斜め下の角度から終夜の顔を見ていたが、しばらくして視界が安定していないことに気が付いた。

「うごいてる……。天井が」

 ぼんやりとした視界の中で、終夜越しに見える天井が動いていた。

 頭を少し持ち上げて、終夜越しに見える天井を思考停止のまま眺めてみる。規則的に歩く終夜に合わせて、移動しているみたいだと思った。

 規則的な揺れ。聞こえない足音。足音が聞こえないのは、いつもの事。

 終夜にどこかに連れていかれる夢。
 いや、どんな夢だ。

 女が自分の腕の中で目を覚ましても無反応を貫くらしい。一切口を開かない。

 この男、夢の中でも不愛想だな。
 夢の中でくらい愛想よく笑って、愛情表現くらいしたらどうなんだ。

 そう思うとだんだん腹が立って来て、終夜の着物の胸元を握った。その手にはなぜか終夜から貰った白い水風船の簪がにぎられていたが、夢の中なんてこんなもんだと大して気にもしなかった。
 終夜の着物を握った手を、少し動かしてみた。
 終夜はやはり反応しない。

 思いきり引っ張ってみるが、やはり終夜はびくともしなければ、何の返事もしない。
 そして天井だけが動いている。

「おーい。しゅうやー。どこにいくの?」

 終夜はやはり答えない。
 この動作を永遠と繰り返すコンピューターなのだろうか。

 いくら会いたかった終夜とはいえ、夢の中で会いに来てくれたとはいえ、この動作を永遠に繰り返されるのは鬱になりそうだったので、明依は終夜の着物を力任せに引っ張り続けた。

「私、おとされたりしないよね?窓辺とかから、ぽーいって」

 まさかね、という冗談交じりの言葉だったが、終夜の無表情を見ていると、いやこの男ならやるぞ、という終夜に対する圧倒的経験値が明依の中でモノを言った。

 ひとしきり暴れたりしてみるが、さすが夢の中。
 身体はちゃんとまともに動かないし、終夜はびくともしない。
 そして終夜は返事もしない。

「もういいもん」

 夢なんてどうせいつかは醒めるんだから。

「おとせばいいじゃん」

 自分でも何を言っているのか、よく分からない。
 夢なんてどうせ、こんなものだ。

 そう考えて、明依は夢の中の終夜の首に腕を絡めて引き寄せた。

「道連れだから」

 渾身の力を振り絞ってそういうものの、気持ちはたった一色。こうなったら堪能してやる。という気持ちただ、それだけ。

 不規則な揺れ。規則的な音。

 明依は終夜の首に顔を寄せてすり寄り、つかの間の幸せと、底なしの心地よさに埋もれる。





 鳥の鳴く声で意識が浮上し、太陽の光が目に飛び込んでくる不快感でとっさに目を覆った事で、目を覚ました。

 太陽光から身を守った体勢で、ゆっくりと息を吐く。
 身体は気だるい。しかし、気分は悪い訳ではなかった。

 目を開けると、いつも通りの見慣れた自室。
 昨日は何をしていたんだっけ。

 この感覚は酒を飲んだ次の日の感覚だ。
 座敷で酒を飲んだなら、どうして座敷ではなく自室にいるのだろう。

 誰かと酒でも飲んだんだっけ。日奈とか、旭とか。
 そう考えると、胸の内側に起こる鈍痛が、〝ありえない〟とがなる。

 そんなわけないか。
 日奈と旭は死んだんだから。

 自分がよほど寝ぼけていると気づいた明依は、早く目を覚まそうと身を起こした。

 そこで初めて手に何かを握っている事に気付き、視線を向ける。

 終夜から貰った、白い水風船の簪。

 ああ、思い出した。
 昨日は宴会だ。そうだ。地獄のあの宴会だ。

 そこまで思い出して、明依は完全に夢の中から抜けだした。

 それは昼の太陽に甘えた微睡から、大きな音で現実に引き戻された様な。
 あるいは、乳白色の心地よく濁った世界から、原色を品性のかけらもなくぶちまけた世界に無理矢理放り込まれた様な。

 いつ自室に戻ったのだろう。
 考えても、自分の足で自室に戻った覚えはなかった。
 だが、酔っぱらいの記憶ほどあてにならないものはないという事もよく知っていた。

 最後の記憶をたどってみようと思い立つ。
 簪を外したのはいつだったか。だめだ、よく思い出せない。

 そういえば昨日は、終夜と勝山が二人で酒を飲んでいる夢を見た。
 妙にリアルな夢だったが、あれは本当に夢だったのだろうか。

 ああ、そうだ。その後確か、終夜が自分を抱えてにどこかに連れていく夢を見て。

 そこまで考えて思った。
 あれは夢ではなかったのではないか。

 それなら、終夜と勝山が一緒に酒を飲んでいたのは、夢ではなかった。
 もしそうなら、嬉しい事で。その後、終夜はわざわざ、座敷から部屋まで運んでくれたのだろうか。

 その事実がほんの少し気持ちを明るくしたが、明依はすぐに立ち上がって身支度に取り掛かった。

 不必要な感情だ。
 これから先の人生で、何の為にもならない。
 身を委ねれば委ねる程辛くなる、そんな感情。

 昨日宴会があった座敷の事に意識を向けた。

 昨日は記憶のある限りでは地獄絵図が広がっていたが、それが酔った脳内が勝手に作り出した幻でないのなら、満月屋の遊女たちは片付け一つできずに困っているはずだ。

 身支度をしながら何となく、本当に、何となく。
 もう終夜に会う事はないのかもしれないと思った。

 考えない様にしようと思うのに、考える事がやめられない。

 またいつもの考えすぎかもしれない。
 これが最後かな、といつものように、心でただ思っているだけなのかもしれない。

 しかし、夢だと思っていた終夜の感覚も匂いも、何一つよく覚えていない。
 このまま〝他人〟になってしまうのだろうか。

 明依は息を吐いて気を紛らわすと、部屋を出て階段を降りた。

 昨日宴会が行われていた大座敷は、まばらに人が出入りしていた。
 大座敷の中をのぞく桃は、明依の存在に気付いて小さく手を振った。

「おはよう、明依ちゃん」
「桃ちゃん、おはよう」
「明依ちゃんは部屋で寝てたんだね」
「うん……そうみたい」

 昨日の終夜の〝夢〟を思い出しながら、明依は曖昧にそういう。
 桃は困った顔をしてまた座敷を覗いた。

「どうしようかなって思って……」

 そうだろうと思った、と思いながら明依が座敷を覗くと、そこにはまだ昨日の酒が残っていて起きられない人たちが座敷の中で大勢雑魚寝をしていた。

 横たわる丹楓屋の楼主に、彼に重なる様にして捨てられている鳴海と時雨。

 うつ伏せで倒れている梅雨に、起きて頭を抱えている炎天と清澄。

 想像以上の地獄絵図の有様に、明依は苦笑いを浮かべた。

「おはよう、明依」

 朝鳥の鳴く様な涼し気な声に視線を移すと、そこには吉野と高尾がいた。

「おはようございます」

 二人は昨日の宴会なんてなかったかの様にいつも通りの様子で立っている。

 そりゃそうだ。真っ当な大人はこういう飲み方をするのだ。
 この二人のいつもの変わらない様子を、今座敷の中にいる全員を叩き起こして見せつけてやりたいと思った。

「昨日は随分と飲まされたみたいだが、具合は悪くないか」
「はい。不思議なくらい」
「終夜の袖の梅のおかげかもしれないな」

 本当に高尾の言う通りかもしれない。

 終夜はこうなる事が分かっていて、袖の梅を。と終夜のバロメーターが〝いい人〟という所まで傾きかけて、一定を超えると動かなくなる。
 いや、あの男の場合はどう考えても嫌がらせ一択だろう、と経験値がそういうから、結局元の位置に収まった。

「おはよう」

 その声に視線を移すと、夕霧がいつも通り完璧な容姿で歩いてくる。
 夕霧が今しがた出てきた座敷から、顔が整った男が出てくる。

 他所の妓楼に来てイケメンを捕まえて火遊びをする。
 その火遊びの相手は晴朗ではない。

 という所が完全に〝夕霧〟の解釈一致。
 驚きもしなければ、ドンピシャすぎて何も言う気になれなかった。

 夕霧の後ろから、勝山は大きなあくびをして顔をしかめながら歩いてきた。

「ちょいと飲み過ぎたかね」

 勝山の口からまさか〝飲み過ぎた〟という言葉が出るとは思ってなかったが、一般人の〝飲み過ぎた〟とはレベルが違い過ぎる。
 さすが酒乱モンスターだと思った。

「あの、勝山大夫……」

 昨日の夢の話を確認しようと思った明依だったが、口をつぐんだ。

「なんだい」
「いや、何でもありません。大丈夫かなーって」
「これが大丈夫に見えるのかい」

 もし昨日の終夜と勝山が二人で酒を飲んでいたのが本当に夢だったら、なんだか自分だけがいい思いをしたような気がして。
 勝山を落胆させる結果になるかもしれないと思ったから。

 勝山は意図的に顔をしかめて、明依の額にデコピンをした。

「いったー!!何するんですか!?」
「なんか腹が立った」

 勝山ははっきりした口調で言うと、明依の隣を通り過ぎた。

「邪魔したね」

 盗み見た勝山は薄い笑顔を浮かべていて、その表情が綺麗だと思った。
 見惚れている一瞬の間に、勝山は背を向けて去っていく。

「私もそろそろお暇するわ。お邪魔様」

 夕霧はあっさりとした様子で歩きだす。

「楽しかったわ」

 そしてさらりとした言葉をぽつりと残していく。

 夕霧は嘘を言ったり、不必要に相手の気持ちのいい事を言う人ではない。
 夕霧がどういう人なのかわかっているから、その言葉が嬉しくて。明依は思わず笑顔になる。

「梅雨ちゃんが寝ている間、一緒に朝食はどう?」

 吉野の問いかけに、視覚から情報が得られれないはずの高尾の雰囲気が、少し明るくなった様に感じた。

「そうしよう。一緒に朝食をとるのは何年ぶりだろうな」
「本当ね、懐かしいわ。あなたも一緒にどうかしら?明依」

 二人が仲良く話をしている所を見ると、嬉しくて。
 しかし日奈と自分の関係が思い起こされて、ほんの少し悲しくもなった。

「私はまだお腹が空いていないので」
「遠慮しなくていい。一緒に食べよう」

 それは高尾らしい言葉だ。しかし、昨日の酒のおかげで全く食欲がわかない明依は、もう一度断りを伝えてから二人を見送る。

「あー、頭が痛い」
「何で勝山ちゃんはあんなに酒が強いんだい」
「俺に聞かれても知らん」

 炎天と清澄は話をしながら瀕死の状態で座敷を出て行った。

 片付けが進められないから、そろそろ座敷の中の人を起こさないと。
 そう思って明依が大座敷に入ると、ほとんど先ほどと変わらない光景が広がっている。

 丹楓屋の楼主と鳴海と時雨は重なって眠っていて、どこから手を付けていいのかわからなかったため、明依は手初めに梅雨の元へと移動した。

 なぜか梅雨は髪も上半身も濡れていて、明依が持参した桶に片手を突っ込んでうつ伏せで眠っている。
 そういえば生き抜くと約束したなと思い出したところで、梅雨から強烈な酒の匂いがする。

 濡れているのは全部酒か。桶の中の酒を顔をつっこんで飲もうとでもしたのだろうか。
 どんな酔い方をしたらこうなるんだと思いながら、明依は彼の身体をゆすった。

「梅雨ちゃん、起きて」

 梅雨の事をよく知っている訳ではないが、梅雨なら、起きてからこの惨劇を見て協力してくれる気がした。
 というか、二日酔いでもポンコツになっていない可能性が高い気がする。

 梅雨は「んー」とも「うー」とも聞こえる濁った声を出しながら一瞬顔をしかめて、それからまたすやすやと眠りに落ちて行った。

 どうしたものかと思った明依だったが、彼の弱点、というか執着を思い出した。

「梅雨ちゃん、高尾大夫が待ってるよ」

 そう言うと梅雨は光のスピードで目を開けて身を起こした。