満月屋に到着すると、ちょうど入口付近を足早に歩いていた桃が二人に気付いて足を止めた。

「あ、明依ちゃん。雪ちゃんもおかえり」
「ただいま」
「ただいま」

 明依に続いて雪もなれた様子で桃に返事をする。

「お座敷、綺麗にするからね」

 桃はそう言うと、にこりと笑う。

 明日、満月屋ではたくさんの人を招いた宴会が行われる。
 吉原が解放に向かっている事の証明だった。

 遊女が一人一人について酒を注ぐことも、〝その後〟もない。

 吉原解放の一区切りとして行われる、皆の無事を祝う純粋な宴席。

 吉原解放は、間違いなく遊女たちの希望になっている。仕事で訪れる妓楼は、どこも笑顔に包まれている事を明依は知っていた。

 〝年季が明けるまでは、何があってもこの街から出られない〟という縛りから解放されて、自分で将来を選択ができるという気持ちの余裕が、遊女たちの笑顔を増やしている事は間違いなかった。

 梅ノ位や浮かれた観光客がいなくても、街全体が、以前よりも明るくなった。

「もう動いて平気なの?あの人、随分働いているみたいだけど」

 霞は何の気もないような様子で言う。霞の言う〝あの人〟が終夜だという事はすぐに理解できた。

「人の言う事、聞かないから」
「あの人の大丈夫は、大丈夫じゃなさそうだしね」

 霞は呆れた様子で言う。

 今の明依から見た霞の印象は、気が強いが人の事をよく見ていて面倒見がいい人だった。

 抗争の前と後では、霞の印象は随分と違っていた。

「ああいうタイプは、誰かが側で見守ってあげた方がいいんじゃない?」

 釘を刺すような言い方は、〝その役目はあなた以外誰がいるの?〟とでも言いたげな様子だ。
 しかし明依は、その〝誰か〟が自分の役目ではない事をよくわかっていた。

 抗争の後から、終夜と距離があることは紛れもない事実だった。

 その距離はときに自分から、ときに終夜から。

 当然、二人で出かける事もなければ、用事がなければわざわざ話しかけに行って世間話をしたりもしない。

 少なくとも明依は、互いに吉原解放に向けて動いている最中に、忙しそうにしている終夜を引き止めてまで会話をしようという気にはなれなかった。

 なんだか気恥ずかしい、という気持ちはあるものの、それだけの単純明快なものでもない。

 抗争の時が異常だったのだ。
 危険に身を晒して死の間際にいた、非日常。

 だから、正気に戻っただけ。
 あんな状況だから側にいられた。
 逆説的に考えるのなら、現実世界で抱えるには、互いに重荷過ぎる。

 自分の中に日奈という存在がある限り、終夜の中に日奈と旭に〝明依を守ってあげて〟という言葉がある限り、この方程式は覆らない。

 だから二人は、〝他人〟として当然の距離を、当然の様に取っている。
 ただ、それだけ。

 割り切ろうともがく明依には、終夜はいたって平然としている様に見えた。

 長年関りを持った幼馴染の為に心を殺せる。
 目的を果たす為なら、誰一人味方のいない状況でも戦える。
 約束を守るために、兄と慕った男を殺せる。

 数か月関りを持った遊女に抱いた感情なんて、終夜の人生の中では取るに足らない事。
 わかっているから、ほんの少しだけ、苦しい。

 吉原解放が終われば、終夜は先代の裏の頭領の様に、滅多に人前に姿を現さないはずだ。
 吉原の街を守る為に、先代頭領同様、人柱になる。

 どんな思いがあるのだろう。

「お座敷の準備、雪も手伝いたい」
「ありがとう。何をお願いしようかな」

 桃は身を屈めて、雪に優しく言う。

「私と行こう。まだ掃除が残ってるから」
「わかった」

 雪はこくりと頷くと、霞の元に駆け寄る。
 いつの間にか雪は、明依の元を離れて満月屋の遊女たちとも行動ができるようになった。

「黎明は余計な事しなくていいから」

 捨て台詞のようにそういう霞は、雪の手を引いてその場を去る。

 それが霞なりの気遣いの言葉だという事はもうわかっていた。

 満月屋に来た時には、怯えてばかりだったのに。
 子どもの手が離れる親の気持ちはこれなのではないかと、明依は妙にしみじみとした気持ちになっていた。

 明依は雪の背中を見送ってから、一階にある事務室として使っている部屋に向かう。

 事務室として使うのなら、楼主の部屋、つまり宵の部屋が何でもそろっていて最適なのだが、彼の面影があるあの部屋の中で平然と仕事ができるはずもない。

 それは時に、敵が消えた安心感。時に、大切な人を失った悲しみ。

 明依は宵の部屋を通り越して、自分が事務室として使っている部屋の中に入った。

 日奈の部屋も片付けなければ。
 しかし、終夜への感情に何の決着もつけられていない今の状態では、気分が乗らない。

 完全に終夜と〝他人〟になったら、日奈の部屋を懐かしいという思いで片付けられるのかもしれない。
 書類を手に持ったままそんな事ばかりを考えていると、襖が開いた。
 咄嗟に満面の笑みを作る。

「お疲れ様、」

 〝です〟と続くはずだった言葉は、すぐに打ち止めになる。

「俺にもそれくらい愛想よく〝お疲れさまです〟言えないの?」

 終夜はいつも通りの様子で言う。

 主郭からの遣いの人だとばかり思っていた明依は、笑顔を張り付けたまま固まった。
 終夜は先ほど、仕事する気満々で帰っていったはずだが。
 どうしてこんなところに。

「……何してるの?」
「書類取りに来た」
「……なんで?」
「俺が聞きたいよ」

 終夜は少し不機嫌そうに言いながら、明依の側に腰を下ろした。

 もしかするとまだ主郭の人たちから嫌われているのだろうか。
 仮にも、裏の頭領に書類を取りに行かせるなんて。

 ただ明依は今の主郭や満月屋の雰囲気から、何となく二人の関係性の為に仕組まれているのだろうという事は想像がついた。

 終夜は手を差し出す。
 明依がその手に書類を乗せると、終夜は書類の確認をし始めた。

 無言。
 紙と紙が擦れる音以外、無音。

 自分の作った書類を、目の前で確認される。
 それはまるで自分を評価されている時間に思えた。

 気まずい、気まずい。
 気まずすぎる。

 曲りなりにも、一度は気持ちが通じ合いかけた仲だ。

 そして、その関係性はこれ以上発展しない事だけは確定している。

 二人きりにならないといけないなんて、拷問か?

 どうしたらいいのかわからない明依は、そわそわとする気持ちを隠して、天井を眺めたり、まだ手元にある書類を見直したりしていた。

「終夜」
「なに?」
「あのさ」
「うん」

 終夜は書類から視線を逸らさずに短い返事をする。

「確認なんだけど」
「うん」
「気まずいよね」

 問いかけるフリをして断定する言い方に、終夜は書類から視線をすこし逸らして笑った。

「普通、言う?」

 笑顔を浮かべながら呆れ果てたと言わんばかりの目で明依を見た。
 ああよかった。
 終夜も気まずいんだ。と考えたが、さっぱり何が〝よかった〟なのかはわからない。

「踊ってあげようよ。せっかくの心遣いなんだから」

 終夜も主郭の人たちが二人の時間を作る為に書類を受け取りに行かせた事には気付いているらしい。
 それはそうだ。自分に気付くことを、終夜が気付かないはずがないんだから。

「期待に応えて、軽く服でも乱しとく?」

 人様の期待に応えた結果が〝軽く服を乱す〟という所が吉原の街らしいと思いながら、彼にそんな気がない事は明白で。

「大丈夫です」
「残念。取って喰ったりしないのに」

 終夜はそう言うと、また視線を書類に戻す。

 気まずさは完全に、虚しさに成り代わる。

 だけどこの虚しさは贅沢なことだと分かっていた。
 生きてくれているだけでいい。
 本当にそれだけでいい。

 心の底から贅沢な事だと分かっているから、気持ちが余韻を残して引いて行く。

「吉原を解放したら、終夜はどうするの?」
「もっと深い所にもぐる」

 終夜の返答は、まったく想像通り。

 裏の頭領となった終夜が、吉原から外に出る事はない。

 人前に姿を現すことはないから、必然的に二人は〝他人〟になる。
 もしかすると〝他人〟になってしまった方が、互いに楽なのかもしれない。

「この印の妓楼には、確認に行かなくていいから」

 終夜の声で、明依は我に返った。
 終夜は五年ぶりに見るボールペンを当たり前の様に取り出して、印をつけていた。

「わかった」

 明依がそう言うと、終夜はボールペンをしまいながら書類を机の上に戻す。
 数枚の書類を持って、立ち上がった。

「じゃあね」
「終夜」

 あっさりと去ろうとする終夜に、明依は声をかける。

 特別に話したいことがあるわけでもない。
 しかし、呼び止めたからには何か話さなければという焦りもあった。

「明日、くる?」

 明日、満月屋で行われる宴会は、以前の様に主郭からもたくさんの人が来る。
 しかし何となく終夜は来ない様な気がしていた。

「いかない」

 ほら、やっぱり。

 それならもしかすると、終夜と会うのはこれが最後かもしれない。

 焦燥感が、平常心から遠ざける。
 終夜は何事もなかったかのように、いつの間にか、自分の人生から消えている気がして。

 いつの間にか終夜に恋心を抱いていた感覚を、巻き戻すみたいに。

「終夜が主役みたいなものなのに?」

 自分が主役だなんて微塵も思っていない事を知っていて、何考えているの?とでも言うように笑い交じりで問いかける。
 慣れきった、強がり。

「俺はただのお飾り。今の吉原にはもう、裏の頭領なんて必要ないんだよ。みんなで力を合わせてやっていける」

 諦めたはずの気持ちが、また暴れ出す。
 だけど心の内側では、これ以上は望みすぎだという気持ちも確かにあった。

 叶うはずのない思いだ。
 叶ってはいけない想いでもある。

 心の底からわかっているはずなのに、どうしてこうも、諦めが悪いんだろう。

「そろそろ行くね」

 終夜はそう言うと、踵を返す。
 その背中に、何も言えない。

 終夜は奇跡的に一命をとりとめたのだ。
 命がなかった可能性の方が圧倒的に高かった。

 贅沢なことじゃないか。
 贅沢すぎるくらいだ。

 生きていてくれるだけでいい。

 それなのに。

 相対する感情が、心の中を蠢いて収まる場所を探している。

 もしかすると最後になるかもしれない終夜の背中が見えなくなるまで、明依は目に焼き付けた。

 日奈と旭の望んだ夢が、もう目の前にある。

 友として、万全の状態で叶えてあげたいという思い。
 それだけが、今の終夜と明依を繋いでいる。

 時がたてば自然と消えてしまう、たった一本の糸だった。