろ帰りますね」と声をかけて、満月屋に戻る。

 宵のいない満月屋の雰囲気は、以前とは少し違う。
 少し緩んでいて、それなのに寂しそうな。

 この満月屋は、宵の事が好きだったのかもしれない。
 今も、それから昔も。

 少し非現実的なことを考えながら、明依は今夜来る藤間の為に手早く準備を進めた。
 自分の中で、気持ちを固めながら。

 明依は綺麗に着飾ってから、藤間の待っている座敷の襖を開けた。

「久しぶりだね、黎明」
「お久しぶりです。藤間さま」

 明依はそう言うと藤間の側に座る。

 それから酒を飲みながら、ゆっくりとした時間を過ごす。
 いつもに増して穏やか。同時に、張り詰めた様な緊張感も少なからずあった。

「何か言いたげな顔をしているね」

 言ってごらん、とでも言いたげな藤間の様子に明依はふっと息を抜く。
 必死に隠しても、藤間にはお見通しだったらしい。

「お願いがあります」
「どんなお願いだろう。想像もできないね。随分と会っていなかったから」

 藤間はいつも通りの穏やかな様子でそう言った。
 しかし明依は、自分が今思っている言葉を伝えた後の藤間の様子が、全く想像できなかった。

「私を、身請けてはいただけないでしょうか」
 
 藤間は猪口を口に運ぶ手を止める。それから、膝の上に戻した。

「どういう理由だろう」
「吉原の外の世界が見てみたいです」
「それから?」
「私に掛かるお金を全て、雛菊保育園に寄付したい」
「なるほど」

 藤間は柔らかい笑顔を浮かべると、今度こそ猪口を口に運んだ。

「お金の行く先が保育園とは、実に君らしい」

 酒を飲み下した後、藤間はトンと軽い音を立てて猪口を台に置いた。

「早速、手続きをしようか」

 藤間はあっさりという。

 明依は肩の力を抜いた。

 もう後戻りはできない。これでよかったのだと思う達成感。
 そして、満足感。同時に生まれる解放感。

 いろんな感情が心の内側を巡った後、終夜の顔が浮かんだ。