夜には化け物が住んでいる。

 夜は人を、おかしくする。

 明依は見慣れた暖色に燃えている吉原の街を、自室から見下ろしていた。

 聞こえてくる楽しそうな笑い声は変わらないのに、観光客が騒がす様子とはまた違った雰囲気を持っていた。 

 吉原を解放する。
 それは旭と日奈が望んだ、吉原の結末だ。

 二人が描いた吉原の予想図に、〝明依〟はいない。
 なぜなら二人が描いた予想図にいる〝明依〟は、吉原の外にいるから。

『こんな地獄の檻の中じゃなくて、いつか吉原が変わった先で幸せになってほしいって思うのは、当然だろ』

『今度は明依と二人でここでの事をいろいろ思い出したい。そんな事もあったね、って何年先も何十年先も、笑っていたいの。だから明依と吉原を出て、今までを忘れる位いろんな所に行くの』

 吉原を解放してしまえば、遊女たちが自由になれば、この街でやり残したことは何もない。

 終夜は裏の頭領として、吉原の街に沈む。
 たった一人で、深い所に。

 しかし終夜は、旭と日奈の思いを受け継いでいる。
 彼の予想図でも、〝明依〟は吉原の外にいる以外、ありえないのだ。

『どうやら俺達も、生まれた星が違うらしい』

 夏祭りの時、一緒に来るかという終夜の言葉に返答できなかったとき、彼はそう言った。

 探せば探すほど、一緒になる理由が見つからない。
 吉原が自由になれば、話す理由すら失われる。

 これほど〝生まれた星が違う〟という言葉が似あう関係が、他にあるだろうか。

 節目にはいつも、終夜の言葉を思い出す。
 いつの間にこんなに深く、心の中に根を張っていたのだろう。

『自由って言うのは、選択肢が限りないって事。優柔不断な人間にとってそれは不幸な事なんだよ』

 縛られていた方が、人生は楽なのかもしれない。

 武器もフィールドも決まっているのだから、選択肢が狭まる。
 決められた中で、自分の得意を見つけて戦えばいい。

 年季が明けて吉原の外に出ても、すぐに吉原に戻ってくる遊女の気持ちが理解できる。
 やはり、吉原を解放した後に戻ってくる人がいる事を考えて改革を進めなければ。

 働いていた方が気がまぎれるのは、宵が生きていた時から変わらない。
 日奈が死んで、働きづめになっていた時と状況は似ている。

 あの時は無理をし過ぎていたと今になって思うが、当時は気が付かなかった。
 宵に止められなければ本当に体を壊していたかもしれない。

 宵の優しさだと、信じて疑わなかった。

 また、大切な思い出に綻びが生じる。
 大切にされていたと思っていた宵の行動は、計算だったのかもしれないと、心が言う。

 夜には化け物が住んでいる。

 夜は人をおかしくする。

 おかしくされてしまったから、考えてもどうしようもない事を、考える気になってしまうのだと思う。

 もし、もしも。
 〝宵〟が生きていたとして。

 暮相という存在を隠したまま、何も知らないまま、宵が生きて満月屋にいたとしたら。

 宵が頭領になっていたとしたら。

 幸せに暮らしていたのだろうと思う。

 この仕事から足を洗って、宵と身を固める。
 満月屋の仕事を少しずつ教えてもらいながら、この妓楼の中で暮らしているのだろうか。

 いやきっと、主郭の中で暮らしていただろう。

 夫婦には付き物の揉め事は、ほとんど起こらなかったかもしれない。

 夢なのではないかと思うくらいの幸せに浸りながら、大切にされている事を実感()()()()()

 つまり宵はきっと、上手に騙してくれた。
 どれだけ汚い事をしていても、一切を見せないように細心の注意を払ってくれたはずだ。

 だから決められた空間の中で、決められたことをして。決められたみたいに愛されていれば。

 少なくとも、苦しむことはなかっただろう。

 今いる〝未来〟が最善だったのだと分かっている。

 偽りのベールははがれて、吉原の街は真実だけを持って解放に向かっている。

 この未来が最適だった。

 理解している。
 だから〝宵〟が生きていたらなんて、心の奥底にある妄想に過ぎない。

 夜の化け物に呑まれただけの、誰にも言えない、考えるだけでも罪を問われるほど、血迷った妄想とも呼べない、愚考。

 十六夜は暮相を心の底から愛していた。

『私ね。宵さまって、思っているより強い人間じゃないと思うの』

『きっとたくさんの重圧に負けない様に、自分を騙して立派であろうとしている。きっと彼にも気を抜きたいときがたまにはあって、誰かと寄り添いたい時があるんだと思う。人間って、そういうものでしょう。私にその役割は、できなかったから』

『幸せになって』

 同じ言葉を、同じ状況で、言えるだろうか。
 例えば終夜に、〝日奈と旭を殺した人間を追い詰める為に協力してほしい〟と言われて、終夜が他の女性と一緒になろうとしているとして。

 その時自分は、十六夜と同じ言葉を、何も知らずに終夜と一緒になろうとしている女性にかける事ができるだろうか。

 明依には、その自信がなかった。

 途中までは宵と十六夜の思い通りだった。
 自分はただ、敷かれた道を歩いただけだ。宵と身体を重ねかけたことも、宵と一緒になろうとしたことも。

 しかし今となって思えば、二人の邪魔をしていたことには違いない。

 旭も、日奈も、両親をも殺した相手に馬鹿げていると、昼間なら思えるのに。

 強くなったはずだ。
 松ノ位に、認めてもらったんだから。

 その〝松ノ位〟達も、大切な人を失って、いろいろな思いを抱えて、それでも前を向いているはずだ。
 友と呼んだ暮相が死んだ高尾も、吉野も。
 十六夜が死んだ勝山も。
 
 誰もが態度に出さないだけ。

 だから自分も態度に出すつもりはなかった。

 心の中で、ひとり思う。

 ひとりの夜が怖い。
 ひとりで夜を、越えられない。

 朝は後どれくらいで来るのか、見当もつかない。

 明けない夜はないというけれど、この気持ちに夜明けは見えそうになかった。





 次の日。

 今日行われる宴会の為に、朝から満月屋は誰もが忙しく動き回っていた。
 忙しい雰囲気が、妓楼の中の空気を変える。

 以前、主郭の重役たちを集めた宴席とは全く違う雰囲気だった。
 忙しい中でも、誰もが楽しそうに笑っていて、宴席の準備を進めている。

 宴会で使われる大座敷は、綺麗に掃除されていた。

 宴会自体は清澄が設けたものだが、行われる会場の満月屋側の人間として、人を招く立場あることには違いない。

 遊女として座敷に上がるわけではないので気を張る必要はないのだが、身なりはある程度しっかりと整えた。

 誰よりも先に整え終えた大座敷に足を踏み入れる。
 もしかすると、この座敷に足を踏み入れるのはこれが最後かもしれない。

 部屋の中には〝空気〟がある。
 座敷のそれは、ピンと張っている。

 同時に、これから来る客たちを楽しみに待っているようにも思えた。
 吉原の重役たちを招いた時よりも、随分と緩やかな感じで。

 襖が開いて振り返ると、そこには吉野がいた。

「やっぱりここにいた」

 吉野の穏やかな笑顔が心に染みて、温かい気持ちになるのはいつもの事だ。

「吉原の解放ももうすぐですね」
「夢みたいね。こんな日が来るなんて」

 明依は、大座敷の中を見回しながら嬉しそうな声で言う吉野の横顔を盗み見た。

 誰もが、本当の気持ちを心の内側にしまって生きている。
 吉野なら、宵が連行された時に慣れない運営作業を引き受けた時もそうだろう。

 どんな人間も、みんなそう。

『胸をはっていなさい』

 頭の中で吉野が言う。
 これから来る未来の漠然とした不安を隠して、明依は胸を張った。

「どうぞこちらに」

 襖が開き、案内されて来たのは清澄だった。

「あれ、一番乗りだと思ったんだけどね」
「お出迎えさせてくださいな」

 清澄の言葉に、吉野はいつも通りの穏やかな口調で言った。

 清澄が座敷の中に入って振り返る。
 視線を移すと、そこには両手に花の時雨がいた。

 天性の女好きは、移動時間さえ女性のためにあるらしい。

 時雨は入口のギリギリまで満月屋の女の子を引き連れて、それから肩に回していた手をはなした。
 肩を抱いていた女の子たちが見えなくなるまで見送った時雨は、座敷に足を踏み入れて、明依と吉野の方へと視線を向ける。

「松ノ位が二人も出迎えてくれるなんて。今日は最高にいい日だな」

 嘘偽りのない本心を言っているのだろうが、明依と清澄は当然、呆れ笑いを浮かべる。
 吉野は「喜んでくれてよかった」と嫌味のない言葉で言った。

 終夜が裏の頭領になった事で、時雨は頭領になることを免れた。
 しかし、籍こそ小春屋にあるものの、おそらく今ほとんどの時間を主郭で過ごしている。

 情報屋の竹下と話をして、外部に吉原解放の話が漏れない様に厳重に対処している所だ。

 多忙を極める中でも女性に対してあの対応。
 本当に時雨はこの吉原に来るべくして来た人間に違いない。

 そして、清澄は明依と共にいくつかの仕事を行っている。
 清澄も多忙ではあるだろうが、うまく逃げる、人に頼る、というスキルに長けているので、そんなに困ってはいない様子だ。

「清澄。まーたアンタは適当な書類を出して」

 そう言いながら現れたのは野分だった。
 清澄は明らかにゲッ、という顔をしてそれから困り笑いを浮かべた。

「いや、すみません。書類周りは苦手なもので……」

 極まりが悪そうに笑顔を作って誤魔化す清澄に、野分は腰に手を当ててフンと息を吐いた。

「それにしても、雪は立派になったねェ」

 ここに来る途中で、座敷の準備をする雪を見たのだろうか。
 野分は先ほどとは打って変わって穏やかな表情を見せる。

 雪は何に対しても前向きで、飲み込みが早い。
 天性のものもあるのだろうが、おそらくほとんどは日奈のおかげだ。

 雪いわく、日奈に『わからない事は素直にわからないと言う』『〝できない〟という言葉を口にするのは、まず自分で試してみてから』と約束をしたのだという。

 それを雪は今も、誠実に守っている。
 だから成長しようとする雪に、満月屋の遊女たちは誰もが手を貸していた。

 すすり泣く声が聞こえて視線を移してみると、野分が袖で目頭を押さえていた。

「私は嬉しいんだよ……。ずっと雪はアンタを待っていたから……」

 野分が子どもの事で感極まって泣くのはいつもの事だが、雪の事を考えると涙が出そうになる。

 こんなところで泣くわけにはいかない。
 まだお客さんはたくさん来るんだから。

 そう思って明依は唇を噛みしめて涙を堪えた。

「雪の将来が楽しみだな」
「アンタみたいなのだけには引っかからない様にって、厳しく言っておかないと」

 しみじみと言う時雨だったが野分は間髪入れずに釘を刺す様にそう言って座敷の奥へと歩いて行った。

「……俺、いい事言ったよな?」
「言葉って凄いね。人によってこんなにも捉え方が違うんだもん」

 時雨は確認するように明依に問いかけるが、冷たい明依の反応に、ため息をついた。

 清澄と時雨が席についた後も、明依と吉野は入り口で挨拶をしながら、座敷の中に入る人たちを迎え入れた。

「満月屋は何も変わらないな」

 梅雨は先に座敷の中に入り、次に高尾が中に入る。

 中性的な顔立ちは相変わらずだが、梅雨に遊女の面影はまるでない。

 男物の着物を、当然の様に着こなしている。そして羽織は、女物の派手な色をしていた。

 高尾の後ろには鳴海と、それから彼の部下と思われる人たちが数人いた。

「よっ、黎明大夫」

 鳴海は明依を見た。
 サングラス越しに意外と優しそうな鳴海の目が見える。
 まあ全体的に見た雰囲気は優しそうな様子はかけらもないのだが。

「終夜は来るのか?」
「こないって言ってました」
「だよなー。……ま、でも、終夜は生きてる」

 鳴海はそう言うと、容姿に似合わないくらい優しい表情で笑った。

「ありがとうな。本当に」

 思わず胸が鳴りそうなくらい、優しい顔で。
 そして鳴海の大きな手が頭の上に振ってくる。

「アンタがいたから、終夜は生きてるんだ」

 胸の中にある明らかな安心感は、まるで時雨の側にいる時に似ていると思った。

「大袈裟ですよ」

 照れ隠しで言う明依に、鳴海はそれ以上何も言わず、笑顔を浮かべていた。

「じゃ、後でな」

 鳴海は明依から手を離すと、すでに席に座っている人たちを眺めた。

「時雨さん、もう来てたんですか」

 時雨に気付いた鳴海はそう言いながら彼に近寄っていく。

 それを見送ってから、明依は吉野と高尾に視線を向けた。